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砂の選択5

 ハーメドは朝から元気が良かった。

 いつも明るく快活だが、午前中は執務がほとんどないと言って葵につきまとった。どの部屋にも好きに入って良いと言ったのに、遠慮して召使い(ネチェル)が良しとした場所しか入らなかったと聞いて、今日は城の部屋という部屋を片っ端から開けて回った。

 中では人々が深刻な顔をつきあわせていたり、明らかに誰かのブライベートな都屋だったり、椅子で疲れ切って眠っている人がいたり、見てはいけないものを見ている罪悪感に駆られるツアーだった。


「あの、塔は、どうなんですか」

「塔か。入ってみたいのか?」

「えーと、目立つから、気になるなあって」


 もう既に一つの塔には入っているとは口が裂けても言えない。

 目を泳がせながら指を絡める葵の肩を、ハーメドはがっと引き寄せて顔を寄せた。


「妻になれば入れてやる」

「はっ?!」

「ははは、王の妻や恋人のための居室なのだ。あれらは私の恋人の為に建てた塔で、彼女たちしか入れない。悪いな」


 もう別れ、死別した彼女たちの分は壊しても良いのだが、邪魔でもないし残しているのだという。

 前王の妻たちのものもあるため、数が多いのだと。

 肌が触れあうほど近付いた彼からは南国の甘い果実の匂いがした。


「肌の色は少し違うが、髪の色は同じだな」


 ハーメドは至近距難からまじまじと葵を見つめた。目の色も、と眼球に指が近付いてきた時は思わずー歩遠ざかってしまったが、彼は肩を抱いていた腕でそれを引き留めて、愉快そうに笑った。


「お前との子は普通だろうな。せめて金髪であるとか、黒人であるとか、そうであれば娶りたかったのだが、仕方ないな」

「自分とは違う方が好きなのですか」

「うむ! 自分とは違う方が楽しいだろう。お前は話もよく聞くし、礼儀もなっているし、中身はなあ、完壁なんだがなあ」


 はあ―――と溜息を吐く男が、少しコミカルなのにどこか空恐ろしく、葵は今すぐこの場から消えてしまいたかった。


「牢屋に、背の高い坊主顔がいるだろう」


 驚いて、声も出なかった。

 何故マーロの話が今、ここで出てくるのか分かりようもない。


「あれは、男か? 女か?」

「男性だと思います」

「本当に?」

「………たぶん。裸身を見たわけではありませんけれど」


 細身で、輪郭は柔らかく、声は高い。しかし胸は葵より平らだし2メートルはあろうかというほどの背の高さ。

 葵は男性と認識していた。


「あれは、珍しい見た目をしているな」

「あ―――なたの、4番目の恋人は、」


 彼と同じ種族の方だったのではないですか。子供まで産ませて。何故居なかったことにしているのですか。


 口を突いて出そうになった言葉を、後頭部を襲った痛みが止めた。

 突然の衝撃に驚いて後ろを向いたが、その先は青葉萌ゆる中庭で、蛍光色に彩られた鳥以外は人影もない。ただ挨一つないつるつるの廊下を、小さな石がてんてんと跳ねていっただけだった。しかし葵は口を喋んだ。この得体の知れない違和感に、足を踏み入れてはいけないと咎められたのだ、と信じた。


 そして、日本への郷愁にただ浸り、目を瞑り、体を預けるだけではいけない気がした。

 これは、信用に値しない腕だ。




 この国は小さいけれど、あの船ほどではない。

 ハーメドは暑苦しくて構いたがりだけど、弟を自称する意味不明な男ほど鬱陶しくはない。

 食べ物は辛いけれど、………うん、辛いけれど…。

 私よりもたくさんの人と知り合える。日本に帰れるというのも、本当かもしれない。


 でも、子供はどうなったんだろう? 

 何故マーロに興味が湧いたんだろう。

 キィはどのようにして彼の手に渡ったんだろう。

 4番目の恋人が、キィを弾かなかったのは何故だろう。


 胸を塞ぎのしかかってくるような奇妙な違和感を一生抱いて、この国を善し様に褒め称えて、ぬくぬくとした生活を送れるだろうか。


(あのキィを、マーロに見せてあげたい)


 何故かそんな欲求が全身を満たして、あれを渡さなければなるまいと言う使命感が湧いてきた。

 あの弦も、マーロの手元に返るべき物であると確信していた。


(船に帰―――、戻ろう)


 葵は夜になったら、楽器室からキィを持ち出して牢屋に向かうと心に決めた。

 窓に向かい、雲一つない晴天に向かって握りしめたリストバンドを掲げると、「田中さん、無念を晴らしますよ」と宣言した。

 すると窓の外側、上方から黒い包帯のような物をぐるぐるに巻き付けた細い腕がびゅんっと飛び出してきて、葵の顔を平手でぺしっと叩いた。鼻の頭を潰されて電流が走るような小さな衝撃が骨に響く。驚いて窓から身を乗り出して上を見上げてみると、一つ上に位置する窓から手だけがひらひらと覗いていた。


「わーではないと言ったでしょ。聞いてなかったの? 耳に香辛料でも詰まったわけ? 馬でも人間と 幽霊の区別くらい付くんだけど」

「た、田中さんですか」

「大体、無念てなんだし」

「あなたの遺した弦をあるべき場所に戻せば供養になるかなと…」

「はあ~、それほとんどわーがやってあげたんじゃん。あんたなんて持ち運んだだけじゃん, 馬じゃん」


 失礼な物言いと空に舞う黒い手に呆気にとられていると、手がふと人差し指を立てて、左の方を指さした。


「東の方にある小さな東屋も、楽しいところだよ」

「東屋…って、庭にあるベンチしかない小さな建物のことですか?」

「それそれ。いくつか立っているけど、一つだけ壁がある東屋がある。帰る前に行くと良いよ」


 そう言うと、手は葵に向かって親指を立て、甲をこちらに向けて、そのあと狐を作って小刻みに動かした。笑っているようだ。

 狐を作る前の動きは何だろうと不思議に思い、問いかけてみると、馬鹿にしたように鼻で笑って、手は上階の部屋に引っ込んでいった。それっきり名前を呼んでもうんともすんとも言わなくなったので、葵も部屋に戻った。


 庭に行ってみよう。

 もう太陽はオレンジ色に街を染めようというところまで降りている。堂々とこの城を出歩けるのも間もなくかもしれない。




 日中は部屋に置きっ放しにしていたリストバンドを、持って行くことに決めた。

 明るい色の大きな花が取り取りに飾る庭には、柱と屋根だけの簡素な東屋がぽつぽつと建っている。

 あの手が指さしていた方向を思い出して広い道を歩いて行ってみると、確かに一つだけ、壁面のある東屋があった。


「そちらに何のご用で?」


 後ろを付いてきていた召使い(ネチェル)のシャフィーカが後ろから声をかけてきた。


「そちらの東屋では庭をご覧頂けませんので、あちらにしたらどうでしょう」

「いえ、ちょっとあそこが気になって」

「壁を作ってしまったので、風通しが悪く、中はとても暑いですよ」


 シャフィーカは遠くに見える別の東屋を指さして誘ったが、葵はそれを無視して壁のある方へ歩みを進めた。

 人が一人ようやく通れるだけの小さな穴が出入り口のようだ。扉は付いていない。城と同じく明かりといったものはなく、太陽が燦々と輝く昼間にも関わらず、中は薄らと暗かった。どこか苦いような匂いが漂ってきて、空気は沈んでいて重苦しい。地面は土そのままだが、草は一本も生えていない。踏むとちょっと沈むような柔らかさがある。ベンチにはからからに枯れた葉っぱや花びらが散らばっている。中央に置かれている小さな円卓には、部屋を唯一彩る赤い花が一輪横たえてあった。


「ここはあまり掃除をしておらず…。申し訳ありません」


 シャフィーカが膝を付いてベンチに散らばった塵を手で払い始めるので、葵は慌ててそれを制止した。

 ここだけあまりにも空気が違う。


(何故ここが楽しいと評したのだろう…)


 田中の言っていたことを思い返し、奥まで踏み込んでみたが特にめぼしいものはなかった。

 机に置かれた花もあらゆる角度から眺めてみたが異常はない。敢えて言うなら、落ちている花びらたちに比べて瑞々しいだけだ。


「もう出ましょうよ、葵様」


 普段はあまり口をきかないシャフィーカが東屋の外から度々声かけしてくる。


「この花は誰かが置いたのかしら」

「ネチェルの一部が、置いて行っているんです」

「この部屋が寂しいからですか?」

「もう良いでしょう。王子が夕飯の誘いにお部屋にいらっしゃるお時間になろうかとしています。戻りませんと」


 花を手に持って茎を指でつまみ、くるくると花を回してみた。甘い蜜の香りが漂ってくる。まだ摘まれて間もない。

 その向こうでこちらを覗き込んでくるシャフィーカは、いつもの無表情が崩れて怯えたような様子だ。薄いベールの下の唇がわなわなと震えている。


「シャフィーカさんはここが怖いのですか?」

「…ここ、怖い噂があるんです」

「え? どんなどんな?」


 葵は花を胸元に寄せて声を上げた。とっても興味探い。

 シャフィーカは少し目を彷徨かせたあと、一歩だけ東屋に踏み込んで庭から姿を隠すと、小さな声で話し始めた。


「王子には恋人との間にお子さんが一人いらっしゃったのですが」

「四番目の方ね」


 マーロの同族の人だ。


「ご存知なのですね。そのお子様が、こちらでお亡くなりになったと言われておりまして…」

「えっ、こんなところで?」


 およそ王族の身内を看取るに相応しくない寂れたところだ。それともここで団欒でもしている最中に、突如命を失ってしまったのだろうか。


「ええ、私たちもそれはとても不思議で…。それ以来、ここで過ごした人は死んでしまうって噂があるんです」

「まさか」

「でも現に、この東屋に向かってから姿を見なくなった何人かのネチェルや神官(セヘジュ)が、そのあと亡くなったり、不幸があって家に帰ったり、そんな報告がされるんです。こんな平和な国で、こんなにも恐ろしい話は滅多に聞かないので、私たちはみんな立ち寄らなくなりました。この花は、せめてもの供養に誰かが置いているのでしょう」


 手に持った花をもう一度眺めてみた。天井からベンチの下の隅まで、目を滑らせてみた。何の変哲もない、ただの小さな建物に思える。

 話し終えるとシャフィーカはそそくさと室内から出て行った。そしてもう一度葵を呼び、戻るよう促した。

 これ以上、興味深いことも面白いこともなさそうだ。葵は花を机に置いて、部屋を出ようと机を迂回するように体を滑らせた。


 くんっ、と、足を引かれた。


 足首をぐるりと掴む指の感触がある。恐ろしさを感じるより早く目がそちらを向いた。土から手が生えていた。黒い包帯をぐるぐるに巻き付けた細い手。


「どっ、どわああ!」

「葵様?!」


 手は力を込めて葵を土中に誘うように下へ引っ張った。

 驚いた葵はすぐ傍にあった机に手を突き抵抗する。するとぐっと机が下に下がり、カチッと機械音がして、地面が中央に向かって吸い込まれるように斜めになっていった。

 シャフィーカが入り口から手を伸ばしてきたが、掴み取ることが出来ず、葵は土と共に下へ下へと落ちていった。


 ***


 ぱしゃり、と顔に水がかかる感覚に、意識が浮上した。


 真っ暗闇に光が登っている。自分の胸が輝いている。と、思いきや、リーダのリストバンドが横たわる自分の胸の上に置かれているだけだった。起き上がると昔もなく地面に落ちた。手を付いた感覚で、ここが土の上だとすぐに分かった。土はじんわり湿っていて、爪に入り込んでくる滑りが葵の気分を害す。手を軽くぱっぱっと払って、光を持ち上げて辺りを照らしてみた。

 すぐ隣の水が張られた小さな井戸のようなものから、黒い包帯を巻いた手が飛び出している。


「きゃあああ!!」

「はん、可愛い声で叫ぶということは余裕が戻ったみたいだね。さっきの、ふふ、どわーだって。いつまでぐーすか寝ているつもりだったの? カバ女」


 もはや声色よりも辛殊な物言いに覚えがあった。

 田中だ。手と声だけの妖怪だ。

 葵はすぐに近付いて水の底を見てみたが、床坂にぼっかり穴が空いていて、そこから手がにょっきり生えているだけで、その先は見えなかった。手の先があるとしたらどういう体制でどういう状況なのか。葵はとりあえず飛び出している部分に水をばしゃばしゃかけてみた。


「何すんのさ! 水浴びは必要ないの! カバとは違って!」

「カバじゃないです!」

「ははっ、じゃあ逆立ちしてみなよ。そしたらカバ呼びは止めてあげる」

「バカ呼びするんでしょう」

「ヘーえ、二文字の回文が出来るなんて賢いカバじゃん」


 面白くなくなってこちらを指さす手の甲を強く摘まんでみた。腕ごと左右に暴れるものだから、水が飛び出てスカートの裾が濡れてしまったが、振り解かれるまで続けた。ぽつんと残った赤い爪痕に満足すると、葵はふーっと息をついて落ちていたリストバンドを拾うと腕に付け直した。

 振り向いてみると腕は消えていた。

 天井はとても高い位置にあるようだ。もしあそこが開いて落ちてきたのだとしたら、よく無事だったものだ。葵は体を見回してみたが、特段の変化や異常は見られなかった。自身の頑丈さを親に感謝。


「さあ、あちらだ」


 腕に付けたリストバンドがぐるんっと回り、前方を照らした。

 暗がりで見えなかったが、石の台のようなものが見える。近付いてみるとその上はいつかの塔で見たように赤黒いシミが出来ていた。

 水風船を落として割ってしまった時のような大きな水しぶきの後がある。


「なにこれぇ…」


 スプラッタ映画は嫌いな葵でも、これが血の後以外に思いつけるものは何もなかった。

 泥団子で雪合戦でもしたのだと小さく言い聞かせたが、「馬鹿じゃないの」という虚空に浮かぶ声に現実に引き戻された。


「普通の赤ん坊だったけど、その子がもう一度子供を産めば隔世遺伝であの珍しい一族の見た目の子供が出来るのではと期待した」

「マーロの…、緑蛇の一族の方のことですか?」

「だからここで大きくなるのを待ったけど、短気な王子様は待ちきれずに二歳にも満たない子に己を突き立てて、小さな子は死んでしまった」

「ええ…、待って待って、ハーメドの話ですか? 嘘でしょう」


 あんまりの話に、驚愕よりも先に疑念が湧いてくる。そんなことをする人間が存在するとはとても信じられない。葵は平和な世界で生きてきて、不幸で残酷な出来事は、実際の人物よりも悪意に満ちた人物は、物語の中ですら滅多に出会わない人生だったのだ。

 それに、つい数時間前まで共に行動していた男が、そんな恐ろしいことをする人物だったと、理解したくない。


「別に信じなくても良いけど。ふん」


 声は拗ねたように遠ざかっていった。先ほどまでつい隣から聞こえていたはずなのに、いつの間にか耳を澄まさなければ聞こえないほど距離を取られていたようだ。

 しかし葵はとても先に進めなかった。足が震えて、目の前の黒く変色したシミから目が離せない。


「何しているの、こちらだよ」

「ど、どこに向かっているの)

「持ち主のところに」


 葵の思考能力は凍結していて、声が何を言っているかすぐには理解できなかった。しかし無意識のうちに指がリストバンドを撫でているのを自覚すると、「そういえば田中さんはこれだった」と思い出した。


「なるほど、リーダのところに」

「そう。わーの持ち主のところに」

「田中さんはリーダの仲間だったのですね」


 彼の忠実な道具だったのだと思うと、物のくせに持ち主のところに帰りたいと願うなんていじらしい、と葵は急に腕のものが愛おしくなって、三本の指で優しく撫でた。


「一人称がわーのところもお可愛らしい。北海道で生産されたのですか」

「何言ってんの? さっさと行くよ」


 行く道を照らしていた淡い光が、急に鋭い光線となってこちらを向いた。

 唐突な眩しさに襲われた葵は「うわー」と叫んで手で覆って隠したが、けたけたとした笑い声が聞こえたのが妙に悔しくてすぐに手を下ろして視界から遠ざけた。

 光がまた先を示したので、足を向けようとも思ったが、ふとその足が止まった。

 リストバンドが急かすように左右に揺れて辺りをめちゃめちゃに照らし出す。


「わ、私、明日には」

「なに?」


 田中の話を聞いて、ハーメドへの違和感が疑惑に変わっていたが、ドーラ号に帰ることを決意したわけではない。

 まだどうしたらいいのか、思考も足踏みをしていた。


「…明日には日本に帰れると約束を」

「はああ? なにそれ」


 朝らかに馬鹿にされた声にも反応を返せなかった。わけもなくリストバンドの留め具を付けたり外したりしている姿を見たのか、大きな溜息の後に出た声は今までとは打って変わってどっしりと低い、重たい男の声だった。


「信じているなんて滑稽な女」


 ちっとも愉快そうではない無表情な声。言葉の切り方や語尾の跳ね方が、その声の質が、どこかハーメドに似ている。


「珍しい女が好きなんだ。喜ばせて塔に連れて行かれたらどんな顔をするか、楽しみで仕方がない」

「でも私の外見では珍しい子供は産まれないって」

「子供を産むだけが女の使い道ではないからな」


 嫌な言い方に不快感が募った。しかし、それは田中に対するものではなく、この国の王子へのものだった。

 ハーメドはそう思っている、ということをまざまざと言葉にされて聞かされた。それは疑いようもない事実に思えた。


「それでも、ドーラ号に入る頭のおかしい自称第よりは―――」

「マーロの友達の子供をレイプして殺した男の方がマシなんだ」


 元通りに高く戻った声は、鋭く葵の胸を突いた。

 もうそれ以上言葉は出てこず、葵は光の方へゆっくりと歩き出した。




「いえ、駄目だわ。ちょっと待って」


 恐ろしい出来事の痕を残す部屋を出て、入り組んだ地下道を会話もなく進んでいた歩みを、葵がばたりと止めた。


「なに、悪い男が好きなタイプ? わーはそういう女は嫌い。死んで」

「弦を持ってない」

「は?」

「弦を…部屋に置いてきちゃった」

「はあああああ?」


 遠く光の向こう側に居た声がぎゅんっと近付いていた。


「大事なものは身につけておけってあれほど言ってあるでしょ!」

「あなたに言われたことは一切ありません!」

「世界のじょーしきでしょうが!」

「だって、まさか庭に行ってそのまま逃げ出すなんて思わなかったんだもん!」

「もんじゃねーよ、カバ女!」


 しばらくぎゃんぎゃんと言い合っていたが、ついに田中は長―――い溜息を吐いて、取りに戻ろうと提案した。


「あのぉ、キィも持って行きたいのですが」


 光が今まで進んでいたのとはまるで別の道に誘導し始めたが、葵は進まずに、指を絡めたり重ねたり、遊ばせながら、遠慮を込めてそう言った。


「却下」

「お願いします」

「やだね」

「どうか」

「何でさ」

「マーロにあれを見せないといけない気がして」

「弦が一本あればマーロが元々持っているキィが直るからもう一体はいらないに決まってる」

「でも、マーロの友達のものですし、ここに元の持ち主が居ない以上、マーロの手元にあるのが正しいと」

「ふん。そんな大荷物抱えて満足に逃げられないくせに。大体、今から人目を忍んで行動するんだよ。分かってるの?」


 きょとん、としている葵に向かって、また大きな溜息が聞こえた。

 なんだかその息が目前に降ってきて前髪を揺らしたような気がする。


「東屋の下に落ちたことはもう王子の知るところとなっている。血みどろの地下室がお前に見つかったんだから、捕まえようと探し回っている。追っ手に見つからないようにわーが先導してあげているから今までは平和に進めてこれた。おわかり?」


 血の気がなくなっていくのがありありと分かった。

 あの赤黒いシミを見て別に不自然なことは思いつきませんでした、としらばっくれることはできないだろう。


「部屋に戻るのだってリスキーなんだよ」


 泣きそうになるのをぐっと堪えて、葵は頷いた。

 自分が今どれだけの状況に居るのか、まるで現実味がないのに、緊張感が全身を覆っている。


 それから暗い道をぐるぐると廻って、上方に空いた穴を飛び出た先は庭だった。もう空は真っ暗で月と星が夜闇に光っている。

 すぐ横の壁にロープが下がっていて、上がってみると自分が過ごしていた客間だった。ロープを頼りに自分の腕に全身をかける縄上りは初めての体験で、2階ほどの高さしかなかったが葵はむう疲れ切っていた。肩で息をする葵を見て、小さな悲鳴が聞こえた。

 シャフィーカがパーテーションの裏から飛び出してきたのが見えて、葵は慣てて静かにと指で示した。


「葵様、お探ししておりました。王子も心配しております」

「シャフィーカさん、すみません。私はもう行きます。本当にごめんなさい」


 葵はソファーに立てかけておいた弦を手に取ると、シャフィーカに駆け寄って挨拶をし、少し迷った後に地下で見たことを話した。

 床下から小さく咎める声が聞こえたが、酸欠の頭で彼女に言わなければならないという使命感があった。


「とても信じられません。王子の御子は、生育不足で亡くなったと」

「私は王子に身を預けて日本に帰すという言葉を信じ続けることは出来ません。ごめんなさい、シャフィーカさん」

「いいえ、いいえ、いいんです。私は…」


 シャフィーカは褐色の手を胸元で重ねて、顔を伏せた。

 長く黒く重たい睫毛が黒い瞳と重なって彼女の魅力を強調していた。


「私は四番目の奥様が好きでした。王子が彼女を殺めたことを、とても許せません」

「えっ、王子が殺したんですか」

「いいえ、分かりません。でも……ネチェルたちはみんなそう思っています。王子は少し…その、女性の扱いが…」


 後方でぼすんっと重量を持った何かが布に沈む音がした。

 シャフィーカとの会話を中断して振り向いてみるとベッドの上にキィが寝ていた。楽器室で見た、破損のないキィだ。

 近寄って手に持ったところで、また小さな声で「さっさと出て」と聞こえた。

 葵は弦とキィを大事に両手に抱えると、また窓からロープを伝って外に出ることにした。片手に体重をかけて慎重に降りていく姿をシャフィーカが心配そうに見つめている。


「どのような方法でここから出られるのか分かりませんが、どうぞご無事で」

「ありがとう、シャフィーカさん。お世話になりました」


 片腕になったけれど、上がる時よりは幾ばくか降りる方が苦労がなかった。

 土の下の空間にまた潜っていき、腕輪が示す方へ今度は少し足早に進み始めた。

 まだ少しばかり迷いがあった心が、シャフィーカを見て決まった。内輪の人間から見ても、信用のならない人間なのだと。

 先を進んでいた光が急に立ち止まったりこちらに戻ってきたり、葵の足を悩ませる動きをすることが度々起こり始めた。どこからか人の声が聞こえてくる。怒鳴っているような、叫んでいるような、慌てているような、こちらまで焦燥を駆られるような数名の声がする。


「王子の手先だ。こちらに行こう」


 人が通る為とは思えない細い道に体を押し込んだり、物入れと思われる小さな箱に身を潜めたりして声をやり過ごした。


「葵! 貴様、どこに居る! 恩を仇で返すのか」


 たまに聞こえてくる怒声が葵の心臓を叩くようだった。


「もう怖くて歩けません。ハーメドに出会ったら」

「わーが全部見てるから大丈夫。ほら、しっかりしなよね。ぐだぐだしないの。深呼吸深呼吸」


 弱音を吐く度に壁からにゅっと出てくる手が背中をぼふぼふ叩くのが、これがまた少し怖かった。映像的にはオカルトだ。しかしその現象に慰められながら、葵は震える足を叱咤して光の導きに従っていった。


 ***


 天井にくるんと穴を開けてマーク号を一台下ろす。エルロイが上がってきて、入れ替わりに再び空のマーク号を下ろす。次にダンが上がってきて、エルロイを抱えてーつのマーク号に乗るよう指示したが、エルロイは断回拒否した。


「仕方ないわね、私と同じマーク号で帰りましょ」

「ん」


 五人の回収に来たかにゃんの腰に手を回して、エルロイは自分を固定した。

 次のマーク号を下ろしたが一向に上がってこない。逃走に使う時間は最小限であるべきなのはリーダには釈迦に脱法のはずだが、何をしているのやら。この牢屋は天井があまりに高く中は月の光が唯一の照明。下方の状況は上から分かりようもない。


「姉さまが来ていません! 姉さまが来ないなら俺は帰りません!」

「リネ、葵は田中が探してるから。大丈夫だから」

「嫌です! 姉さまが来ないなら大声を上げます! 服をはだけて叫び回ります!」

「僕も葵が戻らないなら戻らない」

「マァーロ」

「ごめんね、リーダ」

「あああ、姉さまあ、姉さまあああ」


 鉄格子に抱きついたまま動かない男を力尽くで引きはがそうとしてみたが、岩のように動かない。体型はほとんどー緒なのに、これが愛の力か、とリーダは現実から目を背けていた。

 隣のマーロもリネを真似て鉄格子に腕を回している。これは何とか出来そうだが、リーダはマーロにめっぽう弱い。


「姉さま、どうして来ないの。どうしてどうしてどうして! この国に残るつもりなの。酷い国なのに! 酷い、酷い、姉さまに酷いことをするに違いないのに! 俺は優しくしたのに! 俺は姉さまの為に何でもしたのに! どうして分かってくれないんだ!」

「リネ、大丈夫。葵は戻ってくるよ」

「マーロは分かってくれるよね?! 姉さまをここに残すべきじゃないって! 引きずってでも連れ帰るべきだって!」

「葵は自分の意志で帰ってくるよ」

「そんなのわかんないじゃん! ま、万が一、お、俺のこと、嫌いってなって、もう帰りたくないってまって、るかも」

「ありえないよ」

「マーロォオオオ」

「よしよし」


 二人が抱き合う光景があまりにレアシーンで、リーダはついその光景を微笑ましく眺めてしまった。

 とうとうしびれを切らしたかにゃんが降りてきて、リーダは安心して二人の回収の助力を依頼したが、彼女まで葵を待つと言い出して、リーダの苦悩は増加するばかり。


 待ち人は未だ、闇の中。

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