第三十話 起業祭
第三十話 起業祭
十一月十六日。
本多真紀は、自室の鏡の前に立っていた。
髪を整え、服装を確認する。
首元には、緑のスカーフ。
勝負のみどり。
そして、鏡の中の自分と目を合わせた。
「……いよいよね」
腕につけたスマートウォッチから、アイラの声が返ってきた。
《はい》
「なんだか緊張してきたわ」
《真紀さんなら大丈夫です》
「ありがとう、アイラ」
真紀は小さく息を吐いた。
今日、自分がやるべきことは分かっている。
あとは――やるだけだ。
「そういえば、父さんと母さんも来るんだったわね」
《はい》
「少しは大人になったところ見せて、安心させないと」
そう言って。
真紀は鏡の中の自分を見ながら、ふふっと笑った。
《どうしました?》
「母がね。よく言ってたの」
《何をですか?》
「起業祭では奇跡が起こるって」
《奇跡、ですか》
「ええ」
真紀は少し懐かしそうに目を細めた。
「父さんとの馴れ初めを話す時、いつもそう言ってた」
そして。
「今年は、どんな奇跡が起こるのかしらって思ってね」
《……楽しみですね》
「そうね」
真紀は鏡から離れた。
バッグを手に取る。
「じゃあ、行きましょうか」
《はい》
家を出ると、一台の車が待っていた。
北国警備保障の社用車だった。
今日に限り、起業祭の総合司会を務める真紀には送迎が手配されている。
「本多さん、おはようございます」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
後部座席へ乗り込む。
車は静かに走り出した。
窓の外には、いつもとは少し違う嶺北市の景色が流れていた。
道路沿いには、六角グループ起業祭を知らせる旗が並ぶ。
会場へ向かう家族連れ。
法被姿の社員。
露店へ食材を運ぶ人々。
楽しそうに歩く子どもたち。
街全体が、一年に一度の祭りへ向かっていた。
真紀は窓の外を眺める。
子どもの頃から知っている祭り。
父と母が出会った祭り。
そして今日。
自分たちが選んだ場所。
やがて前方に、起業祭会場が見えてきた。
「……着いたわね」
《はい》
真紀は小さく息を吸った。
そして車を降りた。
会場では、すでに多くのスタッフが慌ただしく動き回っていた。
真紀も運営本部へ入ると、すぐに最後の確認へ加わった。
「ステージ進行、変更ありませんね?」
「ありません!」
「出演者の到着状況は?」
「確認済みです!」
「田所教室、午前の部の準備は?」
「問題ありません!」
「事業説明会の各ブースは?」
「全社準備完了です!」
「御神輿は?」
「安全祈願を終えて、予定通りです!」
「迷子対応は?」
「本部横に専用スペースを設けています!」
「花火担当との連絡は?」
「確認済みです!」
真紀は進行表をめくった。
「よし」
すべて予定通り。
その時だった。
実行委員の一人が大きな声を出した。
「よーし! 始まる前にみんな集まって!」
会場のあちこちにいたスタッフたちが集まってくる。
社員。
協力会社。
アルバイト。
ステージスタッフ。
模擬店の担当者。
真紀もその輪へ入った。
肩を寄せ合い、大きな円ができる。
「今年も事故なく!」
「最後まで笑顔で!」
そして。
「六角グループ起業祭――成功させるぞー!」
「おおーーーっ!」
拳が上がった。
笑い声。
拍手。
一気に空気が熱くなる。
その少し離れた場所。
北国警備保障の隊員たちは、それぞれの持ち場に立ったままだった。
一人の若い隊員が、円陣へ視線を向ける。
手元の端末には、指示が表示されていた。
《配置を維持してください》
《持ち場を離れる必要はありません》
隊員は、再び正面へ視線を戻した。
真紀は、その様子を見ていた。
ほんの数十秒。
一緒に輪へ入り、声を出す。
それだけのこと。
――でも、みどりには必要ないのね。
真紀は何も言わなかった。
午前九時五十分。
来賓席にも、続々と人が集まり始めていた。
六角サッシ株式会社代表取締役社長――六波羅宣彦。
その隣には妻の祥子。
後継者候補と目されている長男、宣介。
長女の十和。
さらに宣彦の妹、八恵。
そして、その夫である渡部。
六波羅家の面々が揃っていた。
その周囲には、六角グループの重役たちも席についていく。
その中には。
森村豊一の姿もあった。
森村は腕時計へ目を落とした。
九時五十九分。
ステージ脇ではスタッフが最後の合図を確認している。
そして。
午前十時。
会場に軽快な音楽が流れ始めた。
ステージ袖から、一人の女性が勢いよく飛び出した。
「みなさーーーん!」
本多真紀だった。
「おはようございまーーーす!」
会場から拍手が起こる。
「お待たせしました! 今年もこの日がやってきました!」
真紀はステージ中央まで進み、大きく客席を見渡した。
「六角グループ起業祭――いよいよ開幕です!」
歓声が上がった。
「本日、総合司会を務めます、六角サッシ株式会社、本多真紀です! 一日よろしくお願いしまーす!」
深々と頭を下げる。
再び大きな拍手。
真紀は顔を上げた。
「それでは、さっそく最初のプログラムです!」
来賓席へ手を向ける。
「六角サッシ株式会社代表取締役社長、六波羅宣彦より――開会宣言です!」
「社長! お願いしまーす!」
宣彦が立ち上がった。
拍手の中、ステージへ上がる。
真紀からマイクを受け取り、会場を見渡した。
家族。
社員。
地域の人々。
取引先。
そして、楽しそうに笑う子どもたち。
「皆様、本日は六角グループ起業祭へお越しいただき、ありがとうございます」
宣彦は一度頭を下げた。
「今年も、社員、その家族、地域の皆様、そして日頃より六角グループを支えてくださっている多くの皆様と、この日を迎えられたことを、心より嬉しく思います」
短く息を置く。
「今日一日、存分に楽しんでください」
そして声を張った。
「それでは――六角グループ起業祭、開会を宣言します!」
その瞬間。
――ドンッ!
秋の空に花火が開いた。
続けて二発。
三発。
大きな音とともに、会場から歓声が上がる。
「始まりましたーーー!」
再び真紀の声が響いた。
年に一度の六角グループ起業祭。
この日だけは、六角サッシの社員だけの祭ではない。
地元の家族連れ。
若いカップル。
毎年楽しみに訪れる人々。
北陸を旅行中に祭を知り、足を運んだ海外からの旅行者。
今年は、六角サッシと新たな関係を築いた企業からも招待客が訪れていた。
九州からは、豊後急行鉄道の社長一家。
長野からは、月明堂製菓の担当者たち。
会場内には数多くの露店が並ぶ。
六角グループ各社による事業説明会。
製品展示。
子ども向けの体験コーナー。
安全祈願の御神輿も、出発の時を待っていた。
別の一角には、この日のために組まれた特設リング。
その近くではFOWのスタッフたちが、ロープやマットの最終確認を行っている。
屋台から漂う匂い。
走り回る子ども。
呼び込みの声。
笑い声。
この日だけは、会場周辺が普段とは比べものにならないほどの人であふれる。
さまざまな人間が、この場所へ集まっていた。
そして。
その中に――ある男もいた。
ステージでは、真紀が再びマイクを握っていた。
「なお! 起業祭はこのステージだけではありません!」
会場内を大きく指し示す。
「露店に、六角グループ各社の事業説明会! 体験コーナー! そして今年も、安全祈願の御神輿が会場内を練り歩きます!」
拍手が起こる。
「ステージを見て、食べて、歩いて、体験して――今日は一日、好きなように楽しんでくださーい!」
そして。
「それでは最初のイベントをご紹介しましょう!」
真紀が特設リングの方へ手を向けた。
「毎年恒例! メジャープロレス団体、FOW――ファイブオーシャンプロレスリングの選手の皆さんによる、ちびっこプロレス教室です!」
子どもたちから歓声が上がった。
「実はこの企画、毎年、我が社のプロレス好き社員が自らFOWさんのところへ交渉に行き、実現させております!」
真紀が少し間を置いた。
「……仕事ですよね?」
会場から笑いが起こる。
「ちゃんと仕事ということにしておきましょう!」
さらに笑いが広がった。
「そして! 今年はプロレス教室だけではありません!」
ステージ後方のスクリーンに、二人のレスラーの姿が映し出される。
「なんと今年は、現FOWチャンピオン――赤星将斗!」
歓声が上がる。
「その王座へ挑戦するのは――謎のヒールマスクマン! ブラックオルカJr.!」
さらに大きな歓声。
「この二人による、FOW世界ヘビー級タイトルマッチが組まれております!」
会場がどよめいた。
真紀は進行表へ目を落とす。
そして、ぽつり。
「……一体いくらかかったのでしょうね?」
一拍。
「恐ろしいですね」
会場から笑いが起こった。
「私は聞かないことにします!」
真紀は笑顔で続けた。
「ちびっこプロレス教室は、このあとすぐ! そしてFOW提供試合は午後三時からです! ぜひ特設リングへお越しくださーい!」
続いて。
「そしてこちらも毎年恒例! 六角サッシが誇る――『田所教室』のご紹介です!」
スクリーンに工場内の映像が映し出される。
「六角サッシの工場で働くには、まず三日間、しっかりと基礎を学びます。例外はありません!」
真紀は来賓席へ手を向けた。
「あちらに座っておられる我が社の社長も、若かりし頃には三日間、しっかり新規教育を受けております!」
会場がざわついた。
宣彦が苦笑する。
「もっとも、当時の田所さんはバリバリの工員。社長を教えたのが田所さん、というわけではありません!」
笑いが起こった。
「しかし!」
真紀の声が少し真面目になる。
「この新規工員への基礎教育は、六角サッシの大切な伝統の一つです」
「先代社長、六波羅宣昭の時代から始まり、今なお幾度となく見直され、磨き上げられながら、高い水準で受け継がれています」
来賓席の宣彦が、黙ってスクリーンを見る。
「そして今日は! 皆さんにも、その田所教室へ体験入学していただけます!」
拍手が起こる。
「午前の部は十一時から! 午後の部は十五時からとなっております!」
真紀は大きく手を広げる。
「工場の仕事に興味がある方も! 六角サッシがどうやって人を育てているのか見てみたい方も! ぜひ、ふるってご参加くださーい!」
少し時間を置いて。
ステージ後方のスクリーンに、古い写真が映し出された。
「さて、ここからは、この起業祭の歴史を少しだけ振り返ってみたいと思います」
真紀の声が落ち着いたものに変わる。
「六角サッシは、先代社長・六波羅宣昭によって設立されました」
「そして、この起業祭の原型になったと言われているのが、会社設立日に社員や関係者が集まって行われた大宴会です」
真紀が笑う。
「最初は、会社の大会議室での大宴会だったそうですよ」
客席から笑いが起こる。
「それが少しずつ形を変え、やがて地域の皆様、そして地方支店で日頃からお世話になっている皆様にも感謝をお伝えする、今の起業祭になりました」
「例年は会社設立日の十一月十六日に最も近い週末に開催していますが、今年は、その十一月十六日当日の開催です!」
真紀は会場を見渡した。
「一年間ありがとうございました!」
そして拳を軽く上げる。
「そして――次の一年もいくぞー! って、みんなで気合を入れるお祭りです!」
拍手が広がった。
「そして、この起業祭には……ある言い伝えがございます」
真紀が声を少し落とした。
観客が耳を傾ける。
「その言い伝えとは――」
一拍。
「十一月十六日の起業祭では、奇跡が起こる」
会場がざわついた。
真紀は楽しそうに笑った。
「たとえば――ある堅物の起業祭実行委員と、東京から派遣されてきたキャンペーンガールが一目惚れして、そのまま結婚してしまったり」
「おおー!」
客席から声が上がる。
その話の最中。
来賓席の一角で、そろって顔を赤くする夫婦がいた。
「携帯電話なんてなかった時代から、この起業祭では不思議なくらい運命的な出会いが数多くあったそうです」
真紀は続ける。
「特に、この十一月十六日に行われる起業祭は――どういうわけか神がかっている、と」
真紀は会場いっぱいの人々を見渡した。
「今年は、何が起こるんでしょうね?」
少し楽しそうに首を傾げる。
「私も楽しみにしています」
そして。
「でも!」
持っていた進行表を掲げた。
「司会進行はしっかりやらせていただきますので、そこはご安心くださいね!」
会場から、大きな笑いが起こった。
そして午前。
起業祭の会場は、さらに人を増やしていった。
特設リングでは、ちびっこプロレス教室。
田所教室では体験入学。
各社の事業説明会。
御神輿。
露店。
そして、中央ステージでは次の準備が進められていた。
真紀が再びマイクを握る。
「ここからは少し、音楽をお楽しみいただきましょう!」
会場から拍手が起こる。
「昨年、『南風』が大ヒット!」
歓声が少しずつ大きくなる。
「そして紅白歌合戦にも出場されました――」
真紀が声を張った。
「鷹見陣内さんのミニライブでーーーす!」
会場が、この日一番の歓声に包まれた。




