第三十五話 アトロス 中
◇
「アトロスくん、ここがこれからの貴方の住処です。くれぐれも余計なことを考えないように」
馬車を下り、白いヒゲの男性――フランロア領、領主フローウェルがアトロスの視線を誘導する先には幾つかの巨大な建物があった。
草花がほとんどない広大な荒れ地の真ん中にある、黒塗りの建物。
その中に入るようアトロスは促されていた。
「いえいえ、何も恐れることはありません。貴方の存在が我が国を救うことになるのですから、誇りに思いましょう。そう、貴方はその祝福の力を以てこの国の英雄になるのです」
フローウェルが何を言っているかなど、ほとんど耳に入ってこなかった。
数時間前の出来事が、何度も脳裏に過って繰り返される。
――――あの後。
アトロスが五人の軽装の男と、フローウェルと向かい合った後、男は気味の悪い笑みで告げた。
アトロスのことを祝福者だと、その身を引き取りに来たと。
その言葉が家の中にまで聞こえたのだろうか。
驚愕の表情を浮かべながら、父が急いで外に飛び出して来て――
一瞬のうちに、軽装の男のうちの一人が動いた。
彼の持つ剣が容易く父の腹を貫いた。
ぼとりと、鍛え抜かれた体躯が地に落ちる。
「――え?」
その光景を目の前で見たアトロスと、遅れて駆け寄って来た母は、何が起きたのか理解できずに頭が真っ白になった。アトロスはともかく、母はその場に崩れ落ち嗚咽をもらしていた。
「安心してください、殺してはいません」
そんな二人にフローウェルは告げる。
「ですが、それは今の段階での話です。今後どうなるかは貴方の対応次第――分かりますね、アトロスくん?」
その男の眼には、ほとんど人同士の争いのない村で暮らしてきたアトロスが見たことのない、意地の悪く薄汚れた何かが備わっていた。
その後、まるで夢の中の出来事のように現実味のない状態のまま、様々なことが行われていった。
軽装の男のうちの二人がその場に残り、母が全力で自分の名前を呼んでいたことだけは朧げに覚えている。
そして。
「あと……ろす……」
血に這い蹲りながらアトロスに向け手を伸ばす父の姿だけは、やけに鮮明に脳に焼き付いていた。
しかしそれを見ても、アトロスは何一つ行動に移すことは出来ないままフローウェルに連行されていく。
どうしてその場で抗おうと思わなかったのか。
後になってどれだけこの日を思い返しても、その答えは出なかった。
そんなふうにして、今に至る。
建物の中に連行されたアトロスは、ある一室の中に閉じ込められていた。
煉瓦造りの、窓一つない簡素な部屋。
外ではフローウェルと、他の男性が二人で話し合っていた。
この部屋に入る前に見た感想は、豪奢な服装に身を包む腹の出た不摂生そうな男だった。
そんな二人の声が微かに聞こえる。
「まさか、このタイミングで我が国にも祝福者が現れるとは。あの村に遣わせていた騎士から伝令があったときは驚きのあまり腰を抜かしましたよ」
「そうですなぁ、この件を大公様に伝えたら、我等にもさらなる領土と権限が与えられることでしょう、がっはっは!」
とても楽しげで、自身の躍進を一切疑わない声。
しかし、その声はすぐに少しの悲哀を含むものに変わる。
「ですが、彼はまだ子供。それも祝福に目覚めたばかり……現時点では、到底北の大国二つには敵わないでしょうな」
「そうですね。エルトリア帝国はともかく、今のルミナリア王国には“金魅”が存在する。歴代最強と謳われる祝福者。今挑んでも返り討ちに遭うだけでしょう。ですが、祝福者の人数が一人ではなく、二人三人と増えていけば話は別ですよ」
「ほう……続きを聞かせてもらいましょうかな」
「と言っても、もう推測はついていられるのでしょう? この研究所の施設を利用し、祝福者の力を技術として体系化するのです」
「ふむ、なるほど。しかし可能なのですかな? 祝福とは奇跡の力。それを我々人間が自由自在に生み出すことなど」
「不可能ではないでしょう。祝福と同様に不可能と言われていた“魔物化”の技術は、当研究所では既に成功例が生まれています。ほら、前に話した彼女のことですよ。もうご覧になられましたか?」
「おお、彼女か! たしかに見ましたぞ! あれほど鮮やかな紅色の髪を持つ少女は初めて見た。なるほど、たしかに祝福は奇跡の力であるものの、その根源が魔力であることには変わりない……とすると、ここに彼を連れてきた理由は」
「ええ、御察しの通りです。彼をすぐさま戦力として他国との戦いに投入するのではなく、新たな戦力を生み出す種として使用するのです。そうすることによって、我らはかの大国二つを滅ぼし、更には近頃力を増してきている魔法軍とやらをも潰してしまうのです――次に世界を支配するのは、我らがクルトリアード公国なのですよ」
「素晴らしい! 素晴らしいぞフローウェル伯爵! このドゥラログ、その計画に乗ろうではないか!」
気味の悪い両者の笑い声が、壁を隔ててもなおアトロスの下に届く。
二人の会話の全てが聞こえていたわけではない。むしろほんの一部だ。
だけど、その内容がアトロスにとって喜ばしくないものだということは理解できていた。
(何故、俺はこんな目に合っている……?)
フローウェルが現れ、父が刺され、アトロス自身も連行され。
様々な衝撃的な出来事が次々と発生したことにより、麻痺していた思考が再び動き出す。
心の奥底から現れる感情は、自分の置かれた状況に対する怒りと憎しみだった。
「ふざけるな……」
その感情を口に出した途端、胸の奥から何かが湧き上がってくる。
これを知っている。あの日、アトロスの身では到底倒しきれない魔物を滅ぼした奇跡の力。
あれ以来発動することのなかった力が、アトロスの憎しみに応じるように発現する。
禍々しい灰色の濃霧が、アトロスの身体から立ち昇る。
あの時と同じ、何故かアトロスはその力の使い方を知っていた。
前に立ちはだかる壁を見据えながら、小さく願う。
「【消滅】」
放たれた濃霧は、一瞬のうちに壁を吹き飛ばした。
「なっ!」
「む!?」
フローウェルとドゥラログの姿が露わになる。
彼らは突如として発生したその現象に眼を見開き、驚愕を表していた。
灰色の濃霧は、今もアトロスと二人の間に漂う。
それを認識した瞬間、フローウェルが顔に浮かべたのは恐れではなく笑みだった。
「落ち着いた方がいいですよ、アトロスくん」
そして諭すようにアトロスに投げかける。
「ふざけるな」
怒りを含んだ目つきを真っ直ぐに向ける。
本当は数時間前の父が襲われた瞬間に、この力を用い対処するべきだった。
実行に移すのが遅すぎたくらいだ――コイツは、今この場で殺さなければならない。
それが、アトロスが生まれて初めて抱いた殺意だった。
「お前は、俺が殺――――」
「貴方の両親が、どうなってもよろしいんですか?」
「――――は?」
フローウェルの言っている意味が分からなかった。
眉を顰め言葉の続きを待つアトロスに対し、フローウェルは微笑みながら信じられない内容を口にした。
「貴方の両親と、カサド村の住人の命は既に私達の手の中にあります。貴方の父を剣で刺した方達のことを覚えていますか? 彼らは私の配下にいる者でしてね。私にもしものことがあれば、貴方の両親やそれ以外の人々を殺すように指示を出しているのですよ」
「何を、言って……?」
「分かりますか? 既に手遅れなのですよ。貴方が私達を殺せば、それと同時に彼らは貴方の愛する者達に手を掛けるでしょう。故に、貴方はもう私に逆らうことは出来ないのです」
「…………っ」
フローウェルの言葉に嘘は感じない。
ということは彼の言葉は本当なのだ。
父や母や、それ以外の村人が人質に取られているという荒唐無稽な話が。
そして、彼らをその様な状況に陥れた原因こそ。
「いえ、何も心配することはありません。先程も言ったでしょう? 貴方はこの国の英雄となるのです。その身に宿した祝福を用い、我が国に栄光を齎した暁には愛する者も無事貴方の下へ帰ってくるでしょう……尤も、それも貴方が逆らわなければの話ですがね」
アトロス自身だった。
このようにして。
絶望の中で、アトロスの研究所生活が始まりを告げた。
◇
「何故上手くいかない!」
聞き慣れた怒号が、鼓膜を激しく震わせる。
「どれだけの金と時間をかけたと思っている! 祝福の再現どころか、構成要素一つ分析できないとは何事だ!」
いつ日からか、余裕と共に敬語をなくしたフローウェルが、近くにいる白衣を着た研究員に詰め寄っていた。
研究員は恐れるような表情を浮かべつつ、くぐもった声で答える。
「も、申し訳ありません! で、ですが、祝福により生まれた力はこれまでに見てきたものとは全くの別物で……魔術や魔物化のように、術式や理論が組み込まれている訳ではないようでして……魔力そのものに、特別な力が備わっているかのような」
「その話は何度も聞いた! 私が言っているのは、その魔力をどうにかして生み出してみせろということだ!」
「ふ、不可能です! 少なくとも現時点の当研究所の技術ではそのようなことは出来ません! そもそも、その魔力自身が被験者以外には耐えられないようで……というよりも、まるで被験者以外が扱うことを想定していないような反応です。これを他者に適応するなら、それはもう人の脳や心臓を含む全ての臓器を移植して命を保てと言っているようなものです!」
「だったらそれをしろと言ってるんだよぉぉぉおおおおおおお!!!」
「がはっ!」
怒りの感情に呑み込まれてしまったように、フローウェルは勢いよく研究員を地面に投げつける。
すると、そのまま両手で頭を抱え込み、何かを恐れるように縮こまる。
「あぁ、ああ……何でこうなるんだよぉ。魔物化なら上手くいったのに、何で祝福は無理なんだよぉ……もう大公の奴にも言っちまってる。アイツも、いつ新たな祝福者を生み出す見通しがつくかなんて催促してきやがって! 無理に決まってんだろぉが! くそがぁ……」
そんな光景を、アトロスはただ無言で眺めていた。
――――二年の月日が経った。
状況は変わらない。
人質に取られた者達に危害を加えさせないために、アトロスはフローウェルの指示に従うだけの生活を送っていた。
しかし研究の成果はほとんど現れることなく、日を追うごとにフローウェルの容貌は崩れていった。
彼の家臣や研究員が、アトロスに愚痴を吐き暴力を振るうことなど日常の光景の一部となっていた。
祝福という奇跡の力を人の身でどうこうしようと考えたのが、そもそもの間違いだったのだろう。
それでもアトロスのやることは変わらない。
毎日の採血と祝福使用。
基本的な日課はそれくらいだった。
後は監視がいれば外に出ることも許され、隣の研究所内にいる、魔物化の研究のために国内の村落や周辺の小国から集められた者達と顔を合わす機会もあった。
逃げることは可能だったが、実行には移さなかった。
いなくなったことがバレれば、一瞬で全てを奪われるから。
それどころか、最近では少し外に出るだけでもフローウェルの機嫌は著しく悪くなる。
十分に注意しなくてはならない。
日々、憎しみは募る。
自分がどうしてこのような目に合っているのか。
両親達が危険な状況に晒されいるのか。
本来は、ただ小さな村で家族と楽しく過ごすだけの人生だったのに。
ただただ、憎悪だけが増えていった。
何一つとして成果がなかったわけではない。
アトロスの祝福は非常に強力だということが分かった。
それこそ、歴代に現れた祝福と比較しても上位に位置する。
触れただけで全てを消滅させる灰色の濃霧。
そんな力が弱いわけがなかった。
しかし、それを聞いてアトロスは、歓喜でも悲哀でもない別のことを考えていた。
(この力で出来ることは、それだけじゃない気がする)
根拠のない推測。
なのに何故か確信があった。
自分が扱うこの祝福は、ただ目の前にある邪魔な物を消滅させるだけではない。
もっと複雑で意味不明な、現実ではありえないような何かを起こせるのだと直感していた。
もう少し。
もう少しで、自分はそれを手に入れられる。
それを手にすることが出来れば、きっとこの腐りきった現状を打破することが出来るはずだ。
それだけを願って、今日もアトロスは憎しみを募らせる。
そして――――
◇
「選べ」
彼の前に、その存在は降り立った。
黒色の長髪を靡かせ、漆黒のコートを纏う。
絶対零度の眼光をアトロスに向け。
全身を黒に包まれた男は、責め苛むように言った。
「お前のその力。祝福か、それとも――――」
願いは、加速する。




