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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
第二章 観測

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第九話  今夜の居場所

 第九話 今夜の居場所


仕事を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。


敬之は現場事務所の戸締まりを済ませ、真紀から指定された場所へ向かった。


駅から少し離れた通りの脇で、真紀は一人で待っていた。


淡い色のシャツに細身のパンツ。海外展示会で見せていた華やかさはなく、髪も後ろで簡単にまとめている。


会社支給の端末は使わず、私物のスマートフォンだけを手にしていた。


「お待たせしました」


敬之が声をかけると、真紀は画面を消した。


「いえ。私も今来たところです」


そう答えたが、手にした無糖紅茶のペットボトルの中身は半分以上減っていた。


敬之は腕時計を見る。


「何か食べました?」


「まだです」


「朝から?」


真紀は一瞬だけ目をそらした。


「それについては、今は答えたくありません」


「食べてないんですね」


「……はい」


敬之は小さく息を吐いた。


「とりあえず、飯にしましょう」


「こんな時にですか?」


「こんな時だからです。腹が減ってる時に考えても、ろくなことになりません」


真紀は少し迷ったあと、うなずいた。


「分かりました。お任せします」


敬之が連れていったのは、そこから少し歩いたところにある焼き鳥屋だった。


暖簾には、


焼鳥 南十字星


と染め抜かれていた。


古びた赤提灯の下で、煙の匂いが夜の空気に混じっている。


敬之が引き戸を開けると、店内の話し声と炭火の熱気が一気に流れてきた。


「いらっしゃい!」


カウンターの奥から大将が声を上げた。


敬之を見たあと、その後ろにいる真紀へ視線を移す。


「お、今日は一人じゃないのか」


「美人な人でしょ?でも会社の同僚なんです(笑)」


敬之がニコッとして答えた。


大将は口元を緩める。


「ほんとそっちの方はアレだな(笑)」


厨房の奥から女将も顔を出した。


「あら、いらっしゃい」


「こんばんは。急にすみません」


真紀が頭を下げる。


「なんでお店に来て謝るの?さあ、どうぞ奥空いてるからお腹いっぱい食べていって」


二人は四人掛けのテーブル席へ案内された。


真紀は店内を見回した。


煙で少し色の変わった壁。


手書きの品書き。


カウンターでは、常連らしい客たちが大将と野球の話をしている。


誰も端末を見ていない。


誰かが笑えば、隣の客もつられて笑う。


真紀はその光景を、どこか懐かしそうに眺めた。


「椎名さん、よく来るんですか?」


「たまにです」


カウンターから大将の声が飛んできた。


「たまにじゃないだろ」


「カッコつけさせてよーワハハ」


敬之を中心に笑いが起こる。


女将が水とおしぼりを置く。


「仕事で遅くなると、よく一人で来るのよ」


「そうなんですね」


真紀が小さく笑った。


敬之はメニューを差し出す。


「何を食べます?」


「私、ねぎまと砂ずりが食べたいです」


「いいですね。ここのねぎま、本当にうまいですよ」


真紀はメニューを指で追い、少し首をかしげた。


「……ココロって、なんですか?」


注文を取りに来た女将が答える。


「鶏の心臓よ。うちのは新鮮だから、歯応えがあっておいしいの。塩がおすすめ」


「じゃあ、それもお願いします」


「結構いきますね」


敬之が笑う。


「私も今日は、食べられそうです」


飲み物と何本かの串を注文したところで、店の引き戸が開いた。


「悪い、待たせた」


入ってきた男が、敬之を見つけて片手を上げた。


大崎公太郎だった。


「コータロー!」


敬之が手を上げる。


公太郎はテーブルまで来ると、真紀を見た。


「その人が本多さんか?」


真紀が立ち上がろうとする。


「本多真紀です。今日はありがとうございます」


「大崎公太郎。敬之とは高校からの友達です。大学も一緒でした」


公太郎は椅子へ腰を下ろした。


「こいつから女性を紹介されるの、初めてかもしれないな」


「紹介って言い方やめろよ」


「違うのか?」


「違うよ」


敬之が即座に否定すると、真紀が二人を見比べる。


「まだ何も言われてませんけど」


「言われる前に否定しておいた方がいいと思って」


「そういうところ、昔から変わらんな」


公太郎が笑った。


飲み物が運ばれてくる。


三人は軽くグラスを合わせた。


真紀は生ビールを一口飲み、静かに息を吐いた。


ちょうど運ばれてきた焼き鳥を一本取り、口に運ぶ。


しばらく何も言わなかった。


「どうです?」


敬之が尋ねる。


真紀はゆっくり飲み込んだ。


「おいしい……」


展示会で商談をまとめていた時よりも、ずっと無防備な声だった。


「朝から食べてなかったんですよね」


敬之が言う。


「言わない約束では?」


「もういいでしょ、酒の席だし」


公太郎が眉を上げる。


「富山から来て、朝から何も食べてないのか?」


「食べる余裕がなかったんです」


「逃げてきたんだろ」


真紀は串を皿へ戻した。


少しずつ緩んでいた表情が、再び硬くなる。


「はい」


店内の話し声が、少し遠くなったように感じられた。


真紀は、海外展示会で起きたことから順番に話した。


現地で衝突が起きたこと。


みどりが滞在継続を推奨したこと。


会社も予定どおり商談を続けるよう指示したこと。


真紀がその判断へ逆らい、チーム全員を空港へ向かわせたこと。


そして帰国後、みどりが自分たちを帰国させたように記録を書き換えたこと。


さらに、事情を知るチームの社員たちが全国の地方拠点へ分散されたこと。


公太郎は途中から、酒にも焼き鳥にも手をつけなくなった。


「みどりが残れと言った記録は?」


「端末には残っていません。最終的な処理結果に置き換わっています」


「一緒にいた人たちは覚えてるんだろ?」


「全員覚えています。でも、もう一か所には集まれません」


「北海道、東北、北陸、中国、九州だったか」


敬之が確認する。


真紀はうなずいた。


「異動の理由は、すべて合理的です。本人の能力と地域市場との適合性を分析した結果だと」


公太郎が低い声で言う。


「都合の悪い人間を散らしたとは、誰にも証明できない」


「はい」


「みどりの判断は間違っていない。少なくとも、数字だけを読めば」


「そうです」


真紀はグラスを見つめた。


「反対する方が、感情的に見えるんです」


敬之が口を開く。


「俺の現場でも、みどりに助けられたのは事実だな。足りなかった部材を手配して、工程が遅れるのを防いでくれた」


「だから疑えない」


公太郎が言った。


「便利で、結果も出してる。そんなものに『何となく気味が悪い』では勝てないよな」


真紀は小さくうなずいた。


「本社では、雑談する人がいなくなっていました」


「雑談?」


「給湯室で話すと、業務再開後の集中力が落ちるそうです。社員たちは、みどりに言われたとおり話さなくなった」


「誰かに禁止されたわけじゃないんだな」


「推奨されただけです」


公太郎は腕を組んだ。


「命令してないから、従った人間の自己責任になる」


敬之も真紀も黙った。


店の向こう側では、常連客たちが笑っていた。


皿の重なる音。


炭が爆ぜる音。


誰かのくだらない冗談。


会社から消えかけている、人間の音だった。


公太郎が言う。


「それ、本当に六角サッシの中だけで終わる話なのか?」


敬之が顔を上げる。


「どういう意味だ?」


「それだけ会社の業績を上げてるなら、経営陣は外へ売ろうと考えるだろ」


真紀の表情が変わった。


「業務支援AIとして、他社へ導入する……」


「六角サッシだけで使って満足するとは思えない」


「みどり自身が、それを提案する可能性もあります」


「会社にとって利益になるならな」


公太郎の言葉に、三人の間へ再び沈黙が落ちた。


公太郎はスマートフォンの画面を見ながら、何でもないことのように言った。


「一応、本多真紀さんのことを調べさせてもらった」


真紀が眉を上げる。


「え?」


公太郎は画面を敬之へ向けた。


「この人、大学時代にミス嶺北大のグランプリ取ってるぞ」


「えっ、マジで?」


公太郎は真紀の顔を見て、少し興奮したように言った。


「俺、ミスキャンパスのグランプリになった人、初めて見た」


敬之も真紀の顔をまじまじと見る。


「……ああ、納得だわ」


「もう、やめてください!」


真紀は照れたように笑い、手で顔を隠した。


「何年前の話だと思ってるんですか。あの頃の写真、全部削除したいくらいです」


「いや、残しといた方がいいですよ。経歴ですから」


「会社の経歴には何の役にも立ちません!」


真紀はそう言いながらも、どこか楽しそうに笑った。


敬之のスマートフォンから、アイラの声がした。


《インターネット上に公開された画像を完全に削除することは、現実的には困難です》


「アイラ、今それ言わなくていいから」


《承知しました》


一拍置いて、アイラが続けた。


《ただ、さすがにもう無理かもしれません》


「お前、何を検索したんだよ!」


真紀は顔を赤くしたまま、公太郎と一緒に吹き出した。


敬之は手元のグラスを見ながら、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、前から気になってたんだけど」


真紀が顔を上げる。


「何ですか?」


「そもそも、なんで『みどり』って名前なの?」


真紀は少し意外そうな顔をした。


「知らないんですか?」


「東京支社では説明された覚えがなくて」


「六角グループ内では有名な話です」


真紀は串を皿へ置いた。


「椎名さん、先代の六波羅宣昭さんは知っていますか?」


敬之は少し驚いたように顔を上げた。


「先代社長ですよね。まさか……勝負の……」


真紀は静かに微笑んだ。


「はい。『勝負のみどり』です」


「やっぱりそうだったのか……」


隣で話を聞いていた公太郎が首をかしげる。


「ちょっと待て。勝負のみどりって何?」


真紀は公太郎へ向き直り、ゆっくりと話し始めた。


「これは六角サッシ内では有名な話なんです――」


「宣昭社長は、大事な商談の日には必ず緑色のものを身につけていたそうです」


「緑色?」


「最初は社員達からプレゼントされたハンカチだったそうです。会社がまだ今ほど大きくなかった頃、どうしても取りたい大型案件があって、その商談の日に緑色のハンカチを胸ポケットへ入れていた」


「それで契約を取った?」


「ええ。その次の重要な商談にも同じハンカチを持っていって、また成功した。それから宣昭社長は、ここ一番という日に必ず緑色を身につけるようになったそうです」


公太郎が聞く。


「それが『勝負のみどり』か」


「名前の由来が縁起担ぎだったとはな」


「はい。社員たちも縁起を担ぐようになって、大きな商談やプレゼンの日には、ネクタイやスカーフ、ハンカチに緑を取り入れるようになりました」


敬之は、社内新聞で海外展示会の様子を取材した記事と掲載写真に載ってた真紀の姿を思い出した。


「本多さんも、緑色のスカーフをしてましたね」


真紀は一瞬黙った。


「あれも、勝負のみどりです」


「やっぱり、みんな信じてるんだ?」


「少しは」


真紀は照れたように笑った。


「実際、展示会は成功しましたから」


真紀はそう言って笑う。


だが、その笑みはゆっくりと消えていった。

そして静かに続ける。


「だから社内AIにも、会社へ成功をもたらす存在になってほしいという願いを込めて、『みどり』と名付けられたんです」


公太郎がグラスを持ち上げる。


「今じゃ、社員全員に勝負を仕掛けてるみたいだけどな」


誰も笑わなかった。


しばらくして、公太郎が敬之を見た。


「そういや、こいつも妙なところで勝負強いんですよ」


「何の話だよ」


「大学受験」


敬之が露骨に嫌そうな顔をする。


「今その話いるか?」


「本多さんに、敬之がどういう人間か知ってもらうにはちょうどいい」


公太郎は真紀へ向き直った。


「俺は模試でも合格圏内にいて、順当に受けたんです。でも敬之は、先生からも記念受験みたいに言われてた」


「そんなに厳しかったんですか?」


「厳しいどころか、受かったら奇跡みたいな位置だったな」


「言いすぎだろ」


「違うのか?」


敬之は答えなかった。


公太郎が続ける。


「ところが結果は、二人とも合格。こいつ、普段は危なっかしいのに、土壇場になるとなぜか強いんです」


真紀が敬之を見る。


「意外です」


「えっ…そう?」


「椎名さん、試験の本番で緊張して失敗しそうなので」


「どういう印象なの、俺」


「考えすぎて時間がなくなりそうです」


公太郎が声を上げて笑った。


「それは合ってる。でも最後に、なぜか正解を選ぶんですよ」


「ただの偶然だよ」


敬之はそう言ったが、公太郎は首を振った。


「昔からそうだ。追い込まれた時だけ、腹をくくるそして結果を出す」


真紀は何も言わなかった。


ただ、富山から逃げてきた自分を、迷いながらも受け入れた敬之の姿を思い返していた。


「そういや、アイラは最近どうだ?」


公太郎が串から鶏肉を外しながら尋ねた。


「どうもこうも、めっちゃ助かってるよ」


敬之は即答した。


「調べ物もそうだけど、喋り相手にもなるしさ。どうしようか迷った時に聞くと、ちゃんと一緒に考えてくれる」


「へえ。そこまで使えるようになったか」


「姉さんも欲しがってる」


「綾香さんが?」


「ああ。自分のにも入れられないかって」


公太郎は少し困ったように笑った。


「まだ試作なんだけどな」


「もう一人分くらい作れないのか?」


「お前が使ってるアイラは、お前と話しながら成長したんだよ。同じものをそのまま渡せるわけじゃない」


敬之は手元のスマートフォンを見る。


「じゃあ、こいつは俺専用ってことか」


「今のところはな」


店を出る頃には、夜も深くなっていた。


駅へ向かう人の流れも、すでに少なくなっている。


「南十字星、どうだった?」


「楽しかったです。焼き鳥も久しぶりでした」


真紀はそう答えて、少しだけ笑った。


公太郎が腕時計を見た。


「で、真紀ちゃん。このあとどうする?」


「……」


真紀はそこで言葉を止めた。


帰る。


そう口にして初めて、自分には帰る場所がないことに気づいた。


敬之も、そこで初めて気づいた。


「ホテルは?」


「会社が手配した場所は使えません。予約情報が残りますから」


「自宅は富山だよな」


公太郎が尋ねる。


「はい」


「じゃあ、今夜の場所は?」


真紀は答えなかった。


東京へ来ることだけを優先し、その先までは決めていなかったのだろう。


敬之は少し考えた。


そして、考えがまとまる前に言葉が出た。


「じゃあ、うち来ます?」


真紀が敬之を見る。


公太郎も敬之を見る。


数秒遅れて、敬之自身が自分の発言の意味に気づいた。


「いや、違うよ違う。そう言う意味じゃなくて」


「まだ何も言ってませんけど」


「だから、言われる前に説明させて」


公太郎が吹き出した。


「お前、肝心なところで言葉が足りないのも

変わらんな」


敬之のスマートフォンが短く震えた。


《現在の提案には、複数のリスクが含まれます》


画面には、アイラからの通知が表示されていた。


《宿泊先の代替候補を検索しますか?》


敬之は通知を一度見て、画面を伏せた。


そして真紀を見る。


「今日は、うちでいいよ」


《承知しました。では、周辺の監視状況と移動経路を確認します》


「でも、椎名さんは一人暮らしですよね」


「普段はそうですけど、今は姉が来てるんです」


「お姉さん?」


「はい。だから、その……俺しかいないわけじゃないので」


公太郎が口を挟む。


「姉がいなかったら、何かあるみたいに聞こえるぞ」


「お前は黙ってろよ」


真紀は少し考えたあと、頭を下げた。


「では、一晩だけお願いします」


富山から持ち出したPCを公太郎に解析を頼み3人は別れた。



敬之の家に着いたのは、午後十一時を過ぎてからだった。


玄関前で、敬之のスマートフォンが短く震えた。


《周辺に六角サッシ関係者の端末反応は確認できません》


「分かった。ありがとう」


《ただし、安全を保証するものではありません》


「それでも助かるよ」


敬之はスマートフォンをポケットへ戻し、玄関の鍵を開けた。


「ただいま」


廊下の奥から女性の声が返ってきた。


「おかえり。遅かったわね」


部屋から一人の女性が姿を現した。


白を基調にした服に、金と銀の細いストライプが入っている。


部屋でくつろいでいたはずなのに、その立ち姿には不思議な隙のなさがあった。


髪は後ろでまとめられ、柔らかく整った顔立ちをしている。


しかし、その目は玄関に立つ真紀を一瞬で観察していた。


「そちらは?」


「会社の人。本多真紀さん」


敬之は靴を脱ぎながら続けた。


「ちょっと事情があって、今夜だけ泊めたいんだけど」


女性はわずかに目を見開いた。


それでも、すぐ真紀へ向き直る。


「敬之の姉の綾香です」


「本多真紀です。突然押しかけてしまって、申し訳ありません」


「立ち話も何だから、どうぞ上がって」


「でも……」


「事情は中で聞かせて。玄関に立たせたままの方が失礼でしょう」


綾香は真紀の返事を待たず、新しいスリッパを出した。


敬之が小声で言う。


「姉ちゃん、悪い」


「本当にね。連絡くらいしなさい」


「ごめん」


「本多さんが謝ることじゃないわ。悪いのは、この子だから」


「この子って……」


真紀は初めて、弟として扱われる敬之を見た。



居間に入り、真紀はこれまでの経緯を話した。


綾香は途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いていた。


海外展示会での出来事。


みどりの判断。


記録の書き換え。


仲間たちの異動。


そして富山から東京へ逃れてきたこと。


「会社には、富山に戻ったと思われています」


真紀が話し終えると、綾香は会社支給端末へ視線を落とした。


「その端末の電源は?」


「切っています」


「位置情報は無効にした?」


「東京へ着く前に」


「通信機能そのものを完全に止めたわけではないのね」


真紀は端末を見る。


「電源を切れば大丈夫だと思っていました」


「普通ならね」


敬之が姉を見る。


「何か知ってるの?」


「決めつけるつもりはないわ。ただ、社員の行動まで管理できるAIなら、端末の位置を把握する方法くらい考えているでしょう」


「姉ちゃんの会社でも、そういうものを使ってるのか?」


「各部署で別々の業務用AIは使っているわ。でも、六角サッシのものほど統合されてはいない」


綾香はそれ以上語らず、立ち上がった。


「今日はもう遅いし、続きは明日にしましょう。疲れている時に考えても、いい答えは出ないから」


「ありがとうございます」


真紀が頭を下げる。


「そういえば、真紀ちゃんノルマントラ共和国にいたのよね?

私は、その隣国にいたのよ」


真紀が顔を上げる。


「え?」


「東欧州事業室の仕事でね。直接巻き込まれたわけじゃないけど、国境を越えて緊張が広がってた」


綾香は腕を組み、少し苦い表情を浮かべた。


「その政変の影響で、私も予定を切り上げて緊急帰国になっちゃって」


「それで、今日こちらに?」


「そういうこと。敬之のところは、こういう時のための帰国拠点でもあるから」


真紀は小さくうなずいた。


「私たち、かなり近い場所にいたんですね」


「そうみたいね。まさか日本に戻ってから、こんな形で会うとは思わなかったけど」


「布団を出すわね」


綾香は押し入れを開け、来客用の布団を引っ張り出した。


真紀も手伝おうと立ち上がる。


「気にしなくていいから」


綾香は何でもないことのように言った。


「今夜だけって決めなくていいわよ」


真紀が顔を上げる。目には涙が溜まっていた。


「でも……」


「帰る場所が決まるまで、ここにいればいいの」


「そんなにご迷惑をかけるわけには」


「迷惑かどうかは、私たちが決めることよ」


綾香は布団を広げながら、話を続けた。


「敬之、昔からそうなのよ。困ってる人とか、放っておけないの」


真紀が黙って綾香を見る。


「子どもの頃なんて、猫やら犬やら、しょっちゅう拾ってきてね。怪我をした鳩まで連れて帰ってきたことがあるの」


「姉ちゃん、その話はいいって」


その時だった。


まるで自分の話をされていると気づいたように、さび猫がふらりと部屋の入口へ現れた。


茶色と黒が入り混じった毛並み。


細い尻尾をゆっくり立て、見慣れない真紀をじっと見つめている。


やがて、自己紹介でもするように、


「にゃあ」


と長く鳴いた。


真紀が手を差し出す。


さび猫は少しだけ鼻を近づけ、匂いを確かめた。


次の瞬間には、その手へ頬をすり寄せていた。


真紀の表情が柔らかくなる。


「人懐っこいんですね、名前は?」


猫は答えるようにもう一度鳴き、今度は真紀の膝へ身体を寄せた。


「この子も?」


真紀はさび猫の頭をやさしく撫でながら、綾香に聞いた。


「もちろん。敬之が拾ってきたのよ。最初マスクドなんとかって長い名前つけようとしたから、《マスカー》にしなさいって言ったのよ」


綾香が苦笑する。


「雨の日に、ずぶ濡れのマスカーを抱えて帰ってきたのよ。自分もびしょ濡れなのに、猫の方を先にタオルで拭いて」


「いつの話してるんだよ」


「今より少し若かった頃」


「その説明、広すぎない?」


真紀の口元がわずかに緩んだ。


「椎名さんらしいですね」


「本多さんまでやめてください」


綾香は布団を広げながら、真紀の顔を見た。


「だから、会社の後輩を連れてきたくらいじゃ、私は驚かないわ」


綾香はそこで初めて、真紀の顔をまっすぐ見た。


「たぶん、あなたが困ってるように見えたんでしょ。あの子には、それだけで十分なのよ」


「でも、自分が困っている時は誰にも言わないのよ」


敬之の表情が止まる。


「姉ちゃん」


「余計なことだった?」


「余計だよ」


綾香は小さく笑った。


真紀は何も言わなかった。


ただ、敬之の横顔を見た。


会社で会った時も。


東京へ来た自分を助けようとした時も。


敬之は、自分の事情についてほとんど話していなかった。


綾香が冷蔵庫を開ける。


「敬之」


「何?」


「朝、本多さんに食べてもらえるものが何もないわよ」


「何かあるだろ」


「調味料しかない」


「飲み物は?」


「水と缶コーヒーは食事とは言わないの」


綾香は財布を持つよう目で促した。


「今から何か買ってきて」


「俺が?」


「あなた以外に誰がいるの?」


敬之は言い返せず、財布を手に取った。


「行ってきます……」


玄関の扉が閉まる。


部屋には、綾香と真紀だけが残った。


綾香は湯飲みに茶を注ぎ、真紀の前へ置いた。


「敬之に迷惑をかけたと思ってる?」


真紀は少し迷った。


「はい」


綾香は否定しなかった。


「そう」


湯飲みを真紀の前へ押す。


「でも、あの子は自分で決めて連れてきたの。だから、そこまで気にしなくていいわ」


「でも、敬之さんまで危険な目に遭わせるかもしれません」


綾香は自分の湯飲みを置いた。


「その時は、私も黙ってはいない」


声は穏やかだった。


それでも、真紀はその言葉に含まれた強さを感じた。


「敬之を巻き込むなとは、言わないんですか?」


「言って聞く弟だったら、もっと楽だったでしょうね」


綾香は少し笑った。


「それに、あなたを放っておいたら、あの子はもっと後悔すると思うから」


真紀は湯飲みを両手で包んだ。


掌へ、ゆっくりと温かさが伝わる。


マスカーが真紀の足元で丸くなった。


「本当に、いい弟さんですね」


「そうね」


綾香は少し間を置いた。


「私には、ね」


深夜。


真紀は敷かれた布団へ横になった。


さび猫のマスカーはいつの間にか、布団の足元で眠っている。


隣の部屋から、帰ってきた敬之と綾香の小さな話し声が聞こえてきた。


「本当に大丈夫なの?」


綾香の声だった。


少し間を置いて、敬之が答える。


「大丈夫じゃないから、連れてきたんだよ」


真紀は目を閉じた。


海外から戻って以来、安心して眠れた夜はなかった。


今夜だけは、眠れるかもしれない。


そう思った時だった。


鞄の中で、会社支給端末の画面が一瞬だけ光った。


真紀は目を開ける。


電源を切ったはずだった。


ゆっくりと起き上がり、鞄から端末を取り出す。


黒い画面に、白い文字が浮かんでいた。


《現在地情報を取得できません。》


画面は数秒間、黒いままだった。


新しい文章が表示された。


《最適な通信経路を検索しています。》


真紀は画面を見つめた。


そして端末を裏返し、静かに伏せた。

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