1ノ語 4時44分の4階
その小学校には、4階がなかった。
校舎は3階建てだった。
古い図面にも、卒業アルバムにも、地域の記録にも、それ以上の階は存在しない。
けれど、夕方の4時44分になると、北校舎の階段にだけ、もう一段上へ続く踊り場が現れる。
そんな話を、昔この町の子どもたちはよくしていた。
4時44分に、北校舎の階段を上ってはいけない。
3階まで上がったら、絶対にもう一段上を見てはいけない。
もし見てしまったら、そこには「4階」がある。
そこへ行った子は、翌朝、自分の教室の席にランドセルだけ残して消える。
大人たちは笑っていた。
よくある学校の怪談だ、と。
花子さん、動く人体模型、夜の音楽室、ひとりでに鳴るピアノ。
そんなものと同じ、子どもだけが信じる怖い話だと思っていた。
廃校になって12年が経った今でも、その噂だけは残っていた。
そして、噂は形を変えた。
旧北見沢小学校、存在しない4階に行ってみた。
短い動画のタイトルは、それだけだった。
投稿したのは、近くの中学生3人組だった。
廃校のフェンスを越え、スマートフォンのライトだけを頼りに校舎へ入っていく。
画面は揺れ、誰かの笑い声が入り、コメント欄には「懐かしい」「うちの学校にもあった」「まだこういうのあるんだ」と書き込まれていた。
動画の再生時間は44秒。
最初の20秒は、ただの肝試しだった。
暗い廊下。割れた窓。落書きされた壁。
25秒目、3人は北校舎の階段に着いた。
『4時44分、きた』
誰かが言った。
画面右上の時刻表示は、たしかに16:44だった。
3階まで上がったはずの階段の先に、もうひとつ踊り場が映る。
その先に、暗い廊下があった。
『え、ガチ?』
『いやいや、これ上、あったっけ?』
『行くしかなくね?』
笑い声が消えた。
36秒目。
階段の上から、子どもの声がした。
『せんせい、まだ帰っちゃだめだよ』
41秒目。
画面の奥に、黄色い帽子をかぶった小さな影が立っていた。
44秒目。
投稿者のひとりが言った。
『あれ、俺の席ある』
そこで動画は終わっていた。
翌朝、3人のうち2人が自宅に戻った。
ただし、ひとりは戻らなかった。
旧北見沢小学校の3年2組の教室。
そこに、消えた少年のリュックだけが置かれていた。
机の上には、古い木の名札がひとつ。
そこには、消えた少年の名前が、黒く濡れたような文字で書かれていた。
内閣府への通報は、その12分後だった。
霞ヶ関の一角に、古い資料館のような建物がある。
表札には、こう記されていた。
宮内庁 祭祀資料保全室。
建物の中は静かだった。
古文書、祭祀記録、地方の禁足地に関する古い資料。
表向きには、そういったものを管理する施設とされている。
だが、地下5階から下は、どの行政資料にも記載されていない。
地下7階。
霞ヶ関地下封域。
長い廊下の奥で、青白い警告灯が点滅していた。
水瀬玲央は、解析室の椅子に片膝を立てる勢いで座り、3枚のモニターを同時に見ていた。
短いショートヘアが頬にかかり、黒縁メガネの奥の目が忙しなく動く。
机の上にはエナジードリンクの缶と、菓子パンの袋と、御守り型の小型端末が散らばっていた。
「いやいやいや、これ削除じゃなくて増殖してます。元動画は消えてるのに、切り抜きが12件、ミラーが31件、スクショ投稿が87件。あと考察動画がもう2本出てます。早すぎますって、現代人、怪談の育成速度がおかしいです」
背後から、柔らかい声がした。
「玲央ちゃん、朝から何か食べました?」
東雲真白だった。
長めの黒髪を低くまとめ、白い医療用コートの上に薄い護符布を掛けている。
表情は穏やかだが、手元の霊障医療キットはすでに開かれていた。
「食べました。糖分を」
「それは食事ではありません」
「真白さん、今それどころじゃないです。この動画、旧型の学校怪談じゃなくて、ネット拡散で再構成されてます。元の噂に、今の子たちの“行ってみた”文化が乗ってるんです。かなり嫌な混ざり方です」
真白はモニターを見た。
映像の中で、存在しない階段が薄暗く伸びている。
「消えた子は?」
「現地封鎖班が捜索中です。でも、3階までしかない校舎で、4階の反応が出てます」
「4階がないのに?」
「はい。だから問題なんです」
その時、解析室の扉が開いた。
御影直人が入ってきた。
黒い戦闘服に、目立たない銀糸で八咫鏡に三つ藤の紋が縫い込まれている。
髪はきちっと整えられ、声も視線も落ち着いていた。
若さはあるが、場の温度をひとつ下げるような静けさがあった。
「状況は」
水瀬は即座に姿勢を正した。
「旧北見沢小学校でC級相当の定着怪異反応。ただしSNS上で急速拡散中なので、N級への移行リスクがあります。元ネタは昭和末期から平成初期に語られていた学校怪談。“4時44分の4階”。今朝、未成年1名が所在不明。現地封鎖班が2名、校舎内で時刻認識障害を起こしています」
御影は画面を見た。
44秒で終わる動画。
存在しない踊り場。
黄色い帽子の子ども。
「消えた子の名前は」
「栗原奏太。11歳。今は別の小学校に通ってます。動画に映っていた中学生の弟です」
「弟か」
御影の目が少し細くなった。
「怪異は、本人を呼んだのではない。語りを通して、近い縁を拾った可能性がある」
そこへ、廊下から重い足音が近づいた。
上原直城が入ってきた。
大柄で、肩幅が広く、無駄な動きがない。
戦闘服の胸元とガントレットには、岩楯に鎮め縄の紋が刻まれている。
見るからに前線に立つ男だった。
「班長、車は出せる」
御影は頷いた。
「上原、運転を頼む」
「了解」
さらにその横から、戸張龍一が軽く肩をすくめながら顔を出した。
長めの髪を後ろへ流し、腰には退魔刀。
整った顔立ちに少しだけ余裕のある笑みを浮かべている。
「学校の怪談か。俺の刀を抜かせるには、少し可愛すぎないか?」
上原が横目で見た。
「油断するな、龍一」
「してないさ、直城。美しくない現場ほど、慎重に斬る」
その後ろから、小柄な白羽佐月が札束を抱えて駆け込んできた。
表情は少し眠そうなのに、手元の札だけは異様に整っている。
「旧校舎ですよね。床、抜けてませんか。あと階段に札を貼るなら、踏む順番を間違えないでください。ほんとに。階段系は順番が命ですから」
御影が言う。
「白羽、昇降口と北階段の封札を任せる」
「はい、御影班長」
最後に、鷹宮迅が静かに入ってきた。
細身で、無駄口を叩かない。背には霊式狙撃銃のケース。
目だけが異様に鋭かった。
「映像を見た」
御影が振り返る。
「何が見えた」
鷹宮は短く答えた。
「子どもじゃない。席だ」
水瀬の手が止まった。
「席?」
「映っていた影より、机の方が濃い。あれが依代だ」
御影は一度だけ頷いた。
「全員出る。現地で確認する。倒すな。まだ由来が見えていない」
霞ヶ関地下封域の車両庫に、黒い大型SUVが停まっていた。
省庁名はない。
警察車両でも、自衛隊車両でもない。
ただの黒塗りの政府車両に見えるが、窓は厚く、車体は低く重く構えている。
特異災害対応車両 甲種一号。
通称、黒麒麟。
上原が運転席に乗り込む。
水瀬は助手席に滑り込み、膝の上に端末を開いた。
後部座席には御影、戸張、東雲。
さらに後ろに白羽と鷹宮、装備ラックが収まる。
「黒麒麟、起動します。封域ビーコン待機。現場まで推定34分、いや、首都高の混み方が最悪なので37分。上原さん、桜田通りから出てください。途中で現地封鎖班の無線を拾います」
「了解」
上原の返事は短い。
黒麒麟は音もなく地下車庫を出た。
水瀬は助手席で端末を操作しながら、後ろを振り返った。
「ブリーフィングします。旧北見沢小学校は12年前に廃校。現在は地域資料館への改修予定地ですが、工事は3年前から停止。理由は予算とされていますが、実際には怪異報告が複数あります。主な噂は“4時44分の4階”。昔この地域にいた人たちにはけっこう有名だったみたいです」
戸張が腕を組む。
「懐かしの学校怪談が、今さら復活か」
「はい。ただし今回は動画拡散が入ってます。大人世代は“あったあった、そういう話”で見ます。子ども世代は“本当に行ける場所”として見ます。この二重の語りが、怪異の輪郭をかなり早く固めてます」
白羽が眉を寄せた。
「嫌ですね。曖昧な怪談が、手順つきになるやつです」
「そうです。すでにコメント欄に“4時44分に北階段へ行くと4階が出る”って書かれてます。これが広まると、ルール固定です。固定されると対処はしやすくなりますけど、怪異も強くなります」
東雲が静かに言った。
「消えた子は、まだ戻せる可能性がありますか」
水瀬は少しだけ言葉を詰まらせた。
「不明です。でも、投稿から時間が浅い。名前も席に出ているだけで、死亡反応はありません」
御影が目を閉じる。
「なら、戻す」
車内が少し静かになった。
上原が前を見たまま言った。
「現場まで何分だ」
「あと18分です。あ、すみません、封鎖班から通信」
水瀬がイヤホンに触れる。
「こちら第一班、水瀬です。状況を」
数秒後、彼女の表情が変わった。
「……班長」
「言え」
「現地封鎖班が、北階段の上で声を聞いたそうです」
「声の内容は」
水瀬は画面に表示された文字を読み上げた。
「“せんせい、出席を取ってください”」
御影はゆっくり目を開けた。
「学校が、子どもを数えている」
黒麒麟は夕方の東京を抜け、郊外へ向かって走っていく。
遠くの空は、赤く沈み始めていた。
旧北見沢小学校は、住宅街の奥に取り残されたように建っていた。
校門には立入禁止のテープ。
その外側には、警察官に見える男たちが数名立っている。
だが、その胸元に通常の所属章はない。
黒麒麟が校門前に止まると、現地封鎖班の隊員が駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
「御影班長、北校舎内で時刻異常が拡大しています。3階廊下で4時44分から時計が動きません」
御影は校舎を見上げた。
3階建ての古い建物。
割れた窓。
剥がれた外壁。
その上に、4階などあるはずがない。
けれど。
北校舎の一番上の窓に、誰かが立っていた。
黄色い帽子をかぶった、小さな影。
水瀬が息を呑む。
「映ってます。肉眼でも、端末でも」
鷹宮がケースを下ろした。
「上じゃない」
御影が横を見る。
鷹宮は校舎ではなく、昇降口を見ていた。
「中だ。あれは窓に映っているだけだ」
戸張が刀の柄に手を添える。
「じゃあ、本体はどこだ」
鷹宮は短く言った。
「教室」
白羽が札束を握り直す。
「階段を閉じます。誰も、私より先に踏まないでください」
上原は盾を構えた。
「こっちだ。後ろには行かせない」
御影が一歩前へ出る。
夕方の校庭に、古いチャイムが鳴った。
誰も触れていないはずのスピーカーから、ざらついた音声が流れる。
『これから、帰りの会をはじめます』
東雲が小さく息を吸った。
水瀬の端末に、存在しない出席簿が表示された。
そこには、消えた少年の名前があった。
栗原奏太。
その隣に、赤い丸がついている。
御影は静かに言った。
「第一班、封異開始」
北校舎の昇降口が、ひとりでに開いた。




