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♠ 19時22分 馬南小学校、校門前
ほとんどの家族が自分の家へと帰宅し、学校に遺されたのは春尾、そして生徒三名に、教師の僕とアンナ。それに、馬南村の村医者である、佐々木である。彼は帰宅せず、信也のことを保健室で一晩中見ているという。
「……春尾と佐々木さん以外は外に出たな?」
既に辺りは暗く、冷たい風が頬に当たった。校門の柵の外に集まったアンナ達を一瞥し、その隣にある小さな扉から外へと出た。鍵を閉めると、春尾が寝泊まりをする二年一組の教室から、元気よく腕を振っているのを確認した。
そして、完全に電気を消す。一気に馬南小学校は暗がりに包まれて、幽霊が現れそうな雰囲気に早変わりだ。
「そう言えば、ヒナちゃんはどうしたの?」
「ああ、世田谷さんの家で寝泊まりするらしい」
質問したアンナは、目を丸くして驚いた。
「ええ~!? 世田谷さん、どうしちゃったの? あんなに子供が嫌いだったのに……」
「レヴェッカさんが、一緒だからだそうだよ。女二人だと心もとないから、来てくれって言ったら秒で頷いたって」
一同は、深く頷いた。寧音とエルツは傷を負った信也が心配で、この時間まで一緒に看病してくれた。ぬいぐるみがお友達の少女は……親に連れられて、すでに自宅である。
僕たちは学校の敷地内から抜けると、真っ暗闇な下校道を懐中電灯で照らしながら、帰路を歩いて行った。半壊した車やへし折れた木々はまだ放置されており、近隣整備の班が作業に取り掛かっているものの、まだまだ復旧しなければならない箇所も多かった。
「でもまあ、無茶するよな、信也も」
エルツはやれやれと言った素振りをして、肩を落とした。
「好奇心旺盛なのは良いけど。それを勉強に向けられないものですかねぇ?」
皮肉を言う寧音を後目に、信也の足に噛みついた感染者のことが頭から離れなかった。
このことは秘密にしようと約束した。狭川校長にも打ち明けてはいない。完全に死滅したと思われる『ゾンビ病』が、再発したかもしれないのだ。これをコミュニティにいる人たちの耳に入れば……まず、絶望する。そして、仕事に手を付けられなくなってしまうだろう。
「でも、どうして狭川校長先生には何も申告をしないんでしょうか?」
寧音は、小首を傾げた。
「校長に言ったら、間違いなく次の朝……『全校朝会』が開かれて、全員の前で信也が噛みつかれたと発表するから、らしい」
レヴェッカが校長を毛嫌いするから、とは口が裂けても言えなかった。
そんなこと、言わないでって言えば、きっと校長も解ってくれますよ。寧音は、ずいぶんと狭川校長を信じ切ったような言い方をした。
「……それでは」
寧音の実家はアパートの三階で、パンデミックが起こりうる前は貧乏ながらも家族仲良く暮らしていたらしい。一連の事件が落ち着いてからは、撃ち殺された父は埋められたが、母親は発病し、どこか他の街へと向かって行った。
「うん、おやすみ」
相馬たちにぺこりと挨拶をした寧音は振り返って、薄汚れたドアを開けた。「ただいまー」と誰もいないはずの部屋に一歩足を踏み入れると、
「おかえり、寧音くん」
寧音のことを出迎えたのは……一人の、教師。校長の狭川はYシャツ一枚のまま、寧音の身体を、粘っこい脂の浮かんだ腕で抱きしめた。
エルツのホームステイ先へと送り届けた後は、僕とアンナだけがぽつんと夜道に残されてしまった。
「びっくりしたなー。だって、給水塔の管理室を開いたら、小さな子が丸まってるんだもん」「うふふ。でも、どうしてヒナちゃんはそんなところにいたんだろうね?」
アンナは笑みを浮かべて、僕と肩が触れ合うくらいまで接近して来た。二人きりになると、急に彼女は甘えたがり、執拗なまでにスキンシップを要求してくる。一年前のパンデミックが起きる前は、ただの友人というか、それ以下の存在だったのだ。
僕の母は他県の市役所で働いており、馬南とは縁もゆかりも無かった。パンデミックが起きた後は母の元へ向かったが……感染者と車がバリケードになっており、断念した。そのまま、近くにあった『見広中学校』と呼ばれる場所で、偶然にもアンナと出会うのだ。生徒正面玄関が閉められる直前に滑り込んで、本当にギリギリ一命を取り留めたのは今でも憶えている。
「ね、してよ。ねぇってば」
「こ、ここで……?」
馬南の外れにポツリと置かれた公園。落ち葉や土で汚れたベンチの上を指さして、アンナは僕の手のひらに華奢な指を絡めて来た。
「解った解った。ほら、おいで」
アンナと手を繋いで、そそくさとベンチに移動する。腕で汚れを払うと、周囲に配慮ができないバカップルのように、唇を重ねた。
「……ん」
まだベンチにも座ってないのに、アンナの欲望のスイッチはオンになってしまい、
「ん~……」
バタフライ・キス。からの、舌を甘噛みする、カニバリック・キス。まるで邪魔する膜を無理やり破るように捻じ込まれた舌……。その舌で口腔を犯すと、不格好なゴツゴツに当たる。アンナの歯は一年前と違って、ボロボロで、今にも抜けそうなものが多かった。
胸を締め付ける罪悪感とは無縁に、うっとりと瞳を細めるアンナ――。
「……」
ベンチにゆっくりとしゃがみ込むと、アンナは尻を突き出す形となった。いつもならスパンキングして、いじめてあげたいと思うが……だが今日は、あまりそういう気分ではないのだ。
「ねえ、ちゃんと集中してる?」
「しゅーちゅーはしてないが、ちゅーちゅーはしてる」
アンナは僕の肩から手を離すと、
「もう、ムードが無いんだからあ」
文句を垂れながら、ゆっくりと紅潮した顔を離していった……。僕の右隣にしゃがんで、「ねえ、私たち、これからどうなっちゃうのかな」露骨に話題を変える。ムードがどうとか、やはり彼女にとってもあまり興味はないらしい。
「どうって……。どうなるんだろう……?」
「も~。質問を質問で返さないでよ。少なくとも私たち……今までの日常に戻れるのかなって、不意に思うことがあるんだ」
「戻れる、か……。――僕は、こう考えるかな」
指を立てて、アンナの横顔をまじまじと見つめる。
「これが、本来あるべき僕たちの日常だったんだって。それ以上のことは、夢だよ。だから、これからどうなるか、じゃない。僕たちの夢を叶えるには、どうすればいいんだろう、が正しいかな」
「日本は十九歳になったら教師になるのが強制で、四人の教え子に交代交代で勉強を教えないといけない。これが、私たちの日常なの?」
「そう。そして僕たちよりもっと大人の人間は、より多くの人と協力して、この村を住みやすい場所に変えて行かないといけない。それは僕たちが十年、二十年先の未来であることは変わらないし、今の教師生活が終わったら、今までの教え子が教師になる。それ以上のことを望むのは、夢」
アンナは不服そうだが、こてん、と頭を僕の肩に預けて来ると「はーい」と小さく返事をした。
「じゃあ、わたしも一つ叶えたい夢を思いついた♪」
アンナがゆっくりと立ち上がり、屈託のない笑みを浮かべる。肩に乗っていた長い髪が、背中へと移動した。
「克がこの国の中心となって……日本を変えちゃうの」
「それって、僕が総理大臣になるってコト?」
僕は、アンナの冗談に対して困った表情を浮かべた。真に受けていいのか、それとも受け流すべきなのか……。
「できるよ。克ならね! さあ、家に帰ろ?」
僕は懐中電灯に群がる蛾を無視して、ベンチから尻を上げた。
「お家に帰ったら、ぎゅってしてほしい」
「はいはい、解ったよ」
今まではあれだけ一日を乗り越えるのが遅くて、夜も絶望で眠れなかったほどだ。その絶望の内容はその日起きた事柄によっても変化し――裏切り――水不足――病気――それ以外にも、様々な要因がある。だが、絶望を上書きするほどの希望を胸に、今日と言う日まで生きて来たのだ。
終わった世界が、また終わる――。きっと明日も乗り越えられると、若い僕たちは希望を胸に歩んで行った。




