第1話
紀元前31年――鏡面のような穏やかな海、そこには星々が映し出されている。天頂にはひときわ輝く三つの一等星が大きな三角形を描いていた。しかし、南の空に見えるはずの蠍座のアンタレスは、圧倒的な光に飲まれてしまっている。
アレクサンドリア沖にあるファロスの灯台だ。この高さ百メートルを超える世界最高峰の灯台は、二百年以上もその赤い炎で港を照らし続けてきた。
その向こうには海に突き出たロキアス岬が構える。等間隔の松明でぼんやりと浮かび上がる大理石の王宮と大貴族らの邸宅が立ち並び、一つの白亜の巨大な要塞のようで見る者を圧倒する。この王宮には幼いファラオ・プトレマイオス十五世がいるが、母であるクレオパトラ七世の姿はない。女王は遥か西、ギリシア北西部のイオニア海――決戦の地アクティウムに軍勢を率いて去って行った。
この王宮地区の東港を望む高台にひときわ大きい中庭を持つ豪勢な邸宅があった。噴水の立てる水音も内陸からの重く湿った風の熱気を落とすには至らない。ヘレニズム文化を象徴する大理石の列柱が並び、中庭一面に敷き詰められたモザイクに黒々と影を落としていた。
その静けさを破るように優美なリュラの音色が男性用の客間から聞こえてくる。壁際に並ぶ寝椅子に寝そべる男達は皆、杯を傾けたまま部屋の奥の奏者へ視線を向けていた。
弓状の曲線美の椅子に浅く腰掛け、リュラを爪弾く青年――滑らかなトネリコと磨き抜かれた鼈甲でできた最高級品を携えている。黒い緩やかなウェーブのかかった前髪がコホルで縁取られた目元でかすかに揺れる。マケドニア軍人の血を引く端正な鼻梁と、まだ少年らしさが抜け切れぬ柔らかさの残る小麦色の頬。上品に結ばれた唇に、細くしなやかな指。その弦から生み出される旋律は、耳にする者の脈を鎮め、ひと時の癒しを与える。
演奏が終わると、客人達は指を鳴らし彼を称えた。
「フィロタス、今宵も見事であったぞ」
青年の背後の寝椅子から太い低い声がかけられた。
「それはヒュパトス様の日頃のご指導のおかげです」
フィロタスは琥珀色の瞳を艶やかに輝かせて応じると、リュラを椅子に丁寧に預け、自らは貴族ヒュパトスの寝椅子に腰掛けた。ヒュパトスの淡い空色の瞳には、演奏を終え少し安堵したような青年の横顔が映っている。青年の汗ばんだうなじからはほのかに蓮の香りが漂う。ヒュパトスは大きなため息をついた。
「ヒュパトス殿は一体どこでこのような優れた少年を探し出してくるのだ? 私の元へ来た者は器量良しだが、奏でる音ときたら聴けたものではありません」
末席のやや腹の出た男が杯を揺らしながら愚痴をこぼした。すると左隣の男が間髪入れずに言った。
「それはクラテロス、貴殿も人のことが言えぬであろう。力任せに弾いて弦を初日で二本も切っていたのはどこのどいつだ?」
「ヘラルドス殿、いつの話をしているのだ! それは幼少の頃の初めての授業ではないか。三十年以上昔のことを今更――」
部屋中がどっと笑いに包まれた。揶揄われたクラテロスは耳まで赤く染めて俯いてしまった。
フィロタスもその滑稽さに他の貴族らと一緒になって思わず口元を緩め、声を立てそうになった。しかし、すっと伸びてきたヒュパトスの白い滑らかな手が、フィロタスの膝に置かれた。指先に込められた微かな力で、彼はヒュパトスの言わんとすることを察し、慎ましい表情へと戻した。
部屋に満ちていた笑い声が落ち着いたのを見計らい、ヘラルドスが口を開いた。
「ヒュパトス殿はギュムナシオンの競演で彼を見出したんだったかな」
「そうとも、そうとも。あれは彼が十六の時だった。忘れもしないヘルマイア祭のリュラの競演だ」
ヒュパトスは目を細め、慈しむようにフィロタスを見つめた。そして、その大きな手を出会った当初より少し厚みの出てきたフィロタスの肩に置き、言葉を続けた。
「彼の指が弾いた最初の一音――あれはただの弦の響きではなかった。灼熱の砂漠に突如一滴の雫が落ちてくるような神秘であった」
「あの演奏は私も聴いていた! かねてより名手と噂されていた少年らを差し置いてフィロタスが銀梅花の冠を授けられていた」
ヒュパトスの右に座る赤ら顔の男がフィロタスに向けて杯を掲げながら急に声高に言葉を被せてきた。傾いた杯からは今にもマレオティス湖畔産の白ワインが零れそうだった。
昼間は滅多に表情を崩さぬこの高貴な男が今宵はやけに酔っ払っている。フィロタスはその落差を面白がるように、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべて眺めていた。
ヘラルドスは奥の寝椅子で寄り添うヒュパトスとフィロタスを羨望の眼差しで見つめながら口を開いた。
「フィロタスがここへ来たばかりの時のリュラも美しかったが、宵を重ねるごとに深みが増している。やはりかつて『音楽の神の申し子』と称されたヒュパトス殿の元に身を置いているからか」
ヘラルドス自身も少年時代はリュラの名手と謳われていたが、競演ではいつもヒュパトスの後塵を拝していた。
すると、再び赤ら顔の男――テレマコスが熱く語り始めた。
「そりゃあ、ヒュパトス殿は別格に決まっている。彼の祖父を誰と心得ている! かの宮廷楽師達を震撼させた王プトレマイオス十二世であらせられるぞ」
「テレマコス、よしてくれ。私の母は庶出の身だ」
ヒュパトスは苦笑しながら手を振った。
「だが、そのお陰でこうして骨肉の争いに巻き込まれず、貴殿らと酒が酌み交わせるのだ」
ふと、ヒュパトスとフィロタスの視線が絡み合った。もし、ヒュパトスが王位継承戦の渦中にいたなら、こうして出会うことすら叶わなかったはずだ。
ヒュパトスの祖父プトレマイオス十二世もローマへの亡命からの帰国後に実の娘である女王を処刑し、現にクレオパトラ七世も妹や二人の弟を葬り去っている。
若きプトレマイオス十二世と宮廷侍女との間に生まれた庶出の王女は、母親の身分の低さゆえに、王位継承争いからは遠く離れ大貴族エウクラテスへ嫁いだ。そうして生まれたのがヒュパトスである。
王位継承の混沌から遠く隔てられていたからこそ、ヒュパトスは芸術や学問を愛する気質を濁らせることなく、父祖が築いた莫大な財と名声を守り継ぐことができたのだった。
「我らが友、ヒュパトス殿に乾杯!」
テレマコスが杯を天に突き上げ、勢いよく立ち上がり中庭にまで届くほど声を張り上げた。しかし、長年の軍務で鍛え上げられた肉体にもかかわらず足元がおぼつかなくなっている。上質なキトンの背中は汗でぐっしょり濡れており、息が荒くなっていた。
フィロタスはテレマコスの巨体を支えながら、優しく杯を取り上げ彼を寝椅子に寝かせた。
「すまないが、水を運んできてくれないか。あと塩と蜂蜜もいただきたい」
フィロタスは控えていた使用人に命じた。
すぐに水と塩、蜂蜜が運び込まれた。フィロタスは手際良く水に塩と蜂蜜を溶かし、それをテレマコスの口元に運んだ。
「テレマコス殿、今日は一体どうなされたのですか? お酒の進みがいつもよりお早いかと」
介抱しながら男の顔色を窺うフィロタスの琥珀色の瞳から先刻までの少年の無邪気さは消え失せている。その代わり、相手の呼吸、脈動を冷静に見極める刃のような鋭さが宿っていた。
差し出された杯を飲み干すと、テレマコスの角ばった頬の赤みが微かに和らいでいった。
その様子をヒュパトスは大層満足げに目を細めて眺めていた。
「テレマコスよ、少しは気分が良くなったであろう?」
「ヒュパトス殿、そしてフィロタス。誠にかたじけない」
テレマコスは決まり悪そうに、低く落ち着いた声で頭を下げた。
ヒュパトスは自らの寝椅子の端をポンと叩き、床に跪いていたフィロタスを手元に呼び寄せる。
「フィロタスは今やムセイオンで医術を修めていてね。かつて宮廷侍医も任ぜられたエウデモス殿の門下生なのだ。特に解剖学では師匠からも一目置かれているようだ」
ヒュパトスはまるで自らの至宝を誇るように、フィロタスの肩を愛おしげに叩いた。
「身に余るお言葉です。これは全て私を見出してくださったヒュパトス様のおかげです。地方の下級貴族にすぎぬ実家の財力では、こうして医学を学ぶことすら叶わなかったのですから」
フィロタスは長い睫毛を伏せ、慎ましやかに微笑んだ。
夜も更け、ヒュパトスの邸宅を訪れていた客人たちは一人、また一人と帰っていった。
広間に残されたのは、主人であるヒュパトスとフィロタス、そしてテレマコスの三人だけだった。
「ヒュパトス……」
すっかり酔いが覚めた低い声でテレマコスは口を開いた。宴の間、大声を張り上げて杯を煽っていた赤ら顔の男とは別人のような重々しい口調だ。
フィロタスはその声から二人の間に交わされる密議を察した。
「それでは、私は自室へ下がらせていただきます」
青年は深々と頭を下げると、音もなく身を翻して広間を後にした。ヒュパトスは吸い寄せられるようにフィロタスの姿を見送る。重い扉をくぐる間際、フィロタスが不意に振り返った。その艶やかな琥珀色の瞳がヒュパトスの視線を捉えた。
彼はそのまま中庭へ出ていき、広間には微かな蓮の香りだけが取り残されていた。




