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第六話 残存

遅筆のため、不定期投稿。

気長にお付き合いいただければ。

晩夏の雨は前触れなく来た。


昼までは、薄曇りだった。

灰色の雲は垂れていたが、辺境では珍しいことではない。

兵士たちも農民たちも、空を見上げはするが、それだけだった。

私はその日、食堂にいた。

伯爵家から来た使者の歓待がようやく終わり、砦の空気も少し緩んでいた。

もちろん豪勢なものではない。

黒パン、干し肉、川魚の燻製、なけなしの薄い葡萄酒。

それでも、器は磨かれ、卓布は皺なく整えられていた。

エレノアは最後まで姿勢を崩さず、侍女たちへ細かく指示を飛ばしていた。


使者が去ったあと、食堂には疲労だけが残った。

「ふぅ……」

珍しく、ダンが大きく息を吐いた。椅子へ腰を下ろし、肩を回している。

「疲れたの?」

「そりゃもう。貴族様のお相手ってのは、戦より肩が凝りますぜ」

兵士たちが笑う。ガレスは苦笑しながら葡萄酒を飲んでいた。

エレノアはまだ帳面を見ている。

「塩はあとどれくらい残っていますか」

「ひと月分ほどだ」

「節約すれば三十五日ですか」

そんな会話が続く。

辺境では、一息ついている時ですら、次の不足を数えなければならない。


私は窓の外を見た。風が止まっていた。

妙だった。夏の終わりには、草を揺らす風がいつも吹いている。

だが今は空気が重く、湿っている。川の臭いがした。

私は少し眉を寄せた。そのときだった。遠くで、雷が鳴った。低い音だった。

兵士たちの笑い声が止まる。

ガレスが顔を上げた。

「近いな」

次の瞬間、雨が落ちた。叩きつけるような雨だった。

窓を激しく打ち、屋根を鳴らし、地面を白く煙らせる。

ただの雨ではない。暴力じみた雨だった。


「おい」

ダンが窓を見る。

「こりゃ……」

雨脚が見えない。空そのものが落ちてきたみたいだった。

兵士が食堂へ駆け込んでくる。

「旦那!」

「言え」

「北側の見張りから! 川が増えてます!」

ガレスが立ち上がった。椅子が鳴る。

「まだ降り始めだぞ」

「山の方でしょう!」

その言葉で、空気が変わった。

私は知っている。

こういう雨は上流で既に降っている。山で降った水は一気に()()

灰蛇川はそれを呑み込む川ではない。吐き出す川だ。

ガレスが短く命じる。

「土塁に兵を回せ!」

「はい!」

「南村にも伝令を出せ! 家畜を高台へ!」

兵士たちが飛び出していく。

雨音が凄まじかった。外はもう白く、少し先も見えない。

私は立ち上がった。

「父上」

「お前は中にいろ」

「でも」

「邪魔になる」

即答だった。

私は口を閉じる。正しかった。

今の私は五歳だ。走っても遅く、土嚢は運べない。

頭では分かっている。だが、悔しかった。

ガレスは外套を掴む。エレノアが言う。

「無理はなさらないで」

「無理をせんと崩れる」

短い返答だった。

そしてガレスは雨の中へ出ていった。

扉が閉まり雨音だけが残った。

私は窓へ近づく。見えない。

ただ、水の音だけが大きくなっていく。

ゴウ、という低い唸り。川が怒っていた。


その夜、砦は眠らなかった。

伝令が次々に来る。

「北杭列、一部流失!」

「湿地牧の小橋が沈みました!」

「西の斜面で崩れが!」

人が足りなかった。どこもかしこも壊れる。

だが全部へ兵は出せない。ガレスは選んでいた。

「土塁を優先しろ」

「橋は捨てろ」

「荷は後回しだ」

その命令のたび、誰かが顔を歪める。

橋を捨てれば、村が困る。荷を捨てれば、備蓄が減る。

だが選ばなければ、全部壊れる。

私はその光景を見ていた。前世でも似たことはあった。

高速道路が止まり、物流が滞り、棚から商品が消える。

数字だけ見れば同じだった。

だが、ここでは違う。顔が見える。

誰が寒い冬を越せなくなるのかまで見えてしまう。

全部を守れないとき、人は優先順位を決める。

だが、数字で切るのと、人の顔を見ながら切るのは違った。


「坊ちゃん」

ダンは全身ずぶ濡れだった。泥まみれで、片腕から血が出ている。

「怪我したの?」

「木材が飛んできましてね」

笑っている。だが疲れていた。

「土塁は」

ダンは少し黙った。

「……あんまり良くねえです」

私は胸が重くなる。

「崩れそう?」

「もう崩れてます」

雨音が大きくなる。

「ただ、まだ飲まれてねえ」

その言葉の意味が分かった。

完全決壊ではない。だが削られている。少しずつ、絶え間なく。

それが一番嫌な壊れ方だった。


夜半。

突然、砦の外で怒号が上がった。

「杭が抜けるぞ!」

「縄を寄越せ!」

「押さえろ!」

私は飛び出しかけた。だが侍女に止められる。

「アルノー様!」

「離して!」

「危険です!」

外では、人の叫びと水音が混ざっていた。

私は窓へ張り付く。

稲妻が走る。その一瞬だけ、川が見えた。

巨大だった。黒い。土塁へぶつかり、白い飛沫を上げている。

その姿は、生き物みたいだった。

灰蛇川。

本当に蛇なのだと思った。長く、冷たく、執拗な大蛇。

人の積んだ土を、少しずつ削っていく。

そのときだった。ドォン、と低い音が響き地面が震えた。

食堂にいた全員が顔を上げる。誰かが呟く。

「……落ちた」

私は走った。今度は誰も止めなかった。

外へ出る。雨が顔へ叩きつけられる。冷たい。息が苦しい。

兵士たちが走っている。松明の火が揺れていた。

私は土塁へ向かった。泥で何度も滑る。小さい身体では進まない。

悔しかった。


ようやく辿り着いたとき、そこには――穴があった。

土塁の一部が消えていた。杭列ごと流されている。

濁流がそこへ噛みつき、さらに土を削っていた。

兵士たちが土嚢を投げ込んでいる。

ガレスが怒鳴っていた。

「そこを下げるな!」

声が掠れている。だが誰も止まらない。ダンが泥へ飛び込み、杭を支える。

別の兵士が流されかける。誰かが腕を掴む。人が足りない、圧倒的に。

自然の前では、全部足りなかった。

私は立ち尽くしていた。

前世の知識が頭を巡る。

土木、治水、排水…

足りない。人が、木が、石が、そして時間が。

まして、この世界には機械がない。魔法もない。

だから全てが、人力だった。

ガレスがこちらへ気づく。

「何故来た!」

「……」

声が出ない。

ガレスは苛立った顔をした。だが次の瞬間、叫ぶ。

「ロープを持て!」

私は反射的に走った。兵士から縄を受け取る。

重い。泥で滑る。だが運ぶ。ガレスへ渡す。

父は何も言わず、それを杭へ巻きつけた。

また怒号、また濁流、幾度も繰り返される。

時間の感覚が消えていった。


やがて、少しずつ、雨音が弱くなった。

夜明け前だった。雲の切れ間から、薄い光が見え始める。

川はまだ荒れていた。だが、増水は止まり始めていた。

兵士たちはその場へ座り込む。

誰も喋らない。疲れきっていた。

ガレスは泥だらけのまま川を見ている。

私は隣へ立った。そして、言葉を失った。

土塁が消えていた。全部ではないが、多くが削られている。

春に積み直した場所、杭を打った場所、皆で泥を運んだ場所。

その多くが流されていた。残った堤体も傷だらけだった。

削られ、抉られ、崩れかけている。

ガレスが低く言う。

「……耐えたか」

勝った、ではなく、耐えた。

その言葉だけだった。

ダンが泥へ座り込みながら笑う。

「また積み直しですな」

誰も笑わなかった。その労力を知っているからだ。

春から積んできた土。切り出した木。運んだ石。

全部、人の手だった。それが一晩で消える。

私は川を見ていた。

怖かった。人間は弱い、本当に弱い。

少し雨が強くなるだけで、全部崩れそうになる。

努力も、工夫も、知恵も、全部簡単に呑まれる。

そのとき、不意にエレノアの言葉を思い出した。

“削ることばかり覚えると、人の心まで痩せます”

私は少し分かった気がした。この土地では、人は簡単に折れる。

だから礼が、笑いが、祭りが要る。

そういう“無駄”がないと、人は自然に負ける。

ただ腹が減るからではない。心が先に崩れるのだ。


やがて、朝日が雲間から差し始めた。

濁流はまだ唸っている。だが空は、少しずつ明るくなっていく。

兵士たちは無言で立ち上がる。

誰かが杭を拾う。誰かが縄を巻き直す。

また積み始めるのだ。壊れた土を、削られた暮らしを。

私は泥の中で、それを見ていた。

英雄はいない。奇跡もない。ただ、ただ、人がいる。

流されても、また土を積む人たちが。

私は小さく息を吐いた。

夏が終わろうとしていた。

そして辺境は、秋を迎える前にもう一度、人へ思い知らせる。

ここは、生き残るだけで戦いなのだと。

土は流れる。それでも、人は積む。

AI使用に関して。

作者による次節の場景、展開を提案、AIよりプロットの返答。

プロットをもとに作者が素文を提案、AIより補筆、編集を施した本文案の返答。

本文案を作者が推敲、再構成を提案、AIより添削、補筆、編集を経て下書きの作成。

下書きを作者が最終確認。AIより誤字等の確認後、投稿。

このような流れで、共同作業者的に利用しています。

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