『家族の条件』
王都へ向かう馬車の中で、フランソワ・ヴァロワは一通の手紙を開いた。
クラリス家の封蝋は、すでに切られている。王都支部へ向かう道の途中で改めて目を通すには、少し長い文面だった。けれど、どの一文も丁寧で、過不足なく整っているからこそ、読む者に判断を求めてくる。
先日の夜会への礼。
ルミエの学園での働きへの気遣い。
若い者たちの交流の場として、舞踏を交えた会を望む声があること。
そして、もしそのような場を整えることになった場合には、形式、規模、出席者、休息の場、曲数などを慎重に定めた上で、まずは意向を伺い、差し支えなければ、改めて詳細を相談したいという言葉。
命令ではない。
正式な依頼でもない。あくまでも提案でありお願いだ。
けれど、断れば終わるだけの話でもない。
フランソワは便箋の端を指で押さえながら、少し前のことを思い出していた。
クラリス家から手紙が届いた日の午後、レオンは屋敷の小さな書斎で帳面に向かっていた。
十歳になったばかりの少年には、まだ難しい内容も多い。けれど、ヴァロワ家の子として、どの魔石がどの地方から届き、どの工房で加工され、どの商会を通って王都へ流れるのかを少しずつ学び始めていた。帳面の端には、教師から出された挨拶文の書き取りも置かれている。
フランソワが部屋へ入ると、レオンはすぐに立ち上がった。
「父さま」
「勉強中だったね」
「はい。今日は、王都へ送る魔石製品の種類を写していました。まだ全部は覚えられていませんが」
「全部を一度に覚える必要はないよ。流れを覚えることが大切だ」
レオンは真面目な顔で頷いた。
その表情を見てから、フランソワは手にしていた手紙を机の上に置いた。
「クラリス家から、ルミエについて手紙が来ている」
レオンの顔つきが、わずかに変わった。
「姉さまに、何かあったのですか?」
「悪いことではないよ。ただ、少し難しい話だ」
フランソワは椅子へ腰を下ろし、レオンにも座るよう促した。
「先日の夜会の礼と……それを受けて、今度は舞踏を交えた会を開いてはどうか、という声が出ているらしい。クラリス家は、その場を用意するかどうか検討している」
「舞踏会、ですか」
「ああ。まだ正式な招待ではない。打診だね」
「夜会とは違うのでしょうか」
「ああ、その実、かなり違う。夜会はあくまでも不特定多数と喋る場だ」
「舞踏会は?」
「舞踏会では、一曲の間、相手と並んで見られることになる。ただ話すだけの夜会より、誰と誰が近くにいたのかが周囲に残りやすいんだ。
上流階級の人々は、そういうところにも意味を見出す。 」
レオンは、少し眉を寄せた。
「父さま、打診というのは、断ってもよいお話ですか?」
「形の上では、そうだよ」
「形の上では?」
「貴族の社交では、はっきり頼まずに、相手が意味を読んで動くことを期待していることがある。頼んでいないから、断られても傷になりにくい。けれど、望みがないわけではない。何よりも、断ることを想定していない場合だってある」
レオンはすぐに返事をしなかった。
理解しようとしているのだろう。背伸びをしているのが分かる。十歳の少年としては十分に落ち着いているが、分からないことを分かったふりはしない。
「父さま、なぜですか? 望みがあるのなら、そう書けばよいと思います」
「前にも言っただろう? そう書けば、こちらもはっきり返さなければならない。はっきり返せば角が立つ。そうすると相手もこちらも、次に動く時の余地が狭くなる」
「余地、ですか」
「そう。曖昧さは、礼を守るために使われることもある。都合よく使われることもある。何も決まっていなければ将来どう動こうとも影響が弱いのだから」
レオンはますます真剣な顔になった。
「では、今回のお手紙は、どちらなのですか?」
フランソワは、少しだけ目を伏せた。
クラリス家の文面からは、配慮が読める。少なくとも、ルミエを雑に扱うつもりはない。むしろ、周囲の欲を礼節の中に収めようとしているのだろう。他のよく知らない貴族から急に高圧的な挨拶状が来るよりはよほどましな部類だ。
だが、それでも舞踏会は舞踏会だ。
ルミエがその場に立てば、彼女自身が望まなくても、周囲は意味を読む。
「どちらもあるだろうね」
フランソワは静かに答えた。
「クラリス家は、おそらくルミエを守る形を整えようとしている。けれど、その場を望んでいる者たちの中には、ルミエと接点を持ちたい者もいる」
「姉さまと、親しくなりたいということですか?」
「そう言えば、聞こえはよいね」
「違うのですか?」
「違わない。ただ、貴族や商家の世界で誰かと親しくなることには、別の意味もつく。特に、ルミエはヴァロワ家の娘だからね」
レオンは、小さく唇を結んだ。
「姉さまは、困りませんか?」
「だから、私が直接会って確かめる。王都で出席しなければならない会合もあるからね。ちょうどいい」
「姉さまに、直接ですか」
「ああ。今回は挨拶と顔見せが中心の夜会とは違う。手紙だけで済ませる話ではないと思っているよ。ルミエには今少しずつ多くの期待が集まっている。本人がそれをどう受け止めているのか、無理をしていないのか、きちんと見ておきたい」
レオンは、手元の帳面へ視線を落とした。
そこには、ヴァロワ家の流通に関する文字が並んでいる。姉がその家の娘として見られていることは、幼いなりに分かる。だが、レオンにとってのルミエは、それだけではなかった。
「僕も、行ってよいのですか?」
「そのつもりだよ。会合ではレオンの顔見せの必要もある。ヴァロワ家の子として、覚えておくべき相手もいるからね」
レオンの表情が、そこでほんの少し明るくなった。
「では、姉さまにも会えるのですね!」
「会えるよ」
「……父さま、僕はもう十歳です。きちんとご挨拶します」
「分かっているよ」
取り繕うように真面目な顔に戻ったレオンにフランソワは小さく笑った。
「ただ、嬉しいなら嬉しい顔をしてもいい」
レオンは一瞬だけ迷った。
それから、少しだけ頬を赤くする。
「……嬉しいです」
「そうだろうね」
……馬車が小さく揺れて、フランソワの意識は現在へ戻った。
向かいに座るレオンは、先ほどから何度も窓の外を見ている。王都へ近づいていることは分かっているのだろう。背筋は伸びているし、膝の上に置かれた手もきちんと揃えられている。だが、指先が時おり動く。
そわそわしている。
本人は隠しているつもりなのだろうが、父の目にはよく分かった。
レオンは、今日の用件を理解しているはずだった。
王都支部で、ヴァロワ家の後継者として挨拶をすること。
そして、最愛の姉には過大な期待がかかっていること。クラリス家からの手紙が、ただの招待ではないこと。フランソワがルミエの調子を確かめ、条件を伝え、必要なら断るために来たこと。
それでも、久しぶりにルミエに会えるのは嬉しいらしい。
フランソワは、思わず笑みを漏らした。
レオンにとって、ルミエは姉だった。
それだけではない。
幼い頃から、母の代わりのようにそばにいた人でもある。
甘えさせてくれて、慈しんでくれて、優しく、美しい。
時には襟を直し、文字を教え、作法を間違えれば笑わずに直し、泣きそうになった時には、何も聞かずに手を差し出してくれた人だった。
だから、レオンは姉に会う日は少し背伸びをする。
もう十歳なのだから幼いと思われたくない。
けれど、十歳はまだ子供だ。甘えたい気持ちも残っている。
「レオン」
「はい、父さま」
「緊張しているのかな?」
「していません」
即答だった。
フランソワは穏やかに笑った。
「そうか」
レオンは少しだけ口を引き結んだ後、正直に言い直した。
「少しだけ、しています。ですが、きちんとできます」
「君ならできるさ」
「はい」
馬車は、王都に入り本日の挨拶の場へとゆっくりと向かっていく。
数日前、ルミエは相談室での業務を終えた後、アニエスから予定を聞かされていた。
「旦那様とレオン様が、王都支部へお越しになる予定です」
「お父さまとレオンが?」
ルミエは、手元の書類から顔を上げた。
「はい。旦那様は王都でのお仕事も兼ねておいでですが、ルミエ様にもお会いになりたいとのことです」
「そう」
ルミエは小さく頷いた。
父が王都へ来ることは珍しくない。ヴァロワ家には王都支部があり、流通に関わる確認や商会との面会、王都側との調整もある。だが、レオンまで一緒に来るとなれば、用件は仕事だけではないのだろう。
レオンに会えるのは、素直に嬉しい。可愛い弟だ。
それは本当だった。
ただ、父がわざわざ会いに来るということは、何か話がある。
そして今、何か話があるとすれば、たぶん舞踏会だった。
ルミエは内心で、少しだけ息を吐いた。
(やっぱり、来たか)
もちろん、その思いは表情には出なかった。
そして、今日はいよいよ当日だった。とはいえ、会うのはフランソワとレオンが用件を終わらせてから。それまではいつも通り相談室に詰めていた。
ノックの音が響きルミエが返事をすると入ってきたのはアニエスだ。
「そろそろ?」
「はい。相談室の片づけはこちらで確認いたしますので、ルミエ様はお着替えを」
「ありがとう、アニエス」
ルミエは立ち上がった。
相談室の窓から差し込む光は、午後の終わりに近い色をしている。
相談室のルミエ。
学園の中で、話を聞くために座るルミエ。
その役割をいったん椅子に残して、彼女はヴァロワ家の娘として王都支部へ向かうことになる。
馬車に乗る前、ルミエは一度だけ靴先を見た。
舞踏の練習で、足はまだ少しだけ重い。
今日、踊るわけではない。
それなのに、足元が気になるのは少しおかしかった。
ヴァロワ家の王都支部は、華美ではないが、隅々まで整った建物だった。
商会の者が出入りする場所であり、同時に貴族や官吏を迎える場所でもある。磨かれた床、無駄のない調度、静かに動く使用人たち。装飾は控えめだが、軽く見られる余地はない。
ルミエが子供の頃は無かったものだ。
ルミエが応接室へ入ると、真っ先に立ち上がったのはレオンだった。
「姉さま」
声には、抑えようとしても隠しきれない喜びがあった。
ルミエは微笑む。
それは、学園で見せるものとは少し違う。相談室の生徒に向ける微笑みでも、社交の場に置くものでもない。弟が安心して近づけるだけの柔らかさを持ち、けれど父の前でも乱れすぎない、姉としての顔だった。
「レオン。久しぶりね」
レオンは一歩進みかけて、そこで思い出したように姿勢を正した。胸に手を当て、丁寧に礼をする。
「お久しぶりです、姉さま。お元気そうで何よりです」
背伸びをした挨拶。
ルミエは、その礼を最後まで受けた。
そして、近づいてきた弟の襟元をそっと直す。
「ええ。レオンも元気そうね。少し背が伸びたかしら」
「姉さま、僕はもう十歳です」
「知っているわ。でも、十歳でも襟は曲がるのね」
レオンは一瞬だけ口を閉じた。
それから、自分の襟元に触れて、少しだけ頬を赤くする。
「……馬車の中で、少し乱れただけです」
「そうね」
ルミエは笑った。
その笑みを見た瞬間、レオンの背伸びは少しだけほどけた。
次の瞬間、彼は慎重に、それでもはっきりと近づいてくる。子ども扱いされたくない。だが、久しぶりに会った姉に抱きしめられたい。その二つの気持ちが、ぎこちなく同じ足取りの中に混ざっていた。
ルミエは、自然に腕を広げた。
レオンは、ほっとしたようにその中へ入った。
抱きしめる力は、強すぎない。幼い子を包むようでいて、もう十歳だと言った弟の誇りを潰さない。背中に置かれた手は、甘えてよいと伝えながら、いつまでも離さないほど重くもない。
レオンは、ほんの少しだけ目を閉じた。
姉さまの匂いだ、と思う。
けれど、それを口に出すのは少し幼い気がして、言わなかった。
「会いたかったわ、レオン」
ルミエの静かな言葉にレオンは、小さく頷く。
「……僕もです」
それだけ言って、少し遅れて付け加えた。
「ですが、勉強もきちんとしていました」
「偉いわ。今は何を学んでいるの?」
「王都へ送る魔石製品の種類と、流通の経路です。それから、挨拶の言葉も少し。父さまが、ヴァロワ家の子なら、品物だけでなく、人と人の間を通る言葉も覚えなさいと仰いました」
「お父さまらしいわね」
「姉さまも、そう思いますか?」
「ええ。とても大事なことだと思うわ」
レオンは、少し誇らしげに頷いた。
それを見て、ルミエは目を細める。
フランソワは、その光景を静かに見ていた。
ルミエは、完璧な娘であり、姉だった。
大人びた弟の背伸びを笑いものにせず、かといって距離を置きすぎることもない。母の代わりを求める幼さも、ヴァロワ家の子として扱われたい誇りも、どちらも傷つけずに受け止めている。
それは美しい光景だった。
父としては、安心できる光景でもある。
同時に、少しだけ胸の奥に引っかかるものがあった。
ルミエはいつも、こういう場で間違えない。
立派で、聡明で、家の者としてどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘。
それを喜ばない父親はいない。
だが、喜んでいいだけのことなのか。
フランソワは、すぐにはその考えを形にしなかった。
「やあ、ルミエ。久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
穏やかに声をかけると、ルミエはレオンから少し身を離し、父へ向き直る。
「お父さま。お久しぶりです」
礼は、娘としての親しみを含みながらも、ヴァロワ家の当主へ向ける節度を失わないものだった。
「学園での暮らしはどうかな」
「はい。アニエスに助けてもらっています」
アニエスは控えめに一礼した。
「ルミエ様は、日々よくお務めです」
「そうか。君がそばにいてくれて助かるよ、アニエス」
「恐れ入ります」
フランソワは頷き、あらためてルミエへ視線を戻した。
「無理はしていないかな、ルミエ」
「していないつもりです」
「つもり、か」
「自分では分からないこともありますから」
少し茶目っ気のあるその答えに、フランソワは少しだけ表情を和らげた。
自分の状態が分からないことを、分からないと言える。少なくとも、そこは悪くない。
「さて、いつまでも立っているのもなんだ。座ろう」
フランソワが促すと、皆が席についた。
レオンはルミエの隣に座りたそうにしたが、一度父の方を見る。フランソワが小さく頷くと、少し嬉しそうにルミエの隣へ移った。
ルミエは、それに気づかないふりをして、自然に茶器を取る。
「レオン、お茶は薄めがよかったわよね」
「はい。ですが、少し濃くても飲めます」
「では、少しだけ濃くしてみましょうか」
「お願いします」
そんなやり取りだけで、応接室の空気は少し柔らかくなった。
けれど、今日の用件はそれだけではない。
茶が一巡し、レオンが小さな菓子を上品に食べ終えた頃、フランソワは畳んでいた手紙を机に置いた。
「クラリス家から、手紙が来ている」
ルミエは、視線を手紙へ落とした。
「舞踏会のことでしょうか」
「知っていたのかな」
「エレーヌ様から、まだ正式な依頼ではないと手紙をいただいています」
「その通りだ。正式な依頼ではない。けれど、ただの雑談でもない」
レオンが、父と姉を交互に見る。
フランソワは、息子にも分かるように少しだけ言葉を選んだ。
「先日の夜会を受けて、若い者たちの交流の場として、舞踏を交えた会を望む声が出ている。クラリス家は、それを整えるかどうか検討している」
「姉さまが、そこに出るのですよね?」
「正確には出る可能性がある、という話だね」
レオンは、心配そうにルミエを見る。
「姉さまは、舞踏がお得意なのですか?」
ルミエは少し考えた。
「得意というほどではないわ」
「では、大変なのではありませんか」
「足を踏まないようには、練習しているところよ」
レオンは真面目な顔で頷いた。
「上手に踊ることではなくてですか?」
「もちろん、目指すのはそこよ。でも、相手に恥をかかせてはいけないし、何よりも、足を踏んでしまうと痛いでしょう?」
片目を瞑って見せるルミエ。
フランソワは、二人の会話を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
社交界で語られる舞踏と、この二人が話す舞踏は違う。
社交界にとって、ルミエと踊ることは意味になる。ヴァロワ家の娘と並び、手を取り、一曲分だけ周囲に見られる。その事実を欲しがる者は少なくない。
だが、レオンにとっては、姉が誰かの足を踏まないよう練習している話だった。
その差が、ひどく大きい。
そして、どちらも間違いではない。
「ルミエ」
フランソワは、娘を見る。
今回の舞踏会には、すでに周囲の期待も、熱も、狙いも、打算も混じっている。
その中でルミエを守るなら、クラリス家が主催する形に収めるのが、今は最もましだった。
「舞踏会については、私……ヴァロワ家としては、条件を出すつもりだ」
「条件、ですか?」
「ああ。出席するとしても、無制限には応じない。曲数は限る。休憩室を用意してもらう。アニエスの同伴を認めてもらう。体調が悪ければ、途中で退席できるようにする。舞踏の相手についても、無秩序に申し込みを受ける形にはしない」
ルミエは静かに聞いていた。
その顔に驚きはない。
「最初の一曲についても、慎重に扱う必要がある」
フランソワは続けた。
「誰と踊るか。誰と踊らないか。その順番にも意味がつく。君が望まなくても、周囲は意味を読む」
「はい」
ルミエは頷いた。
「分かります」
本当に、どこまで分かっているのだろう。
フランソワは一瞬だけそう思った。
だが、娘の表情は静かだった。面倒だと思っているかもしれない。できれば避けたいと思っているかもしれない。けれど、そうした感情の上に、ヴァロワ家の娘としての顔がきちんと置かれている。
「ただね、断ることもできるよ」
フランソワは言った。それは当主としてではなく、父としての言葉だ。
「これは、まだ打診だ。正式な招待ではない。君がどうしても嫌だと言うなら、その方向で話を持っていく」
レオンが、少し身を乗り出しかけて、すぐに姿勢を戻した。
ルミエは父を見た。
アニエスは黙って控えている。
応接室は静かだった。
ルミエの内心では、正直に言えば、断れるなら断りたいという気持ちがあった。
人が多い場所は疲れる。
舞踏はまだ足元だけで精一杯だ。
誰と踊るかに意味がつくと言われても、そんな面倒なことは考えたくもない。
曲数、休憩室、順番、家同士の意味。そういういわゆる腹芸は勘弁して欲しい。
だが、それがそのまま口に出ることは決してない。
望まれている形がある。
父が安心し、弟が誇り、アニエスが支えられる形がある。
ルミエの表情は、意図することもなく自然に整った。
父が求めているのは、無理をして笑う娘ではない。
何も考えずに頷く娘でもない。
ヴァロワ家の娘として、自分の負担を理解しながら、家の判断を共に受け止める娘だ。
そして、レオンが見ている。
弟にとっての姉は、難しいことから逃げる人であってはいけない。かといって、苦しいのに無理をする人でもいけない。
ルミエの表情は、意図することもなく自然に整った。
「お父さま」
声は静かだった。
「私は、舞踏会に出席いたします」
レオンが小さく息を呑んだ。
フランソワは、娘の言葉を遮らずに待つ。
「もちろん、すべてを私一人で判断できるとは思っていません。ヴァロワ家の名が関わる以上、お父さまが条件を整えてくださるのであれば、その範囲で務めたいと思います」
それは、娘としても、ヴァロワ家の者としても、ほとんど隙のない答えだった。
「ただ」
ルミエは、ほんの少しだけレオンの方を見た。
「無理はしません。レオンが心配するようなことにはしない」
レオンは、目を瞬かせる。
「約束ですか」
「ええ。約束」
「はい。姉さまは、約束を守る方です。僕が幼いころからずっと。破ったことはありません」
「そうね。だから、守れる約束だけにしておくわ」
レオンは少し考え、それから納得したように頷いた。
「それなら……はい。よいと思います」
その幼い承認に、応接室の空気がわずかに緩む。
フランソワは、静かに娘を見ていた。
やはり、娘は完璧だった。
父には、家の判断を支える娘として。
弟には、心配させまいとする姉として。
アニエスには、無理を隠しすぎない主人として。
そしておそらく、クラリス家に向けては、条件の中で場に立つに足るヴァロワ家の娘として。
あまりに自然に、それぞれが安心できる形を返している。
計算ではない。ルミエは幼いころから自然体で、こういう風に振る舞えてしまう子だったから。
「分かった」
フランソワは穏やかに言った。
「では、ヴァロワ家としては、条件付きで応じる方向で返事をしよう」
「はい」
「ただし、ルミエ。これは命令ではない。今後、条件が崩れるようなら、その時点で止めるよ」
「分かりました」
「アニエス」
「はい」
アニエスが一歩進む。
「学園での様子、舞踏練習の疲労、相談室業務との兼ね合いを、こちらにも定期的に知らせてほしい。ルミエ本人の申告だけでは足りないことがある」
「承知いたしました」
「お父さま」
ルミエが少し困ったように声を挟む。
「私も、できるだけ自分で伝えます」
「分かっているよ」
フランソワの声は、あくまで穏やかだった。
「けれど、君は昔から人々の期待に応えてしまう子だったからね。だからこうして会いに来たんだ。娘が無理をしていないかを確かめにね」
ルミエは、少しだけ黙った。
まるで事実を指摘された娘のように。
疲れていると言うほどではない。困っていると言うほどではない。嫌だと言うほどではない。そうしているうちに、周囲の話は少しずつ進んでいく。
父は、それを知っている。
「……気をつけます」
「それでいい」
フランソワの声は厳しくなかった。
レオンは、二人のやり取りを真面目に聞いていた。すべてを理解しているわけではない。だが、父が姉を守ろうとしていることと、姉が何か難しい場所へ行こうとしていることは分かった。
「姉さま」
「なあに、レオン」
「舞踏会では、たくさん踊るのですか」
「たくさんは踊らないと思うわ。お父さまが、数を決めてくださるから」
「では、疲れすぎませんね」
「ええ。心配してくれているの?」
「……はい。だって、姉さまですから」
フランソワは、そのやり取りを聞きながら、ようやく少しだけ笑った。
「レオン」
フランソワが声をかける。
「今日は、これ以上難しい話はしないことにしよう」
「はい」
「その代わり、ルミエに学園の話を聞かせてもらうといい。疲れない程度にね」
レオンの顔が明るくなった。
「よろしいのですか?」
「ルミエがよければ」
「ええ、もちろんよ、レオン。あなたとたくさん話したいもの」
その言葉にレオンはすぐに姉へ向き直った。
「では、姉さま、学園は広いのですか?」
「とても広いわ」
「図書室などもあるのでしょうか?」
「ええ。本もたくさんある。全部読むには、きっと時間が足りないくらい」
「姉さまでもですか?」
「私でも」
レオンはそれを聞いて、少し驚いたように目を丸くした。
「では、僕もいつか見てみたいです」
「ええ。機会があれば、一緒に行きましょう」
その言葉に、レオンは嬉しそうに頷いた。
もう十歳です、と言った少年は、その時だけ少し幼い顔になった。
レオンの表情を見ると、胸の奥がほんの少し柔らかくなる。
舞踏会の話は面倒だ。
正直、できれば遠くにあってほしい。
それでも、父が条件を整え、アニエスが側にいて、レオンが約束を信じているなら、出席する形はもうできているのだろう。
少なくとも、あの面倒な練習に参加する理由は、また一つ増えた。
その後、応接室ではしばらく穏やかな話が続いた。
レオンは学園の授業や図書室、食堂のことを知りたがった。ルミエは答えられる範囲で答えた。フランソワは時おり二人を見ながら、クラリス家へ返すべき条件を頭の中で組み直していた。
曲数。
休憩。
同伴。
退席。
相手の制限。
招待範囲。
そして、ルミエ本人の状態を最優先すること。
条件は多い。
だが、それでよかった。
ヴァロワ家の娘を社交の場に立たせるなら、軽く扱える余地は残さない。
窓の外では、王都の夕方がゆっくり深まり始めていた。
まだ舞踏会は、正式には決まっていない。
けれど、クラリス家の手紙は届き、ヴァロワ家は条件を考え、ルミエは出席すると答えた。
断れない打診は、家族の前で、静かに決定の形へ近づいていく。
レオンは姉の隣で、上品に二つ目の菓子を取った。
ルミエはそれを見て、皿を少しだけ彼の方へ寄せる。
フランソワは、そのささやかな仕草を見ながら、娘が舞踏会で誰かの手を取る夜のことを考えていた。
守るべきものは、思っていたより多い。
娘の体調だけではない。
娘が誰かの望む形に、あまりにも自然に応えてしまうことも含めて。
そう思いながら、彼はもう一度、畳んだ手紙に指を置いた。




