黒い鉄塊1
普段葵の周囲にいるかにゃんやリネは任務のため外出した。よく絡んでくる梁もいない。誰かが任務をしている最中は、残留団員も状況を見るためにリーダの部屋に集まりがちで廊下の人気はとても少ない。
共に過ごそうというマーロの誘いは心を鬼にして断った。
ダメ元で蔵書室に行ってみたら無人。エルロイの故郷に行ったと言うから、エルロイも下に降りているかリーダの部屋に集合しているのかもしれない。試しにマーク号を起動してみたが、さほど難しくもなかった。数度肩や腰を本棚に強打して身闘えた程度で、安定した走行をできるほどになれた。室内なので今は限度があるが、速度を上げる方法も分かった。
出入り口の開き方は、ずいぶん前にマーロと"探検"をした時に分かっている。
これなら逃げられそうだ!
葵はマーク号を元あった場所に丁寧に戻して、普段出入りを禁止されている一階へ足を伸ばした。
「やあ、葵」
「何でいるの!」
「何かあった時に皆の道案内に出られるように待機を命じられた」
「蔵書室で待機でよろしいのでは!」
「すぐに出撃するのであればここが最も適している」
出入り口にはエルロイがいた。
鉄の壁に囲われて寒い部屋の冷たい床の上で三角形を作って座っていた。
足音を忍ばせながらも飛び跳ねるように階段を降りてきた葵を見つけて、いつも通り、黒いヴェールと黒いローブと黒い髪の毛の隙間に僅かに覗く瞳を滑らせて抑揚のない声で挨拶をした。
「エルロイが蔵書室にいたら葵は困ったのではないの」
「ひええ」
小さなエルロイが小さくまとまる姿に負けずに葵は小さくなった。冷めた床に頭を抱えて蹲り、自分の行動がエルロイにすっかりバレてしまっていることを恥じた。
顔を上げられずにいるとすぐ目の前のエルロイが動く気配がして、葵は手の隙間からちょっと様子を伺った。
どうやら壁に固定されたマーク号を取り外しているようだ。
「エルロイ?」
「蔵書室でマーク号、使えた?」
自分の背丈ほどもありそうな高さの手摺りが付いた円盤を持って、エルロイが近付いてきた。
いつも人を乗せてふよふよと浮いているマーク号は、重量感を持って地面を引き摺られていた。
「うん…、使えたけど」
「そう。じゃあどうぞ」
マーク号の手摺りは人を囲うようにまあるく付けられているが、乗り込むように一部分だけ開いている。その部分をくるりと葵の方へ向けて、エルロイは葵の腰元ヘマーク号を差し出してきた。
思わず受け取ってみると、乗って浮いている時には感じなかった重みが手にのし掛かってくる。
正面に付いている画面が操作する為のリモコンだ。
起動スイッチもしっかり確認済み。
「え、エルロイ、私、ここから逃げようと」
「エルロイは止める気はない」
黒い手袋に隠された小さな手が葵の手を掴んで、手摺りのあるべき場所に誘導した。
骨のように細い手だ。皮で作られた手袋なのか、ひんやり滑るようだ。下から持ち上げられて両手を預ける形になったが、どうにも右と左で感触が違う。左は柔らかく僅かに掌の肉が埋もれるようなのに、右は左よりもずっと細くて硬くて無機質だ。肌触りは同じだが肉感がまるで違う。エルロイに手を取られていたのはほんの僅かの間だったが、その奇妙な違和感は葵の心の隅にちょっと残った。
「さようなら、葵。また会えるといいね」
「エルロイ………」
自分より何十センチも低い頭を見て、葵はしみじみ、自分がこれからここを出るということを実感した。
この流れるような重たい黒髪を見るのもこれで最後なのだ。
熱いものが目の奥に溢れてくるのを感じたが、葵はぐっと堪えた。今の葵にそんな資格は微塵もない。
葵がマーク号をしっかり握りしめたのを見て、エルロイは素早く出入り口を開けるレバーの方へ向かうと、確認を取ることもなくがこんとそれを倒した。
突如、凄まじい風が葵を吸い込んで広い空へ呑み込んでいった。
まだ空に飛び込む覚悟は決まっていなかった葵は大声を上げながら放り出された。とにかくマーク号から手を離さないことだけを気にしていた。誰も彼もこれに乗る時は大抵命網を繋げるはずなのに、それすら繋げていなかった。
(え、え、エルロイの馬鹿!)
きっと逃げだそうとしたことを腹の底では怒っているに違いない。声に出したかったが口を開くと空気が怒溝の如く口に入り込んでくる上、風圧で唇がめくれてとても痛い。
心の中でエルロイを罵倒したが、それでも見逃してくれたのもエルロイだ。葵は激しい風を受けながらも必死で目を開けて、ほぼ手探りだったが、マーク号の起動スイッチを押した。
反応はなかった。
マーク号は相変わらず葵と一緒に落下を続けていた。
「え?!」
「起動しないね」
「エルロイ!」
気が付くとマーク号から伸びている命綱の一本が上に向かっていて、その先にエルロイがいた。
黒いローブをはためかせて黒髪を撒き散らしながら同じ速度で降ってくる。
「不良品を渡したのね! えっ! ていうかエルロイも落ちてるけど大丈夫なの?! えっ、私たち死ぬの?!」
「やあ、葵。また会えたね」
「挨拶してる場合か!」
エルロイは自分の腰に付いた命網を手繰りながら近付いてきて、黒い手袋に巻かれた時計型の連絡機をマーク号のリモコンに翳した後、起動スイッチを押した。
葵の腕が力強く上に引かれて、先ほどまで横向きで落下していたマーク号はきちんと起立して空中に留まった。エルロイはその円盤の上に尖った足をしっかり乗せた後、もう一本、命綱を引き出して、葵に差し出した。
「蔵書室のマーク号は暗号化されていないけど、外出用のマーク号は団員の連絡機で暗号を外さないと起動しない。一つ学んだね」
「し、し、し、死ぬかと思った!」
「手を離さなくて良かったね。エルロイはローブが広がる分空気抵抗があって葵より落下速度が遅いので間に合わない」
「あのねえ!」
「マーク号に乗る時は命網。基本だよ」
何とか手摺りの空いた場所から円盤に乗り込んだ葵に向かって、エルロイは左手の細い指をぴんと立てて少し背を反らした。
葵はもう何も言う気になれなかった。
「マーク号で逃げるのはお勧めしない。どのマーク号も探知機が付いているから足取りが分かってしまう。葵よりリネの方がよっぽど扱いに慣れているから追いつかれてしまう」
「マーク号を渡す前に言ってほしかった」
「聞かれなかったから」
「この悪戯小僧」
「それはエルロイのこと? エルロイはエルロイ」
もう雲の先に行ってしまった上空のドーラ号に返されるのかと思ったが、葵の予想に反してマーク号は下降を始めた。
先ほどの垂直落下とは違い、円を描くように斜めに緩やかに地面を目指していった。すぐに岩だらけの薄黄色い地面が見えてきて、
叩き付けられるのも時間の問願だったことをありありと知らしめられる。
「エルロイ、戻らないの?」
「葵はエルロイの産まれた国が見たい。だから仕方ない。エルロイは付き合ってあげる」
そんなことは一度も言ったはずもないが、少しの興味もなかったわけでもない。
顔に出ていたのかと、葵は思わず両手で頬を隠した。エルロイのはったりとも知らずに。
やがて地面に近付いたマーク号はその動きを静かに止めて、地面より数センチばかり浮いたままうんともすんとも言わなくなった。
「国の中に降りるのはさすがに目立つから、ここから歩いて行こう」
遠目に高い建物が森のようになっているのが見えた。
天候が沈んでいるのか、どの建物も黒ずんでいるように見える。
「あれがエルロイの故郷?」
「産まれた国」
「緑のない国というより、黒い国ね」
「うん、いいね。そっちの方が簡潔。そう呼ぼう」
小さなエルロイが「ん」と小さな手を差し出してきたので、葵もそれがもちろん当然の行いであるように手を繋いで、遠い黒い群を目指した。エルロイの歩幅はとても狭かったが、細かく素早く動く尖端が小動物のようで、葵は足を緩める気遣いなんて少しも思い浮かばなかった。
***
「エルロイが出て行った」
「えっ、タールマギ、出て行くよう指示したか?」
「していない。連絡機の音声も開いていないので状況が分からない」
リーダの部屋は俄にざわついた。
しかし団員たちのエルロイに対する信頼は厚く、何か理由があって出て行ったのだろうということで決着が付いた。
連絡機の電源を落としたり、誰かの連絡機を奪ったり、通信を遮断したり、エルロイがそんなことをするのは日常茶飯事だ。でも、理由がなかったことはあまりない。以前リネの実姉―――コーラと遭遇した熱い国でも、使いこなせないダンの連絡機を奪ったのは皆正しい行いだったと信じている。
しかしリーダは、エルロイの実は奔放でマイペースな性格を思い浮かべて、その行いを不安に思った。ああ見えて意外と好奇心旺盛だ。やりたいと思ったことはすぐに実行してしまうタイプだ。考え無しに飛び出していったかもしれない。
無事に戻りさえすればいいが、何か企んでいたとしてもドーラ号の不利になることはしないと信じているが、それでもあの小さくてひ弱なエルロイが単騎で降下して、危険な目に遭わないか心配だった。
しかし自分の不安を団員に話してそれが伝播するのも良くない。そう考えて、心の内は仕舞っておくことにした。
本当は単騎よりもずっと危ない、ど素人を連れて行っていることなど、誰も考えつかなかった。
***
黒い建物たちの周囲には国境と分かるような境目も標石もなかった。足場の悪い荒れ地が唐突に舗装された人工的な地になっていて、葵は恐る恐るそこに足を踏み入れたが、それを咎める人も狙撃してくる人もいなかった。
速くから見た国は暗く無機質に見えたが、入ってみると道は広く清潔で、真っ黒に見えた建物もそれなりに看板が立っていたり幟が付けられていて華やかだった。色合いは全体的に落ち着いていて、シックで整然としていた。道は奥の方まで遮蔽物もなく真っすぐ突き進んでいて、どうやら基盤の目のように、きっちり決められたとおりに建物が並んでいるのが見て取れた。
「葵、こっち」
物珍しさに周囲を見回す葵を、エルロイは手を引いて案内した。
「はあ、綺麗な街ね」
「そう」
「この街を設計した人はきっと、えーっと、そう、几帳面」
「神経質」
「…マイナスに言うとね」
路上にはあまり人気はなく、遠くで車のエンジン音のようなものが聞こえたが、姿はほとんど見かけなかった。路上駐車もない。通りがかったカフェのような店の中に数名の客が見えたが、葵が道中で見た人は彼らが最初で最後だった。
縦に長―――い建物に遮られて空は些か狭く、なんとなく淀んでいるように見えた。
エルロイの手に逆らうこともなくただ歩いて行くと、一際大きな建物が並んでいる区画に入った。
ガードレールのような背の低い塀に囲われている。横には長いがこの国には珍しい三階建て程度の建物の背後に、見上げるほどの高い建物が八つ、丁寧に並べられていた。神様の大きな手がレゴブロックを置いたかのように完成された景色だ。正面から見ると八つの建物は細長かったが、横から見てみると異様に奥に長い建物だった。圧倒された葵は思わず窓の数を数えた。縦に30個、横に40…、横に数えるのはそこで止めた。キリがない。うわあ、うわあ…、と少し引き気味に建物を見る葵を、エルロイは細い瞳を横に滑らせて鑑賞していた。
黒い手は葵を正面から外れた横側へ誘った。ここに入るようだが、葵も若干感づいていたとおり、訪問ではなく侵入のようだ。どこか裏口から忍び込むのだろう。
ガードレールを越す前に、エルロイは腕の連絡機を操作した。
「ここは電子機器を持ち込むと爆破する」
「おお、セキュリティがしっかりしているのね」
「葵、何か持っていない?」
葵はジャケットやスカートを手でぱんぱんと叩いて確認した。
「うん、持ってない」
「じゃあ入ろう」
小さな体でガードレールを越そうとするので、葵はその腰に手を添えて手伝った。
無事にエルロイが向こう側に渡ったのを見て、葵も足を上げて乗り越えた。
その時、葵のワンピースを胸下で止めていたベルトの背面がばしんっと音を立てて弾けた。
「何か爆破したんですけど」
「おめでとう。発信器を破壊したね」
黒い手が指先を揃えて音もなく拍手するのを見て、葵は心を閉ざした。
そういえばリネが出て行く時、異様に背中をわきわきされた記憶がある。部屋を出たら承知しないとか、弟は常に姉の場所がわかっているとか、なんだかそんな恐ろしいことを言っていた気がするが、すっかり麻痺していた。いつもの甘言と警戒を忘れていたらこの始末。とうとう仕込みやがったのね。
「戻ったら殺してやる」
「おめでとう、リネ。葵が船に戻るってさ」
「戻りません!」
「どうかな」
エルロイが再び黒い手を差し出してきたので、葵はその手を取った。
黒くて長くて重苦しい建物の横を、息を潜めながら歩いていた。人気はなく静かでどこか緊張感のある空間だ。
「葵、きょろきょろしない。ちゃんとついてきて。エルロイが捕まったら困るでしょう」
「う、うん。ごめんなさい」
葵はエルロイの横に立ち背筋を正した。
それを見てエルロイも一つ額いて納得した様子だった。葵はほっとしたあと、ふと我に返った。
(エルロイに毒されている…)
そもそもこの建物に侵入するのにすんなり付き合う時点ですっかり毒されているのだが、葵がそれを自覚するまで数日を要しそうだ。
しかしこの小さい黒い子供に右も左も分からない空間で逆らう度量もなく、葵はエルロイに言われるまま足を進めた。
果たして終わりはあるのか分からなくなりそうな長あい建物の端っこにようやく辿り着いた。エルロイは角の小さな扉を開いて中に入ると、すぐ先にあったロッカーを指さした。
「中の白衣を着て」
真っ黒な外観に比べて、中は白を基調とした事務室だった。ロッカーや机はグレーだ。懐かしい、日本で働いていた頃の執務室を思い出す。整理整頓された街並みとは裏腹に、くっつけられた四つの机の上は乱雑で、コップやティッシュや文房具が散乱していた、椅子も机に仕舞われているものは一つしかない。
適当なロッカーを開けてみると、中には確かに医者が纏うような白衣が三着ほど入っていた。
「前は閉じて。うん、それっぽい」
葵がきっちり白衣を着込んだのを見ると、エルロイは入ってきた扉とは別の、奥の方に備えられた扉に向かって行った。
外を歩いていた時と同様に手を取ろうとしたが、エルロイは首を振った。
「ここでは被献体と手を繋ぐ研究者はいないから、それは不自然。葵はエルロイの一歩斜め後ろを歩いて、それで堂々と中を歩けるから」
「…あのー、今更だけど、エルロイ? 私たち何しに来たの?」
開きかけていた扉を元通りきちんと閉めて、エルロイは葵に向き直った。
この部屋には蛍光灯のようなものはないのに影が真下にくるほど明るい。
エルロイの黒い細い瞳に差し込む鋭い光は一つもなかった。
「今回の任務の、追加」
「追加?」
「ある夫婦が捨て子を拾った。その子はこの国から逃げ出した被検体。この国が探して奪い返しに来るかもしれないから、その子供の情報をこの国から盗み取って、どんな子だったか分からないようにしてほしい。それが今回の任務」
「ほう、そうだったの」
「その子の情報を盗むなら、エルロイの情報も盗もうと思う。エルロイも追跡者は少ない方が都合がいい。でもこれはエルロイの私事だから、エルロイでやる」
「エルロイの情報もここにあるのね」
「葵、手伝いたいでしょう」
「なんと」
まるで全てお見通しだという目をしているが、葵は塵ほどもそんなことを思ったことはない。
そもそもそんな事情を今聞いた。
こいつは何を見通しているんだ。私の後ろに別の人間でもいるのか。
しかしこの倣慢な子供がちょっと眉尻を下げて首を傾げたのを見て、葵の心は再び毒に塗れ始めた。
この子の言い分が間違っているなどと正面から否定するのは大人のすることではない。この人は自分をとっても好きに違いない、自分もこの人を信じて頼ろうと、心底思って連れてきたのだ。誘い方はいかれているが可愛いではないか。そうだ、とっても可愛い。葵は可愛いものが好きだ。
「まあ、どうせマーク号で逃げ出す作戦は失敗したし…」
「エルロイのこと、手伝いたいでしょう」
「そうね。手伝いたい。手伝いたいわ。あー、手伝いたい」
「素直。エルロイは素直なのは嫌いじゃない」
目線を合わせるために腰を屈めていた葵の頭に向けて、エルロイは小さな手をぴんと伸ばしてきた。
葵は更に頭を下げて、その手を受け入れた。頭を撫でられるなんてずいぶん久しぶりだ。こんな小さな子に撫でられるのは初めてかもしれない。
甘んじて毒沼に沈んでいく葵のことを、エルロイは感情を奥底に埋めた黒い瞳でじっとり見つめていた。




