『内緒話』
その日、いつも通りクラリス家のばあやは仕えているエレーヌの部屋を訪れた。
「失礼いたします」
「ばあや!見てちょうだい!出来たの!やっと、やっと!」
ノックに帰ってきたのはエレーヌの喜びが弾けた声。それを聞いて、ばあやは少し驚きながら扉を開く。
「……」
言葉を失う。
部屋の真ん中に鎮座しているキャンバス。
そこに描かれているのはこの1年と少しの間、ばあやが入室するたびに見ていた少女の絵。
そして、時間が許す限り向き合い続け、描き上げたエレーヌの傑作。
美しい黒い髪。
雪のような白い肌。
引き込まれる紫の瞳。
そして、思わず微笑み返してしまいそうな、極上の笑顔。
まるでその場にいるかのような錯覚すら覚える。
ばあやは、思わず一歩、後ずさった。
――執念の一作だった。
「どうかしら?見て、これがあの方の微笑みなの。そう、これが……」
うっとりと夢を見るように、両手を組んで絵画の中の少女を見つめるエレーヌ。
何と声をかけるか一瞬迷い、己の立場から伝えられる言葉は一つだけだと悟る。
「素晴らしい作品です。よくここまで仕上げられましたね」
「ふふ、ありがとう」
「……これは、贈り物でよろしかったですよね?」
以前、クラリス家当主が言っていた。贈り物だろうと。何故か直接は聞けなかった質問を、完成に至った今、やっと投げかける。
「贈り物? 誰への?」
首を傾げるエレーヌにばあやは少し迷ってから口を開く。
「ヴァロワ家へのです。そのために……描いていたのではないのですか?」
「……そっか、贈り物」
画家を雇って己を描かせるのは貴族の風習。商家であるヴァロワ家ではしていないはずだった。
考えもしていなかったが、確かにそれは魅力的だ。何故なら。
「そうね、これは……贈り物よ」
――あの方に、最初に絵を贈ったのは自分になる。
その考えを、ただ“嬉しい”と思いながら、
エレーヌは笑顔で頷いた。
その晩、報告を受けて絵を見たクラリス家当主であるエレーヌの父は閉口する。
娘が余暇の時間を何に使っていても、家格を落とさなければ関知しなかった。
そのため絵を見たのは今日が初めてだ。
「……ふむ。まあこれならば問題あるまい」
多少下手であっても、貴族令嬢が手づから描いた絵画であれば一定以上の価値はある。
しかし、下手過ぎるのはよろしくない。
――上手く描けている分にはいいだろう。
そう判断して当主は許可を出す。
「わかった。それではこの絵を持っていかせよう」
「お父様。これは私が自らお持ちしたいのです。いけませんか?」
滅多に父に意見しないエレーヌの久しぶりの言葉。それを脇で聞いていたばあやには、当然思うところがあったが、当主と令嬢の会話に口をはさむことはできない。
当主は娘の言葉を吟味したがゆっくりと頷く。
「なるほどな。そこまでしてこその礼節であり贈り物か。学んだなエレーヌ。一理ある。いいだろう。最近のヴァロワの功績は縁を繋ぐ価値はある」
「ありがとうございます」
そうして、クラリス家のヴァロワ家への訪問が決まった。
―――出立の当日。
「触らないで!」
エレーヌの大声が部屋に響く。使用人たちが絵画を布で包み運び出そうとしたから。
「その絵に触れていいのは! …………それは贈り物ですから。私が、包んで、私が、持っていきます。いいですね?」
それは反論の余地がない命令。
普段、声を荒げることなどないエレーヌからの怒りを買ってしまった使用人たちは平伏しながらその場を後にした。
エレーヌはそんな使用人たちに見向きもせず、丁寧に布で包み、愛おしそうに抱きしめた。
振り返った時のエレーヌの顔は普段通りの穏やかで冷静なもの。
「ごめんなさい、つい……」
一瞬、言葉が遅れた。
「ばあや、あの方達に私は怒っていないと伝えてちょうだい」
「……かしこまりました」
ばあやの脳裏に過るのはあの怒鳴った時の表情。
(いけない。これ以上考えては)
絵を持ち上げて部屋を出ていき馬車へと向かうエレーヌを見送った。
何故か、これ以上エレーヌの顔を見てはいられなかった。
馬車の中。
エレーヌと当主はお互いに黙ったままだ。親子としての会話は普段からないため、これはいつもどおり。
エレーヌは何故か高鳴る胸と、落ち着かない心を必死に抑えていた。
(ああ、ただご挨拶をするだけなのに。絵をお渡しするだけなのに、何故私は……)
前回、話したときは彼女は10歳だったはず。
今では12歳。会えていない時間はあっという間だった。絵に向き合っている時間はすぐに過ぎ去ったのだから。
(どのように、成長されているのでしょうか)
想像は出来るが、したくない。想像は本人に失礼だ。
エレーヌの中の当人は、絵画の中の姿のまま。
(早く到着して。いえ、まだ着かないで……)
そんなエレーヌの心とは異なり、馬車は確実に進み、一泊し、やがてヴァロワ家とたどり着いた。
本当は自分で運びたかったが、流石に絵画を持って挨拶をするわけにはいかない。使用人に持たせて自分は父の横に立つ。
「……」
父とヴァロワ家当主が何か話している。しかし、そんなことはどうだっていい。
彼女は。
あの方は。
どこに?
必死に動いていた瞳が、止まる。
呼吸を忘れた。
「お久しぶりです、エレーヌ様。お会いしたかったです」
胸に手を当てて微笑む彼女。
キャンバスの中に投影し続けていた、ずっと見たかった笑みが、
今、目の前でこちらを見ていた。
※※※
その知らせは、いつも通りだった。
「ルミエ。近く、クラリス家が訪問される」
執務を終えたフランソワが、何気ない調子でそう告げる。
「そうなのですね」
と、応じながら、ルミエは内心で首を傾げた。
(あれ、クラリス……どこかで……)
思考が数拍、遅れてから繋がる。もちろん、遅れている間も口は勝手に動いて場を繋いでくれる。
「久しぶりにお会いしますね」
「ああ。あの時は君は10歳だったか。貴族との交流はゆっくりとしたものになりがちだ」
思い出したのは、校長先生みたいな父親と、真面目そうな金髪の少女。その静かな声と真っ直ぐな視線。
あまり感情を表に出さない、少し年上の少女。
(確か、エレーヌ様。えーと、なんだっけ……あ、絵を描くのが趣味って言ってたっけ?)
「エレーヌ様、ですね」
「そうだ。今回も」
「もちろんです。エレーヌ様の歓待はお任せください。お会いできるのを楽しみにしております」
そう答える声と微笑みは、いつも通り。
特別な感情は、特にない。
当日。
ヴァロワ家の玄関に、クラリス家の馬車が止まった。
出迎えに立ったルミエは、いつもより少しだけ背筋を伸ばしている。
(貴族の客人。礼は丁寧に、距離は近すぎず)
といっても、この身体であれば問題ないのだろうが、意識は大事だ。
扉が開き、まず当主とフランソワが挨拶を交わす。
その背後から、少女が姿を現した。
視線が、合う。
「お久しぶりです、エレーヌ様」
胸に手を当て、柔らかく微笑む。
「お会いしたかったです。お変わりありませんでしたか?」
その声、その表情。
エレーヌの呼吸が、目に見えて止まったことを、
ルミエは特に気が付かない。
(……背、少し伸びたかな)
それくらいの感想だった。
「こちらへどうぞ」
屋敷へと入り、応接室へと案内しながら、会話を途切れさせない。
「前にお会いした時は、まだ春でしたね」
「はい」
「あれから、随分と時が経ちました」
「ええ。1年と少しでしょうか」
「ご実家の方はいかがですか?」
「家族変わりなく、健やかに過ごしております」
問いかけは穏やかで、選択肢を奪わない。
返答しやすい話題だけを、自然に差し出す。
エレーヌの緊張が、少しずつ解けていく。
前回と同じ応接室でのお茶会。
お互いの近況を語り合いしばらくしてから、エレーヌが何度か深呼吸をしてから切り出した。
「実は、ルミエ様に贈り物がございます」
視線で使用人に合図をすると、使用人が大きな包みを運んできた。
「……こちらを」
エレーヌが、少し早口で言う。
「私が、描きました」
包みが解かれ、現れたのは一枚の絵。
緊張で心臓が壊れてしまいそうなエレーヌ。
その瞬間、ルミエは目を見開いた。
「……え」
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「わあ……!」
椅子から身を乗り出し、絵を見つめる。
「私の、絵……ですよね?」
声が弾む。
抑えきれない、というふうに。
その場にいた乳母が、思わず微笑む。
「まあ……素敵な絵ですこと」
その言葉を待っていたかのように、ルミエは振り返った。
「そうでしょう!? 私の絵なんです!」
少し高い声で、無邪気に言う。
「生まれて初めてです。誰かが、私を描いてくださったの」
身内に向けての年相応の、はしゃぎ。
純粋な、喜び。
エレーヌの胸が、熱を持つ。
(……喜んでいる。喜んで、くださっている)
それだけで、全てが報われた気がした。
「……あ」
はっと我に返ったように、エレーヌに向き直ったルミエは頬を少しだけ赤らめた。
雪のような肌に朱がさす様は思わず見とれてしまうほどだ。
「……申し訳、ありません」
小さく笑って、視線を伏せる。
自分より年下であることを実感するとともに、ルミエの人間性に深く触れられたという気持ちがエレーヌの心を満たした。
「このことは……父やエレーヌ様のお父様には内緒にしてくださいね……少し、恥ずかしいので」
照れたような笑顔。
声は、少しだけ落とされている。
――自分だけに向けられた表情。
乳母も、クラリス家の使用人も、素敵なものを見たとばかりに優しく頷く。
一方、エレーヌの中では。
(…………ああ)
―――何かが決定的な音を立てた。
※※※
ルミエは、改めて絵の前に立つ。用意されたキャンバススタンドに飾られた絵。
「……本当に、素晴らしいです」
今度は、落ち着いた声で。
「私の外見だけでなく……雰囲気まで、きちんと描いてくださったのですね」
こんな風に想ってくださるなんて。と続けた後、視線をエレーヌに向ける。
「これほどまでに丁寧な作品です。長い時間、向き合ってくださったのでしょう?」
否定できない言葉。
「こんな素敵な贈り物を、エレーヌ様に描いていただけるなんて……光栄です」
絵だけではない。
描いた“あなた”が素晴らしい、と言っている。
「エレーヌ様は、とても優しい方ですね。こんなにも、丁寧に人を見ることができる」
一つ一つが、逃げ場のない肯定。
「この絵は、私の宝物になります。そう、一生の」
微笑みは、変わらない。
声も、距離も、いつも通り。
(喜んでもらえた。喜んでもらえた。喜んでもらえた)
それだけを思いながら、
ルミエが絵を、胸に抱くように見つめている姿を見つめていた。
その横顔が、その光景が、
誰かの心を、静かに、確実に壊していくことを――
誰も、気が付かなかった。壊れていく本人すら。
(すごいな、写真みたいだ)
もちろん、ルミエも。
―――その後、エレーヌは自分が何を話したがよく覚えていなかった。
ずっと、ルミエの笑顔だけを見ていたから。
ずっと、ルミエの声だけを聴いていたから。
ずっと、ルミエのことだけを考えていたから。
気が付けば、エレーヌは父と並んでフランソワとルミエの見送りを受けていた。
「ではな、フランソワ・ヴァロワ」
「ええクラリス様。本日はお時間をいただき感謝いたします」
「なに、気にすることはない。魔石のヴァロワにして調整役のヴァロワよ。これからも励み、国に尽くしてくれ」
親同士の堅苦しい挨拶を聞き流し、エレーヌはルミエに向き直る。
「ルミエ様、この度はありがとうございました」
「いえ、お礼を言うのは私の方です。エレーヌ様、本日は素敵な贈り物をありがとうございます」
微笑んだルミエは、少しだけエレーヌに顔を近づけて囁いた。
「また、お会いして下さると、嬉しいです」
僅かに滲む、悪戯っぽい声色。内緒話。
そんな経験は人生で初めてで。
エレーヌは頷くことしか出来なかった。
帰りの馬車の中、父は今日の評価をエレーヌに下す。
「よくやったなエレーヌ。及第点だ」
「はい」
「ヴァロワの令嬢は随分とお前からの贈り物を気に入ったようだな」
「はい」
「ヴァロワの重要性はこれからも上がっていくだろう。今日の交流はお前たち次世代が友諠を結んだという公然の事実。その価値を忘れるな」
「はい」
「それからだ、今後は―――」
「……はい」
父が、何か言っている。
しかし、そんなことは興味がない。
『また、お会いして下さると、嬉しいです』
脳裏に響き続けるのは別れ際のルミエの一言。
それだけだ。
(ああ、ルミエ様)
窓に映る自分が今どんな顔をしているか、自覚はない。
ただ次の邂逅。
それだけを夢見てエレーヌは帰路に就く。
(ああ、そうだわ。また、絵を描かなくちゃ)
今日のルミエとの思い出を永遠にするために。




