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砂の選択4

 明後日には日本へ帰るよう手配されている。

 明日の夜にはリーダたちがここを脱する。


 牢屋まで来て共に逃げようと誘われたが、もし行かなかったらリネが城中を探し回りそうだ。せめて逆だったら、彼らに知られずに帰られたのかもしれないが。


 何はともあれ、葵は今気になっていることをすっきり解決させない内には一生涯もやもやして過ごしてしまうと信じていた。

 朝日と共に今日も元気よく現れたハーメドと食事を共にした後、葵は街に行くことにした。この国の雰団気が気に入ったのでまた見て回りたいと言うと、ハーメドはいたく喜んで葵を見送った。彼が供をするよう召使い(ネチェル)のシャフィーカに命じていたが、頑なに断ってなんとか一人で城を飛び出した。


 朝も早いというのに街は活気があって笑い声が響いている。

 民の中には王子と同道していたことを覚えていた者がいて、葵を温かく迎え入れてくれた。とても都合が良かった。そういった人たちに、王子のことを聞いてみるために監視を逃れてここまで来たんだ。


「この国の王は代々愛に溢れた方々ですよ」


 国の人たちはみんな王や王子のことを好ましく思っているようだった。

 他の国に見向きもせず、ただ自国を守り自国を第一に考える姿勢がありがたいらしい。多くの者たちがこの国を出て行くなんてことを考えたこともないらしいし、他の国の者が入ってくるのを望んでいなかった。規模のでかい孤立集落のようだ、と葵は思った。


「奥様をたくさんお持ちになる」

「あ、一夫多妻なのですか」


 自分の国でも古くは聞いた話だ。珍しいことでもないだろうと話を続けてもらった。


「王族だけね。よその国では正妻だとか妾だとか、奥様に順位を付けるらしいですけど、うちの王様たちはそういったことはなさらないの」

「身分も気になさらないわ」

「特に今のハーメド殿下は心の広い方で、他の国の人も嫁にされることがあるの」

「なんでも、男でも気になさらないって」


 きゃー、と甲高い声を上げて、井戸を囲んでいた女性陣が一斉に沸き立った。

 こうして水回りの仕事をする女性は大抵結婚しているらしいが、もし王族に望まれたら一族総出でお祝いして、今の夫とは別れて王室に入るらしい。とても名誉なことで、むしろ夫としても身に余る喜びに打ち震えるらしい。その話の時ばかりは、葵も苦く笑みを浮かべて話をそらすしかなかった。


「今までの奥様ってどんな方だったんですか?」


 ほとんど関味本位だった。

 あのにっかりとしたハーメドがどんな女性を好きになったのか、友人といつかした恋バナをする程度の心持ちだった。


「綺麗な方ばかり。 一番最初のお嫁さんはうちの国の人だったけど」

「二番目は娼婦をやっていた金髪のお嬢さんをよその国から。あの人は評判が悪かったわね」

「それにこりたのか、その次は小さな男の子だったわ」

「あの子は可愛かったわね。今では確か、召使い(ネセル)になっているはずよ」

「その、一番目と二番目の方は今はどうされてるんですか?」

「一番目の方は、三番目の方が来てしばらくしてから、別れて民に戻って、違う旦那さんを見つけているわ。二番目の方は、いなくなってしまったわね」

「そうね、いなくなってしまったわ。国に帰ったんじゃないかしら」


 若いように見えたが、遍歴はそこそこのものだ。


「その次は―――、ちょっと奇妙な方だったわね」

「そうねえ、あの方。よその国の方らしいけど、それでも私たちとはちょっと違ったわね」

「女性ですか? 男性ですか?」

「女性だと思うの。真っ白なお肌で。でも、背がとっても高くて」

「ええ、ハーメド殿下より高かったわ」

「髪が一本もないの」


 葵は周りの悪色が一気に遠のいて、この井戸周りの女性たち以外世界がなくなってしまうような感覚に陥った。

 自分の知り合いにも、似たような存在が居る。


「あまり外に出たがらない方だったみたいで、国民はほとんどその姿を見たことがないわ」

「連れて帰ってきた時に、ラクダの上で殿下に抱かれていた姿だけね」

「長族で疲れ切ったような顔をされていたわ」

「なんだかどこもかしこも歩速て、手なんて折れてしまいそうだった」

「そ、その方、お名前は」

「なんだったかしら」

「さあ、でも、りょく…りょくだの、村から」

「緑蛇の一族!」

「そう、それだわ。そういった生まれの方だそうよ」


 間違いない、マーロの同族だ。

 リーダは急襲した者たちがそのまま手元に彼らを置いていると言っていた。もし本当にそうだとしたら、ハーメドが―――。


「その方は、今もお城に」

「いいえ、亡くなったそうよ」


 葵は彼女たちの仕事を手伝う為に手にしていた桶をがしょんと足元に落として、砂に埋もれる地面を水浸しにした。


「どうして亡くなってしまったのですか?!」

「ど、どうしたの」

「教えてください!」

「確か子供を身籠られて」

「産んだ後に亡くなってしまったのよ」

「お子さんは?」

「産まれてすぐに、亡くなられたみたい。本当に残念なことね」


 葵はばたばたと城に戻っていった。何かを確かめたいと思ったのだが、どうやって何を確かめたら良いのか、自分でもよく分からなかった。とにかく部屋に戻って、砂漠を見下ろす広い窓に腰掛けると、膝を抱えて頭を整理することにした。


 ―――もし、マーロの知り合いが彼と結婚して子供も作って亡くなっていたとしたら、マーロにとってハーメドは重要な存在だわ。教えてあげた方が良いのかも。

 ―――でも、なんだかハーメドを信じ切れないところがある。彼は緑蛇の一族の方を友達と。そして、キィを聞かせてもらえなかった。愛し合って結婚したなら、聞かせるのではないたろか。

 ―――ハーメドは、マーロの故郷を襲わせた人たちのー味で、キィと一族の方を奪い帰ってきたのかもしれない。


 ぐるぐると廻る思考を止められずに、たまにちょっと声を上げたり壁を叩いたり足をじたばたさせてみたりして悶えていると、ノックがしてシャフィーカが入ってきた。

 彼女は手にしていた布をソファの上に置くと、大きな姿見をバーティションの裏から出してきて、これに着替えるように言ってきた。


「この国の民族衣装です。王子があなたに贈りたいと急速作らせたものです」


 断るのは不自然だろう。

 葵は素直に服を着替えようとしたが、テーブルクロスのような布やじゃらじゃらした装飾の付いたベルトがどこに付けるのか分からず、シャフィーカに手伝ってもらうことになった。人に服を着させられるなんて、着物を着る時くらいだ。どこか気恥ずかしく感じられた。

 鏡に映ったのは宝石のたくさん付いたビキニに巻きスカートを身につけた涼しげな自分で、ここがプールサイドじゃないことを思い出すと場通いなようですぐに脱ぎたくなった。


「胸が、少し空いていますね」

「少し小さめでして」

「サイズを改めておきます。申し訳ありませんでした」


 深々と頭を下げるシャフィーカを必死で起こして、葵はすぐに元の服に戻ろうとしたが、彼女がそれを許さなかった。

 慣れた手つきで背中から紐を調整して胸元をきゅっと引き締めると、「今日はこれでお過ごしください。夕飯は王子と共に」と言って去っていった。

 一抹の不安を抱えて、葵は部屋中をぐるぐると歩き回った。

 

 ―――好色家だ、日本に帰る前に一口食べられるのでは? 

 ―――こんな風に持て成して油断させてリーダたちの情報を聞き出すつもりだろうか? 

 ―――いや、本当に日本に帰った時にこの国をよくってほしいという心積もりかも? 

 ―――いやいや、この国が好きだから、もっと好きになってほしいという買っ直ぐな厚意で贈ってくれたのかも。


 色々考えてみたが、しかし夕飯を断ることは出来ないだろうと結論づけた。もう一度、マーロの顔が見てみたくなった。

 時計のない部屋で、刻々と時間を刻む太陽が、砂漠の山にその姿を少しずつ隠していった。


 ***


「似合う! 似合うな、すごくいい! この生地は私が選んだんだ。この宝石もだ。葵に似合うと思ったんだ」

「あ、ありがとうございます…」


 四角いテーブルでいつも向かい合って食事をとっていたのだが、ハーメドがあまりに強く椅子を叩くので、葵は青ざめながらも恐る恐る彼の隣に腰掛けた。ハーメドは葵を横から改めて観賞すると、「似合うな!」と言って顔を綻ばせた。

 何も知らずに逃ごしていれば、気さくで人の良い王子様という印象だっただろう。

 しかし彼は突如葵の髪をがっとかき上げて、怒ったような表情で見つめ始めた。唐突な接触に葵は反応が行き届かず、彼を見つめたまま固まってしまった。


「おい、ピアスはどうした。渡しただろう」

「葵様はピアスの穴を開けておりませんでしたので、付けられませんでした」


 部屋の奥からシャフィーカが慌てて出てきて、床に跪き、頭を下げてそう言った。


「それなら開ければ良かっただろう!」

「申し訳ありません」


 いつもベールに隠されて表情の見えないシャフィーカの声が震えている。葵は慌てて彼の手を自分の頭から引きはがすと、立ち上がって跪く彼女の傍に駆け寄った。


「わ、私は耳飾りはあまりしないんです。シャフィーカさん、立ってください」

「いえ、王子の前で面を上げるなど」

「ハーメド殿下、せっかくの贈り物なのにすみません。綺麗でした。持ってはいるんです」


 そう言って葵はチェストに置いていたピアスを持って彼に差し出した。

 着替えを手伝ってもらった時に穴のない耳にそのまま刺そうとしてくる彼女を大声を上げて制止して、マジでやめてと懇願したことが悔やまれる。開けるつもりは毛頭ないのだが。


「む、そうか。気に入らなかったのではないのか」

「ええ、とても綺麗です」


 本心ではあったが、そう言わねはばならない圧迫感があった。

 今までの彼からは感じられなかった威圧される空気だ。


「ならば良い」


 ハーメドはもう興味がなさそうに机に向き直った。葵は腰を屈めてシャフィーカの肩に手をかけて起き上がるよう促した。彼女は速やかに奥へと引っ込んでいったが、僅かに見えた目が弱々しく揺らめいていた。


「葵、今日は街に出たのだろう? どうだった。楽しかったか」


 彼の語尾は上がっていなかった。答えは決まり切っていることを葵は確信した。


「ええ、とても。皆さん親切にしてくださって」

「そうだろう、そうだろう! 私が連れ回して宣伝してやったおかけだな!」


 ハーメドは上機嫌に葵の背を叩いた。食べていた海老のようなものの足がうっかり口から飛び出るところだった。


「あなたにはたくさん奥様がいると」

「な、何の話をしてきたんだ。この国のことじゃないのか」


 気まずそうに咳払いをして飲み物を仰ぐ彼を見て、一夫多妻の割には、堂々としているものではないのか、と不思議に思うのと同時に、そういった部分が好ましく思えた。そんな自分を自覚して、葵は彼が目を反らしている内にぶんぶんと頭を振った。


「どれも妻ではない。王にならないと妻は持てない」

「あ、では恋人だったのですか」

「そうだ。どれも別れているし、死別もあった。今は相手はいない」


 死別―――マーロの一族の者だろうか。彼女を失って、子供も亡くして、彼はもしかしたら、酷く傷付いているかもしれない。

 普段の葵だったら、もうここで話を切り上げているところだ、自分が深く突っ込んでいっていい話ではないと。しかし、もっと潜り込まなければいけないと、そういう使命感が心を満たしていた。


「お子さんを亡くしたと、いう話も聞きましたが」

「ん? 子だと?」

「はい。ええっと、四番目の方との間に」

「ああ、あいつか。いや、子は生まれていないな。民の勘違いだろう」


 葵は話を続けようとしたが、メインディッシュを持ったシェフが現れて話の腰はぼっきり折れてしまった。

 それきりハーメドは葵の姿を褒めそやすばかりで話を戻す暇もなく、食べ終わるといつもの調子でずかずかと出て行った。

 彼が出て行くと葵は肌からちくちくと嫌悪感が針を持って刺してくるような気持ちになって、すぐに服を脱いで元通りに着替え直した。

 空はすっかり太陽を失って、昨日より少し欠けた月が遠くの地平線に浮かんでいる。もうこの国は寝る時間だ。

 寝台に腰掛けた葵は、どうしてももう一度マーロに会わなければいけないと思っていた。もう少しだけ時間を置いて、この城がすっかり眠りに落ちたら、昨日のように牢屋に行ってみよう。それまでに話すべきことを考えておこう。そう決めて、葵はまた部屋の中をぐるぐる回り始めた。


 ***


 窓枠に腰掛けて夜空を眺めている内に、うっかり眠っていたらしい。

 ハッと目を覚まして月の位置を確認すると、先はどまでよりちょっと高度を上げていた。

 頃合いと判断した葵は軽く両頼を手で叩いて、リーダから借りたリストバンドを頼りに師屋を出ようと、チェストに手を伸ばした。


 付けられなかったピアスの隣に置いておいたはずのそれが、見当たらなかった。

 焦って薄暗い部屋の中を見渡すと、天井から、随分久しぶりに感じる人工的な光が現れているような気がした。

 目を向けると、天井にリストバンドがこびりついていた。白い石の天井にちかちかと光る赤い円。異物感が光る。


「え、どうして」


 葵が声を上げると同時に、リストバンドは目にもとまらぬスピードで天井を滑り出し、固い音を立てて壁にぶち当たった。

 困惑しつつもその後を追い、その下に辿り着いたところで、今度は左の方へスライドした。次は壁に当たらず、びたりと止まった。

 その下はこの部屋の出入り口だ。

 異物が照らす中、スポットライトを浴びている気分で扉を開けてみると、葵を置いて天井のそれはするりと先に外に出た。今度は廊下の天井から床を照らしている。行き先を照らすその光は、葵が来るのを待っているかのようだ。

 光に導かれるままその下に歩を進めてみると、明かりは右の方へすーっと動き出した。部屋の中に比べてみるとすごくゆっくりとした動きだった。歩くのとほぼ同じくらいだろうか。


(あれは本来リーダのものだし、なくすわけにはいかないよな…)


 奇妙な現象に戸感いながらも、葵はそれを追いかけることにした。

 リストバンドは常に葵の少し前を誘導するように進み、たまにぴたりと止まっては葵に困惑を呼んだ。無視して先に進んでみると、激しく明滅してくるのが、無機物のくせに怒っているかのようだ。


「あの~、君は、なんなの?」


 相手が人間でないことは一日瞭然ではあるが、意思を持った動きに、葵は気になって問いかけてみた。

 明かりは三回ほど点滅すると、長く、短く、短く、長く、短く、短く、長く、短く、短く、付けては消し、付けては消した。そしてまた三回点滅した。

 意味不明だった。

 何かを答えたような動きだったが、意味が分からなかった。


「はあ?」


 リストバンドは明かりの強さを調整できる。

 今までは中くらいの淡さで足元照らしていた光が、急激に強くなってびかーっと光った。暗さに慣れた目を攻撃する光だ。葵はつい「うわー」と声を上げた。


「田中」

「はん?」

「た、な、か」


 どこからか声が聞こえた。耳馴染む言葉だ。自分の知らない単語でなければ、自国に住む誰かの名字のことだろう。


「田中さん」


 リストバンドが明かりを付けたまま天井でくるりと回った。明かりも床を滑って、光の残像が大きな丸を描いたように見えた。

 そうしてまたゆっくりと進み始め、光を消して床に降りてきたかと思うと、地のある庭を進み出し、葵が今まで過ごしていた建物とはちょっと離れた場所へ案内した。


 塔だった。


 街からも見えるし、宮殿の廊下からも見ることが出来る、背の高い丸い屋根の細い塔だ。

 リストバンドは塔の壁をさーっと登っていくと、どこかの窓に入り込んで姿を消した。後を追いたかったが、つるつるに磨かれた石の壁を登る術はない。葵は塔の周りをぐるりと回って入り口を見つけると、戸惑いながらも戸を押し開いた。不法侵入者の気分だ。内部は暗く、螺旋に登る階段が端に設置されていた。中は狭くて、机と暖炉がぽつんとあるだけだった。

 螺旋階段の先から光が差している。上階にリストバンドが床に転がっているのが見えた。もう命を失ったようにぐったりとして明かりも強さを変えない。

 葵はそれを拾い上げて腕にはめると、足元を照らしながら慎重に階段を上へ進み始めた。

 もう目当てのものは戻ってきたのだから、牢屋に向かっても良いはずなのに、何故か上が気になって仕方がなかった。開放的な城に比べて細い窓がーつだけあるこの空間は、ここに来て最初に放り込まれた牢屋に似ている。階段の先も無機質で、物のない部屋だった。階段以外はがらんとしていて何もない。しかし纏う匂いや埃が、人の立ち入らない場所であることを主張している。

 階段はまだ続いていて、葵は何もない2階を通り抜け3階へ。部屋の中央に置かれた大きいベッドの周囲をぐるりと回ってみてから、4階へ。明るかった。他の部屋に比べれば、程度だけれど。天井はとても高く、高いところにある窓は大きく広かった。月がよく見えるが、目の高さには窓がないので、上から差し込む光だけが頼りだ。

 奥に大きなソファが置いてあるだけの部屋。その手前に、絨毯のように黒いシミが広がっていた。

 白い床に月の光が差し込むと、どこか赤く光った。吹き抜けるような高さのある部屋のせいか、どこかひんやりとしていて葵は思わず自分の肩を抱いた。腕の光でソファを照らしてみると、ソファにも赤いシミが滲んでいる。


(これ、血では………)


 ゾッとしてすぐにこの塔を出ようと思った。

 腕に付いているリストバンドも、今になって気味悪く思えた。

 ここに居ることが知れたら八つ裂きにされるような予感がして、葵は階段に足を向かわせた。


 が、後ろからコツンとがした。


 恐ろしいが振り向かずにはいられない。もう幽霊がいるなら姿を見てしまったほうがすっきりする。葵はそういう気性だ。 

 しかしそこには小石がころころと転がっているだけだった。ここは4階だし、窓の位置は頭より高いし、自然に飛んできた石とは思えない、もう一つ、上から石が飛んできた。ソファに当たってころころと弾ける。


「た、田中さん?」


 葵は小さくそう言ってみると、リストバンドがちかちかと光った。


「田中さん、ここでお亡くなりに………」


 頭の中に血みどろで床に伏せる日本人が浮かんできて、葵は思わず手を合わせて目を伏せた。


「違う! ソファの下!」


 その頭目掛けて大量の小石と声が飛んできた。少年のような女性のような、はっきりとした声だ。しかし残響を残さずにすっと消える。腕に点る光を床に滑らせながら、なるべくシミを踏まないようにソファに近付き、その下を覗き込んでみる。


 目が見ていたらどうしよう。

 女の人が倒れてこちらを見ているかも。


 様々な想像が一瞬にして脳を巡り、足はがくがくと震えていた。

 しかし覗き込んだ先は埃の塊が目立つ暗闇で、想像を超えた物は特になかった。


「何もありませんけど」

「ええ、見えないわけ? 嘘でしょ」


 どこからか刺のある声が聞こえてきた。

 葵はリストバンドが発してると信じ、でこぴんしてみたが、特にそれに対して反応はなかった。


「弦が落ちてるでしょ。右の方」


 もう一度覗き込んでみると、確かに右の方に細い糸のような物が落ちていた。拾い上げてみると糸ほども柔軟ではなく、張りのある太さを持った、確かに弦のようなものだった。


「やっと見えたの? どれだけ目ぇ悪いの? つーか光そんな強くする? 忍んでんじゃないの? バレるよ? 馬鹿じゃないの」


 リストバンドの声がどんどん流暢になる。

 投げ捨てたい衝動を抑えて、弦を持ったまま葵は塔を降りた。声はいつまでもグチグチと葵の無能さを責め立てていたが、塔を出る頃には大きな溜息を残して消え去っていた。


 葵は月明かりの下で弦を見てしばらく、楽器室に行くことを思い立った。

 飾られていたキィと並べてみて確信した。これはキィの弦だと。


(でもここにあるキィは4本の弦が揃っているのに、何故あの部屋にキィの弦があったんだろう)


 くるくると指で弦を回しながら、楽器室にあった長埼子に腰掛けて葵は思考を巡らせていた。

 そもそも、あの塔は何だろう。いくつか立っているが、周囲に人の気配を感じられない。


 (マーロの知り合いが、あの塔にいたのかな)


 弦と結びつく人といえば、ハーメドに嫁いできたという人だけだ。

 ぐるぐると考えている内に、ロからあくびが漏れて、葵はこれまでだと思い部屋に戻った。

 本来の日的地である牢屋のことを、すっかり忘れて。


 ***


「ああ~~~姉さま、どうしていらっしゃらないんだろう。途中で見つかってしまったのかな。途中で誰かに襲われたのかな。ああ、僕に会う為に危険を犯して…なんということだ。姉さま、姉さま」

「リーダ、こいつ、笑っている」

「エルロイ、告げロは良くないよ」

「笑っていません! そりゃ、僕に会う為に姉さまが…と思ったらちょっとは嬉しくなりましたけど、それにかこつけて姉さまを傷付ける狼籍者がいたらと思うと、ああ、もう、僕は、ころ、殺します。何かする前に全員殺します。この城の人間は皆殺しだ。姉さまを連れ去ったあの変態男から」

「お、リネ、暴れるか? 暴れる? ファイトしようぜ!」

「お前ら二人ともさっさと寝ろ。明日が脱獄なんだそ。体力を温存しておけ」

「エルロイはダンに抱えられて逃げるのは嫌」

「分かった、分かった。俺が抱えてやる」

「え、リーダ、それじゃあ、僕は?」

「マーロはダンに抱えてもらえ」

「僕は姉さまを抱えて逃げます! 抵抗されても暴れられても…そんなこと絶対にないと思いますけど。ありえませんけど!」

「好きにしろ」


 5人は土にごろんと横になってからも、しばらくぶつぶつと会話をしていた。

 誰からともなく会話が途切れて、ダンのいびきが部屋を満たす頃に、起きているのはリネだけだった。

 いつもすぐ傍にある空が遠く細い穴からしか覗いていないのが、この懐かしい土の匂いが、古い時代を呼び起こしてくる。


「大丈夫、姉さまが連れ出してくれる。姉さまが迎えに来てくれる。姉さまが俺を助けてくれる……」


 細い夜空に月が覗く。

 リネのぶつぶつと小さく続く呟きは、暗い石牢の中に溶けて消えていった。

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