1999年7月2日 『シオンと詩音』
焼酎はいい……。それとも私と相性がいいのであろうか……。今まで焼酎で二日酔いに悩まされた事はない。今朝も爽快な目覚めだ。
まったく年は取りたくないものである。自然とお日様よりも早起きしてしまう。若かりし頃より楽しめる時間に限りが見えて来る分、もっと楽しめということか……。いずれにせよ、これが今の私の日常である。一通りの日課をこなし、朝食を準備していたとき携帯が鳴った。知らない番号である。
「もしもし……」
「もしもし、おはようございます。
ゆりあです。
昨夜は本当にありがとうございました」
「これは、これは……。
おはようございます。
こちらこそ、素晴らしく楽しいひと時を
ありがとうございました。
わざわざお電話までいただきまして、
ありがとう」
「……実は、ちょっと、
見てもらいたいモノがありまして……」
「私にですか?」
「はい。是非、見てもらいたいんです……」
「勿論構いませんよ。
いつがご都合がよろしいのかな?」
「今日の午後とか、ご都合はどうでしょうか?
3時位とか……」
「あ~全然構いませんよ。
どちらに赴けばよろしいですかな」
「私の勤めてる病院なんです」
「病院?それは……。
花音君に関係することですかな?」
「えぇ。ですが、このことは
あの子には言っておりません」
「と……言う事は、
私も他言無用ということですな?」
「はい。お願いします」
「わかりました。で、病院名は?」
「そちらの携帯に
情報をメールさせていただきます。
それでご確認いただけますか?
もし、わからないことがありましたら、
お手数ですがご連絡頂けると助かります」
「わかりました。
この番号はあなたの携帯番号ですかな?」
「えぇ」
「では、登録しても?」
「えぇ、どうぞ」
それにしても、なんとも落ち着く声と口調だ。
「では、後ほど……」
「えぇ……。お待ち致しております」
そう言うと、彼女は私が切るまで待ってくれていた。電話を切って暫くいろんな想像が頭をよぎった……。残念ながら、どれもこれも、良い想像ではなかったのだが、このことは花音君と『彼』の『鍵』になることは間違いない。そういう意味では前向きに興味をそそられた。
お昼になり、いつものようにお昼ご飯をこしらえた。今日は目玉焼きとトーストにした。
目玉焼きは半熟、トーストはバターを薄く塗り焼きすぎない。この相性は抜群だ。自分のペースで食事が出来るというのは喜ばしく幸せなことだ。約束の時間までまだあったためお気に入りの庭の椅子で、小鳥達とうたた寝と洒落込むことにした。薄明かるい陽光のような風とぽかぽか陽気が心地よい昼下がりの、一番贅沢で幸せな過ごし方だろう。程なくして、小鳥達の柔らかい歌声に心地よく目覚めると丁度良い時間だった。ゆっくり支度して、送ってもらったメールで場所の再確認をした。こちらも、歩いて行ける距離だ。散歩には丁度良い距離、一石二鳥だ。家を出て15分程歩き、見えてきた病院がそうである。県立の大型総合病院だ。来たことあるような不思議な感覚だ。これが本当のデジャブと言うものであろうか……。いや……、来た事がある。確か、2年ほど前、風邪をこじらせた際、ここを紹介され受診したことが……。最近、物忘れとデジャブの区別が微妙になってきている気がするが、よくよく考えるとほぼほぼ物忘れと勘違いだ。いつになったらデジャブを体験できるやら。ここの精神科が彼女の城だ。さて、城門に挑むとするか。と、勇んで向かおうとすると目の前のエスカレーターの横に彼女の姿を見つけた。
「お早いですね」
「あなたこそ、お早い。
待っていてくださったのですね、
ありがとう」
「いえ、私も今来たところでした。
では早速こちらへ……」
彼女の行動や言葉が花音君と同じということは、花音君のそれは彼女の……。なるほど出来たお嬢さんだ……。地下二階の迷路のような通路を当たり前だが迷うことなく『そこ』へと辿り着いた。普通の病室である。彼女がドアを開けると、彼女の自宅がそこにあった……。と表現してもおかしくないほど雰囲気が似ていた。そこには幾つかの棚と清潔なベッド、そして何やら医療機器が配置されていた。
「さぁこちらへどうぞ」
彼女の表情が、この出逢いの深さと重さを物語っていた。私は期待と不安に揺れ動きながら、ベッドに横たわる人物の顔を覗き込んだ。
「!!!っこれはっ」
私は『驚愕』し、息をのんだ。確かに初対面のその青年に『彼』を見たのだ。
「シオン……君……」
「やはりそう見えますか?
あなたが見たのはこの子……、
詩音なんですか?」
彼女はすがるような目で私を見た。
「いえ、見た目はちょっと違います。
しかし、私もなぜだか判りませんが
シオン君と呼んでしまいました。
どういうことなんでしょう……」
私が戸惑うのを見て彼女が続けた
「私は花音から
初めてあなたからの話を聞いたときに、
同じ名前と、似たような風貌に
偶然ではなく必然を感じたんです。
それは間違いなく詩音だと……。
それで、次にあなたからの連絡が来たら
逢わせて欲しい、話を直接聞きたいと
あの子に頼んだんです。
そして先日、あなたに直接話を聞いて
確信しました。
『彼』はやはり詩音だと……」
「あなたと詩音君のご関係は?」
「詩音は私の息子、花音の双子の兄です」
私はなぜだか一瞬でそれを受け入れることができた。
「そうだったのですか……。
花音君に詩音君の存在を明かさないのも
深い事情がおありなのですね……」
「えぇ……」
彼女は優しい眼差しで詩音君を見つめ、彼の髪を撫でながらそう言った。
「詩音君の存在と花音君の多重人格には
何か関係がおありで?」
「……10年前の事件……あのときから
私たちの時間は留まったまま……。
それが今、私たちの知らないところで
動き出そうとしている。
何か大きなチカラが働いているような……。 これに何の意味があるのか
今はわかりませんが
何かが起きているのは確かです……。
でも不思議と悪い予感はしないんです。
心地よい風が吹き始めた、
そんな感じなんです……」
「10年前?差し支え無ければ……」
「えぇ……
あれは10年前の夏……。
ちょうど今くらいの
蒸し暑く寝苦しい夜でした。
当事、私は子供達3人と
閑静な住宅街から少し離れた
見晴らしの良い高台にある
一軒家で暮らしていました。
主人は私の患者として
この病院に入院していました。
主人も花音と同じ、
所謂『解離性同一性障害』で、
1年近く症状の波が酷く
入退院を繰り返しており、
あの日も入院中でした。
あの夜、子供達を寝かしつけた後、
いつものようにレポートをまとめ
2時過ぎにベッドに入りました。
なかなか寝付けずにいたのですが、
急に携帯が鳴ったんです。
あの時間に鳴る電話が
良い知らせではないのは
容易に想像できました。
いつものそれと違い、
胸騒ぎを感じつつ電話をとると、
やはり病院の夜勤の看護師からでした。
彼女は慌てる様子もなく、
状況を手短に的確に報告してくれました。
病室にも院内にも
主人の姿が見当たらない
とのことだったので、
私は子供達を起こさないように
そっと病院に向かおうとしたのですが、
電話のやり取りに詩音が気付いたらしく
起き出して来たので、事情を告げ
花音と、恵梨守を任せて
病院へと車を走らせました。
病室に入り、一通り辺りを確認すると、
ベッド横の机の引出しが
少し空いてるのに気付き、何気なく開くと
主人の手帳がそこにありました。
手に取り自然と開いた頁に目をやると、
9月のカレンダーの頁、
そこのまさにその日の日付の欄に
『詩音覚醒』と走り書きがあるのをみて、
酷い胸騒ぎに襲われたんです。
自宅に電話を入れたのですが、
コール音が延々と続くばかりで、
そこに人の気配を感じられなかったので
私は急いで自宅へと車を走らせました。
自宅に近づくにつれ
私の不安を煽るかのように
蒼闇の空が深紅へ、そして鮮やかな
橙紅へと様相を変えていく中、
兎に角、子供達の無事を祈りました。
やっと自宅が見えたと思った瞬間、
悪夢の光景が目に飛び込んで来ました。
すでに慌ただしい消火作業のなか、
燃え盛る家を前に呆然と立ち尽くす花音と
泣き崩れる恵梨守の姿が見えました。
私は直ぐに詩音の姿が無いことに気付き、
車をそのまま路上に放置して
家に飛び込もうとしたんですが
消防士の方に制止されてしまいました。
振り解こうとしましたが、
振り解くことが出来ずにいると、
燃え盛る玄関から
人影が飛び出して来たんです。その人影は、
腕の中に気を失った詩音を大切に抱えて、
着いたばかりの救急隊員達に
雪崩れ込んだんです。一瞬の出来事で
詩音に気を取られていたため
その方の顔を良く見ませんでした。
私もそこに走り寄り
詩音の名前を呼んだんですが
反応がないまま救急車両へと運ばれ
私も花音と恵梨守を連れ同乗しました。
ほっとした時、あの方のことを思い出し、
確認したところ、別の病院に向かっており
命に別状はないとのことだったので、
取り敢えずその方のことは
そちらの病院におまかせして
子供達の事に専念しました。
私達は私の病院へ受け入れ要請をして
向かっておりました。詩音は意識が無く、
外傷は軽い火傷が何箇所かあっただけで
見た目には他は何ともなく
バイタルも安定していたので
一応の応急措置を施しました。
花音も外傷はなかったんですが
疲れたのか私の膝の上で眠り込み、
恵梨守は恐怖のあまり震えていたので
左に抱き締めたまま病院へ到着しました。
自宅から病院までの15分が
どんなにも長く感じたことか……。
着くなり、詩音だけ救命救急扱いで
処置室へと運ばれましたが、
やはり軽い火傷だけでした。
他、外傷も無く、他の検査の結果、
内臓にも損傷は無かったのですが、
意識が戻らずそのまま今に至ります……。
もう10年間このままなんです……。
原因が未だに分かりません。
そして、あの火事の翌日、
さらに追い討ちをかける出来事が
待ち受けておりました。
花音と恵梨守が目覚めた時に、
二人とも火事は憶えていたのですが、
その前日から遡る丁度一年間だけの
記憶を無くしていたんです。
もっと驚いたのは
二人とも一年間の記憶に加え、
詩音の記憶だけが一切無かったのです。
恵梨守に至っては、
あれ以来、男性に異常な拒否反応を
示すようになりました。
兄である花音ですら
畏怖の対象になるほど……。
花音に至っては、主人と同じで
『解離性同一性障害』の症状が
幾分、悪化しており
『カムイ』という人格とは別に
新たな人格が生まれたようでした……。
そういうこともあり、念のため3人とも
この病院で私が主治医として
治療を続けるために入院させました。
詩音は昏睡状態から目覚めることもなく、
花音と恵梨守は
二人とも症状が似ていたため
カウンセリングと数種類の投薬で
経過を観察していましたが
落ち着いてきても、二人に2つの記憶が
戻る兆しはありませんでした。
入院している間、
二人に何度かあの夜の出来事を
聞き出そうと試みましたが、
二人とも異常な程怯えたので、
暫くはそっとしておくことにしました。
1ケ月半、入院での治療を続け、
結果、辛い恐怖体験の記憶は克服でき、
見た目には普通の子供のようでした。
あくまで、見た目では……。
しかし、失われた1年間の記憶と
兄である詩音の記憶は戻りませんでした。
焦る必要はない……。
いつかは……、
何かのきっかけで……。
なんて言い訳を自分に言い聞かせながら
逃げ続けて10年も経ってしまいました。
もしかしたら、このまま忘れたままの方が
あの子らには幸せなのかもなんて
無責任なことを思ったりもして……。
あの子らと、そして詩音……。
3人の幸せを願えば願うほど
分からなくなってしまって……。
母親である私が未だにこんななんで、
今もまだ、二人には兄である
『詩音』の存在も告げられずにいます。
一人の医者として、母として、
何度も医者を辞めようとも思いましたが
あの子らの笑顔や、詩音の寝顔を見るたび
逃げることはできないと思い留まりました。 結局、入院での治療も、それ以上の
改善には期待できなかったので
通院に切り替えることにしました。
退院するにあたり、
私の姉を交えた4人で相談をして
それなりの妥協点を探りました。
取り敢えず花音は私が連れて帰ることにし、
恵梨守に於いては男性恐怖症も
克服出来ていなかったので、
よく懐いていた私の双子の姉に託しました」
「皆、さぞ、お辛かったことでしょうな」
「……本当に辛いのはあの子らです。
主人が……父親が居ない今、
私が導いてあげないといけないのに」
「そう自分を責めないでください」
しかし、それ以上気の利いた言葉は出ない。所詮、他人事。言葉は悪いが、それが事実。身内程入り込めもしない間柄で、どう体裁を繕っても、親身を装ってもそこに『我が身』が無い以上は全てが無責任に成りかねない。若い頃の勢いでもあれば思いの丈をぶつけられただろうが、そういう事が許される年は当の昔に通り過ぎた。当たり障りのない世渡りの仕方を自然と身に着けてきた今の私には言葉の重みと責任がやけに大きく感じた。
「ありがとうございます」
「いえ……。
で、ご主人とその恩人の方は?」
「主人はあの夜以来行方不明です。
あの恩人の方もあの日治療を終え、
翌日退院したまま行方がわからないんです。
すぐに捜索願を出したのですが、
二人とも未だに見つかりません。
あの日、何が……。
不可解な点がいくつかあるんです。
夫の手帳にあった詩音覚醒……。
私には未だにこの意味が分かりません。
私が家を空けた30分程の間に起きた火事。
結局、放火ということでしたが
犯人は未だに捕まっておりません。
そして、あんな時間に詩音を助け出し、
行方を眩ましたあの方、
病院を抜け出し失踪した夫、
昏睡状態の詩音、
二人から失われた詩音の記憶、
これは全て繋がりがあるはず……。
これだけいろいろあると、
『何か』があるとしか思えないんです。
『あの日』私達に起きた『真実』……。
私はあの日からずっと探してきました。
そして10年目の今、
やっと『何か』が動き出しました。
偶然にしろ必然にしろ、
きっと、答えが見つかる……。
そう確信してます」
彼女は詩音君を見つめながら穏やかにそう話してくれた……。
「今日はお呼び立てしてすいませんでした。
おかげで心がだいぶ軽くなりました」
「いえいえ……。
お役に立てるかわかりませんが、
精一杯、協力させていただきます」
「ありがとうございます。
よろしくお願い致します」
彼女は疲れ果てているだろうに、そんな素振りは一切見せはしなかった。気丈な人だ……。彼女のこれまでの10年を思うと私は胸を抉られる思いがした……。私に出来ることは誠心誠意しようと始めの頃とは違う感情で改めて決心して病室を後にした……。




