疑惑の傷痕
今日は、いやにリネが大人しい。
いや、いいことなのだが。
自分より恐らく年下のアーヴィンにいつまで下らない諍いを引き摺るつもりなんですか、子供ですかと言われ続けても、ほら、ご覧なさい、あちらが私を避けているのよと大声で反論できる。ユノーに反省しているようだから住まいを同じくしている内は大人になってくれと言われても、あちらが嫌がっていると大きな顔をしていられる。
いや、そんなことを言うつもりはないが。
今日は朝から目も合わせずに挨拶だけして離れていって縮こまって、しおらしくしていると言われればそう見えなくもないが、葵の目には「自分は姉に傷付けられました」とアピールしているようにしか見えない。
いや、傷付けたと言えば傷付けたが。八つ当たりしたし…。
しかし謝るようなことではない。リネが自分にしたことを思えば、まずは彼がその事を謝罪してこの拘束状態を解消して、自分が謝るべきとすればそれはそういった諸々が済まされた後だ。葵はそう自分で折り合いを付けて、リネのことは無視することにした。今日も今日とてやることは沢山あるのだ。
葵は腕まくりをしてパソコンを立ち上げた。
隣の席のトントが椅子に座る反動でこつん、と肩をぶつけてきた。軽く文句を言うと、あちらも軽い調子で「ゴメンネ」と言った。
遠くでジャックの怯える悲鳴が聞こえた。彼の細い足にリネがコアラのように抱きついて大して肉付きも良くない細い太股に顔を押し付けて、「ん゛ーん゛ー」と唸っていた。
葵はいつも通りだ、と思ってやっぱり無視した。
「先日のリネの働きは素晴らしいものでした。何か賞与を与えましょう」
午前10時、毎日ほとんど意味もなく行われる朝会で、アーヴィンが珍しく議題を出した。
大部屋の中央奥に設置されているアーヴィンのデスク周りにメンバーが集まって行われる小会議だ。普段ならアーヴィン、ユノー、マリアンヌから前日までの業務の進捗等について簡単な報告が成されるだけで、ものの五分程度で終了するのだが、本日は昨日の強盗組織摘発補助の一件もあって少々長引いていた。
「お、俺は別に何も…。むしろ乱暴をふるって」
「私は適切な判断だったと認めています。本来なら被疑者死亡または人質に損傷を与えてもおかしくない場面でしたが、無事な状態で切り抜けられたのはリネの手腕あってこそです。ユノーはどう思いますか?」
「俺もアーヴィンに同じだ。俺だったら銃で撃って殺している。貴重な情報源たる主犯格を右目損傷だけで逮捕できたことは原国警察官からも謝辞を受けた。手厚い褒美を与えてほしい」
「マリアンヌ」
「わたくしは現場に出たことはありませんから、ユノーの意見を優先するべき、と意見しますわ。でも、わたくしの目から見てもリネの働きは認められるべきと思いましたわ」
三人がロ々に褒めるのを誰よりも感心して聞いていたのはジャックだった。
彼らがこんなことを言うなんてとても信じられないという調子で、とうとうリネを拍手で讃え始めた。
「他に意見がある方がいれば聞きますよ。どうぞ」
面白くは決してなかったが、特段文句があるわけでもないので、葵は黙っていた。専門家でもあるまいし口を出すべきではないというのが一番だったが、やっぱりリネはよくやったのだと認めていたし、しかしそれを自分の口から出すのは控えたいという本音があった。
トントも特別な発言は何もしなかったが、ジャックの真似をして拍手をしていた。
「リネは特殊組織犯罪対策機構の正式な役員ではありませんから、金銭での報酬は難しいです。役所は金目のことになると小数点単位まで間違いを嫌い、使い道を追跡します。面倒ですからそれ以外での報酬を望んでください」
「別にないです。役に立ったならそれで良かったです。犯罪者を捕まえるのは、俺の望みでもあるし…、その」
「本当にないんですか? 今なら何でも言いたい放題ですよ。私の権限を持ってすれば誰かに何かを命じるのもやりたい放題ですよ」
リネの心が揺らぐのをメンバー全員が確かに感じ取った。
空色の瞳が震えながらこちらを向くのを感じて、葵の顔から感情が消え失せていった。
「あのなあ、アーヴィン。いくら権力者でも人の尊厳を踏みにじることはいけません」
ユノーが部下の立場ではなくアーヴィンの友人として彼を諫めた。短い間だけれど、この船で確かな絆を築いた葵への配慮でもあった。
「言ってみるだけならタダじゃないですか」
「私の心はすり切れているけど」
「葵に何か命じるかなどまだ分からないじゃないですか。自意識過剰というものですよ」
「喉を踏み潰してやる」
「脅迫です。刑務所に入れます」
机の上で山座りするアーヴィンの頬を葵はつまみ上げて上へ上へと引っ張った。アーヴィンは葵の腕を左右からばしばし叩いたがカは緩まなかった。ユノーも葵の好きにさせてやろうと手を出さずにいたが、親愛なる友人が涙目で名前を呼んできたので、仕方なく葵を宥めて間に入ってやった。アーヴィンは折り畳んでいた膝を更に抱き寄せて、真っ赤になった頬を膨らませていた。
「リネは葵に何かお願い事があるみたいですね」
「ちょっと、今自意識過剰だとか言っておいて」
「あるみたいですね!」
アーヴィンはつんと葵から顔を反らしてリネに返事を迫った。
青くなったり赤くなったりしながら、リネは言おうか言うまいか迷っている様子だった。
口を何度もぱくぱくさせて葵を見たり慌てて目を逸らしたり、やがてー度助けを求めるようにトントを見た時に、トントがさも優しげな表情で大きく頷いたので、それでとうとう腹を決めたらしく拳を握りしめて葵とアーヴィンを見た。やベえ予感が足の指先から脳に走り上がるような気がして、葵はユノーの方へ半歩身を寄せた。
「き、き、ききき、キスしてほしいです!!」
「お断りだ、くそ野郎」
「お願いします!!」
ビタンッと音を立ててリネが土下座した。
こいつの土下座にどれだけの価値があるというのか、葵は小一時間問いたくなった。
「許してください」とか「機嫌を直してください」とか、そういったことを言われるんじゃないかと思っていたのに、想像よりもずっと即物的というか、欲望のままだった。人前じゃなければ床に打ち付けた頭を上から踏み付けてやっているところだ。
(いや…、私は暴力的な人間じゃない…·、暴力的な人間じゃない·…)
心の中で葵は自分に言い聞かせた。
振り上げそうな足に力を込めて、浮き上がる踵を何度か床にかつかつと打ち付けて我慢した。
「どうしてですか! トントにはき、き、きっ、キスっしたのに、どうして俺は駄目なんですか!」
「してない! 何なのその最低な言いがかりは!」
「しました!!」
「しーまーしーたー! ねっ、トント、ねっ!!」
「ええ? ウフフ、そんなこと…、ボクの口からはとても…」
「こんな男にキスしたら病気になるわよ! 私はそんなことも分からない馬鹿じゃない!」
侮辱的な発言を全員が聞かなかったことにしてくれた。言われている相手が相手だ。葵の発言もむべなるかな。
吊り上がる葵の顔を見て、トントもにこやかだ。win-winだったらしい。
「分かりました、首が駄目なんですね。分かりました…、じゃあ、ほっぺでいいです。以前してくれましたよね!」
「してない」
「しました!」
「してない!! いつしたのよ! どうせ寝ている時にでも無理矢理押し当てたんじゃないの?! 言ってみなさいよ!」
「この間の山の救助に参加した時に、洞窟でしてくれました。ニ人きりの時に。仕方ないわね、元気になってねって!」
「それトントだから!」
「嘘です!」
「トント! ちょっと、真実を話しなさいよ!」
「ボクにそんな恥ずかしいことを言わせようだなんて…、ネエサマちゃんは本当にダイタンなんだなあ…」
「僕にはそんな大胆なところ見せてくれたことありません!」
「誰にも見せとらんし私は大胆な人間じゃない!!」
髪を振り乱して立ち上がった男の迫力に、葵はユノーの広い背中に隠れながら大声で対抗した。
間に挟まれたユノーは困惑しながらも手を広げで二人とも落ち着くように言い聞かせた。
マリアンヌは自席に戻って冷めたコーヒーを片手に電子書籍を読み始めた。ジャックはとっくに部屋の隅に逃げていた。
「変です! トントにキスして弟にキスできないなんて、姉さまは変です!」
「してない言ってるでしょうが!!」
「しました!!」
「証拠あんの?!」
「あります! 証拠、あります!」
「おー、じゃあ持って来てみなさいよ。あるわけないんだから!」
「あります! 証拠をお見せしたらキスしてくれるって約束してください! 僕への褒美と、嘘吐き呼ばわりしたお詫びに! キスーつで許すんだから寛大な弟です。リネじゃなかったらもっと怒ってますよ。普通の弟だったら100回キスしたって許しませんよ!」
「ええ、いいわよ。証拠を持って来たらしてあげるわよ」
「おい、葵…」
売り言葉に買い言葉になっていると思い、ユノーは二人の仲介に入ろうと試みたが、リネの向こうでトントがどこから取りだしたのやら藁人形の首を紐でぎちぎちに絞め始めたので、何かの暗示を察してやめた。すぐ横の机に座るアーヴィンに目で助けを求めたが、こんな騒動が隣で行っているなんてまるで知らない風に書類を読んでいた。彼は支えるべき上司であって、頼れる上司ではない。ジャンル違いだ。
朝から真っ赤で腫れた目をしていたリネだが、その目は更に充血していた。今は実際にボロボロ泣いているから当然だが、これだけ泣いているのに哀れというより恐ろしいのだから底の知れない男だ。
「言いましたね。キスして、これで許してくれるなんてリネが弟で良かったわって言いますね?」
「えーえー、いいわよ。キスなんてしてないんだから。証拠なんてあるわけないんだから」
「トント、ちょっと首貸してください」
「んふふ、そんな、そんな顔でお願いされちゃったらしょうがないなあ…」
止まらない涙を拭うこともせず、怒ったような顔で催促するリネの顔は、トントの性癖にしっかり当てはまったらしい。
リネの言う通り細い腰を折り曲げて、うなじがよおく見えるように、まるで誇らしげに首裏を差し出した。
そこは薄らと赤い痣のようになっていた。葵は指でぐっと押したらちょうどこんな感じに、一時的に充血するだろうと思った。
「これが何よ」
「き、………………キス、マークです」
とんでもない恥ずかしい言葉を言わせられているような風に、生娘のように恥ずかしがりながらリネは言葉を絞り出した。
その様子がなんだかとっても葵を苛立たせた。
こんな、こんな痕がなんだと言うんだ。キスマークという単語にどれたけの恥を込めているんだ。何で辱められているのがリネで辱めているのが私みたいな雰囲気を醸し出すんだ。トントはトントで恥部を見られたかのようにさっと首を隠して地面を見つめて頬を赤らめているのはおかしいだろう。
葵の怒りは頂点に達しようとしていた。
「キスマークじゃねえよ! だったとしても私じゃねえよ!!」
「姉さまです!! 僕には分かります。姉さまの唇を、生まれた時から姉さまの唇だけを見てきましたから分かります!」
「まだ! 出会って! 一年も経ってねえんだよ!!」
怒りのあまり葵はアーヴィンのコップを掴み取って床に叩き付けた。中身は空だったし割れない素材だったので軽く高い音を立ててからからと転がっていっただけだったが、アーヴィンは傷付いた。すぐにジャックが拾いに行って、よく洗い、72度と思われるミルクを入れて戻ってきてくれた。ミルクは80度だったが、アーヴィンは何の文句も言わずにわざと音を立てて飲んだ。でもそれを不機嫌アピールだと察して気を遣う人間は、周囲に誰もいなかった。ユノーですらも。
「いいえ! 姉さまの! 唇の形をしています!」
「してねえええ。いいわ、分かった。今から私がアーヴィンにキスマークを付けるから、それと比較しましょう。絶対に違うから」
「やめてください」
「何でアーヴィンにする話になるんですか! じゃあ僕にして比較すれば良いでしょう!」
「あんたらにキスするくらいならアーヴィンにした方がマシなのよ!!」
「やめてください」
「せめてマリアンヌにしてください! 女性だったらまだ理性を保っていられそうです!」
「わたくし? 軽いのは良いけれど…、跡が残るようなのはやめてちょうだい」
「嫌よ! もうあんたの言うことなんて一つも聞かないから! アーヴィンにキスしてやる!」
「やめてください」
「わー!! 殺します! 殺します!! そ、そ、そ、そ、それ以上姉さまに近付いてみてください。殺します!!」
「私からは近付いていません。むしろ遠退いてほしいくらいです」
「もーリネなんか知らないから、あんたの言うことなんて一つも聞こえないんだから。私はアーヴィンにキスするわ!」
葵はコップを両手で大事に抱えるアーヴィンに横からがばりと抱き着いた。
女性の腕には少々大きすぎるぬいぐるみだったが、彼のふんわりとした量の多い髪の毛はテディベアのような包容力があった。
「はあああッ!! あ…っ、ああっ…、ゆる、許せません。許せません許せません許せません!! 姉さまに、な、な、なんって破廉恥なことを、警察官なのに性犯罪者です! 性犯罪者は性器を切り取って自分のそれを喰わせられる罰を受けるべきです!!」
「現在、猥褻被害にあっているのは私の方です」
「姉さまに強制猥褻されてさぞ気分が良いんでしょうねえ!! それを僕に見せびらかしているわけですね!! 最低な人間です!! あなたは低俗そのものです!! 姉さまをそのように誘導した性犯罪者です!!」
あまりの収拾のつかなさに、ひとまずユノーはリネの鳩尾に拳を叩き込んで黙らせた。
混乱のただ中にある葵はなんとか言葉で落ち着かせて、とにかくアーヴィンにキスはしないと約束させた。
しばらくの間はアーヴィンに抱きついたまま床に寝転がるリネに罵倒を浴びせていたが、暴言の語彙が尽きると葵は徐々に我に返り、しきりに謝罪した。
「私にキスはしないでください」
「したいと思ったことがないです」
「この女は失礼です」
「女性にキスしたくないと言われて傷付くだけの自我を…、アーヴィンが…。俺は嬉しい」
まるで親戚のようにアーヴィンの成長を喜んでいるようなユノーを見て、アーヴィンはもうそれ以上何も言わなくなった。消化不良の気持ちが表情に出ていたが、葵が何度か失礼を詫びて72度のミルクを入れた頃、「まあ、私を床に叩き付けなかっただけ評価します」と言っていつも通りに戻っていった。
首の持ち主は嫌がったが、ユノーはトントの首の痕を検証することにした。
葵が踵をがつがつ床に叩き付けながら首を差し出せと命じたのが効いたらしい。「そんな顔で頼まれちゃったら…」と言う彼は怯えているようにはとても見えなかったが、この際協カを得られるのであれば喜んでいようが恐怖していようがどうでもいい。
ユノーは絞殺死体の痕と似ていると言うので、葵は昨日の出来事をつまびらかに説明した。
マリアンヌを連れてリネを迎えに行った時、彼のベルトで首を締め上げていた出来事だ。
そうしてユノーはトントのベルトを傷跡に当ててみて、間違いないと断じたので、葵は安心した。アーヴィンやマリアンヌに跡を残すほどの熱烈なキスを贈らなくてよくなったし、そもそも口紅によるものではないキスマークの付け方など知らないし…。
目覚めたリネを狭い個室に入れて、ユノーは二人っきりで説明した。尋問に使う二畳ほどの暗い部屋だ。
トントの首の写真やベルトという証拠物品を机に並べて、幅のサイズ感が一致する点などを丁寧に説明し、キスをしていないことを証明した。一度寝たリネは幾ばくか冷静になっていて、とにかく誤解だったのだと受け入れた。
「ボクはキスされたなんて一度も言っていないよ」
「うやむやな言い方をするから、リネが悪いように取ったんでしょ?」
「良いように取ることも出来たはずだよ。リィネくんは、自分にとって、都合の良いように取ったんだよ」
「はあ…、あなたって、ほんと…」
言葉にならず、葵は彼との会話を切り上げた。
トントは愉快そうに、リネが尋問室から戻ってくるのをブリッジしながら待っていた。
戻ってきたリネは何より先に葵の足元へ滑り込むように土下座しに行って、失礼を詫びた。そして、先の活躍の褒美は、「嫌いではない」への昇格になった。
「葵、大人になった方が身のためですよ」
「葵、気持ちはわかるが」
「葵、怒っていてばかりでは皺になりますわよ」
「葵、俺、もうこいつの必死な感じ怖いからさ…」
「ネエサマちゃん」
土下座するリネを囲う大人たちから口々に助言を受けて、葵は緩やかに崖に追い詰められていく気分だった。この騒動に彼らを巻き込んでしまった責任を感じていた。
でも、
「ネエサマちゃん、リィネくんは悪くないよ」
でも、トント、てめーも反省しろ。
***
「リネがドーラ号をもう追うな、などと言い出す前に、葵につまらないお願いをしてくれてラッキーでした」
「…それなら始めから褒美など言い出さなければよかっただろう」
「ユノー、私は、働きに見合った報酬を出さない人間が、一番嫌いなんです。一番です」
「わかった、わかった」
キスだとか愛とか痴話喧嘩だとか、そんなことは業務上、何の価値もない。




