『図書室の外』
リュシアンのもとへ、その話が届いたのは、午後に外出先から寮の自室に戻ってきた時だった。
午前中は王族として別件の仕事に出ており、今日は学園は休んでいた。学生である前に第二王子である彼にはたまにあることだった。
そして、王族に関わる予定や情報は、正式に決まる前からいくつもの形で耳に入る。
誰かが明確に招いたわけではなくとも、どの家が何を望み、どのような場を用意しようとしているのか、その気配だけは先に運ばれてくる。
「クラリス家が、若い方々の交流の場について新たに検討しているようです」
補佐役が手元の書付を確認しながら告げた。
「先日の夜会を受けて、舞踏を交えた形式が望ましいのではないか、という声がいくつか届いているとのことです。まだ正式な招待ではございません」
「舞踏か」
リュシアンは、短く返した。
驚くほどのことではない。夜会の次に舞踏会が考えられるのは自然だった。若い貴族や高位の子女が集まり、礼節を確かめ、互いの距離を測る。そこに教育的な名目を添えれば、学園とも社交界とも繋がりがよい。
まして、ヴァロワ家の娘が関わるのなら。
そう考えたところで、リュシアンは書付から少し目を離した。
ヴァロワ家は、気軽に近づける家ではない。貴族の派閥に属さず、しかし無視できるほど軽くもない。魔石の流れを支える家というだけで、多くの者がその名に意味を見つける。
その娘と、舞踏会で一曲を踊る。
それがどれほどの意味を持つか、考えない家の方が少ないだろう。
「殿下にお声がかかる可能性もございます」
補佐役は、淡々と続けた。
「クラリス家が主導する場合、王家としてどの程度関わるかは、まだ判断が必要かと」
「分かっているさ」
王族が出れば、場の格は上がる。
出なければ、別の意味が生まれる。
出席しても、誰と話すか、誰と踊るか、どれほど滞在するかで、また別の意味がつく。
そういうものだった。
リュシアンは、それを物心ついた時から知っている。
知っているからこそ、すぐに軽い返事はしなかった。
「正式な話になってからでいい。今は情報だけ留めておいてくれ」
「承知いたしました」
補佐役が下がると、部屋は少し静かになった。
机の上には講義の資料と、読みかけの本が置かれている。次に目を通すべきものは分かっていた。けれど、ページを開く前に、なぜか別の一冊が頭に浮かんだ。
図書室の静かな棚と、そこに時おり現れる少女の姿が頭に浮かんだ。
何かの本を楽しげに読んでいたこともあれば、難しい顔で背表紙を眺めていたこともある。こちらが声をかけると、王子に対する過剰な畏れではなく、図書室の静けさを乱さない程度の礼で応じた。
以前、舞踏の本を抱えていた時には、足を踏まないために学ぶのだと、真面目な顔で言っていた。
それもまた、彼女らしかった。
リュシアンは、わずかに口元を緩めた。
あれは、妙に彼女らしい言い方だった。
ルミエ嬢は、時々、重い言葉を重いまま受け取らない。かといって、軽んじるわけでもない。王族の話であれ、家同士の話であれ、どこか少し違う角度から眺めて、最後には自分の足元へ戻してしまう。
それが失礼に聞こえないのは、彼女が本気でそう考えているように見えるからだろう。
図書室で交わす短い会話には、そういうところがあった。
「……図書室へ行くか」
リュシアンは立ち上がった。
予定がなければ、今日もこの時間まで講義を受けていたはずだった。学園の空気に戻るには、ちょうどよい頃合いでもある。
読みたい本もあれば返すべき本もある。図書室へ行くことに、不自然な点は何もなかった。
学園の建物は、時間帯によって少し表情を変える。午前中の緊張がほどけ、夕方にはまだ早い。講義を終えた生徒たちが、それぞれの予定へ散っていく頃だった。
リュシアンは、いつもの道を進んだ。
いつもの道、のはずだった。
けれど、小広間の近くを通りかかった時、扉の向こうから音楽の名残のようなものが聞こえた。すでに曲は止んでいる。だが、人が動いた後の空気と、布が擦れる音、控えめな話し声が廊下までこぼれていた。
舞踏の復習だろう。
そう思った。
今日、礼法教師のもとで何人かが集まるという話は耳にしていた。舞踏会がまだ正式に決まっていないからこそ、先に作法や足運びを確かめておきたい者たちがいる。何もおかしなことではない。
扉が開き、数人の生徒が出てきた。
先に出てきたのは、上級生の令嬢と下級生の少女だった。下級生の少女はまだ少し頬を赤くしているが、来た時よりは落ち着いているように見えた。
「礼の終わりを意識するだけで、ずいぶん違うのですね」
「ええ。始まりばかり気にすると、かえって硬くなりますから」
そんな会話が、控えめに耳へ入る。
二人はリュシアンに気づくと、すぐに姿勢を正し、深く礼をした。リュシアンはそれに軽く頷いて応じる。生徒たちは緊張しながらも、どこか明るい顔で廊下の先へ歩いていった。
次に、顔見知りの後輩である官僚家系の男子生徒が出てきた。
彼は礼法教師に何かを尋ねていたらしい。扉の内側へ一度振り返り、礼をしてから廊下に出る。その表情には、まだ緊張の名残があったが、恥をかいた者の沈み方ではなかった。
むしろ、何かを一つ持ち直したように見えた。
リュシアンへ礼をする動作も、少し固いが崩れてはいない。
「殿下」
「練習だったのか?」
リュシアンが尋ねると、男子生徒は一瞬だけ驚き、それから頷いた。
「はい。舞踏会の話が正式に決まったわけではないと伺っておりますが、せっかくの機会ですので、入りの間合いを確認しておりました」
「それはいい。こういうものは、決まってから慌てると余計に硬くなるからな」
王子としての重さはあるが、同じ学園の後輩へ向ける声は少し柔らかい。男子生徒は、緊張を残しながらも少し表情を緩めた。
「……思っていたより、落ち着いて動けました」
そう言ってから、男子生徒は自分で少し照れたように目を伏せた。
リュシアンは、それ以上踏み込まなかった。
「よい練習になったならば何よりだ」
「はい」
男子生徒は、もう一度深く礼をして去っていく。
その背を見送りながら、リュシアンは小広間の扉へ目を向けた。
中にはまだ何人か残っている。
留学生の少女が、イザベル・ド・ヴェルディエと話していた。回転前の距離について確認しているらしい。イザベルの説明は廊下まで届くほど大きくはないが、姿勢だけでも彼女が丁寧に応じていることは分かる。
その少し後ろに、生徒ではない女性……何度か学園で見かけているルミエの秘書、アニエスの姿があった。
そして、壁際の椅子に腰を下ろしている少女がいる。
ルミエだ。
彼女は水を受け取っていた。踊り終えた後なのだろう。少し疲れているようにも見える。けれど、その姿に乱れはなかった。背筋は崩れず、表情は穏やかで、周囲の会話の邪魔にならない静けさがある。
図書室で見る彼女とは、少し違う。
小広間の中にいて、礼法教師や生徒たちの視線の中にいる。誰か一人と深く話しているわけではないのに、その場にいる者たちの気持ちが少しずつ整えられているように見えた。
リュシアンは、扉の前で足を止めていた。
それに気づいたのか、ルミエが顔を上げる。
目が合った。
ほんの一瞬のことだった。
ルミエは薄く微笑み、椅子から立ち上がって静かに礼をした。疲れを見せすぎず、かといって無理に華やかでもない。小広間の中にいる者として、王子に対して過不足のない礼だった。
「リュシアン様」
声は、いつもより少しだけ公の場に近かった。
「ルミエ嬢。舞踏の練習ですか?」
「はい。足を踏まないための練習が、少し大きくなりました」
真面目な顔で、でも、少しおどけた様子でそんなことを言う。
リュシアンは、思わず笑いそうになった。
もちろん、大きく表には出さない。ただ、口元がわずかに緩む。彼女の言葉は、いつも少し不思議なところから来る。舞踏会の意味も、家同士の思惑も、社交の距離も、分かっているのかいないのか分からないまま、最後にはふっと足元へ戻ってくるような言い方をする。
「成果はありましたか?」
「ええ。今のところ、誰にも失礼なはなかったと思います」
「それは大切な成果ですね」
リュシアンがそう言うと、ルミエは少しだけ安心したように微笑んだ。
その微笑みは、図書室で見たものと同じようで、少し違った。
近すぎない。
けれど遠くもない。
王子に向ける礼を失わず、しかし、以前交わした会話の続きをほんの少しだけ含んでいる。周囲に聞かれても問題のない言葉でありながら、図書室で交わしたいくつかの短い会話を、ふと思い出させる。
少なくとも、リュシアンには。
「では、引き続き励んでください」
「はい。できれば、足元を見すぎないようにも気をつけます」
「それも大切でしょう」
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
アニエスが控えめに近づき、ルミエに休息を促す。ルミエはもう一度礼をしてから、再び椅子へ戻った。周囲の生徒たちも、リュシアンへ必要な礼を済ませ、それぞれの確認へ戻っていく。
小広間の空気は、すぐにまた練習の場へ戻った。
誰も、特別な出来事があったとは思わない。
王子が通りがかり、ルミエに二、三言声をかけた。それだけのことだった。
それだけのはずだった。
リュシアンは、しばらく歩き出さなかった。
しばらく、立ち止まり、再び歩き出す。図書室へ向かう道は、そこからすぐだった。
廊下を曲がり、静かな扉の前に立つ。いつもの場所だ。中へ入ると、紙と木の匂いがする。小広間とは違う空気だった。音楽もない。靴音も少ない。誰かが声を潜めて言葉を交わすか、本を探し読んでいるだけの落ち着いた場所。
リュシアンは棚の前へ向かうが何を探していたのか、自分でも少し曖昧だった。
本なら、いくらでもある。読むべき本も、読みたい本もある。だが、手が伸びる前に、視線が一度だけ窓際の閲覧席の方へ動いた。
誰もいない。
そこに彼女がいると思ったわけではない。何せ先ほど別の場所で会ったばかりなのだから。
ただ、彼女がよく座っていた席を見ただけだった。
いつも必ずいるわけではない。むしろ、いない日の方が多い。それでも、そこに姿があると、図書室の静けさが少しだけ違うものになる。
彼女は何かの本を静かに読み、時おり黒く長い髪を耳にかけ直す。声をかければ顔を上げるが、驚きすぎることも、過剰に畏まることもない。短く言葉を交わし、必要が済めば、また本へ戻る。
その自然さを、リュシアンはいつの間にか覚えていた。
今日は、当然空いている。
リュシアンは棚に視線を戻した。
返却台の上に、数冊の本が積まれている。その中に、舞踏作法に関する本が一冊あった。以前、彼女が抱えていたものと同じかどうかは分からない。ただ、よく似た装丁だった。
手に取る理由は、いくらでも作れた。
王族として、若い世代の礼法教育の動きを知るため。
舞踏会が開かれる可能性がある以上、形式を確認するため。
クラリス家やヴァロワ家に関わる場で、自分がどう振る舞うべきか考えるため。
理由は、どれも正しい。
正しい理由がある時、人は自分の手がどこへ伸びたのかを深く考えなくて済む。
リュシアンは、その本を手に取った。
ページを開くと、舞踏会における最初の一曲についての記述があった。誰と踊るか。誰に譲るか。どの順番がどのような意味を持つか。教本の文章は淡々としていたが、そこに書かれた意味は決して軽くない。
一曲は、一曲でしかない。
けれど、社交の場では、それだけでは終わらない。
誰かの手を取ることは、誰かの隣に立つことだった。
リュシアンは、しばらくそのページを見ていた。
小広間で見た彼女の姿が、ふと浮かぶ。
アニエスと言葉を交わしていた時の表情は、図書室で見るものとは少し違っていた。気を抜いているようで、それでも乱れてはいない。あれもまた、彼女の一つの顔なのだろう。
誰しも、誰かに向ける顔というものがある。
そう考えれば、納得できた。
図書室で会う彼女も、小広間にいる彼女も、どちらも同じルミエ嬢だ。
軽やかで、真面目で、少し変わっていて、こちらの言葉を時々、思わぬ場所へ下ろしてしまう少女。
王子としての答えを待つのではなく、リュシアンが口にした言葉そのものを聞いているように見える少女。
そして、美しい少女だった。
そう思った時、リュシアンはわずかに瞬きをした。
美しい。
その言葉自体は、何もおかしくない。社交界には美しい者が多い。王族であれば、そうした評価を口にすることも、耳にすることも珍しくない。
礼法、姿勢、言葉遣い、立ち居振る舞い。美しさは、場における一つの力でもある。
だから、それ以上考える必要はなかった。
リュシアンは本を閉じた。
けれど、閉じた後も、すぐには棚へ戻さなかった。
図書室の扉が小さく開く音がする。
彼は、顔を上げた。
入ってきたのは、別の生徒だった。資料を探しに来たらしい男子生徒が、司書に小声で尋ねている。
リュシアンは、少し遅れて視線を本へ戻した。
誰かを待っていたわけではない。
そう思う。
けれど、その日の彼は、扉が開くたびに一度だけ顔を上げた。
読むべき本はあった。
王族として考えるべきこともあった。
もし舞踏会が開かれるなら、王家としてどう関わるべきか。ルミエ・ヴァロワという名に過度な意味が乗らないよう、どの程度の距離を保つべきなのか。誰が近づきすぎれば、どの家がどう受け取るのか。
考えるべきことは多い。
だから、図書室にいる理由はあった。
ただ、その理由の端に、別のものが紛れていることに、リュシアンはまだ気づいていなかった。
しばらくして、彼は舞踏作法の本を借りることにした。
手続きはすぐに終わった。
本を抱えて図書室を出る時、廊下はもう夕方に近い色になっていた。小広間の方からは、すでに人の気配は薄れている。合同の復習も終わったのだろう。
リュシアンは、一度だけそちらを見た。
図書室であれば、偶然会えることがある。
本を選び、席に座り、短い会話を交わすことができる。そこでは、相手の手を取る必要はない。隣に立つための順番もいらない。ただ、同じ棚の前にいればよかった。
けれど舞踏会では、そうはいかない。
手を取らなければ、隣には立てない。
そう考えたわけではなかった。
ただ、借りた本の重さが、いつもより少しだけはっきり感じられた。
リュシアンは歩き出す。
次に図書室の扉が開いた時、自分がまた顔を上げるかどうかなど、考えもしないまま。




