仙洞
門が、軋んで開いた。
蝶番が錆びているらしい。開ききるまでに、若党が三人がかりで押した。
「久しいのう」
北山殿——足利義満は、その軋みを聞きながら、微かに笑った。
世阿弥は、供の末に控えている。何のために猿楽師が召されたのか、この日も告げられていない。ただ「供を」とだけ言われた。それがこの数か月、幾度もあった。
門の内は、庭であった。
荒れている、というほどではない。手入れは入っている。だが人の気配だけが、きれいに抜けていた。池には水が張られ、松は形を整えられ、砂は掃かれている。掃かれた砂に、足跡がひとつもない。
仙洞御所である。
上皇のおわす御所を、そう呼ぶ。
そしてこの時、この国に、上皇はいなかった。
最後にこの御所の主であったのは、崇光院という。
北朝三代の帝である。この人の生涯を一行で書くのは難しい。即位して三年目、南朝が一時的に京を奪い返したとき、廃位された上に南朝方に拉致された。以後五年、大和の賀名生の山中に幽閉されている。帝であった人が、山奥の里で見張られて暮らしたのである。ようやく帰されたときには、玉座には弟の子が座っていた。
以後四十年、崇光院はこの仙洞に住み、おのれの子孫を皇位に戻すことだけを望みつづけて、応永五年に世を去った。望みは、生涯かなわなかった。
その崇光院の血筋を、世は伏見宮と呼ぶ。
筆者は、ここで一つだけ先の話をしておかねばならない。この伏見宮家から、のちに帝が出る。この物語の時点から数えて三十数年のちのことであり、そのときこの国がどれほど奇怪な行き詰まり方をしているかは、追って書く。
ともあれ、崇光院が没して十年。この御所は、主のないまま、手入れだけを続けられてきた。誰かがいつか入るために、掃かれ続けてきた空き家であった。
「世阿」
義満が、簀子に立って呼んだ。
「ここで舞ってみよ」
「……ただ今、にございますか」
「うむ。誰もおらぬ。ちょうどよい」
世阿弥は困った。装束もなく、囃子もない。だが北山殿は待っている。
やむなく、扇だけを取り、庭の白砂に降りた。
謡わずに、舞った。声を出せば、この静けさが壊れる気がした。足を運び、扇を返し、袖を上げる。掃かれた砂に、初めて足跡がついた。
舞い終えたとき、義満は簀子に腰を下ろし、庭を見ていた。
「よい。……よい庭じゃ。誰も使うておらぬ」
そして、こう言った。
「もったいないのう」
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治天の君、という言葉を、もう一度説明しておかねばならない。
この国では、古来、帝が政を執るとは限らなかった。むしろ執らぬのが常であった。
白河院という人がいる。八歳の子に位を譲り、以後四十三年にわたって、三代の帝の上に君臨した。この人が晩年、天下に意のままにならぬものは三つある、と言ったという。賀茂川の水、双六の賽、そして山法師——鴨川の氾濫と、賽の目と、比叡山の坊主。裏を返せば、それ以外はすべて意のままであったということである。位を降りた男が、である。
なぜ、降りたほうが強いのか。
玉座が、動けぬからである。
帝には日ごとの祭祀があり、月ごとの節会があり、年ごとの神事がある。夜明け前に起きて拝み、装束を改め、先例を確かめ、また拝む。内裏の門を出るだけで、何十人もの手続きが要る。あれは政をする座ではない。祈る座である。
祈る者を、動ける者が後ろから使う。それがこの国の王権の形であった。白河も、鳥羽も、後白河も、後鳥羽も、みなそうやって王であった。
だから、治天の君の御座所は、内裏ではない。仙洞である。
義満が、この日、空き家の門を開けさせたことの意味を、供の公卿たちは全員が理解していた。理解して、誰も口に出さなかった。
御所の修理を命ずる、と義満は言った。
檜皮を葺き替え、簀子を打ち直し、殿舎を建て増す。費えは幕府が持つ。
「主が入るゆえな」
その一言だけで、都はふるえた。
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内裏では、そのころ、後小松天皇が三十二歳になっていた。
この人の生涯は、気の毒というほかない。
物心ついたときから、義満がいた。元服の儀を差配したのも、行幸の日取りを決めるのも、内裏の修理費を出すのも、すべてあの武家であった。父・後円融は、その男に王権を吸い上げられてゆく屈辱に耐えかね、酒に溺れ、女に当たり散らし、自害するといって騒いで果てた。
その父を見て育った。
だから後小松は、争わぬことを覚えた。義満の妻を母と仰げと言われれば仰いだ。義満の子を親王の例で元服させよと言われれば、そのように詔を下した。逆らわぬかぎり、この身は安全である。父のようにはならぬ。
そう思って、二十年を生きてきた。
その後小松に、ひとつだけ、譲れぬものがあった。
躬仁である。
八歳になる、おのれの子であった。
いずれこの子に位を譲る。それだけが、この帝が抱いていた、たったひとつの野心であった。父から自分へ、自分から子へ。血が続く。それさえ続けば、他は何を取られてもよい。
——ここで、筆者は残酷なことを書かねばならない。
この願いは、史実の世界においても、かなわなかったのである。
躬仁は、のちに位に即く。称光天皇という。だが生来の病弱で、癇癖が激しく、たびたび危篤が伝えられ、二十八で世を去った。子はなかった。
こうして、後小松の血は絶えた。それどころか、北朝の嫡流そのものが、この時点から二十年足らずで行き詰まる。皇位を継ぐ者がいなくなり、朝廷は遠く離れた傍系——先ほど触れた、あの崇光院の子孫である伏見宮家から、少年をひとり連れてきて玉座に据えるほかなかった。
つまり、である。
義満が手を出そうと出すまいと、この血筋は、あと二十年で詰んでいた。
後小松が命を懸けて守ろうとしたものは、守り切ったところで、砂の城であった。
だが当人は、それを知らない。
知らずに、この人は震えた。
仙洞御所の修理が始まったという報せが内裏に入ったとき、後小松はしばらく、その意味を解しかねていた。解したとき、手にしていた筆を取り落とした。
仙洞に主が入るということは、誰かが位を降りるということである。
この国に、降りられる者はひとりしかいない。
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ここで、義満という男の来歴の、いちばん暗い部分に触れねばならない。
南北朝である。
この国には、六十年にわたって、帝がふたりいた。京の北朝と、吉野の南朝である。武家も公家も割れ、寺社も割れ、日本という国は文字どおり二つに裂けていた。
その分裂を終わらせたのが、義満であった。
明徳三年、義満は南朝の後亀山天皇に和議を持ちかけた。
条件は、三種の神器を北朝に渡すこと。
神器というのは、鏡と剣と勾玉である。神代からこの国の王が受け継いできたとされる品で、これを持たぬ帝は正統と認められない。逆に言えば、南朝が六十年も戦い続けられたのは、この三つを握っていたからであった。土地でも兵でもなく、三個の器物が、王の資格そのものであった時代である。
そして、いまひとつの条件が、両統迭立であった。今後は北朝と南朝から交互に帝を出す、という約束である。
後亀山は、これを信じた。信じて吉野を下り、京へ戻り、神器を渡した。六十年の戦さが、それで終わった。
義満は、約束を守らなかった。
次の代も、その次も、帝は北朝から出た。両統迭立は、ついに一度も行われていない。だまされたと知った後亀山は、のちに憤って京を出奔し、吉野へ帰っている。老いた前帝が、ふたたび山へ入ったのである。南朝の遺臣たちは各地に散り、後南朝と呼ばれて、以後数十年にわたり神器を奪い返そうとする者が絶えなかった。
つまり、である。
この国の皇位継承の約束を、最後に破ったのは、義満なのであった。
そして皇位の約束というものは、一度破れば、二度目からは破りやすくなる。破っても何も起こらぬということを、この男は身をもって知っていた。
——先例なら、わしが作った。
斯波義将に向かって言い放ったあの言葉は、比喩ではなかったのである。
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九月、北山第で、内々の議が持たれた。
出席したのは、公家では前関白と、儀式典礼に通じた老公卿。武家では管領と、宿老・斯波義将。それに、北山院・日野康子。
そして義満である。
議題は、譲位であった。
「若宮を、践祚させる」
義満は言った。
「時期は明年、春がよかろう。譲位の詔を賜り、神器を渡し、若宮が位に即く。わしは太上天皇の尊号を受け、仙洞に入る」
沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、意外にも北山院であった。
「主上には、若宮がおられます」
躬仁のことである。
「八つの子じゃ」義満は言った。「幼き帝が立てば、また誰ぞが後見せねばならぬ。誰が後見する。関白か。それとも、わしか」
「……」
「どちらにせよ、わしが後見する。ならば、位に即く者が誰であっても、政は同じところで決まる」
理屈であった。恐ろしい理屈であった。
義満は続けた。
「ならば、いっそわしの子でよかろう。血が近いほうが、後見しやすい」
この男の恐ろしさは、狂気ではない。理である。
ひとつひとつは筋が通っている。通っているがゆえに誰も止められず、通った理屈を積み上げていった果てに、いつのまにか国の形が変わっている。義満という人物の生涯を追っていると、しばしばそういう場面に出会う。この日の北山第の議も、そのひとつであった。
なお、この議の席に、猿楽師の姿はない。
だが世阿弥は、この日も北山第にいた。次の間に控え、議の始まる前に一曲を舞い、終わるのを待っていた。何を聞いたかを、この男は生涯どこにも書き残していない。芸論は残した。伝書も残した。だが、権の座で見たことについては、一行も書かなかった。
書かなかったということ自体が、この物語における世阿弥という男の役どころである。
「恐れながら」
斯波義将であった。老人は、頭を下げたまま言った。
「主上が、承知なさいますまい」
「するさ」
義満は言った。
「あの人は、父御を見ておる。逆らえばどうなるかを、いちばんよう知っておる」
そして、笑った。
「わしは、そう育てた」
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十月、勅使が北山第に下った。
譲位の件、思し召しのままに——という趣旨であった。
後小松は、争わなかった。
争わぬことを、この人は二十年かけて覚えたのである。
ただ、条件をひとつだけ出した。躬仁を、しかるべき宮として遇していただきたい。位に即けずともよい。ただ、生かしていただきたい。
義満は、これを容れた。
容れて、その日のうちに、明年三月の践祚を各所に触れさせた。
都は、静まりかえった。
騒ぐ者はなかった。前関白も、大納言も、寺社も、守護大名も、誰ひとり異を唱えなかった。
異を唱えれば、どうなるか。それを、この四十年で全員が学んでいた。
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その夜のことである。
内裏の奥で、後小松天皇は、一通の書状をしたためた。
短いものであった。宛先も、署名も、書かなかった。
書き終えると、灯を消し、しばらく暗がりに座っていた。
やがて、ひとりの女房を呼んだ。この人が幼いころから仕えている、口の堅い老女である。
「これを」
「いずこへ」
後小松は、答えるのに、長くかかった。
「……三条坊門へ」
老女の息が、止まった。
三条坊門。将軍・足利義持の御所である。
「主上」
「よい」
「なりませぬ。もしこれが北山に知れれば——」
「知れれば、わしは父上と同じになる」
後小松は言った。若い声であった。三十二の、まだ何も為していない男の声であった。
「じゃが、何もせねば、わしは父上以下じゃ」
女房は、平伏した。平伏したまま、震える手で書状を受け取った。
書状に、密議の誘いは書かれていなかった。謀反の相談も、兵の話も、何ひとつ書かれていない。
ただ、一行だけであった。
——そなたも、父に何もかも奪われたのか。
これが、この国でもっとも高貴なふたりの敗者が、初めて交わした言葉であった。




