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極上の給仕

 明くる日、葵の目覚めは爽やかだった。

 一つ前の夜があまりに恐ろしい男どもに見下ろされながらの緊迫したものだった反動で、この夜はぐっすり眠れた。目を開けても右は白い壁、頭上は白い壁、左の透明な壁の先には誰も葵を見下ろしていない。なんていい朝なんだ! 葵の目覚めのハードルは急激に下がっていた。

 しかしもう一つ透明な壁を通り越した先では昨夜見たのとほとんど変わらないままの背中が、これ見よがしにしくしくと泣いている。

 その先にはそれを逆立ちして見ている奇妙な生命体もいる。天井に向かう足は綺麗な菱形を描いていて、首は90度に曲げて頬を床に押し付けている。満面の笑みだ。葵は恐怖を思い出した。


「部屋を与える。ちゃんとしたベッドもある。しかし不審な動きを認めた場合はここに戻す」

「姉さまと同じ部屋にしてください!」

「男女別だ」

「んっふふふふふふふ~ボクと同室。ヨロシクね、リィネくん」

「嘘でしょ?! 僕を哀れに思わないんですか! ねえ、姉さまっ」

「思わねえよ」


 部屋を与えるといっても、一人一部屋の贅沢は出来ないようだ。

 葵はマリアンヌと同室、リネとトントはジャックとユノーと同室だ。葵はユノーに心から同情した。この二人とこれから同じ部屋で住む苦しみは計り知れない。しかも透明な壁すらない。精神的貞操が心配になる。

 ちなみにボス権限でアーヴィンは一人部屋だそうだ。


「トントは引渡しする国が決まっている。その国に立ち寄るまでの辛抱だと思ってくれ」

「どれくらいの日程でその国に着く予定なんですか?」

「天候によるが、三日程度だろう」


 期限付きと分かってリネもほっとしたが葵もほっとした。

 不可解な動きをする未確認生命体が同じ船に乗っているなんて気味が悪い。

 ようやく逆立ちを止めて直立したというのに首は変わらず90度に曲がっている。マーロもその柔らかさから人ならざる動きをすることがあったが、何故そうするのかはまだ考えが及ぶ範囲だった。こいつは理解できない。視界から消えてほしい。

 …それにちょっとだけ、口ではああ言っても、ちょっとだけリネに同情していた。


「あああ~~~、姉さま、姉さま、姉さま。姉さまと違う部屋なんて心配で胸が張り裂けそうです。少しでも変なことされたらすぐに言ってください。何か言ってください。姉さま、姉さまああ~~~」


 昨日の夜以来まだ許しを得ていないリネは何とか姉の機嫌を取ろうと必死だったが功を奏さず、右往住左往して泣いていた。その様子を口角が上がりきった笑顔で歯をカチカチ鳴らしながら鑑賞しているトントを見てしまうと、とんでもねえ、あれと同室かよと哀れになって仕方ない。


「賑やかですこと。よろしいことです」


 牢屋の間を出たところでマリアンヌと鉢合わせた。彼女はいくつかの機器を抱えて移動しているところのようだった。ユノーは彼女の荷物を引き取ると、二人揃って三人を案内した。昨日、アーヴィンに"尋問"された広い部屋だ。前面がこの飛行機の進行方向のようで、左右までずらりと大きな窓が並んでいる。一面美しいな青空だ。緩やかな楕円を描くこの部屋は電子機器でいっぱいだ。恐らく操縦に使うのであろう操作基盤が窓の下にいくつか置かれていて、中央の方はたくさんのパソコンやモニター、何か…よく分からないがとにかく沢山のスイッチがついた筐体がぽつぽつと置かれている。奥の窓に一番近い大きな机に、既にアーヴィンが座っていた。両手でサンドイッチを抱えてもぐもぐと口を動かしながら、三つほど並んだモニターを眺めているようだった。


「近くの山で遭難者が出たようです」


 彼は廊下を抜けてやってきた葵たちにちっとも目もくれず、姿勢も変えずにそう言った。

 誰に言ったとも分からない言葉だったが、ユノーは荷物をいくつかの空いた机に置いて応じた。


「応援に行くのか?」

「要請が来そうです。面倒です」

「追加報酬がありますわ。人命救助は実入りが良いのです。是非参りましょう」


 マリアンヌは入ってすぐ横にあったシンク台でコーヒーを注ぎながら楽しそうに会話に加わった。

 あなたたちもどうぞ、と上の棚を開けて示すので、葵が近付いてみると、棚には埃を被ったコップがいくつか置いてあった。指示も受けていない手持ち無沙汰な状況だったので、葵は四つ適当に頂戴して、軽く水で洗ってから、一つずつコーヒーを注いでいった。


「どうぞ」


 下で働いていた頃に染み付いた気遣いで、葵はユノーの手元にコーヒーを持っていった。

 彼は少し驚いたようだったが、すぐにお礼を言って受け取ってくれた。

 次いでリネとトントにも「おらよ」と言って渡してやると、リネは感激のあまりコップを床に置いて跪き、神を崇めるように体を折り畳んでお礼を言った。トントはそれをきゃひきゃひ言いながら見ていた。低い位置のリネを見るためなのか、左右に大きく真っ直ぐと広げた足の間から顔を出して笑っている。その姿勢のまま葵から受け取ったコーヒーを飲もうとしたようだが、逆さまの顔は液体を受け止められずに床や顔や髪を黒く汚した。

 廊下の奥からやってきたジャックが彼らの様子を目にして悲鳴を上げ腰を抜かし這々の体で部屋に入ってきたので、自分のために入れたコーヒーを、葵はこの哀れな子羊に譲ってやることにした。


「72度? 72度?」

「えっ? いえ、もっと熱いと思いますが…。飲まれませんか?」

「あっ、俺の分なの? えっ、ありがとう。いいのいいの。俺、熱いのでいいの。ありがとな!!」


 恐ろしい男二人を二晩掛けて堪能させられた葵は、ジャックの普通のお礼にとても癒された。

 痩せすぎで何故か常に震えている男はとっても普通だ。こんなに普通の人いる? なんて素晴らしいんだろう! とっても普通の人だ。


「葵、私の分は?」


 遠くの方から自分を呼ぶ声とばんばんと机を叩く音が聞こえた。

 アーヴィンが些か不服そうな顔をしてマグカップを差し出していた。

 近寄って覗いてみると確かに空だ。コーヒーではなく、白い液体が入っていたような痕跡がある。


「コーヒーでいいですか?」

「いいわけないです」

「それなら何が良いか言わないと分かりませんよ」


 葵はちょっとむっとして腰に手を置いて反論した。

 横からユノーの大きな手が二人の間に入ってきて、すいっとアーヴィンのコップを奪い取っていった。


「生意気ばかり言っていると刑期が延びますよ」

「それ、脅迫ですよ」

「私が一言言えば、あなたはドーラ号の一員として、ドーラ号の人たちに最も憤慨している厳しい国の最も厳しい刑務所に入れることだって出来るんです」

「職権乱用です! 最低だわ!」

「私にはあらゆる国の機関から与えられた権限と信頼があるんです。得るために今まで大変苦労しました。なので今後はそれを思いっきり行使する予定なんです。思いっきりです」

「それと私は関係ありませんよねえ?!」

「恨むならこんな人員不足甚だしい部署に私を配属した上層部を恨んでください」


 後ろからエコーするように「すまない、すまない、すまない…」と小さな謝罪の波が近付いてきて、ユノーは腰を低くしながらアーヴィンにコップを返却した。彼に謝られたって葵の腹の虫がおさまるはずもない。苛つきは荒い言葉となって口から吐き出されそうだったが、それより先にリネが姉への失礼を責め立てて暴れようとしたので、精密機器の危険を感じた葵はそれを止めるのに必死で怒りを忘れてしまった。


「葵、葵、わたくし、72度のミルクなんて面倒なことは申しませんよ。温かいコーヒー、ね、それだけですの。わたくしも入れて頂きたいわ。ほんの数年前は何人ものメイドがわたくしのカップが空く度に…」

「姉さまを使用人扱いしないでください! あなたが姉さまに飲み物を差し入れるべきです! こんな崇高な方に下働きを」

「ドーラ号そのものを確保しなくても、団員を一人くらいは捕獲したと成果を示すべきかもしれません。予算を増やしてくれる可能性があります。リネは刑務所に送りましょう」

「絶対に行きませんからね! 刑務所って男女別ですもんね! 姉さまと離れ離れになるくらいなら全員殺して死んでやります!」

「やめなさい」


 いつか物理的に血管が切れそうなほど休みなく怒り続けるリネを、葵は不安そうな目で見つめていた。そんな二人をトントはびしょびしょの顔で見つめていた。この三人の面倒を見るのは実質自分一人だと察したユノーは、光を失った目で空を見つめていた。


 ***


 散々言い争いが続いていたが、ようやくプランが出揃ったようだ。


 1.特対と思われる船体を爆発して落ちていくリネと葵をマーク号で拾う。他の乗組員は見捨てる。

 2.特対と思われる船体を爆発して落ちていくリネと葵をマーク号で拾う。他の乗組員も拾って日頃の恨みを晴らす。

 3.見捨てる。


「もう少しマイルドなやり方はないか?」

「リーダは甘い! 二番とかめっちゃ優しいじゃん!」

「日頃の恨み、ないだろう。存在すらあやふやな人たちで、今まで脅かされたこともない」

「今頃葵とリネをびしばし拷問しちゃってるかもだぞ?! 10倍返し!」

「とりあえず一の選択肢を捨ててもいいか?」


 ドーラ号の仲間たちから湧き出る救出作戦の内容にリーダは恐ろしさを成してきた。

 それでも救出対象に葵が自然と入っていることに少し喜びを感じていた。皆が彼女を仲間と認識しているのであれば、今後彼女を引き入れたいと密かに思っているリーダにとっては心強いことだった。

 仲間を助けるためなら彼らを捕獲した敵などどうなっても良いと思っている団員たちの思考に、かにゃんやマーロもちょっと不安を覚えた。


「私利私欲では動かない。代々の船長もずっと言ってたことよ」

「仲間を傷付けられたら10倍返しだ」

「本当に相手が特対なら、警察として市民を守るために働いているのよ。傷付けられたとは言えないわ」

「かにゃんの言う通りだ。初代が立ち上げたそもそもの理由は警察の手の及ばない正義を執行するためだ。警察行為に対して反旗を翻すことは出来ない」

「でも助けに行かないなんてことはないよね?」


 いつもなら部屋で会議が始まったらそっと出て行くか、端っこで口を出さないようにしているマーロが、この時ばかりはリーダのすぐ横に立って心配そうに声を掛けてきた。

 3.見捨てる。をリーダが排除しなかったことを、とても不安に思っているようだ。


「ないよね? リーダ」

「うーん…」

「行って皆捕まったらどうする。俺は反対だ」

「ええ~、それはない。仲間を見捨てるのは助けを求めてきた依頼人を見捨てるのも同じだ」

「それならもっと計画を綿密に立てて…」

「………………」


 操縦を担当するヤットラーと、食堂のおばちゃんと、医務室から出ると蕁麻疹が湧き出ちゃうハム以外の団員は皆、ここに揃っていた。彼らの発言に耳を澄ませながら、リーダはじっくり考えていた。

 マーロの視線が痛い。


「エルロイ、どう思う?」


 ほとんど言葉を発さずにリーダの執務机の上で山座りするエルロイの意見を、リーダは求めた。

 皆も興味があるようで、ざわついていた室内は少し落ち着きを取り戻した。

 細く切れ長く吊り上がる瞳が室内の光を照り返しながらゆっくりとリーダの方を向いて、しばらくぽつぽつとまばたきをした。


「エルロイは葵に上着を返さないといけないから、戻ってこないと困る」


 帰ってきたエルロイの服は裂けていて黒いカーディガンでまとめられていた。葵が脱いで貸してやったのだろう。すぐに新しいものに着替えたが、エルロイは相変わらず彼女のカーディガンを腰の辺りに巻いていた。忘れないように。


「ドーラ号の目的が最優先。団員の為に任務をないがしろにするのは本末転倒」

「助けに行かないってことなの?」


 マーロがリーダの体を後ろに押し退けてエルロイに顔を近付けた。

 いつも微笑みを絶やさない仮面が逆さまにひっくり返されたように歪んでいる。


「無謀な行いから消費することによって二人から遠退くことも有り得る。どこにいるかも分からないのに海より広い空を探し回るわけにはいかない。それに」


 エルロイは腰に巻いたカーディガンを取ってマーロの首に巻いた。

 そして机の上に立ったかと思うとぴょんと飛び降りて、この部屋を出て行こうと進んでいった。


「リネなら、自カで戻ってこようとする。その時に帰り道を用意すればいい。葵はリネが引き摺ってでも連れてくるからエルロイは心配していない」


 でも、リーダが二人の救出を優先すると決定したなら従う。

 そう言い切らない内に、部屋の扉はバタンと閉じて、エルロイの姿を隠してしまった。

 部屋に残った団員たちは皆、「それもそうだな」という気持ちになった。

 あの男がそうそう易々と姉と信じ込んでいる女性と離れるようなことを受け入れるとは思えないし、ドーラ号の志を崇拝しているところを鑑みると、空を泳いででも帰ってきそうだ。

 どちらにしろ、相手―――特対だって、こちらを追っているはずなのだ。雲の影を慎重に渡っていかなければならないこちらに比べて、あちらの足は速いはず。早晩追いついてくる。それから救出すればいいのだ。

 あの姉弟なら、その内喧嘩しながらすんなり帰ってくるだろう。


 ***


「もう怒りました。リネはリベランス王国に移送します。二度と出てこないように忠言してやります。それまでは葵とも接触させません」

「あ! な! た! が! 姉さまに無理な注文付けるからいけないんです! 何なんですか! 72度のミルクって! 姉さまが入れたミルクなら500度でも飲むべきです!! 嫌なら俺が飲みます!! 欲しいです!」

「死ぬぞ」


 何とかユノーが間に入ってアーヴィンとリネの抗争は落ち着いた。物理的に二人の間に人がいないと何度でもアーヴィンが宙を舞いそうだ。その度にジャックが下敷きになっている。これ以上の被害は防ぎたい。

 賑やかな状況を喜んで見ているマリアンヌが役に立たないことはまあいいとして、リネの足の間に滑り込んで下からリネを鑑賞しているトントが凄まじく鬱陶しい。彼に構わず暴れるリネの足を避ける遊びをしているらしい。うまく避けられたら「んふふ」と笑い、踏まれたら「きゃひー」と笑っている。もう牢屋に帰したい。何故アーヴィンはこいつまで出したんだ。


「よし! どうだ!」


 部屋の隅に行っていた葵がアーヴィン専用のコップを持って戻ってきた。

 中にはミルクが入っているようだ。

 ジャックによって定位置に戻されたアーヴィンは口を一文字に結んだままそれを受け取ると、少し中を疑視してから口を付けた。

「うん、素晴らしいです。72度」

「やったあ! ね! 今度こそ当たりと思いました! さっき渡したのが70度ということだったので、少し長めにレンジで保温してみたんです」


 アーヴィンはごくごくと一息に飲み込んで、満足げに溜息を吐くとお尻の下敷きになっていた書類を黙々と読み始めた。


「もっとお礼を言うべきじゃありませんか?! もっとです!!」

「わーい! やりました、ユノーさん、聞きましたか? 72度だったそうです!」


 反応のないアーヴィンに詰め寄るリネを尻目に、葵は楽しそうだ。

 無事任務が達成できたことが嬉しいらしい。つい先ほどまでアーヴィンを我が儘だ言葉足らずだとぶちぶち言っていたが、いつの間にか楽しんでいたようだ。

 すぐ足下から聞こえる「きゃひー」と言う鳴き声をスルーできる根性も素晴らしい。


「こんな人に奉仕する必要ありませんよ、姉さま。僕なんて先ほどのコーヒーをまだ懐に入れて大事にしています」

「飲めよ」


 仲が良いのか悪いのか、よく分からない姉弟だ。本当の姉弟ではないだろうが、どういった経緯でこうなっているのだろう。葵を一方的な被害者と認定できない大きな要因の一つだ。その内話を聞かなければならない。


「山に着陸することとします。任務は墜落した飛行機の生存者の回収です。葵、リネ、トント、恩赦獲得のチャンスですよ」

「私は償わなければならない罪なんてないんですけど」

「えっ、この男も行くんですか?! 危険そうですし姉さまは置いて…、いえ、置いていけません、絶対に離れないでください。姉さまも離れたくないですよね? 分かっていますから」

「今すぐここから飛び降りて離れてくれて良いのよ?」


 トントの肩を踏んでいたリネの足を葵がぎりぎりと踏み付けたが誰も動じていなかった。

 この光景を不自然に思う自分がおかしいのか、ユノーは不安に思ったが、ジャックが離れた場所から青い頭を見せていたので、ちょっと自信を取り戻した。


「ユノー、三人の監督をお願いします」

「うわあ…、あっ、いや、分かった…」


 上官命令は絶対だ。

 幼少から国に忠動するために英才教育を施されてきたユノーですら戸惑うこの面子。

 降りる先は、古くから文明を遮断してきた原住民が神と共に住んでいる、靉靆(あいたい)とする峻岳だ。

 この山は、とても深い。

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