初心にかえろう
もうこの上は服を脱がなければ離れない、いや、脱いだら次は皮を剥がなければ離れないのではないかと言わんばかりのくっつきぶりに、葵は観念してリネと一緒に眠った。緊張続きの一日の終わりで疲れ切っていて、ひっつき虫のおかげで風呂にも入れず、もう何もかも諦めた上での悟りの境地だったともいえる。
しかし次の晩にエルロイがやってきて、天蓋付きのダブルベッドで三人で寝ようと思ったものの、エルロイの大きな独り言に、リネが爆発して部屋は半壊した。ベッドは全壊した。仕方なしにリネのシングルベッドで三人で狭い一夜を過ごすこととなったのだが、隣の部屋をこのままにもしておけない。
二日目にしてようやくカ尽くで離れたリネを置いて朝風呂を満喫した葵は、現状についてリーダに相談することにした。
脱衣所を出た途端に再びひっついてきた虫と共に。
「リネ、物に当たるのはやめろと何度言ったら」
「エルロイに当たろうと思いましたが、小さいし弱いしやめました。エルロイに当たった方が良かったですか」
「そういうことを言っているんじゃない」
「エルロイも刺激するようなことをわざわざ言うんじゃないの」
葵の入浴中にリネの侵入がないよう見張ってくれていたかにゃんたちもついてきて、騒動の原因でもあるエルロイも引っぱってきた。
苦言を呈されたエルロイは細い目を横に滑らせて視線を逸らした。
隣に立つ葵の服の裾を小さな手で握ると葵が庇ってくれることを知っている。葵の腕に隠れるエルロイの顔を見てかにゃんは「もー」と漏息を吐いた。
「俺が直せる物は直してやる。材料はリネが調達しろよ」
「リーダは日曜大工得意だからねー」
「そうなの? すごい」
葵が小さく拍手したのを見て、端っこから様子を見ていたマーロが嬉しそうに真似した.
誇り高い友人が褒め称えられて喜ばしいのだ。
「…あの部屋のものは、全部取り替えようと思います」
少しだけ沈んだ声色で、リネは葵の背中に埋めていた顔を上げてリーダにそう言った。
ベッドから机から椅子からタンスからその中身から、全部捨ててしまいたいと。
「あの部屋で生活できなくなっちゃう」
「すぐに新しいものをご用意します。ベッドも好きなものを選んで構いませんし、カーテンもお好きな色に取り替えます。リネは青が良いと思います。姉さまにぴったりです。机も椅子も、そうだ、一緒に買いに行きましょう。姉さまの好きなお部屋にしてください」
「いいわね!」
どこか暗く鬱々とした雰囲気を、かにゃんの明るい声が一掃した。
リネの心中を察したのかどうかは本人にしか分かりようがないが、リーダも少し声を高くして同調し、葵を差し置いてあれよという間に部屋の模様替えが決まっていった。
意気揚々とリーダが本棚から持って来たのは、分厚いカタログだった。どうやら壁紙も取り替えるつもりらしい。
「もちろん通販なんてできないんだから店舗に買いに行くのよ」
「寸法を測らないといけないな」
「本棚置こう。いいよね、葵。エルロイが本を厳選してあげる」
「葵、葵、このソファ見て! ベッドになるんだって! 僕これが良いなあ。僕の足、長くて葵が眠るのを邪魔しちゃうから、こっちで眠るよ。どうかな」
「マーロ、やはり俺と同室は嫌なのか」
「リーダ! このソファベッドなら二人寝られるよ! 一緒に葵のお部屋行こうね!」
「うん!」
「リーダ、あんた変わったわよ…」
部屋の主であるはずの葵をよそに、卓を囲む面々は楽しそうだ。
葵の後ろでリネもじっとしている。
手持ちぶさたも相まって、葵はリネに声をかけてみることにした。
「あのー………、いいの? 部屋、まるっと変えちゃって」
「俺の姉さまは、あなたです」
もう一昨日から何万回聞いたか分からない言葉を返されて、葵は会話をやめた。
こちらの言っていることを聞いているんだかいないんだか、分かったもんじゃない。
葵の問いかけに対してリネはしっかり答えたつもりだったが、深く考えることをやめている葵にはその心は届きそうもなかった。
***
お腹に発信機を埋められるのは勘弁なので、仕方なしに手錠を許した。
降り立つ国の民族衣装でもある長めのポンチョを羽織ってくっついて歩けば目立つほどではない。居心地は悪いが。
家員を選びに行くための妥協案だ。
リネは顔を真っ赤にして、自分の腕の手錠を高速で撫で回したり姉の腕に付いた手錠をまばたきもせずに眺めたりしていた。
「ね、ね、ね、ね、姉さまは、僕の姉さまですから、離れていくことはないと分かっているのですが、はあ、あの、僕の心を落ち着かせるためにですね、こっ、こっ、これはっ、必要な措置なんです」
「悪化してない?」
「手錠に興奮する変態」
「僕は落ち着いています! エルロイは失礼です!」
さすがあの変態の弟、と続けようとしたエルロイの口をかにゃんが素早く塞いだ。そんな言葉を聞いたら自殺しそうだ。
色々な家具が陳列する店内は魅力的で華やかだった。色味のない家具ばかりを選ぶ葵をかにゃんは貴め立て、「差し色」がいくつも増えていた。本棚はほぼエルロイが選んだようなものだった。マーロにねだられてソファは一番大きいものになった。ベッドはシングルでよかったのだが、何故かリネが猛反対してダブルベッドに決まってしまった。キングサイズを回避しただけまだマシと言い聞かせるしかなかった。適当に枕を選んでカートに投げ入れようとしたら、値段を見て無視したはずの高級枕が何故か既に投入されていた。それも二つ。リネにに文句を言ったら、「カバーはお好きなので良いですよ!」と何故か誇らしげだった。心理状態がどうかしている。
あんまり鎖ををぶら下げて歩くとじゃらじゃらと煩いので、葵はできるだけ鎖を纏めて握りしめて歩くようにしていた。自然、リネとの距離も縮まる。葵の行動に合わせるようにリネは気を遣っていたので、彼女が自由に動く度にリネは腕を引っ張られたりよろけたりして、懸命にその後に続いていた。
「リネ、ペットみたい」
「エルロイ、やめなさい」
二人の間の鎖を見て率直な感想を述べたエルロイの頭を、かにゃんは上からわし掴んでぐるぐると回した。
『リネはわたしのペットなの。もうすこし使えるようになったら、また弟に格上げしてあげる』
かにゃんはコーラのいけ好かない言葉を思い出して指先にぎりざりとカを込めた。エルロイの黒い指先がびしびしとかにゃんの腕を叩いて、ようやくそのことに気付いたのだった。
「姉さまに飼われるなら、本望です。飼われたいです」
「きもい」
「首輪! そうだ、首輪、買いますか? 姉さま!」
「買わない。飼わない。あなたは動物じゃないから、ペットにはなれない」
葵の声は冷たく尖っていたが、リネの耳には天使の声のように温かくまあるい声に聞こえた。
彼にとって、動物扱いしないということは、イコール人として、いや弟として受け入れられたと同義なのだ。天から遣わされた心優しい天使さまは、縄で柱にくくりつけたりしないし、鞭で躾けたりもしないし、床に残飯も放り投げない。まるで本物の家族のように扱ってくれる存在なのだ!
「リネが哀れで仕方ない…」
「まるで阿呆だね」
鎖の先の異常者を見ないように死んだ目を逸らす葵の横で、晴れやかな笑みを浮かべて小躍りするリネをかにゃんは悲しげに見ていた。もう涙無しでは彼を見ていられない。エルロイは真顔で鑑賞していたが。
そんな時に、どこかに消えていたマーロがエスカレーターを転がるように降りてきて、一直線に葵に飛びかかってきた。
「あー、よかった! 葵、またいなくなっちゃったかと思った!」
「マーロがどこか行っちゃったんだよ」
「そうなの? ごめんね。葵、心配した?」
「したかも」
「ごめんね!」
謝っているとは到底思えない満面の笑みに、リネは葵の死角で唾を吐いた。
先ほどまで自分も同じような表情をしていた記憶は失っている。
「見て、これ」
マーロは手に持っていた小さな小物を葵に差し出した。
小さな小袋に入った小さな小物だ。マーロの長い指の上にちょこんと置かれると余計小さく見える。
さくらんぼうの飾りが付いた髪ゴムだ。
「これ…」
「桜ちゃん、なくしちゃったのに似てるかな? プレゼントしたらどうかと思って」
「あっ、ばか、マーロ」
「さくらちゃん?」
かにゃんがマーロの言葉を慌てて止めに入ったが、リネはきちんと拾っていた。
聞き覚えのない単語、おそらく人名と思われるその単語に、先ほどまで店内の照明を燦々と映し出していた瞳ががらりと色を変えた。
「誰です、それは」
「あれ? リネ、知らないの」
「葵の国の花の名前よ! ねー、葵」
「そうよ、桜っていうのよ。こういう飾りが似合う花なの」
葵もすぐにかにゃんに同調した。
小物を差し出すマーロの手元を隠すように前に聳え立ち、毅然とした表情でリネと向き合った。
「桜は知っていますが、今、それにちゃんを付けて」
「なに? 私が花をちゃん付けで呼んでいたらおかしいっていうの? ヒマワリを見て向日葵ちゃんって言ってたらリネは私を馬鹿にするわけね」
「そ、そういうわけではありませんが、で、でも、花に、これ、髪飾りですよね? 花に髪飾りって」
「あーそう。私が桜の木を髪飾りで飾る趣味を馬鹿にするわけね。そうなの。マーロはこんなに理解を示してくれているのに、リネは私の趣味を鼻で笑うわけね」
「花だけに」
「エルロイはちょっと黙ってて」
まるで会話に混ざっていなかったエルロイが輪の外から葵の言葉を拍手で称えた。葵はちょっとだけ、この小さな妖精を黙らせられないか、ほんのちょっとだけ悪意を以て考えた。
「そういうわけではありません! 僕が姉さまをおかしいと思うことはありません! 鼻で笑ったりしません! とても素敵な趣味だと思います! 僕も何か、姉さまの趣味をお手伝いできるような物を探します!」
「ねえねえ、何の話をしているの? 葵、何か趣味を見つけたの?」
「マーロ、マジで黙ってて」
かにゃんの細いヒールがマーロのひょろひょろの足を蹴りつけるのを横目で確認してから、葵はマーロの持って来た髪ゴムをカートにダンクした。
リネは桜の木を葵の部屋に飾ろうと提案したが、さすがに邪魔だし、そもそも葵に花を髪飾りで飾る趣味はないし、拒否しておいた。
そう、あの日、葵がエルロイに預けた小さな少女は、リネの目に入らない場所でこっそりと保護しているのだった。
***
「桜、気分はどうだ」
「とってもいいです。ありがとうございます、リーダさん」
船長室は他の団員の部屋よりずっと広く、特別に四つの小部屋に分けられている。
廊下から入ってすぐの部屋は団員たちが複数名やってきても話ができるよう広めで、検討用の机を真ん中に備えた大部屋だ。リーダが普段過ごす執務机もここにあり、シンクや冷蔵庫などの簡易な台所も添えてある。リーダとマーロの生活空間でもあるので、お茶をする小さな机があったり、寝転がるだけのソファがあったり、ラジオがあったり、読みかけの本があったり、生活感に溢れている。
他の三つの小部屋は、一つがユニットバス、一つが寝室、一つが客室だ。
寝室はもちろんリーダとマーロが眠る寝台がニつ並ぶプライベートルームだ。大半は大部屋で過ごしているので、ここは寝台だけの簡素な部屋だと言われているが、一部の団員の間では、歴代の船長が溜め込んだ大量のテレビゲームが積まれていると噂されている。
客室は外からの人を泊まらせる部屋ではなく、急場にタールマギなどの船長の近くに居るべき団員を生活させる部屋だ。二段ベッドが二つとシンプルなチェスト、マーロの趣味で誰が居なくても一輪挿しが飾られている。何故かこたつも置いてある。たまに団員が何の意味も無くここで過ごしたがると、リーダは快く受け入れるので、人の香りのある部屋だ。
桜はこの客室で過ごしていた。
この少女が葵を「お姉ちゃん」と呼ぶのを、葵はリネに聞かせられないと言った。
かつてこの船に訳あって幼い少年が乗っていて、彼が葵を「おねえちゃん」と呼んでリネが荒れ狂ったのが記憶に残っているらしい。その惨状をリーダもかにゃんも目にしていたので、桜を目撃した団員をごっそり集めて箝口令をしいたのだ。リーダがこのことに重要度を感じ、いつも通りの作戦会議同様の集会をしたために、いつもの癖で、マーロをそのメンバーから除いてしまった。
「大変よ、リーダ」
退屈しないよう桜にいくつかの本や漫画を見せている最中に、かにゃんが険しい顔で客室の扉を開いた。
マーロの首根っこを掴んでいる。
リーダはすぐに状況を察した。
そしてマーロをあの集会に呼んでいなかったことも思い出した。
一先ず部屋を出て、三人は検討用の机の隅に座った。
「バレたのか」
「葵が誤魔化してくれたけど、察してそう」
「何で桜ちゃんのこと秘密にしてるの? 可愛い子供っていいものだよ。リネは喜ぶよ」
「マーロの脳内お花畑なところ、俺は好きだぞ」
「甘やかさないで、リーダ」
かにゃんとリーダが左右から事細かに経緯を説明し、もしも桜が葵を「お姉ちゃん」と呼んだ時に起こり得る出来事を大袈裟に話して、なんとかマーロの理解は得られた。
うんうんと二人の話をよぉく聞いて、納得のいった様子で、「オーケー、桜ちゃんがここにいることは言わなければ良いんだね!」と言った。二人は安心して、マーロを自由の身にした。
「さくらんぼうの髪飾り、桜ちゃんによく似合っていたよ!」
「マーロオオオ!!!」
さすがのリーダもマーロを背負い投げする慌てぶり。
かにゃんは自分より何十センチも背の高いマーロを振り上げて廊下の端まで吹っ飛ばした。もうあのぶにぷにの軟体がどうなろうか考える余裕は一つも無い。マーロの体は蔵書室の扉にぶち当たってしなびたゴボウのように床にべたんと落ちた。
「さ、さ、さ、さ、桜ちゃんって………、誰なんです………?」
「桜の花のことよ」
「嘘です!! 船に桜の木があるわけないじゃないですか!」
「うるさい! 私を疑うのね。もうリネなんか知らない」
「わー! 違います! 疑っていないです! 知らないって何ですか! どういう意味ですか! 説明してください!」
「うるさい!」
「桜の木があるなら見せてくださいよ! 僕は姉さまの趣味に寛容です! 何でも受け入れます!! だから何をどうしているのか見せてください! 見たら納得します! 静かにします! 姉さまの趣味の一番の理解者になります!!」
葵に足蹴にされながらも尚その足にまとわりつくリネを見て、リーダは桜を秘することが得策だったのかどうか悩み始めた。コーラが姉だった時よりも彼の生傷が増えている気がする。桜を見せても同じくらい暴れる気がする。
「マーロは馬鹿なの?」
「居るとは言っていないのに…」
蔵書室の扉が激しく叩かれたことに激怒して飛び出してきたエルロイは、地面で不可解なポーズで倒れるマーロを見てわざとらしく
溜息を吐いた。膝が逆方向に曲がって自分の頭を踏み付けているように見えるが、果たして無事と呼べるのだろうか。
「リネをダンに踏み付けさせて暴れないようにして、桜を紹介してしまった方が良いと、エルロイは思う」
「俺もそれがベストな気がしてきた」
「三重の檻に閉じ込めないと私は安心できない」
「大丈夫だよ~。リネは葵の大切なものを傷付けたりしないよ」
葵の腰にへばりつくリネの元にマーロはぺたぺと近付くと、しゃがんで同じ高さまで頭を下げて「ね?」と笑いかけた。
リネの顔は葵の服にシミを作るくらいぐしょぐしょに濡れていた。
へとへとの葵は床に座り、疲れ切った面持ちでリネと向き合った。
「桜ちゃんに暴カを振るったり、ひどいことを言ったり、睨んだり、その他彼女を害する行為をしたら嫌いになる。分かった?」
「姉さまは俺を嫌いにならないって言ったじゃないですか!」
「分かったの? 分からなかったの?」
抑揚のない葵の声に、リネはロをはくはくと開閉させた。何か言おうとしているが音になっていない。
座り込む二人を囲うリーダ達にリネは視線を泳がせたが、助け船は出なかった。
予てより葵はリネが離れたら桜の無事をこの目で確認したいと思っていたし、桜も葵の安否を気にかけていた。リネの狼藉さえ排除できれば皆の望みが叶うのだ。かにゃんはダンを呼んでリネの背後に立たせると、ようやく二人の面会が行われることとなった。
「お姉ちゃん!」
「桜ちゃん!」
「おっ?! ねえっ??! はああああ??!! 何です! あの馴れ馴れしい女は! 僕の姉さまですよ?! それは僕の姉さまです! あー! うわわわわわああ―――!! 抱きついちゃいけないんだ! 人の姉さまに抱き着いちゃいけないんだあ! 泥棒猫です! 悪い猫です! リーダ! リーダ、どうにかしてください! 悪者です!!」
「葵に嫌われたくないんだったら黙ってろ」
「あーあ、リネ、残念だったわね。嫌われたわね」
「ど…っ?! きっ、きっ、嫌われたりしませっ」
これ以上の言動は危険だと感じたかにゃんはリネの口にクッションからはぎ取った綿の塊を突っ込んで黙らせた。
幸い、葵と桜とは距離を取っていたので、ニ人はお互いのことに夢中だったので、リネの声は文字として葵の耳には入っていかなかったようだ。
「お姉ちゃん、無事で良かった」
「桜ちゃんこそ! わあ~、心配したよ!」
葵は桜を抱き上げてくるくると回し、桜もそれは楽しそうに葵に抱きついた。
背後からどえらい視線を感じるが、葵は無視を決め込んだ。
マーロの買ってきたさくらんぼうの髪飾りもとっても似合っている。初めて見た桜の笑顔に、葵は心底安心した。
離れた場所にダンがいるのを見つけて、桜は駆け寄っていった。ダンの腕の中には関節技を決められているリネもいる。葵は慌てて後を追いかけた。
「お兄さん、助けてくれて、ありがとうございました」
小さな体を折り畳んで行儀良く挨拶する桜を、ダンはきょとんとした顔で見返して、隣のかにゃんに確認をした。
「俺か?」
「あんたよ」
「そうか! 気にすんなよ。気が付いたら肩に乗ってただけだ!」
加減を知らないダンの腕が桜の頭を打ち据えそうなのを見て、かにゃんはすぐにその腕を蹴り飛ばした。
悪意がないのは分かっているが、危険を避けるためには仕方のない措置だ。
ダンの脇から顔を出してぎりぎりと締め付けられているリネを、桜は不思議そうに見つめていた。リネはしばらく桜を憎々しげに見つめ返していたが、ふと、桜の後ろに立つ姉の真っ黒な形相を見て、少しだけ冷静さを取り戻した。彼女を傷付けたら姉の心象を悪くすることを思い出し、暴言や暴挙を控えるよう頭から指示が降りてきたようだ。
「リネです! この方の! 弟です! この方の弟は僕です! 二人っっっきりのきょうだいです!」
「あ、え、そうなの?」
「………」
桜は後ろの葵を見上げて二人を見比べた。葵からの答えは返ってこなかったが、桜は桜なりに答えを見つけたようだ。
「リネさんの、お姉さんに、たくさん肋けてもらいました。ありがとうございました」
素直な桜に葵は感激した。
明らかに髪も目の色も違う我々を見て、幼くとも彼の嘘は分かっただろう。でも空気を読んだか、彼を気遣ったか、どちらにせよよくできた子だ。少なくともリネより大人だ。爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。リネにも、この優しさや落ち着きを少しでも見習ってもらえれば―――。
そう思ってリネに視線を移してみたら、リネは真っ赤な顔をして金魚のように口を開きっぱなしのままじたばたすると、桜の肩を容赦なく掴んで持ち上げて、満面の笑みを浮かべた。
「そーです! この方は俺のお姉さんなんです! びっくりしましたか?!」
「びゃあああ」
「びっくりしてる!」
「やめてあげて、リネ!」
突如として近付いてきた男性の顔のどアップに桜は思いっきり泣いた。
自分たちを姉弟としっかり認めた第三者は、桜が初めてだ。
実際はコーラと対面していた時の立ち会いをしていた警察官も二人を姉弟と認めたが、あの時のリネは葵のあまりの眩しさに五感を失っていたのでノーカウント扱いだ。
葵は桜を抱きかかえて客室に戻り、扉を固く閉じた。
罪の向こうからはリネの「そうなんです、そうなんです! 桜さんは物わかりの良い方です! この船の誰よりも!」という歓喜の声が聞こえてくる。どんどんと扉を叩く音も聞こえてくる。桜は呆然として掘れる扉を見つめていた。葵は恐怖を感じていた。彼の情緒の揺れっぷりが理解の範時を超えている。
「…桜も弟いるよ」
「そう。あんな風に育てちゃ駄目だよ」
声も頭も沈む葵の背中を、桜は優しく撫でた。
やがてリネがジュースとお菓子を持って客室の扉を破壊して乱入してきて、桜が喜ぶので仕方なくお茶会が始まった。リネを見張る為に葵も残ったが、リネは常に上機嫌で、「葵お姉ちゃんの弟さん」と桜が呼ぶ度に、サイダーの蓋を開けて桜に注いでやっていた。
葵は止め時を探っていたが、桜はとっても楽しんでいる様子で、忍びなく思っている内に、今度は跡形もなくなった扉の向こう側でお茶会を眺めていた梁が乱入してきた。梁は三人の間にあったお菓子やコップを机ごと回収すると大部屋の方へ移動して、いつの間にか酒やらつまみやら七面島やらを持ち込んでいた他の団員達とパーティが始まってしまった。
王様のような椅子に座らされた桜のあんまり嬉しそうな笑顔に、葵はもう何も言うこともできなかった。
そろそろ顔と名前も一致する団員が増えてきて、自分に親切にしてくれるかにゃんはリネの笑顔や葵がここにいることを心から喜んでいる。リーダとマーロも楽しそうだ。精一杯背伸びしたエルロイのお酌はとっても可愛い。酔っ払ったダンが適当な団員を大車輪しているのもちょっと愉快だ。
そう、今日のお酒は、ちょっと美味しい。
本当にちょっとだけだけれど。
船長の部屋にぎゅうぎゅう詰めになっていた団員達は軒並み床やらソファやらタンスと天井の間やらに横たわって眠りについた。
足の踏み場もない部屋の中を何とか抜け出して、葵は廊下に出た。
空を遊泳しているドーラ号は外の風を受けられる場所などない。でも熱気に溢れた密室から出た廊下は、いつもより少し肌寒く爽やかだった。
死屍累々の部屋からリーダが出てきた。
大勢から水のように酒を注がれていたように見えたが、いつも通りの白くて明るい表情だ。
夜空に溶け込むために明かりを落とした廊下の中でも、彼は広い窓から月や星の光を浴びて存在感を放っている。黒い髪の葵は彼に比べてお化けのようだろうと、葵は発光するような金髪を眺めながらぼんやり思った。
「リネが桜を気に入って良かったな」
「うん」
「桜が良い子だからだ。礼儀正しいし、素直で、曲がっていない」
「そうだね」
「葵に似ている」
彼の言葉の一つも自分に当てはまっていないところを見るに、冗談だろう。
葵はリーダの肩をぱしんと叩いてからかいを責めたが、笑みは隠しきれなかった。リーダも「本音だぞ」とふざけた調子でその手を受けた。
「あの国で日本人がテロを起こしたというのはコーラの嘘だ。桜のご両親は桜を一目見て気に入ったのだろうコーラの指示で襲われた。倒れているところを救出されて、父親の方は、助からなかったが、母親は一命を取り留めて、意識も戻ったそうだ」
「本当?! そう、お母様だけでも、そうなの。桜ちゃんはすっかりご両親とも亡くなったと思っていたみたい」
月の光を返すシャンパングラスを眺めながら落ち着いた興子で喋るリーダの言葉を、葵はすっかり信じて受け取った。
ここに来た時よりは確かに、素直だ。怪我した狐のようだとかにゃんに揶揄されていた頃は神経が敏感になっていただけで、葵も実は素直で曲がっていない本性があるのかもしれない。
「桜を、母親の元に返すが」
「うん!」
リーダは窓の傍に付いている細い手摺りにバランス良くグラスを置いて、夜空を見るのを止めて葵に向き直った。
それを見た葵も、それは直にリーダに向き合った。
「その方法については、葵は追求するな」
「ん?」
「桜は日本に帰すが、葵は帰せない」
ぶっちゃけ、自分が帰ることなんて脳からすっかり抜けていた―――
暑い国のデパートで皆とはぐれた時、短時間だが皆を探しまわった。その時も、彼らから逃げることを、ほんの短時間だけど、忘れていた。そのことをリーダの言葉で思い出した。
(そう、そうよね。そりゃそうだ。桜を帰せるなら、私だって帰せるはずだ)
すごく昔のことに思えるけれど、かにゃんと仲良くなったばかりの頃だったか、彼女は「日本に帰すのはちょっと無理」と言っていた。あれを葵は、自分たちのアジトやメンバーを知られているからとか、帰す方法が足が付くからだとか、そういう犯罪者らしい理由があるのだろうと思っていた。
でも、桜をあっさり帰せると言うことは………。
「リネの為に帰せないって意味だったのね」
「いや、細々とした理由がたくさんあってだな」
葵の瞳からすんっとプラスの感情が抜けていったのを、リーダはきちんと認知していた。
リーダは、葵の心にはもちろん日本に帰りたいという感情が一番にあって、あわよくば桜と一緒に逃げ出してやろうと考えているに違いないと、そう予測していた。しかしリーダが思う以上に葵が桜のことを我が身を差し置いて想っていると今になって把握して、自分の悪手をこっそり嘆いた。
しかしもう作戦を変更できない。
話すまでに、リーダはこの船の船長として、葵の友人としてよりもリネの兄貴分として、腹を括ってこの場に臨んだのだ。
「とにかく、桜の帰り道についての詮索は無用だ。もししたら、身の安全は保証できないと承知してくれ」
「私を脅すのね」
「そうだ。言っておくが、身の女全というのは、葵の身のことじゃない」
あんまりなことに手摺りを掴む手に力が込められていくのが、葵はありありと分かった。
理解の早さにリーダも気付いていた。
もう殴るのでも蹴るのでも刺すのでも何でもこいと思っていた。それだけのことを言っている。
「桜の身元も、住所も、彼女の身内の情報も全部持っている。忘れてくれるな」
葵は手を伸ばしてリーダの飲みかけのグラスを掴んで叩き付けた。
中身ではなくてグラスを叩き付けた。
夜空の淡い光を受ける白くて綺麗な顔にありったけの力を込めて。
グラスは想像よりずっと強くて割れることなくリーダの鼻にがつんと当たって、廊下の床にころころと転がった。
「お気遣いなく。もう一生忘れませんから」
桜ちゃんのことも、お前らが犯罪集団だってこともな!!
と、心の中で絶叫して、葵はその場を大股で立ち去った。
コーラと対峙している時もよぎったが、葵がこの船の仲間になってくれたら心強い。
人並み以上に頭の回転はいいし、人好きする見た目をしているし、仲間思いで、おまけに気が強くて口が回る。
でも、その縁を遠ざけてしまったようだ。
リーダは自分の行為を反省はしなかったが、少し後悔した。
「自分が悪者になれば丸く収まる考え方。かにゃんが今のを見たらグラスじゃなくてヒールが飛んできた。そっちの方がエルロイは見たかった」
いつの間にか部屋の扉がほんの少しだけ開いて、その間から真っ黒なエルロイが細い目を覗かせていた。
「もっと良い方法があったか? 詮索されてリネを責めたりする前に手を打っただけだ」
「一番早い方法ではあったけど、一番良い方法ではなかったかもね」
そう言ってエルロイは扉をバタンと閉じた。
びしょびしょになった金髪を掻き上げながら、リーダは重い溜息を吐いたのだった。
春の日差しが登り始めた雪山に、再び冬が来た。




