舐められたことがない
十文字レンは物心ついたときから誰にも舐められたことがない。
不良にも。
犬にも。
バイト先のクソ上司にも。
別にすごい特技があるわけじゃない。
ただの20歳、無職のフリーターだ。
正確には、無職になりたてのフリーターだ。
シフトを切られた足で寄ったコンビニで、肉まんを1個だけ買った。
贅沢は敵だ。今の自分にとっては。
「何、金?」
コンビニの袋を提げたまま、レンは目の前の男を見た。
「持ってねーよ。時給1,100円のバイトすら先週切られたばっかだっつーの」
男は2人組だった。
片方が黒のパーカー、片方が金髪。
夕方の駐車場、いかにもな配置。フェンス際に立って、退路まで一応塞いである。
真面目だな、と思う。真面目にカツアゲしようとしてるのが逆に間抜けだ。
「兄ちゃん、ちょっと顔貸してよ」
「顔だけ貸すのは無理だろ。物理的に」
「あ?」
金髪の方がレンの肩に手を置こうとして――止まった。
「……あ?」
レンと目が合った瞬間、パーカーの男の顔から表情が消えた。
すっ、と半歩下がる。
「お、おい」
金髪の袖を引く。
「……やっぱいいわ」
2人はそのまま、逃げるように背を向けて去っていった。
小走りで。
振り返りもせずに。
塞いでいたはずのフェンス際を、自分たちで空けて。
残されたレンはしばらく肉まんの袋を見つめていた。
「は?」
なんだったんだよ、今の。
(別に睨んでねーし。飯食ってただけなんだけど)
こういうことは、よくある。
小学生の頃からずっとそうだ。
喧嘩を売られかけて、途中で相手が勝手に引く。
通学路で吠えかかってきたはずの犬が、目が合った瞬間に尻尾を丸めて逃げていったこともある。
上司に理不尽を言われかけて、途中で理不尽の方が萎む。
レン本人は「なんか揉め事に強いタイプ」くらいにしか思っていない。
運がいいだけだと思っている。
肉まんをひと口かじって、レンは歩き出した。
早く帰って寝たい。それだけだった。
◇
「今の、もう1回見せて!」
声がした瞬間、物陰から小型カメラを構えた女が飛び出してきた。
「は? 誰だよ」
レンは反射的に半歩下がる。
女は構わず距離を詰めてくる。
「今の見た!? あの2人、あんたと目が合った瞬間に回れ右したの見た!?」
「いや、見たも何も俺がされた側なんだけど」
「あたし今、配信中でさ」
カメラのランプが赤く点滅している。
(配信。マジか)
レンの声が一段低くなった。
「消して」
「え、待って待って。もったいないって、これ」
「消せって」
女はしぶしぶカメラを下げた。それでも興奮は収まっていない。
「あんた、今の別に凄んでもないのに向こうが勝手に引いたよね?」
まっすぐ聞かれて、レンは一瞬詰まった。
言われてみれば。
あの2人、別に殴りかかってすらいない。
ただ目が合っただけだ。
それだけで、逃げた。
(……いや、待て。それ改めて言われるとちょっと怖くね)
「……べつに、そういうつもりはないんだけど」
「知らねーよ」
「知らねーって」
「昔からそう」
「昔からって、何年前から?」
「知らねーって言ってんだろ」
女がじっとレンを見る。
値踏みするような目だ。
(面倒なやつに目つけられた)
「あたし、雨宮ミオ。迷宮配信やってて」
「迷宮なら知ってる。テレビでたまにやってるやつだろ」
「たまにって、今一番熱いジャンルなんですけど」
「知らねーって」
「知らねーって言ってんだろ」
「登録者90万人」
「へー」
興味なさげに返す。
ミオの片眉がぴくりと上がった。
「その温度、逆に珍しいんだけど」
「悪いか」
「悪くない。むしろ」
ミオがスマホを取り出しながら、にやっと笑う。
「めちゃくちゃ面白いかも、あんた」
「知らねーよ、何が」
「あたしのチャンネル、最近ちょっと伸び悩んでてさ」
「知らねーって」
「大手の企画が来るかどうかの瀬戸際、みたいな時期でさ」
その割に、表情は死んでいない。
むしろ目が輝いている。
(こいつ、絶対にめげないタイプだ)
「昨日もさ、深層で配信者が1人、モンスターに囲まれて半泣きになってる映像上がってたの。あれとあんたの温度差、逆にえぐくない?」
「知らねーって」
「3回目それ」
「そっちがしつこいんだろ」
「日当出すって言っても?」
「……いくら」
「ほら、興味あるじゃん」
「金の話だけ聞いてやる」
「名前くらい教えてよ」
「……十文字レン」
「レンね、了解」
ミオがスマホに何か打ち込んでいる。
名前を検索でもしているのか、それともメモか。
(勝手に何やってんだこいつ)
レンは無視して歩き出した。
これ以上関わると長くなる。経験則だ。
「ちょっと! 連絡先くらい!」
背中に声が飛んでくる。
「知らねーよ」
振り返らずに答えて、そのまま角を曲がった。
◇
帰り道。
誰にも舐められたことがない。
それは事実だ。
でも別に、強いわけじゃない。
ただ、相手が先に引く。
なんでかは知らない。
考えたことはあるが、答えが出たことは一度もない。
だからレンも、深く考えるのをやめた。
考えたところで金にならない。
路地の先、痩せた野良猫が1匹うずくまっていた。
人を見ると逃げる猫のはずだ。
だが、レンが近づいても動かない。
むしろ、すり寄ってきそうな空気さえある。
「……お前もかよ」
猫は答えない。
当たり前だ。
先月のバイト先を思い出す。
倉庫の仕分け作業。理不尽な難癖をつけてきた店長が、言い返す前になぜか先に目を逸らした。
「……いや、まあ、今のは俺も言い過ぎたか」
結局、その3日後に契約を切られたのはレンの方だった。
理不尽で負けたわけじゃないのに、シフトだけは消える。
むしろ今考えるべきは、来週の家賃だ。
(バイト、また探さねーと。家賃3万8,000円、あと10日)
口座の残高は、2,000円を切っている。
見なきゃよかった、と思いながらアプリを閉じる。
ついでに求人アプリも開く。
時給1,100円、倉庫、コンビニ、警備。
どれも似たような文字が並んでいる。
やる気は出ない。
でも背に腹は代えられない。
肉まんはもう半分になっていた。
冷めないうちに食え、と自分に言い聞かせながら歩く。
世間ではここ数年、迷宮とかいう物騒なものがあちこちに湧いているらしい。
テレビでもたまにやっている。
全国で1,000か所以上とか、協会が管理してるとか、格付けがどうとか。
レンには関係のない話だと思っていた。
角を曲がったところで、スマホが震えた。
友達申請。
雨宮ミオ、と表示されている。
「しつこいな」
ぼやきながらも、指は勝手に画面をタップしていた。
既読がついた瞬間、続けてメッセージが届く。
【明日、迷宮行くんだけど、日当1万円出すから付き合ってよ】
レンの足が思わず止まった。
1万円。
(それ、早く言えよ)
「……迷宮?」




