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首のバネは治らず

 リネの顔はみるみる色を失い、目も開けていられないようだった。

 広い場所に出た葵はその身体を横たえようとしたが、トントが座らせた方が良いと言うので、壁の方に置いておいた。

 道を抜けて出た場所は今までとはまるで違い、天井が高く手の届かなそうな高所にぽつぽつと松明が飾ってあった。その他に、ずいぶん高いところから細い自然光と思われる光が差していた。そして池のように大きな水たまりが出来ていて、葵は懐中電灯で照らしてみたが、底は見えなかった。水草も生えておらず魚も見えない。ただの土の穴に水を貯めただけのようだ。


「この水飲めるかしら」

「どうだろ」

「あんなに汗をかいているから水分補給した方が良いと思うんだけど」

「血流を良くしてしまうかもよ」

「うーん、なるほど」


 一緒に水の中を眺めていたトントは、リネが何かしらぶつぶつ言っているのを聞き取ったようで戻っていった。

 この緊急事態に相談できる相手がいるだけでありがたい。異様な近さで密着してきたが葵はスルーしてあげた。頭一つ分身長が違うのに、何故か顔面をあらん限り寄せて話していても、もう突っ込まないでいてあげた。離れてくれて心から嬉しい。

 腰の辺りからがさがさと音が聞こえた気がして、葵は自分の腰をぱんぱんと叩いた。


『うわっ、何です、雑音が酷いです』

「あっ、アーヴィン」


 叩いた衝撃で無線が通ったらしい。

 長いこと圏外の葵たちに通信を試みていたアーヴィンの努力が実り、ようやく会話が出来るようになったのだ。


『葵ですか? あなたたち、どこにいるんです』

「穴に落ちて、なんか、ガスのようなものが降りてきて…、あっ、リネが、矢を受けたんです。毒が塗ってあるってトントが言っていて今顔面着白のだらだらで」

『落ち着いてください。あなたたちが落ちたのは山の麓に古くから住む住民が作った移動通路です。山の生態系を見るに矢の毒はおそつくランガロトキシン系と思われます。ヘビの毒です。傷口を心臓より低くして血流が心臓に向かう方を縛ってください。治療の準備は整っているので四時間以内に帰ってきてください』

「帰り方わかりませんが!」

『筋肉が弛緩して動けなくなりますが、動かさないでください。傷口を押し出して血を出させてください。二次災害を防ぐ為に口で吸い出さないようにしてください』

「トント」


 葵は壁によりかかる二人に向かっていって、アーヴィンの言葉を伝えた。

 トントは長ーい爪でかりかり傷口を広げて、指の腹で押して血を出した。爪が赤い肉の隙間に入っていくのが妙に痛々しく、しかし、葵は目を逸らさないようにしていた。何故そう決意したのかは自分でもよく分からなかったが、とにかく見ていた。


『葵、二人の無線はやはり繋がらないようです。あなたのシグナルを強くしてアクセスし続けるので、切らないようにしてください』

「よく分かりませんが、分かりました」

『あなたの理解力を案じます』

「余計な通信はしないでくれませんか?」


 それっきりアーヴィンはぱったり何も言わなくなった。拗ねたかもしれない。

 葵は言われた通り通信ボタンには触れないようにして、慎重に腰に巻いたポケットに無線機を戻した。そこから伸びているマイクを襟に差しておけば、持っていなくてもこちらの声はあちらに届くはずだ。


「ネエサマちゃん、もっと強い紐がほしいなア」


 血を出来る限り絞り出したトントは、リネの腕に巻かれているハンカチを凝視していた。見開いた目がハンカチに触れてしまいそうなほどの至近距離だった。もうここに来て葵はこれはこういう生き物だと認識し、受け入れることで恐怖による動悸の無駄遣いをやめることにした。

 それにしても強い紐なんて思い付かない。

 無駄だと分かってきょろきょろと辺りを見回していると、後頭部にぶちっと痛みが走った。


「いたっ」

「長くて黒くてきれえ~な髪だね。コシがあって……、食べたら美味しい~やつ」


 無駄遣いとは分かっているが動悸が激しい。

 薄い唇の間から先の別れた悪魔のような細くて薄くて長い舌が出てきて、葵の髪の毛を上から下へべろおっと舐めた。

 泣きそうだった。

 トントはその後目にも止まらぬスピードで葵の頭の端々から髪の毛をぶちぶち抜くと、五本ずつほどを複雑に編んで、それらを端っこできつく結んで髪の紐を作り、ありったけの力を込めてリネの腕に結びつけた。

 苦しそうにほんの少しばかり喘いだリネの手を、恐怖も有り余って葵はついがっしり掴んだ。もう手の色は血の気がなくなっていて、指の先などすいぶん白い。髪の紐で結ばれた上と下でほんのり変色している。指先は冷たく、葵が力を込めて握ってみても僅かに動くだけではっきりとした反応は返ってこなかった。カが入らないようだ。




「何か聞こえる」


 四つん這いになってリネの膝の匂いを嗅いでいたトントが急に真面目な声を出して顔を上げた。

 葵は反射的に耳を澄ませてみたが、自分たちがこの広場に入ってきた道の他に、いくつかある細い道から流れてくる風のような霞んだ音しか聞こえない。たまに、日の差す高い穴から落ちてくる雫が池に落ちる音。リネの苦しそうな呼吸音。


「何も聞こえないけど」

「人の声だ」


 トントは蜘蛛のように地面に身体をひっつけたままリネを乗り越えて葵の膝元まで迫ってきた。

 身体に乗り上がってくる巨大なカラフルな虫を想像して、葵は思わず立ち上がった。するりと落ちたリネの手が力なく葵を追いかけたが、彼女はそれに気付かなかった。


「私見てくる」

「ンーフフフ」

「どの道から聞こえた?」


 これから靴でも舐めるのかというような足先の男の状況に、葵の声は黒く深く沈んだ。

 彼は何故だかとっても満足そうだ。「危ないからついていく」と言ったが、こんな蜘蛛男と一緒にいたらこちらまで正気を疑われてしまう。葵はリネを看ている人が必要だと言って断り、一人で細い道の一つに入っていくことにした。この先にいる人間が危険な存在でも、トントとか言う生物よりマシに思えた。


「また毒矢に引っかからないでね」

「気をつけます……」


 トントが示した道は緩くカーブしていて、先の先まではよく見えない。

 足の先だけじゃなく頭の上まで隅々まで罠がないか確認しながらゆっくり進んでいった。広間から漏れていた光も背後を照らさなくなった。

 どれくらい歩いたか、ようやく僅かな声が聞こえてきて、一本道だったが葵は声を頼りに進んでいった。

 ふと触れた土の壁が妙に湿っていて、葵は不思議に思って自分の手を電灯の明かりで照らしてみた。

 真っ赤だった。


「う、うわ――――――!」

『うるさいですよ』

「ち、血のようなものが! 壁に!」

『うるさいです』

「ほ、ほ、他に掛ける言葉はないんですか! この冷血漢!」

『マリアンヌ、刑期延長の手続きを』


 すっと静かだった腰の無線機から冷え切った声が聞こえてきて、葵の汗腺はますます緩んだ。機械の音波を通して聞こえる彼の声はますます無機質でロボットのようだ。


「怪我をしている人がいるかもしれません」

『死体があるかもしれませんね』

「迎えまだですか?」

『ジャック、私は72度と言ったはずです。65度とは言っていません』


 無視だ。

 よくよく照らして確認してみると床にも点々とシミのような後が続いている。

 もっと行くと床に先ほど葵も引っかかった紐のようなものが地面すれすれの場所に仕掛けてあった。矢は見当たらない。声は徐々に近付いている。ようやく子供か女性の泣き声のようだと気付いて、葵は少し足を速めた。


「どなたかいらっしゃいますか?」


 一本だった道に横に逸れる道が現れた。

 それは道というよりは窪みのようで、入る場所は狭くなっていたが奥から光が漏れているので松明などが設置されているのだろうと予想できた。中を照らしてみると丸い狭い部屋だった。底の中央に男性が一人、蹲って倒れていて、彼から離れた隅に女性がすすり泣きながら丸まっていた。

 彼女は葵を見ていたく驚いて、悲鳴を上げて片手に持っていた矢のようなものを葵に向けた。


「わー! 落ち着いて、大丈夫、何もしません、ごめんなさい!」


 葵はすぐに懐中電灯を床に放り投げて両手を挙げた。

 その場でくるりと回って見せて、敵意がないことを必死に示した。

 女性は矢を降ろすことはなかったが、先ほどよりは少しばかり落ち着いた様子で、葵を観察していた。

 大きな目をした浅黒い肌の女性だ。全身入れ墨が彫ってあるようで、まるで服を着ているようだったが、実際はビキニのような服装だった。手に何か大荷物を抱えて足と肩から出血している。


「こ、コノ男の仲間ですか」


 女性は片言だった。

 矢先で何度か蹲る男性を示して葵に聞いてきた。

 男性は少しも動かずに、ただ丸まっていた。


「いいえ、違います。いや、よく分からないですが、あなたに危害は加えません」

「…」

「私、危なくない、セーフ、セーフです」


 必死で敵意のなさを現して、なんなら両手を頭の後ろに回して背中を見せてみた。

 すると彼女の方からけたたましい泣き声が聞こえて、葵は飛び上がった。

 彼女の腕に抱かれていた荷物―――と思われていたものは、赤ん坊だったようだ。腕の中で泣き喚く子供を彼女は涙目であやしていた。


「あ、赤ちゃんがいたんですね。怖がらせてすみません」

「ここ、男が使う道。ワタシ、出られなくなりました」


 もう矢をすっかり手放して頼りない様子の彼女に、葵は心底同情し、もうすぐ自分たちの救助がくるので、一緒に待とうと提案した。


「かわいい、赤ちゃん、かわいいです。怖くないよ~」


 大きな葉っぱのようなもので包まれている赤ん坊は泣くのを止めて、手を振る葵を訝しむような表情で見た。

 泣き止んでくれれば充分、笑ってくれとまでは願っていなかったが、まさかこんな不服な表情を赤ん坊にされるとはとも思わず、葵はすっとその手を下げた。何をしたというのか。

 ずっと動かない男性に疑問と同時に嫌な想像が浮かんできたが、放ってはおけないと、葵は彼に近付いてみた。

 異臭がする。

 どこかで嗅いだことのある不快な匂いだ。

 男性は足から出血していて、その辺りの衣服にぽっかり穴が空いている。細かくぎざぎざとした穴だ。虫食いのような…。


「その人、死んでいます」

「ああ、やっぱり…」


 当たってしまった予感に葵は眩暈を覚えて男性から距離をとった。

 もう叫ぶほどの余力もない。

 何せ一度は遺体と共に落とし穴に嵌った仲だ。今更動かない遺体を見たところで驚くまい。


「この毒の傷を食べる、虫が、います。虫食べる、その人死にます」

「うえ…」


 彼女は矢の先を指で示しながら説明してくれた。

 腰の辺りから『なるほど』という声が聞こえて、彼女は大分不審がったが、何とか誤魔化した。


「私の一一、あー…、知人がですね」

「チジン」

「えー、知り合い」

「ハイ」

「毒矢に当たって、あっちで苦しんで」

「解毒、あります。私、歩けない。助けてほしい」

「もちろんです。肩を貸します」


 片言の彼女の言葉を噛み砕いていくと、亡くなった男性に追いかけられて足と腕を切られたらしい。男性が罠にかかり毒矢を受けたのを見て、虫のいる穴に這いながらも逃げ込んで、とうとう息絶えたは良いが、負傷した足をどうにも出来ず留まっていたらしい。虫は大抵決まった場所にいるので、ただ矢を受けただけなら動けないだけで命の危険はないらしい。葵は一先ずリネの傷は死に至らないと分かって安心した。


「と?」

「ワッカ、ト」

『水のことと推察します』


 リネの傷を見て、女性は池を指差しながら何事か言い、無線機の向こうのアーヴィンが助け船を出した。


「水は飲ませていません。掛けてもいないです」


 葵はそれを受けて胸の前で×を作ってジェスチャーを交えながら説明した。


「掛ける、死にます」

「うぎゃー」


 この広場に着いてから池の水で傷口を洗おうと一瞬でも考えた自分を恐れて葵は地に伏した。

 トドメを刺すところだった。

 女性は首に掛けていた重そうなネックレスの飾りを開いて、その中に入っていた軟膏のようなものを傷口に塗った。


「服、上から隠す」

「あー、袖切っちゃって…、トント、切った袖持ってる?」

「もっちろん」


 ズボンからもったいぶったようにゆっくりと袖が引っ張り出されてきた。ズボンから。袖が現れる動きに応じてトントの股間の辺りが波打っている。


「どこに仕舞ってるの!」

「ココ」

「うるせえ!」


 葵は激しくトントの手から袖を奪い取った。股間を指差す彼の指が憎らしい。

 こんなところに入っていたとあっては汚物も同然だ。こんなものを傷口にあてがって良いのか。迷った末、上腕に巻いていたハンカチを取って傷口の上に当て、その上から袖を巻いてきゅっと結んだ。女性は頷いている。処置は正しかったようだ。




「姉さま…」


 しばらく彼女と子供の話などしていると、リネがロを開いた。

 顔色がずいぶん良くなっている。

 まだ少し息苦しそうだし、瞳も重そうだが、意識が混濁していた先ほどに比べて明らかに回復していた。


「リネ、よかったあ」

「あし…、足が、重い…です」


 絞り出すような声を聞いて、葵はリネの太ももに頭を置いてきひきひ笑っていたトントを横に放り投げた。足を折り曲げて抱えていたトントはころころと横に転がっていき、うつぶせの状態で「きひー!」と笑った。もう彼に恐怖を感じている余裕もない。女性は怯えていたが、葵はリネの様子を見るのに懸命だった。


「姉さま、いますか、目が、あまり」

「いるよ! あー! よかった! アーヴィン! 無事でした!」

『重畳です』

「私のせいで死なれたら寝覚め悪かったよ-! あ一良かった!」


 あまりの安堵に本心がダダ漏れになっていたが特に誰も気にした様子はなかった。

 後ろにいる女性に改めて感謝を伝えようと振り向いた時、横から腕が伸びてきて遠慮のない力で引き戻されて、葵はリネの腹に頭突きでもせんばかりの勢いで倒れ込んだ。


「うだっ」

「怖い夢を見ました…姉さまを繋いでいた手を切り取られてしまって、姉さまがどこかに行ってしまうんです」


 思わず手をついた先は怪我をした方のリネの腕だった。まだ冷たくて、血が通っていそうにない。

 逆の腕で引っ張られたらしい。

 リネは確かめるように何度も姉の肩や背を叩いたり服を握ったりして、見えない目の代わりに存在を確かめているようだ。


「行きませんよね? 姉さまは俺の腕を切ったりしない…」

「逃げる時もさすがに腕を切るまではしないと思うよ。感触が気持ち悪そうだし」

「そうですよね! 良かった…! 姉さまは逃げたりしないって分かっていました! 大丈夫です、腕が両方なくなって足がもげても決して離しませんから、安心してください」


 いつも通りのリネに、葵はちょっと安心した。

 いや安心できる台詞は一つもなかったが。

 リネの腹の上で四つん這いのようになってしまった葵を、いつの間にか戻ってきていたトントが視線を合わせるように、同じように四つん這いになってにんまり見ていた。この人の首は何故いつも傾いているんだろう。二つの瞳は縦並びになっていて、90度綺麗に傾けられた顔がお人形のようだ。


「トント、顔曲がってますよ」

「ボクから見ると君の顔が曲がってるよ」


 何度か努力した結果リネの馬鹿力から抜け出せないと諦めた葵は、リネに身体を預けたままトントの奇妙な顔に手を伸ばして正しい角度に戻そうと努力した。顔をわし掴んで真っ直ぐにすると、まるで伸ばされたバネが元の位置に戻るようにびよよーんと90度に戻って、何度かびくびくっと上下運動する。

 やっぱり人間じゃないんだ。

 葵はそう確信した。

 この手遊びは、池の上の天井が破壊されて土砂崩れがこの広場を覆い尽くすその時まで続いていた。

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