さんにんでおでかけ
就職のお祝いに、父から時計を買ってもらった。
私はアクセサリーの類が嫌いで、腕の上をうろうろされると嫌なのできつめに作ってもらった。
そしたら思いの外、長時間付けるにはぴったりすぎて苦しかった。指先に血が通っていないような感覚に陥って、結局ワンサイズベルトを長くすることとなってしまった。
あれ以来ぶりだ。こんなに腕がぎりぎりと苦しいのは。
「リネ、腕が痛い」
「………はー、……は、………」
返事はなかった。
それなりに都会の街まで連れ降りてもらって、かにゃんとリネと葵で三人、おでかけとなったわけだが、ガラス越しに目映く並ぶ商品たちには目もくれず、両手でがっちりと握りしめた葵の腕をリネはひたすら見つめていた。
葵にとってはもう記憶の隅に追いやられた出来事だが、リネにとって、かつて葵が下の世界に逃げ出したことが、重いトラウマになっている。人波に呑まれる彼女を見ていると、あの時、自分から逃げていった彼女の背中が思い出される。捕まえておかないと、いつまた走り出すか分からない。
「ね、葵、ランチ食べちゃおうよ! 何食べる?」
かにゃんはリネなんて見えてないように上機嫌だ。
いざ出掛けてみたら気分の落ち込んだリネとは正反対に、少し緊張して迎えたこの時を目一杯楽しんでいる。
「普段、船では食べられないものがいいかな」
「そうね! デパートに入ってみましょうよ、何かあるわよ」
ぐいっと前に腕をひかれたかと思うと、すかさず逆方向に引き留められた。
リネが腕をしっかり胸に抱きしめて「行かないで、行かないで」と小さくつぶやき続けている。
「ちょっと、リネ! 邪魔するなら帰りなさいよ」
「嫌だ! 帰りません。帰りませんからね。俺を置いていかないで、離れていったら今度こそ部屋から出さないから、ぜっ、絶対、絶対、もう、あ、ああ、あ、あんな思い、ああ…はあ……」
語尾も荒いし息も荒い。腕に押しつけられた胸からドクドクと鼓動が伝わってくる。リネは葵の腕を抱きしめたままぱったりと動かなくなってしまった。
これはもう駄目だ。
葵はそう思った。船以外の場所に行けて、少しでも自由な気分を満喫できるかと期待したが、やっぱり無理だった。そう確信した時、無意識のうちに重い溜息を吐いていた。
「リネ、ちょっと……」
かにゃんはほんの少ししかない葵とリネの隙間に体をねじ込むと、葵から隠れるようにリネに話しかけた。
(リネ、これが楽しいと思われなかったら、あんたを外出へ誘う葵は見られなくなるのよ。それでもいいわけ?)
(姉さまの逃げる機会を増やすだけだ。間違ってた。デバートなんて行って、トイレに行くとか言って、窓から逃げるんだ。俺からまた、に、に、に、逃げるんだ。そのつもりだ)
(もー、違うわよ。いいの? この外出がうまくいかなかったら、期待した分、叶わなかったら落ち込みようは半端ないわよ。これで帰ったら、リネのせいで楽しめなかったってなるわよ? そしたらあんたのことを嫌いになるかもよ?)
「は?! ふざけないで! 姉さまは俺を嫌ったりしない! 俺を愛してるんだから! 姉さまはそんなことで俺を嫌いに! き、きら、きらったり、そ、そんなわけない…!」
せっかくの秘め事が台無しだ。
葵どころかそこら中の人間に聞こえるようにリネは喚き始めた。
周囲の注目を集める中、彼はかにゃんを押し退けて葵の腕を頼りに引き寄せると、頭をぎりぎりまで近づけて、汗をだらだらに流しながら彼女を見つめた。
「姉さまは、姉さまは俺を嫌ったりしませんよね? 俺を愛してるんだもの」
「瞬きをしろ」
「愛してるって言って!」
「リーネ! この馬鹿! んもー」
かにゃんはリネの両肩を掴んで思いっきり引き戻した。リネはよろけながら二、三歩後ろに下がり、荒い息を整え始めた。
これは協力者をリネよりも葵に移した方が良い。かにゃんはそう考えて、今度はリネに背を向けて葵に身を寄せた。
「葵、ごめんなさいね。リネにこれ以降も外出を阻止されない為には、リネもこの外出を楽しかったと思わせた方が良いと思うの、協力してくれない?」
「そ、そうね。そうしたら、また外出を認めてくれるかもしれないものね」
このおでかけで逃げるつもりは、葵には毛頭なかった。走って逃げ切れる話じゃないと言うことは、前回の逃走事件で重々身にしみた。外出という機会を得た今、何度か素直に船に戻って、安心させた後に、隙を見せてこっそり逃げる方が良い。長期戦になるが、堅実な方を選ぶことにしたのだ。
「何か、リネが喜びそうなことを言うのよ」
「無茶を」
「お姉ちゃんらしくするのよ! 頑張って!」
「無茶な」
かにゃんからのぼんやりとした指示に、葵は必死で考えを巡らせた。
良い姉っていったい何なんだ。自分は末っ子で、弟妹の扱いなんて知らない。
だが、リネから疑いを払拭しなければ、その為には多少の我慢は必要だ。
「あのー… そうね、あの、リネ?」
腕の先でかたかたと細かく震える男に恐る恐る話しかけた。彼はびくりと跳ねた後、真っ青な顔をこちらに向けた。今にも泣き出しそうだ。
彼の向こうに続く広い通り道に、大きな看板が見える。とろりとしたメイプルを吸い込む、ふんわりとした甘みを描いた目をひく看板だ。
「リネ、えっと、私、パンケーキが食べたい」
「ふ、船の、船の食堂のおばさんに頼んで、作ってもらいます。あ、俺が、僕が作ります。船でも食べられますよ。だ、だから、あの、嫌いにならないで。どこかに行かないで」
「リネ、君と、あのテラスでパンケーキを食べてみたい」
葵が指さした先を、リネが振り向いて確認した。
低い花壇で区分されたそこは、可愛い傘がいくつも並び、カップルや家族連れが笑顔でパンケーキをロに運ぶ、映画のワンシーンのうな一角だ。
少し肌寒い外の風を浴びながら、ほかほかのパンケーキと甘さを緩和するコーヒーを堪能する。
同じものを食べていたとしても、家では味わえないお手軽な非日常だ。
「君と食べたい」
葵は心を殺した。
リネの死にかけの心はその息を吹き戻した。
***
「あんたはえらい」
「えっ、姉さまを褒めたいのですか? 僕も褒めたいです! 姉さまには良いところが沢山あります。まずは、とてもお綺麗なところ。それからすごく優しくて、賢くて、」
「ありがとう、かにゃん。もっと褒めて」
「あんたはとてもえらいわ」
三人は円卓を輸になって囲んだ。小さなテーブルで距離は近い。かにゃんはちょっと手を伸ばしただけで簡単に葵の頭を撫でる事が出来た。
運ばれてきたパンケーキはさほど分厚くはないが、生クリームがどっさり乗っていて、ブルーベリーのソースが白い山を彩るように掛かっている。
「わー、可愛い! 美味しそう!」
「わ、思ったよりすごい量だね。でもほんと、美味しそう。いただきます」
「あ、え、えっと、あの、いただきます」
リネは葵を真似して手を合わせると、三人は同時に食べ始めた。
目をきらきらさせたかにゃんは何度も二人に感想を述べて、葵にとっても好ましい時間となった。
「かにゃん、 無理しないで」
「…………甘さが、過ぎる…」
「だから飲み物は甘いものにしない方が良いって言ったのに、姉さまを見習ってコーヒーにするべきだったんだよ」
しばらくしてかにゃんは腹を抱えて沈んでしまった。
生クリームに次ぐ生クリーム。からのホットチョコレート。
あと1枚となったパンケーキを残して、彼女の細い胃袋は満腹を訴えているのだった
「かにゃん、良かったら私も食べてみても良い? 」
確かに量は多かったが、葵はなんとか食べきっていた。もうーロ、冷たくなったコーヒーでロ内を苦く満たせば、甘いものを欲することも出来そうだ。
「ほんと~? 葵。助かるー」
「は?! 駄目です、だめだめ、かにゃんの食いさしなんて。いけません、姉さま。汚いです!」
「なんだと。この野郎」
札の下でかにゃんの足がリネを蹴りつけた。
「他人と食べ物をシェアするなんて」
「はーあ。リネって何も知らないのね。鍋って知ってる? 葵の国では一つの大口にのった食べ物を皆で分け合うのよ」
「俺だって姉さまのことは知ってる! 家族同士の話でしょう。そ、そう、そうだ、俺となら良いけど、かにゃんとは駄目です! 変です!」
「じゃあ、遠慮なく」
「はい、どうぞ」
「わー! わー! 姉さま、いけません! いけません!」
葵はリネの言葉をわざと無視して、かにゃんの皿にフォークを伸ばした。
自分が食べていたのとはちょっびり違う、ほろりととろける味わい。美味しいけれど、やっぱりちょっと舌が飽いたと言っている。
「リネも手伝ってよ」
「は? 何で俺が? 嫌です」
「へ~え~、葵の食いさしは嫌だって」
「は?! そんなこと言ってないです! 姉さまは残してないし、」
「私の食べ残しだったけど、葵が手を付けたからもうの食べ残しよ」
「えっ、そうなるかしら」
「そうよ。酷い弟ね。 お姉ちゃんとは食事を分け合うことが出来ませぇ~ん、ですって」
「そんなこと言ってないです! 姉さまが食べきれないなら、僕が食べてあげます。任せてください!」
リネはかにゃんの前に置かれていた皿を引き寄せると、残っていたパンケーキの欠片にフォークを突き立てた。カンッと高い音が響いて、二人が見つめる中、リネは三ロばかりで平らげて、テーブルの上はすっかり綺麗になった。
「完食ね」
「うん、ごちそうさま」
「あっ、あ、ごちそうさま」
ぐーっと伸びをして、 かにゃんはサービスで出された水を一気に飲み干した。
「洋服を買いに行きましょうよ」
「私、お金を…」
「僕が全部出します。気にせず好きなものを買ってください」
「やったわ。私買ってみたいブランドがあったのよね。入り口にいつも警備員が立ってて、買わないと追い出されそうな店を構えてるところ」
「かにゃんの分は出しませんよ」
「そういうお店は、私には似合わないから」
「そんなことありません! 高員な姉さまにぴったりの服が売っているに違いありません! すぐに行きましょう!」
その後は仰々しい洋服店に三人で入って、かにゃんに勧められるままー着だけリネに服を買ってもらい、かにゃんが同じものを買って、「おそろいね」と笑った途端、リネも同じものを買い始めて、店員に疑いの目を向けられながら立ち去った。リネがマーク号に葵を誘って、素直に応じた時、彼はあまりに安堵して、葵を抱きしめたまましばらく動かなかった。
「船に帰ろう、リネ」
さっさとこの時間を終わらせたいと思った葵の何気ない言葉に、リネは号泣し、葵を巻き込みながら膝から崩れ落ちた。
この光景を途中まで微笑ましく見ていたかにゃんもとうとう飽きが来て、二人をカ尽くで命綱に繋ぐと、二人の乗ったマーク号を引っ張りながら、自分のマーク号を起動させた。
「ああ~姉さまがあ、姉さまがっ、船をお家ってぇ」
「おうちとは言っていない」
「葵、もうあまり刺激しないで。面倒くさい」
先導するかにゃんの背中を彩る空は、抜けるような青色だ。
「甘いものはもううんざり」
白い雲と風で出来た帰路を一人で渡れない者は、お家には帰れない。




