第七話 再積
遅筆のため、不定期投稿。
気長にお付き合いいただければ。
雨が去ったあと、ひどく静かだった。
鳥の声が戻るまで、二日かかった。
森の獣たちまで、灰蛇川の怒りを恐れていたかのようだった。
私は朝早く、ガレスの後ろについて領内を歩いていた。
土はまだ柔らかい。踏み締めるたび、靴が泥へ沈む。
空は高く澄み始めていたが、地上には昨夜までの傷跡が、そのまま残っていた。
まず目に入ったのは土塁だった。
いや、もう土塁とは呼べない。
削り取られた斜面、剥き出しになった土くれ。
折れた杭と縄だけを残して流された丸太。
春から積み上げてきた場所ほど、傷が深かった。
私は立ち止まる。
自然は人の努力を勘案などしない。
そして、いたずらに壊しなどしない。
ただひどい雨が降り、ただ流れ下っただけ。
自然にすればそれだけのこと。
だからこそ余計につらかった。
ガレスは何も言わない。
しばらく川を見つめ、
「……ここは捨てる」
とだけ言った。
私は顔を上げる。
「積み直さないの?」
「今は無理だ。」
父は短く答える。
「人が足りん。」
それだけだった。
歩き続け、川沿いの畑へ着いた。
麦は残っていた。だが一角だけ泥が厚く積もっている。
農夫が鍬を突き立て、やがて首を振る。
「駄目ですな。」
「このまま、根が腐ります。」
別の老人も土を握る。
指先で潰し、
「水を吸いすぎだ。」
と呟いた。
私は土を掴んだ。重く、春とは違う。土ではなく、泥だった。
葉は生きていても、根が息をできない。
前世で見た農業番組を思い出す。
排水、通気、根腐れ…
知識だけならある。
だが、溝を掘る人間がいない。それが、この土地だった。
さらに南へ歩く。今度は橋だった。
橋、と呼ぶには寂しい、丸太を縄で束ねただけの小橋。
その中央が無くなっていた。
向こう岸で子どもがこちらを見ている。
渡れない。母親が抱き寄せた。
ガレスは橋を見上げ、
「冬まで保留だ。」
と告げる。
誰も反論しない。
橋を直す木があれば、家を直せる。今はそういう話だった。
村へ入る。
屋根が一枚飛んでいる。壁土が崩れている。納屋が傾いている。
死人がいなかった。それだけが救いだった。
農民たちは家を直している。誰も泣かない。泣く時間などない。
冬は待ってくれないからだ。
「坊ちゃん。」
ダンが呼ぶ。
「あっちです。」
私は付いていく。
村外れ、鳴子が並んでいた。
夏に私が考えた鹿避けだった。半分が残っていた。
私は思わず笑う。
「残ったね。」
「ええ。」
ダンも笑った。
「鹿には勝ってますなぁ。」
自然には負けても、鹿には少し勝った。
その小さな事実だけで、胸が少し軽くなった。
被害の見回りは三日続いた。
帳面は、日に日に黒く埋まっていく。
折損した杭、流失した丸太、壊れた橋、崩れた畑。
使えなくなった荷車、牛一頭、羊二頭。干し草小屋ひとつ。
数字だけ見れば、それほど多くない。
だが辺境では、どれも替えが利かなかった。
夜。食堂へ皆が集まる。疲れていた。誰の声も大きくない。
エレノアが静かに帳面を閉じる。
「収穫を優先しましょう。」
眉根を寄せ、ガレスが頷いた。
「土塁は。」
「応急だけ。」
「橋は。」
「冬前までは諦めます。」
短いやり取りだった。
全部は守れない。だから選ぶ。それが領主の仕事だった。
私は黙って聞いていた。
前世なら、よくある数字の判断、処理だったかもしれない。
だがここでは違う。
橋を諦めれば、誰かが遠回りする。遠回りすれば荷が減る。
荷が減れば冬を越えられない家が出る。
全部、人の顔へ繋がっている。
数字は、最後には誰かの生活になる。
その重さを、私は少しずつ知っていく。
翌朝。村人たちが畑へ集まっていた。
まだ早い。だが待てない。
雨で倒れた麦は、起こさなければ腐る。
私は鎌を持った。もちろん大人ほど切れない。
だが、ただ立っているだけよりはいい。
「坊ちゃん。」
老人が笑う。
「指を切らんようにな。」
「うん。」
私は頷く。
五歳の腕では、一束刈るのにも時間がかかる。
けれど誰も、子どもだから帰れとは言わなかった。
働ける者は働く。辺境では、それだけだった。
風が吹く。黄金色になり始めた麦が揺れる。
雨に耐えた穂は、まだ生きていた。
私は一本持ち上げる。粒は小さい。去年より少し良い。
期待したほどではない。
それでも、無いより遥かにいい。
私は思わず笑った。
春、皆で積んだ土。夏、掘り続けた溝。
全部が無駄ではなかった。全部は守れなかった。
だが、全部失ったわけでもない。
辺境では、その違いが大きい。
昼頃になり、農婦たちが水を運んでくる。
黒パンを配る。子どもたちが麦束を運ぶ。
兵士も鎧を脱ぎ、鎌を握っている。
ガレスも泥だらけになりつつ、指示を飛ばしていた。
ダンが笑いを堪え、芝居じみた声をあげる。
「聞け、皆のもの。此度の戦、我らが領主様は泥鎧を纏い、伝家の鎌を携えてのご出陣だ。」
ガレスも珍しく戯れ言で応じていた。
「おお、麦畑に仕えし、勇敢たる百姓の騎士たちよ、濡れ麦どもは全て討ち取ってしまえ。」
その口上に、皆が声を上げて笑い合う。ほんの少しだけ、空気が軽くなった。
私はその光景を見ていた。
エレノアの言葉が浮かぶ。
――笑いは無駄ではありません。
つかの間の笑い声が治まるころ、皆、もう一度鎌を握っていた。
収穫は一週間続いた。
雨は来なかった。空は高く、朝夕は少し冷える。秋が来ていた。
私は毎朝、畑へ向かった。
最初は遊び半分だったレオンも、小さな籠を抱えて付いてくる。
「兄さま。」
「これ!」
麦穂を一本拾って見せる。
「立派だね。」
そう言うと、弟は満足そうに笑う。
その笑顔を見るたび、この子には冬を越えさせたいと思った。
収穫は遅い。人が足りないからだ。
一列終わるころには、別の列が雀に食われる。
鹿も来る。鳴子が鳴り、兵士が走る。完全には防げない。
それでも、去年より被害は少なかった。
村人が呟く。
「音だけでも違うもんだ。」
私は少し照れた。大した工夫ではない。
けれど、この土地では、少し違う、が積み重なる。
夕方。積み上げた麦束を眺める。山は小さい。
だが去年より高い。農夫たちは何度も数えている。
誰も浮かれない。
最後まで終わらなければ、収穫ではないからだ。
その日の夜。
砦の納屋へ運び込まれた麦袋を、エレノアが静かに見つめていた。
「母上。」
私が隣へ立つ。彼女は袋へ手を置いた。
「去年より、多いですね。」
「うん。」
「ですが十分ではありません。」
「……うん。」
私は頷く。分かっていた。
飢えなくて済むほどではない。余るほどでもない。
冬を越えられるか、その境目だった。
エレノアは微笑む。
「それでも。」
彼女は袋を軽く叩く。
「今年は希望があります。」
私はその言葉を繰り返す。
希望。帳面には記せないものだった。
けれど確かに、納屋には去年より多く積まれている。
それだけで、人の顔は少し明るかった。
納屋からでて、私は土塁へ登った。修復はまだ終わっていない。
崩れたままの場所もある。杭は斜めに立ち、縄は泥に汚れていた。
傷跡は消えない。だが、川は静かだった。
月を映し、何事もなかったように流れている。
私は棒を握る。ゆっくりと構える。
打たない。振り下ろさない。ただ、呼吸を整える。
流れを読む。受ける。崩れない。
杖は、川に少し似ていると思った。
力で押し返さない。流し、受け、最後まで折れない。
私は静かに息を吐いた。
春には土を積んだ。夏には水と戦った。秋には実りを刈った。
どれも勝利ではない。生き延びただけだ。
けれど、辺境では、生き延びることが明日を積むことなのだ。




