赤く沁みる
特対ドラ科の飛行船は本日はドーラ号の追跡を完全に止めて低空飛行に移っていた。
そうはいっても雲より低いというだけで高層ビルに接触するほどの低さではない。
大部屋の大窓からは空と山が同時に見える。遠く彼方の海が地平線を丸く描いていて、鳥の群れが黒い雲のようになって空を渡っていくのがまるで絵のようだ。いつも無機質な窓枠はさしずめ額縁のよう。長いソファーに腰掛けて一ロサイズのカップでコーヒーでもすすりながら、ずうっと鑑賞していたくなるような美しさだ。
しかし周囲はとてもその優雅を受け入れてくれる環境ではなかった。
「北北東に二人、南南東の道を抜けて南に一人行っています。どうして誰も追跡していないのですか!」
「く、車が足りないって言ってるうう」
「あーもう! 無能! この国のポリスは全員無能です! 私の指示が有りながら何故的確に動けないのです!」
「アーヴィン、そういう発言はマイクを切ってから言ってくれ。それからこういう時はボスたるアーヴィンこそが冷静に」
「ユノー、監視カメラの切替えを怠らないでくださいませ! 被疑者の姿を見失います! 見失いましたわ!」
「葵、地図で位置を!」
「ええと、三番通り、マ、マルシェコートっていうお店の脇にいるみたい」
「こういう時は脇ではなく方角で示してください! 建物の脇は複数あるんです!」
「私、素人なんだけど!」
「言い訳は見苦しいですよ!」
「アーヴィン、こういう時こそ落ち着きをだな」
「ユノー! 今はアーヴィンと葵の成長を促す機会ではありませんわ! ほんっとうにあなたという人は現場ではあれほど役に立つのにサ
ポート役に回るやいなや」
「マリアンヌ、ユノーへの文句を言っている場合でもないよ。私、頑張るから」
「葵の方がよっぼど役に立ちますわ!」
「息苦しさに潤いをカクテル作ったよ~」
お酒好きだと公言しているマリアンヌは自分が飲酒できない状況で他人が飲酒しているのが許せないらしく、忙しない状況にただでさえ苛立っていたのも手伝ってトントからグラスを受け取ってその顔に叩き付けていた。びしょ濡れの彼はいつも通りきひきひ笑っていた。でも誰もそれに恐れを感じている暇はなかった。
「あ、あれ? さっきまで追っていた人がいなくなっちゃった」
「は? そんなわけないでしょう。葵は目までおかしくなったのですか」
「まるで目以外は既におかしかったかのような言い振り」
「もう、仕方ないですね。どこで消えたんですか」
街中に備えられた監視カメラの映像を追っていた葵は、ほんのわずかに死角になった場所で逃亡犯を見失ってしまった。
その道の先に続く監視カメラをいくつか確認しても、同じ姿の人間が見当たらないのだ。
「これです、こいつを追ってください」
「え、全然服装が違うけど…」
「監視カメラの死角を知っていて服装を変えたのでしょう。歩き方も同じですし前の映像にはいなかった人物です。リネ」
『姉さまの目を悪く言ったことを謝ってください!』
「さっさと追ってください。他の仲間達の逃げ方を見るに、この着替えた男が主犯格であることは間違いないです。街中でも何だろうと構いませんので捕獲してください」
『姉さまの目について謝るまで決して動きません!』
「はあ…、葵から彼に指示を」
「しばらく口を利きたくないのよね」
『ね、姉さまあ…』
「私事を公事に持ち込むな。気持ちは分かるが、俺とてアーヴィンの部下となったからには多少性格にもの申したい部分はあったとしても…」
「今の発言を私は忘れませんよ、ユノー」
「あ一! もう! いい加減職務に専念してくれませんこと?! 被疑者Fに発信器バレましたわ!」
身を傾けて葵の操作するディスプレイを覗き込んでいたアーヴィンを、本日はマリアンヌが投げ捨てた。
下の国の警察と連絡を取り合っていたジャックはその受話器を投げ捨てて大急ぎでアーヴィンの下敷きになるために走り出したが、予測していたようにその場にトントが四つん這っていて、彼の腹とアーヴィンの尻に挟まれる形となってしまった。ジャックは気持ち悪さと情けなさと悲しみに涙が出たが、アーヴィンに元通りの位置まで帰せと催促されて立ち上がる以外術はなかった。
この晴れた日に、たまたま上空を通りがかった特対ドラ科を捕まえて、下の国から強盗組織の摘発依頼がきた。
もちろん主たる働きは同国警察が行うが、逃亡した場合に上空から追いかけられる目が欲しかったのだ。
そして踏み込んでみたら、強盗組織は組織らしいまとまりと計画性を以て逃走し始めた。
唯一リネだけが船を降りて地上で逃亡者を追っていた。今までの四人チームであればユノーが行っていたところなのだが、機器を操作できる手はいくらあっても足りないのがドラ科だ。リネなら一人で降ろしても葵がいる限り確実に戻ってくるし、犯罪者を憎んでいるようだから協力的だろうと判断してのことだった。
「葵、俺もこの間の会話を聞いて、お前がリネを恨むのも致し方無しと思っている。しかし、今回ばかりは協力を得られないか」
「………」
ユノーの真っ直ぐなお願いに、葵の心は簡単に折れた。
しかしリネに優しい言葉を掛けるだけの大らかさを持ち合わせるほど人は出来ていない。
「あーあ、強盗なんてほんっと最低。被害者が可哀相。こいつらが捕まらなかったら彼らは泣いて暮らすんだわー」
『! お、俺が! 僕が必ず捕まえてきますから、そしたら姉さま、その、あの、僕を好きに……』
「交換条件を持ち出す人間も同類よね。ユノーもそう思いませんか? あと、何回言っても分かんない奴」
『はっ、はい、分かっています、分かっています。ちゃんと分かっています。行ってきます』
リネの声は震えていたようだが、とにかく動き始めたのでユノーは葵にお礼を言って自席に戻っていった。
監視カメラの端々に屋根を伝って目的の人物を追いかけるリネの姿がちらちら映って、葵はどうも複雑な気持ちだった。
***
無線機に繋がるイヤホンから代わる代わる色々な人の声が聞こえてくる。
組織本部にいた被疑者26名の内、21名は確保に至ったらしい。
アーヴィンが予測を付けたいくつかの逃走経路の一つにリネは配置されたため、本部からはいくらか距離があったが、それでもリネも二人の確保に役立った。アーヴィンの予測が良かったのだろう。屋根から飛び降りて肩に飛び乗り首を締め上げた時は、被疑者の後を追っていた現地警察官にやり過ぎと怒鳴られたが、無線機の向こうからは「その調子です」と応援が入った。
姉も自分を見直しているに違いない。
犯罪者を捕まえるだなんて、ドーラ号ではあまりやらなかった正義執行だ。逮捕権限を持たない自分はあくまで報復と反省を促す恐喝が主だった仕事だった。ただでさえこの任務に情熱が湧いていたリネのやる気はますます高まっていき、その足取りは飛ぶように軽かった。
『リネ、主犯格の周囲は一般人ばかりです。気を付けてください』
「大丈夫です。ナイフの軌道が間違ったことはありませんから!」
『うん…投げないで済むのが理想なのですが』
途中で着替えたという男は姉が上空から監視カメラを通じて追いかけていたはずだ。つまりつまり、姉が見ているのだ!
昨日は姉を怒らせてしまって、姉の中で自分の株が大暴落したのを身をもって教えられた。
取り戻さなければならない。
親切なトントがー晩中慰めてくれて、リネは自分の長ったらしい姉の賛美と自分の姉への情熱をいつまでもいつまでも聞いてくれるそれは珍しい友人を手に入れたことを喜んだわけだが、少し思うところもあった。今までは自分の中でひたすら想いを深めていくだけの感情を、口にして、それを受け止められて、木霊のように賛同されて、よくよく自分の意見を反芻させられると、ちょっと自分の考えはおかしいかもしれないと気付き始めてしまったのだ。
《そうだよね、ネエサマちゃんも足を切られるほど愛されて嬉しいはずだよ》
《あれはネエサマちゃんの照れ隠しだよ!》
《リィネくんが誘拐してくれて、人生に彩りが出来たと思っているはずだよ!》
絶ッッッ対ありえない。
オーケー、あれはトントの優しい嘘だ。
聞いている間はそれはそれは嬉しくて溺れるように何度も繰り返してもらっていたが、下の国に降りて空からの指示を待っている間、なんだかゆっくりと冷静になってきてそう思えた。
(足を切られて嬉しいはずがない…。俺だっていやだったし…、いや、姉さまにそこまで愛されたらそりゃ嬉しいけど)
果たして姉が斧を持って足を切りに来たらどうだろう。昔の姉さま…、いや、姉さんと同じような顔をして、悪い子ねって。
突入の合図代わりである日の出を待っている間、白み始める空を見てリネは鬱々と考えていた。
どんどんどんどん脳内が冷静になっていくのが分かった。
(本当は、姉さまが今の状況を喜んでいないことは分かっている。本当は逃げたいと思っていることも分かっている。でも、それを認めたら…)
今、姉がどんな表情でいるのか、誰に話しかけているだろうか、自分以外の誰かによって感情を揺らがされているだろうか、そんなことばっかりが頭をぐるぐる回って、リネはひたすら指示が来るのを待った。忙しくなればこんなことを考えなくて済む。姉の元に帰れば何をしてらっしゃるか全部知れて、把握できて、掌握できる。
そうしている内に耳元にアーヴィンの声が飛び込んできて、ようやくいつも通り、姉の心を取り戻そうという決意に満ちた、姉の心は自分の愛に間違いなく戻ってくると信じられる自分に戻っていったのだった。
正気に戻ったら、自分は姉の手を離してしまうかもしれない。
誰だって愛している人に愛されていないと気付いてしまったら、掴む手の力も緩む隙が生まれるものだろう?
とかなんとか余計なことを考えていたせいで、リネは屋根から足を滑らせてしまった。
実際のところは無線機から「北に向かえ」「西南の方角の被疑者が近いからそちらを」「一般人が密集している大通りで確保は止めろ」などとどの声に従うべきかよく分からない指示がまばらに飛んできて、アーヴィンがうがーと念った声にわあっとなったのも大きな原因だったが、とにかくリネは邪念によって失敗を引き起こしたと浮遊する感覚の中で自分を責めた。
追っ手に気付いた主犯は手近にいた女性を引っ掴んでその喉首に拳銃を突き立てた。
始めはリネもただ屋根から落ちた不審者なだけを装うとしていたが、後から息切れしつつ追いついてきた制服警察官に思いっきり声を掛けられて、それも無駄に終わってしまった。
「もう逃亡しても無駄なのは分かっているからな。何人か殺して死んでやる!」
そこそこ大きな組織の主犯格だっただけあって、捕まってあれやこれや吐く前に自分の頭を打ち抜くつもりなんだろう。
リネは警察官達が自分を追い抜いて彼と交渉を始めたので、自分の出番は終わったと思い立ち去ろうとした。
しかしその時、無数の声がざわつき飛び交う無線の先に、誰よりも鋭く透き通る輝く声が飛び込んできた。
『リネ、頑張って!』
それははっきりとしているのに甘く蕩けて吸い付くような艶めかしい響きがあって、愛情をふんだんに詰め込んだ声だった。
もうーも二もなく、リネはナイフを投げていた。
ナイフは思い描いた通りの軌道を間違いなく通って真っ直ぐ主犯の顔に向かって行き、(リネにとっては)さほど速くもない緩慢な動きで相手の右目にゆっくり埋もれていった。
投げたものはリネの持っているものの中でも一際小さく軽く両刃でその切っ先は触れただけで皮膚を裂く鋭さだった。
遠ざかっていた人混みから悲鳴が上がり、警察官は雄叫びを上げる男に近付いていった。
リネはすぐに人質になっていた女性を男から離し、寄ってきたパトカーまで連れて行った。その後すぐに飛行船に戻ることになると思ったのに、何故か拘束されて、女性とは別のパトカーに押し込まれて、まるで犯罪者のように両側に警察官を配備された状態で連行されていった。
***
「……………リネを、迎えに行ってください。トント。私の指示だったと言って構いません」
「承知した。マリアンヌ、悪いが同行してもらえるか」
「いいですわよ。女性が付いていった方が相手の態度も和らぎますものね。美しい女性が付いていった方が」
「ああ、美しい女性が俺には必要だ」
二人はジョークを楽しむように微笑み合いながら船を降りていった。
アーヴィンが浅い溜息を吐いて下の状況を確認している横で、葵はトントの首を絞めていた。
それはもう何度も繰り返し脳内でシミュレートしていたと言わんばかりのスマートな手付きで、トントの細い腰からズボンのベルトを引き抜いて彼の首に巻き付けて、ギリギリと締め上げていた。
「次、私の声真似をしたら喉仏潰してやるって言ったわよね?!」
「ウウン、言ってないよ」
「今言ったからこの宣言は有効です。アーヴィンもジャックも証人ですから!」
「トントのファインプレーです。葵はもう少し見習うべきです」
「アーヴィンの喉も潰してやるからね!!」
今まで親切そのものだった葵の変貌にジャックは怯えていた。
首を絞められているトントはベルトを巻き付けられる直前に指を差し込んでいたので、その指でベルトと首の間に隙間を作って苦しみから逃れていた。葵が精一杯の力を込めてベルトを引っ張っているのに、トントはそれを薬指一本で阻んでいた。その抵抗が彼の首を殺すほどは絞めることはないと葵の心を軽くして、葵は心置きなく全身全霊でベルトを引っ張ることが出来た。
しかし不意のタイミングでその指の力を緩めるので、本当にぐっと喉を押してしまうこともあった。
彼の「あびゃー」という愉快そうな声と共に、白い肌に隠された突起をごろりとへこませる感触に鳥肌が立って、葵は慌てて手を離した。トントのにやついた笑みが再び感情を逆撫でしたが、葵はもうベルトに手を伸ばすことはなかった。
痛む喉を撫でるトントよりも、やはりいつもは親切な葵の方が安全だと判断して、ジャックは彼女の背に隠れた。自分より身長のある男が自分の後ろで縮こまっていることに多少の違和感があったが、彼の気持ちはよく分かるので葵は甘んじて受け入れた。
トントの首の後ろには、ベルトが擦れてできた赤い痕が、ほんのり残っていた。
「あなたは自称犯罪者ではないと言っていましたが、暴行の現場を視認しました」
「私は元々こんな暴力的な人間じゃないの…。違うの……」
「お、俺は信じるよ、葵」
「まあアレが相手ですから、私も多少の理解は示しましょう」
今日は忙しくなることを見越して保温タイプの背の高い水筒に72度のミルクを入れていた。
アーヴィンはそれをストローで飲んでいた。
じゅ―――という音を遠慮なく立てて、アーヴィンは一段落を無表情の下で喜んでいた。主犯格を捕らえたのは自分のチームの一員で、上空からのサポートも完壁だった。報酬はさぞかし豪勢だろう。
***
日も暮れてジャックが外出中の三人の夕飯も用意すべきかどうか迷い始めた頃に、ユノーとマリアンヌに引き連れられてリネが還ってきた。
姉の機嫌もきっと戻っていて、たくさん褒められるに違いないと思ったが、目を合わせることもなく遠ざかって行ってしまった。
労いの言葉を掛けてくるトントに目もくれず、リネはすぐに後を追った。
「姉さま、あの、…応援してくださって」
「あれ、私じゃないから」
「いえ! 姉さまでした。すごくきれいな声で、すぐ気付いて…」
喧嘩していた手前、姉は照れ隠しをしているに違いないと決めつけ…信じて、とてもとても褒め称えた。
収束を進めていた葵の苛立ちは再び増幅し始めた。
「大体、目にナイフを刺すなんて、下手したら死んでしまうのに!」
葵は自分がトントの首を絞めたことを棚に上げておいて、リネの乱暴を責めることにした。
「大丈夫です。投げたのは刃先の短いナイフで脳まで到達することはありませんし、深みに行かないよう優しく投げました」
「足とか手とか、もっとあったでしょう!」
「人質の女性と体がしっかり重なっていましたし、アーヴィンからも唯一むき出しだった顔を狙ったのは正しいと言われました! 目だけで済んだのも素晴らしいコントロールだって! あの、俺、俺はユノーとかマリアンヌとか、よりも姉さまに…」
「知らない! 褒められたいなら褒めてくれる人のところに行けば良いでしょ。私は目にナイフを刺すような人なんて嫌いなの」
「き、きら…っ。あ、あれは犯罪者です! 放っておいたら何の罪もない女性を殺していたんですよ! 自業自得です!」
「じゃあ、あなたも犯罪者だから、嫌われるのは自業自得ね!」
言っていることの八割は八つ当たりだと分かっていたが、こんな時ばかり口が流暢に回って止まらなかった。
早足で女性部屋に逃げ込むと、乱暴に扉を閉めてリネを遮断した。
確かにナイフの先が目ではなく手や足だったら、葵はむしろリネの手腕を褒めたくなっただろう。
怪我を負わせただけで人死になくこの大きな問題を解決できたのだから。人質騒動まで発展して無傷で犯人を捕らえろという方が難しいことくらい葵にも想像が付く。被害者には大きな身体的損傷はなかった。
アーヴィン達が褒めていたというのだから、おそらく片目だけで済んだのも本当に見事な手腕だったのだろう。
でも、昨夜からねじにねじ曲げられた葵の心象的に、リネに優しい言葉や褒め言葉を与えられる気分にはとてもなれなかった。
今回のことであまり役に立てなかったことや、トントの首を絞めてしまったことや、自分の機嫌もコントロールできないことが重なって、葵はソファに身を投げ出しクッションに顔を埋めて落ち込んだ。マリアンヌが豊かだった頃に購入して無理矢理持ち込んだふかふかで上質なソファに芳香漂うクッションだ。時間は少しかかるけれど、廃れた心と体を慰めてくれるだろう。
***
女性部屋の扉の前で床に沈み込んでいきそうなリネを見て、トントはその背中を触れるか触れないかの力加減で撫でた。
決定的に嫌われたと泣き喚くリネをあっさり乗り越えて、マリアンヌは女性部屋の鍵を開けて入室していった。
その際に隙間から姉を見ようと、あわよくば入り込もうとして、リネはマリアンヌが閉めた扉に顔面を強打していた。
トントは抑えきれないように吹き出して、「今は少し時間を置こう」と進言してリネが立ち上がるのに手を貸した。彼の親切に心から感謝して、リネは悲しみに満ちた心に何とか友人への思い遣りをねじ込んでお礼を言おうとトントを見た。
そうして彼のかき上げられた髪の根元に、うなじの部分に、参血したような赤い痕を見つけた。数日もしたら消えてしまうに違いない、彼の陶磁のように白い肌でなければ目立たなかったかもしれない、灰かな灯火のような痕だ。
「それ…、それどうしたんですか…?」
「ん…?」
リネの指差す先を追って、トントは自分の首筋を撫でてみた。
見た目では分からない程度に傷付いていたようで、他の肌に比べて少し指の腹に引っかかるようなざらりとした箇所が一カ所だけある。すぐに先ほどのベルトによるものだと気付いた。トントにとって彼女の力は赤子のようなもので、ちっとも苦しくなかったし、痛くもなかったし、それどころかほんの僅かばかり締め上げられた時にすぐに手を離されてしまって残念だったほどだ。彼女の怒りに満ちた鼓動が驚きで響動くのを聞いた時、自分の心臓も同じように拍数を上げたのが久方ぶりの恍惚だった。
でも、言われなければ気付かない程度だったとしても、彼女が自分に痕を残したのだという事実は、そう、心臓を締め上げるほどの喜びなのだ。それを、隣の男もよく知っているに違いない。トントは幼い頃から培い続けた同類を見つける本能で、リネのことをよおく分かっていた。
「………昼間、ネエサマちゃんに、ちょっとね」
「ね、姉さま…?」
「付けられちゃっていた? もう…。葵って、案外、ダイタン、なんだね」
リネは怒ろうと思った。
彼の言っていることは何もかもでたらめで姉を蔑む嘘だと思ったからだ。
でもこの淡い痕は、唇大の鬱血痕は、何にも勝る証明に思えた。
リネは自分や昔の姉の胸や首や足にこんな痕がいくつも残っていたのを見たことがある。よくよく見ればトントの首に付いている痕は真っ直ぐとしたベルトの痕跡も残っているはずなのに、それは思い込みによって都合良く見えなくなっていた。
珍しく優しく微笑んでいる時の姉の唇の形に見える。
あの小さくて、でもふっくらとしていて、きっと触ったらどんなものよりも柔らかくて、少し気の強さが出ているような、でも隠しきれない慈愛を秘めた、あの、あの唇の形をしている気がする。
荒ぶりやすい気性のはずが、トントの伏した瞳と照れたような口元を見ていると、何故か体は暴れ出さずに涙が溢れてきた。
ぼろぼろと落ちる大粒の雫を見て、トントは「君の誤解だよ」とまるで恋人のように腰を引き寄せて寄り添ってきた。
リネは誰によって泣かされているのか、分からなくなってきた。
しかし、一人で泣くのはとても怖い。慰めてくれるような人物はこの親切な男以外誰もいない。
昨日のように声を上げて泣くことはなく、むしろこの声が姉に決して届かないよう祈って押し殺しながら、リネはトントのほどよい弾力のある胸に顔を預けるしか、他に自分を保つ方法を見つけられなかった。




