北山第
北山第、という。
京の西北、衣笠山の麓に、その男が築いた壮麗な山荘である。世に金閣と呼ばれる舎利殿は、この邸の池畔に建っている。
余談ながら、この金閣という建物は、よく見ると奇妙な建築である。一層は寝殿造、つまり公家の様式で造られ、二層は武家の書院風、三層は禅宗の仏殿になっている。公家の上に武家を載せ、そのさらに上に仏法を戴く。一棟の楼閣に、この国の秩序をまるごと積み上げてみせた建物というほかなく、そしてその頂には、鳳凰が翼を広げている。
鳳凰は、王者の出現を告げる鳥である。
この設計を命じた男——足利義満という人物の生涯は、つまるところこの三層の楼閣を、おのれの足で登ってゆく道程であったといっていい。
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応永十五年の春、その北山第に、帝が来た。
後小松天皇の北山第行幸である。三月八日に始まったこの行幸は、二十日余りに及んだ。臣下の邸に帝が二十日も滞在するなどということは、王朝この方、例がない。連日、詩歌管弦の宴が張られ、池には龍頭鷁首の舟が浮かべられた。
その宴の庭に、猿楽の一座が召されていた。
観世三郎元清。のちの世阿弥である。
このとき世阿弥は四十半ば。父・観阿弥とともに今熊野で演じた勧進猿楽が、十七の青年将軍・義満の目にとまってから、およそ三十年になる。
余談だが、この寵愛は当時、都の醜聞であった。永和四年の祇園会に、義満は桟敷にこの美童を同座させ、同じ器で物を食い、公卿たちに争って引出物を出させた。時の内大臣三条公忠は日記に、乞食の所行たる散楽の児童を寵すること尋常でない、と苦々しく書き残している。河原者の芸を、公家の権威を丸ごと使って引き上げてみせる。少年趣味といえばそれまでだが、この十七歳の将軍のやり口には、すでに後年の義満の骨法が出ている。権威というものを、この男は生涯、玩具のように扱った。そして玩具にできるということは、権威の仕組みを誰よりも知っているということでもある。
その世阿弥が、舞台の袖から、この春の北山第を見ている。
——異なものよ。
と、思っている。帝の御座所より、北山殿の座のほうが、心持ち高い場所に設えられているように見えるのである。むろん、目の錯覚かもしれぬ。だが芸能者というものは、座の高低、人の目の流れ、威の在り処を測ることを生業にしている。世阿弥の目測に、狂いはあるまい。
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四月二十五日、義嗣元服。
これが、都をふるえあがらせた。
義嗣は義満の子である。歳は十五。この少年の元服が、内裏で、しかも親王の例をもって執り行われたのである。武家の子が、宮のごとくに冠を戴いた。都の人々はこの少年を、いつからか「若宮」と呼びならわしている。将軍家の子を、宮と呼ぶ。呼ばせて、義満は咎めなかった。
公卿たちは扇の陰で目を伏せ、誰も異を唱えなかった。
唱えられるはずがないのである。ここで、この時点の義満が何者であるかを整理しておく必要があろう。
太政大臣を極めた。武家でこの位に昇ったのは平清盛以来である。ついで出家した。法名を道義という。位も官も捨てたはずのこの入道が、しかし国政のすべてを握りつづけた。海の彼方の明の永楽帝は国書をもって、この男を「日本国王源道義」と呼んだ。冊封——中華の皇帝が周辺の君主を臣下の王として封ずる、あの儀礼である。義満はこれを平然と受けた。国内の廷臣たちが夷狄の臣となるとは何事かと眉をひそめても、意に介さなかった。明との勘合貿易がもたらす富は、幕府の金蔵を潤しつづけている。
さらに、妻の日野康子を、後小松天皇の准母に就けた。帝の母に准ずる、という地位である。帝の母が義満の妻ならば、義満は帝の、いわば義理の父である。
系図の上で、この男はすでに天皇家の内側に入りこんでいる。
元服の儀のあいだ、世阿弥は庭の幔幕の際に控えていた。冠を戴く若宮の姿より、世阿弥の目は、それを見つめる北山殿の顔に吸い寄せられていた。面を打つ者なら誰でも知っている。人の顔がもっとも面に近づくのは、心が言葉より先に決まってしまった時である。あの日の北山殿の顔は、すでに何かを決めた者の、静かな面であった。
後円融院のことに、触れねばならない。
先帝である。今上・後小松の父であり、そして義満と、同じ延文三年の生まれであった。同い年のこの二人は、生涯、犬猿の仲であった。後円融は義満の専横に苛立ち、あるとき典侍の三条厳子が義満と通じたと疑って殴打し、あげく自害するといって騒ぎ、都を呆れさせた。帝としてのこの人の生涯は、同い年の武家に王権を吸い上げられてゆく屈辱の生涯であったといってよい。その後円融が没して、すでに十五年。遺児の後小松は、義満の掌の上で帝であった。
義満の生母・紀良子には、順徳天皇の血を引くという伝えがある。真偽はともかく、義満自身がこの説を好んだ形跡がある。おのれの体に王の血が流れているという物語を、この男は必要としていたのかもしれない。
残る座は、この国にひとつしかない。
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異変は、四月の末に来た。
北山殿、御不例。
にわかの高熱である。北山第の回廊という回廊に灯が入り、諸寺諸山の祈祷の声が夜通し谺した。五十一歳。当時としては、いつ果てても不思議のない齢である。
都は、息を詰めた。
管領も、守護大名も、公卿たちも、みな同じ胸算用を始めていた。北山殿亡きあとの世の姿を、である。将軍職はすでに嫡男の義持に譲られている。しかし義満の鍾愛は、あきらかに弟の義嗣にあった。兄と弟。幕府と北山。折しも明国の使節が海を渡って日本に滞在中であり、国王の死は外聞にもかかわる。
三日目、その義持が、三条坊門の将軍御所から見舞いに来た。
世阿弥は、廊の隅からその姿を見ている。二十三歳の将軍は、病間の前で長いこと待たされた。ようやく許された対面は、几帳越しに、わずかの間であった。退がってきた義持の顔は、蒼白というのでもない。むしろ何の色もなかった。ただ、廊を渡りながら、供の者にひとことだけ言うのが聞こえた。
「……父上は、わしの顔を見て、義嗣はどうしたと仰せられた」
それだけ言うと、義持は北山第を出ていった。輿の上のその背を、世阿弥は妙に長く覚えていることになる。
五日目の夜、世阿弥は病間の次の間に召された。
祈祷でも看取りでもない。「猿楽を」との仰せであった。医師は血相を変え、側近は諫めたが、北山殿は聞かなかったという。
薄闇の中、几帳の向こうに、荒い息の気配があった。
世阿弥は謡った。声を落とし、節を殺し、ただ息のように。修羅の曲を避け、老木に花の咲く曲を選んだ。世阿弥がのちに一子相伝の書に記すことになる考えに、時分の花と、まことの花という区別がある。若さが咲かせる花は時とともに散るが、工夫の果てに咲く花は老いて散らぬ、という意である。その、散らぬ花の曲を選んだ。
謡い終えたとき、几帳の内から声がした。
「世阿。……花は、残っておるか」
「御座います」
「そうか」
長い沈黙のあと、北山殿は言った。
「ならば、まだ死ねぬな」
翌朝、熱が引いた。
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ここで、筆者は白状しなければならない。
史実の義満は、この応永十五年五月六日に死ぬ。あっけない死であった。あまりにあっけないので、後世、毒殺説すら生まれた。そして死の直後、朝廷は驚くべき沙汰を下している。義満に「太上天皇」の尊号を贈る、と申し出たのである。太上天皇とは、位を退いた帝の称、つまり上皇のことである。皇位に即いたことのない人間に贈られた例は、ない。朝廷は、死んだ義満を、上皇として遇しようとした。この申し出は、管領を退いていた宿老・斯波義将の進言により、新将軍義持が辞退して沙汰やみになった。
つまり、である。
義満が王座の一歩手前まで来ていたことは、敵方であるはずの朝廷自身が、その死に際して認めていたのだ。
その義満が、この物語では、死なない。
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快癒の報に、都はひとまず安堵の息をつき、守護たちは胸算用を仕舞い、何事もなかったかのように北山第への伺候が戻った。
ただ、世阿弥だけは見てしまった。
病から立ち上がった北山殿が、快癒の祝いも待たず、真っ先に召したのは、医師でも管領でもなかった。朝廷の儀式典礼に通じた、ひとりの老公卿であった。
几帳越しに、病み上がりの掠れた声が、こう問うのを世阿弥は聞いた。
「践祚とは、いかなる式次第で行うものか。……仔細に、申せ」
老公卿が凍りつく気配がした。践祚。新帝が帝位を践む、そのことである。
「それと、いまひとつ」
声は、続けた。どこか、笑いを含んでいた。
「太上天皇の尊号というものは、生きながらに受けた例が、あるか」
死んでから贈られるはずだったものを、この男は、生きて取りにゆく気であった。
春の北山に、桜はまだ残っていた。散らぬ花が、あった。




