意識した結果
もういい加減、あの奇怪生命体に、いや等身大玩具に、関わり合いになるのは止めようと心に決めた。
しかし朝大部屋に行ってみると、机の上で山座りしているアーヴィンのすぐ下、まるで机の中に隠れるように膝を抱えて縮こまって、「眠れなかった、眠れなかった」と泣くトントを見るとやっぱり哀れになる。意外と繊細なやつだ。電源ボタンを教えてくれれば切っておいてあげるのに。もう一生つけないけど。
しかしさすがに昨日のことがあったので、葵はアーヴィンにだけミルクを差し入れて、トントのことは放っておいた。
葵に気付いているのかいないのか、トントは調子を変えずに机の下でめそめそしていた。
「何かありましたか」
昨日とはちょっと変わった様子の二人の間に、アーヴィンは葵にそう聞いた。
彼女の顔ががらっと不機嫌に変わったのを見て、特段大した興味を抱いていたわけでもないアーヴィンはそれ以上の追求をやめた。
「おはようございます、姉さま! わあ、トント、どうしたのですか?」
常なら早起きが身についている葵が大部屋に先に到着し、リネが来るまでにはトントの調子を元通りに戻していたので、リネが不眠を嘆くトントを見るのは初めてに近しかった。葵はそれを遠目に見て、ちょっと眉を顰めた。
自分に駆け寄ってこないなんて―――。
そういう言葉がよぎった時に、葵は自分の頭をロッカーに叩き付けた。
もう情けないやら自分らしくないやら色んな感情がない交ぜになってやらざるを得なかったのだ。
頭蓋骨の衝撃を受けたロッカーはがたんっと音を立てて開いた。何故か中からジャックが出てきた。彼がここを寝床にしているなんてちっとも知らなかった葵は謝罪した。彼の赤く腫れ上がった目は自分のせいだと思ったからだ。
「どうしました?! 姉さま! この男に何かされましたか? 殺しますか?」
音を聞いて駆けつけたリネは、なんのことはない、いつも通りだ。
いつも通り、何でもないフリをして葵はリネを素っ気なく扱った。
いつもいつもこの姉弟をトントが面白げに観察しているのは気付いていたが、今日の葵はどうしてか、トントの方を見る気になれなかった。
「あ―――――――――、のさあ…、惚れ薬って…あると思う?」
「お伽噺を好むほど幼い趣味をされているとは気付きませんでしたわ。失礼いたしました。そう分かっていましたらわたくしももっとお話しできることがございましたのよ。わたくしのかつての暮らしぶりを聞けばお姫様のような暮らしを夢見るあなたの心をお慰めすることが」
「もういい、そうよね。分かった。ありがとう」
マリアンヌに聞いてみたのは間違いだった。
もちろん、葵だって同じように聞かれたら笑って飛ばしているところだ。彼女の反応も推して然るべし、本日は無理を言って席をマリアンヌの横に移動してもらい、トントからは距離を取った。
常なら葵の席になっているトントの隣のデスクには、リネが座って真面目に勉強している。いつもは床に座って勉強していたリネも、隣の同じ高さにトントがいればすぐに質問が出来てやりやすそうだ。
てっきり移動した葵の近くで勉強を始めるかと思ったが、そりゃ空いている机があるなら利用すべきだろう。
そもそも今までだって空きデスクはたくさんあったし、検討するための大きな机もある。ジャックとリネに配分された固定デスクがないというだけで、床に座っていなければならない道理なんてないのだ。ただのアーヴィンの嗜虐趣味だろう。
リネがどこで勉強しようが葵はどうだっていいのだ。
そう、苛ついているのはそんなことではなくて、それが妙に気になる自分に苛立っているのだ。
(惚れ薬…、なんてものがあるわけなし、リネも別に…いつもと変わったところはないはず)
気付いたらそんなことを考えていて、葵は再び顔面を机に叩き付けた。
すぐ隣のマリアンヌはとっても落ち着いた調子で「どうなさったの」と聞いてきた。ちょっと離れたところにいるユノーの方が慌てふためいている。ジャックと目が合わないのがどうにも妙だ。
「姉さま? 具合でもお悪いのですか?」
唐突に沈んだ姉の頭部を心配して、リネが駆け寄ってきた。
ほらね、やっぱり、いつも通りだ。彼に何ら変わったところはない。
「ちょっと……、自分の不甲斐なさに」
「? 姉さまは完壁な人です。恥じ入るべき場所はありませんよ!」
「そう…、ありがとう」
心も中身もないお礼だったが、リネは感激で床で打ち震えた。
もはや自覚のない内に自分がリネに惚れ薬を飲ませたんじゃないかと思うほどの狂いっぷりだ。
横から熱烈なカップルを温かい目で見つめるマリアンヌの気配がする。彼女はラブロマンスが好きだと聞いたから、この娯楽の少ない飛行船生活で、葵とリネをリアルタイムドラマを見るような気持ちで鑑賞しているに違いない。
きっとトントもにやついて見ているに違いないと思って脱み付けてやろうとそちらを見てみたら、どことなく複雑そうな顔だった。
そうあればいいという思いからか、葵の目には不機嫌そうにも見えた。ちょっとしてやったりな気持ちになって、葵の心は少しばかり晴れ渡った。
***
部屋に備え付けのシャワーは出も良いし温かいし文句はない。
でも湯船が付いていないのが少し残念だ。
葵は夕飯後に早々に湯浴みして、髪をひとしきり乾かすと、手持ち無沙汰を慰めるためにおそらくまだ大部屋で仕事をしているであろうアーヴィンを見舞いに行くことにした。
念のためゆっくりと慎重に部屋の扉を開けたが、廊下に人の気配はなかった。最近はリネが部屋の前に張っていることがあまりない。
普段の葵ならものすごく喜ぶかものすごく怪しむところだが、この日ばかりはリネのことなど気にしていないと言わんばかりに彼のことを頭から排除して、ふんっと鼻を鳴らして廊下の真ん中を歩いて行った。
大部屋には案の定アーヴィンがいた。
昼間と全く変わらぬ姿で、黙々と何かしていた。膝の上にバランス良くキーボードを置いて、鼻の高さほどにあって見にくそうなのに、器用にかたかた打っている。姿勢を変えるよう助言したこともあったが、後ろからユノーに無駄だと言われて葵ももうそれ以上何も言わなくなった。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「ミルク入れましょうか」
キーボードを打つ手を止めて、ようやくアーヴィンがこちらを向いたかと思うと、すぐにその視線は窓の方に移動した。
「日は暮れていますが」
「日が昇らないとミルクを入れられないと言ったけど、あれは嘘よ」
「……………あなたはトントと同業者だったのですね」
厚い前髪に阻まれていても、その下で眉がぐぐぐと寄るのが見て取れた。
彼をからかうのを、葵はこの船におけるちょっとした娯楽のように感じていた。
「ボクを呼んだね!」
今日葵が使っていた机の下から、引出に頭を打ち付けながらトントが出てきた。
葵は思わず机を挟んで反対側に回り込んで距離をとった。
「居たんですか。ここにいるなんて珍しいですね」
「うーん、あと10分くらいしたら出て行くよ。今、テスト中なんだ」
「なによ、テストって」
「ふふ、ふふふふふ。秘密」
アーヴィンの手前、会話くらいはしてやろうと言葉を返したのにこの応じ方。
葵は怒りを隠さずに表情に出したが、その顔を見て、トントはふっと表情を無くしたかと思うと、素早く近付いてきアーヴィンを挟んでマジマジと観察してきた。恐怖が怒りを超越したので、葵は縋る思いでアーヴィンの両肩を掴んで引き寄せた。下から不服そうな静かな声が聞こえたが、無視した。
恐怖を決して表には出すまいと、葵は口をきつく結んで意識して眉根に力を込めた。
「はあ―――」
「し、失礼よ。人を見て溜息を吐くなんて」
しばらく顔を隅々まで見ていたトントは、やがて腰に手を置いて重たげな溜息を吐いた。
カラフルな髪の房がふるふると左右に揺れて、やっぱリ苛立ちが底から湧いてくるようだ。
「ボク、困ってるんだ…」
床を見つめている姿は本当に悩みに耽っているように見える。
葵は絆されまいと身構えた。
肩に置かれた手が力を込めて圧迫してきたので、アーヴィンの機嫌はますます悪化した。
「今までボクの好きになった人の好きな人のことは、嫌いで憎んで恨んで妬んできたんた。なのにこれじゃあなあ…、ボク…、はあ~あ………」
まるで独り言だったかのように、トントはくるりと腫を返して、肩を落として、とぼとぼとした足取りで遠ざかっていった。まるでアーヴィンも葵もいなかったかのようだ。
あれ、どう思う? なんなんだろう。そうアーヴィンに問いたくて葵は彼の肩をばんばん叩いた。それに対してアーヴィンは机をばんばん叩いて抗議の意を示した。
しかし部屋を立ち去る直前に、トントは顔だけ振り返って、葵を見た。
今までにない冷たい瞳だった。感情のまるでこもっていないような、金色のガラス玉のような瞳だった。
「リィネくんに愛されて、とっても幸せでしょう?」
心臓から血液が勢いよく脳天に上がっていくような強烈な感覚を覚えて、葵はつい目の前のアーヴィンの尻を左右から揺み上げて投げようとした。
だがそのあまりの軽さに戦いて慌てて元通り机に降ろすと、怒りを忘れて謝罪した。
「投げ慣れられています。私はそれほど置物のようですか」
「いえ、そんなことは。ドーラ号にいた君の同郷の子の方が、真っ黒でローブで三角形で置物っぽかったです。でも投げようなどとは一度も。申し訳ない。ごめん。この通り」
「言葉より行動で誠意を示すべきです。慰謝料として飲料を請求します」
葵は喜んで彼にミルクを差し入れた。
しばらくはそうしてアーヴィンとたわいない話をしたり、ねだられて被疑者テストをしたりしたが、立ち去ったはずのトントかまた机の下から現れる幻覚に苛まれたので、葵はもう自室に戻って静養することにした。
***
廊下を通りがかると何故かジャックが泣きながら床清掃をしていた。
またトントが何かぶちまけたらしい。本人に償いをさせたくとも、彼は掃除をするフリをして被害を増大させるので、ユノーがジャックに清掃を命じたのだろう。
本当に可哀相な人だ。
自分以外にこの男性を哀れんでいる人はこの船にいるだろうか。いや、いない。つい先ほど前を歩いていたマリアンヌが目もくれずジャックを通り過ぎるのを葵は見た。
葵は手助けすることにした。
いちいちトイレの手洗い場までぞうきんを洗い直しに行っていたので、バケツに水を吸んできて、もう一つぞうきんを用意して、これでやろうと提案した。彼は元々泣いていたがますます泣いていた。
「俺は何のすごいこともしてないただの小悪党だからあ~、刑務所でも格下扱いでパシリばっかりでここでもこんなんで」
「ジャックさんが掃除してくれるから皆快適に過ごせています。とてもありがたく思っています」
「思っているの君だけだよおおお、あんがとなあ」
ただの一部の床を掃除するだけなのにいやに時間がかかった。
ジャックはとても手際が悪かった。ぞうきんを洗うためにバケツに入れる際、高い位置から落とすのでバケツの周囲が汚れるし、よく絞らないで拭き始めるので、びしょびしょの床に滑ってスーツを汚してしばらく落ち込んでしまう。もう一人でやった方が早いと何度も思ったが、これも彼の成長の為だと言い聞かせて根気よく指示を出したり手を貸したりして掃除を手伝った。
ようやく一段落付いたので、ぞうきんの処理は彼に任せて、葵はバケツの汚水を片付けに行くことにした。
重いからとジャックが気を利かせてくれたが、これをぶちまけられたらまた一からだ、葵は適当に理由を付けて断った。
ふと、通りがかった部屋から、会話が聞こえる。
自分の名前が聞こえた気がして、葵は立ち止まって、普段ならそんなことは決してしないのだが、耳をそばだててしまった。
「それじゃあ、リィネくんはネエサマちゃんを解放する気はないんだね」
ここは男性達の寝室だ。声を盗み聞くに室内にはトントとユノーとリネがいるらしい。
なんだかトントの声だけ妙にはっきりと通って聞こえて、葵の足はそこから石のように動かなくなってしまった。
「…………もちろんです、解放とか、そんなの、とんでもない。僕がまるで姉さまを拘束しているようなロぶりです。ちょっと前までは姉さまが僕を鎖で繋いでいたのですから」
「葵が? 信じられんな」
思わず扉を大きく開いてユノーに誤解だと言いたくなったが、ぐっと我慢した。
盗み聞きをしている上に男性の部屋に立ち入るなんて、淑女のすることではない。
「姉さまは僕が部屋を出ようとしただけで足を切ろうとしたことだってあるんです。実際骨は折れましたし」
「ヘえ、愛されてるんだねえ」
「だから、僕も姉さまが離れようとしたら足を切る権利があるんです。姉さまは絶対に、絶対に僕から離れていかないし、逃げようとしたら泣いて嫌がっても阻みます。僕は、僕は弟だから、僕はそうしていいんです!」
「そうだね。だってネエサマちゃんもリィネくんを愛しているからね! そうされて嬉しいはずだよ」
「おい、お前ら…」
自我が戻ってきた時には、既にリネの顔はバケツによって隠されていた。
どろどろの汚水がリネの肩から下の服をべっしょり濡らしていた。
何が起こったかリネもよく分かっていなかったが葵もよく分かっていなかった。
本当は背負い投げをしたいと思っていたはずなのだが、おそらく短い間に拙い思考回路で、特別柔道を習っていたわけでもない女性が男性一人を投げるのは無理だから他の道具でも使おう、となったのだろう。
葵は決して暴力的な人間ではない。
床を掃除したぞうきんのダシがよく出た水を人にぶちまけるのも立派な暴行だと理解している。目の前の悲惨なバケツ男の姿を見て、すぐにいつもの冷静な状態に戻った。
今までだって何度でも聞いた台詞だったのに、何故血管が切れてしまったんだろう。
確か扉を開ける前にユノーがリネとトントの会話を諫めようとした声を聞いた気がするが、その役目を葵が奪うことになったようだ。
愛だとか権利だとか、身に覚えのない言葉が、怒りを増幅させたような気がする。
「別に今すぐあんたの足を切ってやったっていいのよ」
冷静になったと思ったのは脳みその一部だけだったようで、ロからは自分のものとも思えないような低い声で、自分の考えとは思えないような言葉がつらつら出てきた。逃げるにしたって、暴力的行為が選択肢に浮かんだことは一度だってない。
「そうしたら私はいつでもあんたから逃げられるんだから。弟でもないやつのために勉強教えたり、いいお姉ちゃんのフリしたり、そんなつまらないことしなくて済む、あんたに誘拐される前の幸福な私に戻れるんだから!」
そう言ってリネの頭をすっぽり隠したままのバケツを平手打ちすると、大きな音を立てて扉を閉めて出て行った。
そのまま隣の女性部屋に駆け込んで、本日のネグリジェ姿の自分を鏡の前で堪能するマリアンヌの豊満な胸に顔を埋めて泣いた。遠い昔の母親を思い出すような柔らかい感触だった。
一方男性部屋は隣室の葵の泣き声を僅かに響かせながら、バケツがからからと回る音を聞いていた。
ユノーは青ざめて恐る恐るリネの名前を呼んだが、それがトリガーになったのかリネまで大声を上げて泣き出した。
トントが巧みにリネの背中を押して自分の膝に誘導し、リネはされるがままトントの太股に頭を預けて「嫌われた、嫌われた」と泣いていた。未だに被ったままのバケツにリネもトントも動じていなさそうだった。トントは聖女のような穏やかな表情を浮かべたまま、バケツを心底優しそうな手つきで撫でていた。
「え…、なにこれ…、どうしちゃったの…」
「ここは…、ここは幼稚園だ…」
扉を薄一く開けて入ってきたジャックは、トントの言葉を聞いて今日もロッカーで寝ようと心に決めた。
なにを考えているのか分からない金色の三白眼は、伏せられるといかにも優しげだ。いつも奇妙に笑んでいる薄い唇も、緩やかな曲線を描くと丹精そのもの。ツンとした細く高い鼻もすっきりとした顔立ちを強調している。カラフルな髪の毛も気にならない。大好きな姉に嫌われて悲しむ友人…、友人を受け止める好青年そのものだ。
リネの独りよがりな言動よりも、唐突な葵の暴挙よりも、ユノーにとってはトントのその表情の方が、危険な香りがした。




