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♠ 1stDays X時X分 見広中学校、正門前
滑り込みギリギリで見広中学校へと入って行った僕とアンナは、互いに顔を見合わせながら、ぜぇぜぇと息を切らした。カギが掛かると、亡者のような一般人が涙を浮かべながらドアを叩き、その後ろから一歩ずつ近づいて来た発病した感染者が、腕を伸ばす。
まるで、闘技場のように――死者と生き残りは一方的な残虐劇を僕たちに見せた。
「ぎえええええええ!!」「助け、だす、け――」「やめろおおおおお!!! うわああああああああああぁ!!!」「先生! お願いします、アタシはここの生徒――」
断末魔と共に、鮮明な血の赤が透明な窓を汚す。鉄枠でできた扉とは言え、ガラスでできた部分をハンマーで粉砕すれば、あっという間に安全が破られるような、そんな気がした。
見広中学校の体育教師である、飯塚は「フン」と無関心な鼻笑い。見捨てられた一般人を遠目から一瞥すると、
「お前らは本当に運がいいな」
それだけを言い残して、廊下の奥へと姿を眩ませた。
このパンデミックが起きてからは、人の集まりのある施設はいずれも『コミュニティ』と呼ばれ、この見広中学校も例外ではなかった。だが、登校時間と言うこともあって、朝部活中だった生徒や、それらの顧問が多かった。ここで僕は、状況をいくつか整理した。このパンデミックが起きたのは、今日と言う日の早朝だったのだ。それより前でないと言う証拠に、ジャージ姿のテニス部マネージャーが僕たちの元へと駆け寄って来た。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫だけど、キミたちがここに来る前までは、こんなことにはなってなかったの?」
「は、はい。私たちが着替えてる間に、大きな音がして……それで、外を見たら、」
彼女は思い出してしまったのか、それとも玄関先に見える血の跡を一瞥したからなのか、顔を真っ青にして、嗚咽に涙を浮かべた。
「移動しようか……。アンナさん、立てる?」
僕はアンナに声を掛けたが、震えあがって動けない彼女の尻の下には、じわっと生暖かい水が広がっている。
「……キミ、名前は?」
「に、二宮です。二宮ゆかり。今すぐ保健室に案内します!」
二宮。小柄であんまり目立つ体形ではなく、可愛らしいサクランボをのようなゴム飾りをショートヘアにくくり付けた少女だ。白色のラインが入ったジャージは、見広中学校特有の体操着だ……。少女にアンナのことを任せて、僕は学校内の探索に出向いた。町中を徘徊する、気味の悪い亡者たちに対抗すべく道具を、見つけねばならないのだ……。
♠ 7時34分 馬南小学校、下駄箱
生徒やその保護者とは違い、僕は教師用の玄関から入ることになる。校門から歩いてすぐの生徒用正面玄関ではなく、ぐるりと校舎の外周を歩いて、先生が使用する駐車場から入る裏門へ。30口もない教務員用の下駄箱では、よく狭川校長とすれ違い、ラヴ×2な僕とアンナにイヤミを言ってくるのだが……どうやら今日はいらっしゃらないようだ。
「ヒナちゃんのこと、なんて狭川校長に報告するの?」
上履きに履き終えたアンナの柔らかいケツを追い、綺麗に拭かれた廊下へと足を踏み入れる。スカートから飛び出た足が、昨晩僕のナニをイジメるのを思い出させた。
「……う~ん。落ちてたから拾った、みたいな」
「そんな、道端に捨てられた小銭みたいに――。レヴェッカさんたちがここに来る前に、決めといた方がいいんじゃない?」
確かに、このコミュニティの中にあれほど幼い子を放り込んでおけば、バレるのも時間の問題だ。そもそも、隠す必要性がない。だが……あれほど不自然なまでにぽつんと置き去りにされた子供だ。事件の臭いが少しでもすれば、狭川はすぐに見捨てるだろう。
「校長が狭川じゃなければ、問題はすぐに解決するんだろうけど。校長が◇リコンだったら話は早いんだけどなぁ」
レヴェッカから常々聞いている狭川校長の悪態については、僕も考えさせるほどだ。
今までは僕たちのことをすんなり受け入れてくれたいい先生だったが……確かに、最近は一瞬たりとも働く素振りを見せない。
それに、米軍が持ってきてくれた豚肉を独り占めしていると、レヴェッカは嘆いていた。しかし持ってくる量が少ないがゆえに、取り合いに発展したら……元も子もない。食べ物によるコミュニティの亀裂は、いろんな人が体験しただろう。
「いっそのこと、克が校長になるのは?」
「バカ。僕にそんな素質があるかよ……。もしなるんだとしたら、レヴェッカさんがいいんじゃないかな」
「私がどうかしたか?」
偶然にしては出来過ぎなような気もするが、教務員用の下駄箱に姿を現したのは、レヴェッカ本人である。
「おはようございます、レヴェッカさん。おはよ、ヒナ」
僕は屈んで、愚直なまでにまっすぐな視線の少女に挨拶をした。
「私も今、ヒナのことをどう言及するか考えていたところだ」
レヴェッカはそう言って、ブーツを脱いで教務員用の下駄箱に入れた。いつも同じ柄の迷彩服……(OCPと呼ばれるパターン迷彩らしい)……のレヴェッカは素早く来客用のスリッパを履いて、ヒナにも小さなシューズを手渡した。
「ヒナは、何歳なの?」
「もう、克ったら。レディに年齢を訊くなんて失礼よ?」
アンナはいたずらっぽく笑って、全員が上履きを履いたのを確認した。
向かう先は職員室である。そこで点呼表と学級日誌、そして本日勉強するべき内容のミーティングを行うのだ。
あと三十分もすれば、エルツたちが登校する……。いざ学校の教師になってみると、あんなに悪ガキだった僕たちを躾けていた中学教師は大変だったんだなぁと感心した。
「あたしは、九才です」
「まだ十歳にも満たなかったのか。出来が良いから、中学には上がっていると思っていたよ」
僕はヒナの頭を撫でると、体温を感じる。昨日は全身が氷漬けになったように冷たかったが、一晩寝入ったおかげで体調も元通りだ。
「ヒナちゃん。どうして昨日は、給水塔なんかにいたの?」
アンナの質問に、ヒナは戸惑いの色を見せた。憶えてないのか、それとも思い出すのが苦痛なのか……。彼女に苦渋を味合わせないと言わんばかりに、「昨日はお楽しみだったようだな」と。レヴェッカは話題を変えた。
「昨日は、か……。いつも、だけどさ」
僕は独身のレヴェッカに向けて思わず口を滑らせる。まだ年も幼い少女がいるというのに、ずいぶん無粋な発言をしたなと後悔した。
「ああ、知ってるよ。相馬クン、上手だからな」
レヴェッカはたっぷり皮肉の込めた冗談を口にして、アンナの反感を買おうとした。
「いや、世田谷さんには負けるよ」
「あいつは時折、私よりも尻のデカいアンナのほうがいいとか抜かすがな」
僕とレヴェッカは小さく笑って、
「「じゃあ、そういうことで」」
途中の曲がり角で別れて、職員室の前に向かった。ポケットに入れっぱなしだったキーを取り出すと、ガチャリと音を立てて鍵を回した。扉の開く重い音とともに、綺麗に整頓された職員室内に歩を進める。だだっ広い教室の中には、ぽつんと置かれた二つの教務員用机……。それ以外の机は三階の物置にしまい込んだ。
「はあ。週休二日とは言え、僕たちみたいな若い人材がいきなり教師なんて、校長も無茶言うよ」
僕は深いため息とともに、滑車の付いたオフィス椅子を引いた。年季の入ったクッションに尻を預けると、ガコン、という拍子抜けな音がする。
「でも、何もしないよりはマシじゃない? わたしは、この学校で教師をするの、好きだよ?」
「アンナは向いてるからいいよ。でも、僕みたいに頭の悪い、部活動推薦によって大学が決まった人にはツラい職業さ」
中学、高校ともに陸上部の副部長に就任し、毎朝行われる任意の朝部活にもすべて出席。それもあって、心身ともに頑丈かつ、風邪を一度たりともひかないというタフな肉体を手に入れた。今思えば、それもあって僕に感染したゾンビ病による二次被害が無かったのか。いや、勘違いだろう。
「わたしにとっては、克が羨ましいよ。だって、ずっと鍛えていただけあって、いざと言うときも頼りになるし……風邪だって、ひかないもん」
「ゾンビ病の二次被害で歯がボロボロになっちゃったもんね……」
アンナは時折、歯が見えるまで大きな声で笑うのを躊躇う。春尾がとびきりのギャグを用意しても、彼女は俯きながら、肩を震わせていた。流れ者の春尾にそれを説明してあげると、お人よしな彼は深く頷いて、謝った。
保健室の佐々木が言うには、差し歯による治療を施さなければならないのだが、ここから北へ五百メートル進んだ先にある歯医者はすでに荒らされており、なかなか代理の歯は見つからない……。
実はもっと先、大園山と呼ばれる集落には、大園山歯科大学附属病院があり、そこまで向かえば代えの歯が見つかるかもしれない、と言う……。
しかし、問題もいくつかある。
本来歯並びの治療――セラミック治療――と言うのは、患者の歯型から差し歯を形成するもの。患者によって歯の太さも違えば、長さだって異なる。佐々木の言う、『差し歯治療』と言うのは、大学病院内に遺された他の患者に充てられるはずの、加工後の差し歯を持ち出し、さらに細かく削ってアンナの歯型に形成するのだ。
それでも懸念されるべきは、体内への異物侵入による拒否反応……そうなれば、ストレスにより歯自体が抜け落ちる可能性がある。芋しか配給されないこの学校ではこれからの生活に支障が現れる可能性もあるのだ。
「今は大丈夫。でも、ずっとこのままじゃいけないって気はするの。……わたしね、アウトブレイクが起きてから、頻繁に歯が抜ける夢を見るようになったんだ」
「何かのストレスとか?」
僕の反対側の席に座り込むアンナ。誰も見ていない場所になると、よく口淫の誘いや、接吻の要求を受けるのだが……何かを咥えている、あるいは口づけでむりやり見せなくさせることで、自分の歯に対する不満を排除しているのだろうか?
「佐々木先生は、夢の専門家ではないけど……インターネットで見た情報だと、歯が抜ける夢はストレスによるものや、生活環境が変わったことで見るらしいの」
「そりゃお前……。心当たりが多すぎるな」
アンナは思わず笑いそうになったが、慌てて口元を抑えた。可愛らしい顔も、その歯の形で台無しになる。そんな風に彼女は思っているのか……。
「と、とにかく……。一刻も早く、大学病院に行かなきゃ。もし行くんだとしたら、わたしも一緒に行っていい?」
「僕が付いてくってのは、確定してるワケね……。もちろん、いいよ。でも、アンナにも武装してもらうから」
「……まだ、感染者がいるかもしれないから?」
昨日のことを思い出す……。僕たちの後ろをひっそりと付いて来た信也に襲い掛かった、あるはずのない敵。あの日、アメリカ空軍の手によって投下された抗ウイルス剤によって、すべてが終わったはずなのに――。
「感染者も、もしかしたらいるかもしれない」
「……」
「でも、それ以上に恐ろしいのは人間だ。そうだろう?」
アンナは悟ったかのように、うんうんと頷いた。そう、それは確か――このパンデミックが始まり、滑り込みで中学校に逃げ込んだ地獄の始まりから、一か月後。