7 お日さま
「お日さまが追いかけてくるよ。ねえ、とーちゃ」
軽トラックの助手席に揺られながら、当時七歳の私は、父に向けてそう言った。
私の父は昔からとにかく面白味のない人で、好奇心旺盛だった私がなにを尋ねても、ぼそぼそとした低い声で、知らん、としか言わないような人だった。そんな父が、私が何気なく発した益体もない質問に対して、こう答えたのだ。
「お日さまは鞠子が好きやけん、追っかけて来よっと」
あれから十年。あの日の私は、夢でも見ていたのだろうか。
* * *
この町で過ごす最後の年越し。
都内の中小企業への就職を決めた私は、あと三日もすると、この地を去ることになる。
冷蔵庫の有りあわせで作った年越し蕎麦をお盆に乗せ、こたつ台まで運んでいく最中、私は無関心かつ曖昧な面持ちをつくった。
テレビから目を離した父は、器の中で水面を揺らすそれを見つめ、なんで白だしじゃなかとね、と嫌みを言う。私は聞こえない振りをしてリモコンを取り、これまた繕ったような口ぶりで、格闘技なんか気持ち悪いわ、と漏らし、父の返事も待たずにチャンネルを変えた。
紅白を観ながら無言で蕎麦をすする。蕎麦には、父の好みである落とし玉子を加えていた。自分に対する、せめてもの抵抗だった。
「初日の出、見に行かんね」
咀嚼音にすら打ち消されてしまいそうなか細い声で、父がそう提案する。私は三〇インチの四角形を、一辺ずつなぞるようにして見ていた。胸の奥がくすぐったい。番組の内容が頭に入らないので、仕方なく、テレビ台のふくろうの置物へと視線を下げた。
ぱっと、深夜に目が覚めてしまった。
部屋着のパーカーのまま、上から厚手の半纏を羽織る。ネイビー色のハイカットスニーカーを履くと、私は恐る恐る表へと出た。
冷気がひりひりと頬を触り、しっとりとした暗影が玄関先を支配していた。
ふと私の足元で、光の玉がゆらゆらと舞う。見ると、ガレージの方で父が懐中電灯を手にして立っていた。父は温かそうなグレーのマフラーをしており、しばらく私に気づかず、片手に息をあてて温めていた。
近づいていくと、彼はその無愛想な顔を向けた。
視線を交わし、逸らしを繰り返す。気づけば、二人して無言で軽トラックの中に収まっていた。父はキーを回す。ぎゅるる、という音を立て、再度キーを差し直す。私は座席の上でお尻の位置を正した。
このトラックのエンジンが一発でかかることは、もうない。
田園地帯で鳴く蛙や虫の音は、東へと突き進む軽トラックによってかき消された。後方に飛んでいく鳴き声を耳に残し、ライトに照らされた車道の一点を見つめる。
あぜ道に入り、真っ暗な山に入ると、堅いシートに当たる尾てい骨が傷んだ。とっさに手すりを握る。黒々とした木々と薄暗い山道が視界にある。ふいに身体が左に揺れ、内扉に腰が当たった。一度咳払いをして、父と同じように、息を殺して口を閉じた。
三〇分ほど進むと、やがて木々が開けた。頂上の高台とおぼしきその場所で、徐々にトラックが速度を緩めた。
父が先に降り、懐中電灯のスイッチを入れた。それに倣って私も軽トラを出る。思ったより寒いので、なるべく手を半纏の袖口に隠すようにして父のあとを追った。
高台には柵すらなく、眠気と車疲れで重くなった体を預けることも出来なかった。あくびをすると、白い蒸気が口から漏れていく。
横目に父をうかがう。父は口を結び、前方を見据えていた。私もつられてそちらを見る。
鬱屈と暗んだ空の彼方。水平線の向こう、一点の光がまたたいた。自然と瞼の重みが消え、私は息を止めてそれを凝視した。
放射状に、ぐんぐんと光点が開いていく。少しずつ、ほのかに、私の生まれ育った町が照らし出されていく。
鼻腔がつんとする。だらしないものが垂れ落ちそうだったので、目を閉じ、荒っぽく鼻を鳴らしてすすった。瞼を閉じていても、光は消えなかった。
すると、私の首になにかが巻かれた。遠い昔に嗅いだような匂いがして、はっとして目を開ける。
首にグレーのマフラーがかかっていた。目を上げると、父が慌てて顔を逸らした。
また、鼻の奥がうずく。下唇が震えた。今度は寒さのせいじゃなかった。瞼から頬にかけて熱を帯び、顔が火照る。目がじんと熱くなった。
私は、父の横顔を見つめて離すことが出来なかった。
「いままで、ありがとうございました」
しだいに明るんでいく初日の出に、あたりが照らされる。
父の口元は笑っていた。
完結です。
最後までありがとうございました。
小岩井豊