6.
ウィリアムがぽかんと口を開けてしまう姿を、私はじっくりと眺めた。彼の返事を待つ間、エリオットのお茶を味わいながら。ウィリアムが私に見せてくれていたのは、長いこと優しい笑顔だけだったわ。でも、それは可哀想な小さな子供のために作った顔でしかない。もっと困ったり怒ったり呆れたり、そんな顔も見ていたいの。綺麗な世界に閉じ込めて、ひたすら優しく接するのではなくて──本当の意味で、一緒にいられたら良い。それが、私の本当の願いだったのよ。
てきぱきと書類を並べるウィリアムも、格好良くて素敵だった。対照的に、驚いて声も出せないくらい驚いてるらしい、今の表情も。だから、彼がやっと口を開くまでの何分間か、私はまったく焦れたりしなかった。
「──待ちなさい。君と私は、いくつ年が離れていると思っている? 君はまだ十六で──」
「二十以上と言っていたわね。でも、何より大事なのは気持ちではなくて? ……ウィリアムは、私が嫌いなのかしら」
嫌いだったら、今までこんなに良くしてはくれないと思う。でも、お父様やお母様を死なせてしまった罪悪感だけだったら、私のことなんかそんなに好きではなかったのかしら。急に心配になって、私の声は小さくなった。
「君のように可愛らしく聡明な子を嫌いになれるはずがない。が、だからこそ私には不釣り合いだ! もっと年の近い若者を、君はまだ知らない」
「ああ、良かった」
でも、ウィリアムが間髪入れずに首を振ってくれたから、私はすぐに笑顔になれる。彼が付け加えたことは、どうでも良いことよ。同じ年頃の男の子も女の子も、ウィリアムではないんですもの。でも──ウィリアムが納得するには、少し時間が必要なんでしょうね。
「だから、これから外に出るのでしょう? 色んな人に挨拶されるんでしょう? 私の保護者になりたい人も、私と結婚したい人もいるのでしょうね。その人たちとみんな会った後で、私は貴方を選べば良いのね」
「そう……なるかな」
ゆっくりと頷いたウィリアムは、でも、私が言ったことに心から賛成してなんかいないんでしょうね。目を細めて、口の端も少し下がって──きっと子供の気まぐれだと思って、余計なことは言わないでおこうとでも思っているみたい。私の気を変えるためにこそ、お城から出る準備を整えたようにさえ思える。
「貴方に信じてもらうまでに、どれくらいかかるかしら」
「君が心変わりしなくても、私の方にも都合があるからね……」
「まあ、なあに?」
どこか含みがある言い方が気になって首を傾げると、ウィリアムは少しだけ意地悪な感じで笑った。まるで、私がさっき意地悪したことのお返しみたいに。
「私にも結婚したい女性がいたんだよ。彼女以外と共に生きるなど、かつては考えられなかったものだ」
「……嘘……!」
「嘘ではないよ。それに、かつては、と言っただろう」
私が腰を浮かせたのとは対照的に、ウィリアムは微笑んでゆったりと座ったままだった。今は、いつも通りの優しい笑顔に見える。でも、大好きなはずのその笑顔は、私には怖かった。
「どうしてその人と結婚しなかったの? あの……わ、私のせい、なの……?」
私は、すっかりウィリアムを許してあげるつもりになっていた。でも、そうだわ、私はずっと良い子だった訳でもないわ。彼にとっては知らない子供に過ぎなかったはず。王女だったとしても、お父様やお母様への後ろめたさがあったとしても……お世話をしてもらって当然ではなかったのよ。
「いいや。だが、この際君への隠し事はなくしておいたほうが良さそうだ」
恐る恐る見つめる私に、ウィリアムはお茶を飲むように促した。震える手だと、ティーカップを上手く持てなくてかちゃかちゃと音をさせてしまうの。私は、彼と一緒にお城の外に出ていけるのよね? 追い出されたり、他の人のところに行かされるのではなくて。
「そんなに悲しそうな顔をしないで、クローディア。本当に、はっきりさせておこうというだけだから」
「ウィリアム。でも──」
「彼女の方も、とっくに結婚しているんだ。子供もいて、幸せな家庭を築いている」
ウィリアムが視線をさまよわせた先に、その女性が見えているのかしら。彼の頬を手で挟んで、私を見て、って言いたかった。でも、彼の思い出を邪魔することもできないと思ったの。だから私は、ティーカップを両手で包んで聞きたくないことを聞くしかなかった。
「身分が違う相手でね。私が革命に賛成したのも、彼女と結ばれるためもあったと思う」
「そう……」
「だが、王がいなくなったからといって全てが変わる訳ではなかった。私も忙しかったしね。彼女が他の男性を選んだのは当然のことだ」
「私のせいで、忙しかったのでしょう……?」
「私の主観だと、君が寂しさを埋めてくれた、ということになっているが」
ウィリアムが言ったことを信じることはできなかったから、私はただ黙りこくって彼の目を見つめていた。私は、彼の何も知らないことに急に気付いたの。それに、私のために彼がどれだけの時間を費やしてくれたかに。その犠牲に見合う価値が、私にあるのかなんて、分からないのに。
「……彼女と特別に何かあったということはないんだ。夫になった人物もよく知っているし、子供たちと会ったこともある。平穏に暮らせるのは私のお陰だと言ってもらえたこともあるよ。愛した人の幸せに寄与することができたなら、それはそれで嬉しいことだ」
彼への想いは、変わらないし揺るがないはずだった。ついさっきまでは、そう思っていた。でも──急に怖くなってしまったみたい。外の世界は私が思っていたよりもずっと広いし、私の知らないウィリアムの顔も沢山あるの。
「ただ──もっと身近に、私の手で直接幸せにできる人がいたなら。そんな存在に、私は救われたかったのかもしれない」
「私は幸せよ。ずっと……これからも……?」
「今は、泣きそうな顔をしているのに?」
「ウィリアム……!」
そうよ、私は泣きそうなの。何も知らないで笑っていた私が、ウィリアムを幸せにできていたら良い。これからも、そうできたら良い。そう思うと同時に、本当に変わらないか不安だった。その両方の想いで泣きそうなのに、彼は揶揄うように笑うのだもの。ウィリアムは──ひどいわ。でも、私はそれでも彼が好きみたい。
「君を娘だと思ったことはないが、女性として愛することができるかは分からない。だが──かつて私は彼女といずれ結婚するのだと信じていた。先のことがどうなるかは……分からないのだろうね」
「そう……そうよ。だから、やってみないと……!」
私たちは、どちらからともなく立ち上がると、手を差し伸べ合った。ウィリアムの手に触れたことも、抱きしめられたことも初めてではないのに、今は驚くほど熱くて、恥ずかしい。
「身の回りをまとめておくれ、クローディア。エリオットたちは……なるべく、新しい住まいにもついてきてもらうようにしたいが。このお城に、また訪れることができるかどうかも分からない。ちゃんと目に焼き付けておいて欲しい」
「うん……」
私を抱き寄せたウィリアムが、耳元で囁いた。私は彼の胸に顔を埋めて小さく頷く。子供じゃないんだもの、泣き顔なんて見せたくなかった。でも、これは悲しいだけの涙じゃないわ。やっと、ウィリアムと一緒に歩き出すことができるの。お城の中で大切にされるだけじゃなくて。それが嬉しくて泣いてしまうのよ。
出発の日は、すぐに来た。荷物をまとめたり、エリオットたちとお話をしたり、お城のお部屋のひとつひとつを見渡したり。やることが沢山あって、とても慌ただしくて忙しかったけれど。どうにか、私はとりあえずの荷物をひとつの鞄に押し込んだ。入らなかった分は、後でエリオットたちに持ってきてもらえるはずよ。
「すぐにお供できなくて、大変寂しくご心配なことでございます」
「ありがとう、エリオット。でも、ウィリアムがいるから」
「ああ。クローディアの言う通り……屋敷の者にもよく言ってある」
私はこれから、ウィリアムの本当のお家に移るのよ。知らない使用人もいるし、元王女が現れたと聞けば、お客様が待ち受けるようにやって来るはず。私が彼に引き取られるのが気に入らないという人もいるのでしょう。エリオットが心配そうに眉を下げるのも当然のこと、私もとても怖いのだけど──
「私が望んで出ていくのよ。応援してちょうだい」
「はい。お嬢様。幸せになられますよう──しばしのお別れではございますが、お祈り申し上げます」
「ありがとう」
エリオットを筆頭に、使用人たちが揃って見送りに出てきてくれる。彼ら彼女らと少しずつ言葉を交わして、手を振って。お城の門を潜ろうとして──私は、一度足を止めた。
「どうしたかな? やっぱり怖い?」
「いいえ。でも、貴方と一緒に出たいの」
お城はとても綺麗で居心地が良くて、何もかもが優しかったからから、外に出るのは確かに怖いわ。でも、嫌な訳ではないの。ただ──ウィリアムと一緒だと確かめたくて。
私が言わなかった言葉を聞き取ってくれたのかしら、ウィリアムは微笑んで私の手を取ってくれた。お母様から助けてくれたのと同じ、暖かくて柔らかくて、しっかりと私を支えてくれる大きな手。その感触に励まされて、私はやっと足を進めた。
門を出たところには、馬車が待っている。私とウィリアムを乗せる馬車、私を外の世界へ連れ出して、その先の未来へと運ぶ馬車だ。怖いけれど──ウィリアムの手を握れば、きっと大丈夫だと思える。
お城を振り返ることなく、私はウィリアムの手を借りて馬車に乗り込んだ。