第一話 鐘が鳴るころに ①
丘の上で、風車が回っていた。
魔女は街道の途中で足を止めた。風に流れた黒髪を耳へ掛け、丘を見上げる。羽根が回るたびに、低い軋みが聞こえた。かつて二人で見上げた風車は、今もそこに立っていた。
壁は白く塗り直され、あのとき上った土の道には石が敷かれていた。その両脇には、見覚えのない家々が並んでいる。
荷馬車が隣を通り過ぎた。荷台には、口を固く縛った麦袋が積まれている。魔女は道を空け、車輪が丘へ向かうのを見送った。
二月前、南の宿で聞いた話を思い出した。
勇者が亡くなったという。
暖炉のそばに座っていた商人が、酒を飲みながら話していた。故郷で、家族に見守られて。いくつだったのかと尋ねる者がいた。葬列を見たという者もいた。
魔女は口を挟まず、聞いていた。
その夜の食事は、半分残した。
翌朝、地図を広げた。次に向かう目的地とは、少し方角が違っていた。遠回りをしても、次の「お役目」には間に合う。
魔女はしばらく地図の上の町名を見つめた。
魔女は地図を畳み、風車の町へ続く道を選んだ。
*
四十二年前、二人は北へ向かう途中だった。彼がまだ、勇者と呼ばれる前のことだった。
魔女は各地に残る古代遺跡を巡っていた。山の奥に埋もれたものもあれば、人里近くの地下に眠るものもある。いずれも、かつて封じられた魔獣の復活を抑えるための場所だった。
封印は、放っておけば傷む。
魔女は封印の状態を確かめ、その働きを保つために魔力を注いだ。普段の点検なら、数時間から数日で済んだ。順番に巡れば、一人でも何か所もの遺跡の封印を維持できた。
その「お役目」を担わせるために、彼女の身体には、魔術を扱う器官が埋め込まれた。魔術を使えるようになり、人よりもはるかに長く生きる身体になった。
望むかどうかを尋ねられることはなかった。拒む機会も与えられないまま、彼女は魔女にされた。
それから、管理する遺跡と、巡る順番を教えられた。長く生きることも、その年月を封印の維持に費やすことも、彼女が選んだものではなかった。
それでも、封印は放っておけば弱まる。自分が行かなければ、いずれ魔獣が目を覚ます。
魔女は地図を開き、次の遺跡へ向かった。
勇者と出会ったのも、その道中だった。
*
遺跡へ続く古い道が、崩れていた。
魔女は崩れた斜面を見上げた。荷物を魔術で浮かせれば、一人でも越えられる。手を伸ばし、魔術を使おうとしたところで、通りかかった青年が足を止めた。
「向こうへ行くのか?」
「ええ」
「じゃあ、荷物を持つよ」
「その必要は——」
言い終える前に、青年は大きなほうの袋を担ぎ上げた。
「次の町までなら、持つぞ」
「私は途中で道を外れるわよ」
「どこへ?」
「山の向こうに、用があるの」
「じゃあ、分かれ道まで」
それが最初だった。
分かれ道で荷物を受け取ると、魔女は青年と別れ、遺跡へ向かった。
点検を終えて戻るころには、日が暮れかけていた。分かれ道の脇で、小さな火が燃えていた。青年が、その上に掛けた鍋をかき混ぜている。
「まだいたの?」
「腹が減ったから、ここで泊まることにした」
彼は荷物から器を取り出した。
「何か食べるか?」
魔女は少しためらってから、火の前へ座った。
翌朝、行き先を尋ねられた。答えると、彼は同じ方角を指した。
「俺も、そっちだ」
その次の町でも、彼はそう言った。
三つ目の町を出るとき、魔女は地図を広げた。
「次は東よ」
「そうか」
「あなた、北へ行くと言っていたでしょう」
青年は少し考えた。
「急ぐ用はない」
「遺跡では、待つことになるわよ」
「麓で仕事を探す。飯代くらいは稼げるだろ」
魔女は地図を見下ろした。巡る遺跡も、その順番も決められていた。これまでは、一人でその道を歩いてきた。誰かを待つことも、待たれることもなかった。
魔女の口元が、わずかに緩んだ。青年に気づかれる前に、地図を畳む。
「荷物は、半分持ってもらうわ」
「ああ」
魔女は大きな袋を、彼の足元へ置いた。
*
町へ着いたとき、鐘が三度鳴った。宿の主人が窓を開け、丘を見上げる。
「今日は、よく回りそうだ」
「何が?」
勇者が尋ねた。
「風車ですよ。近くの農家へ知らせているんです。動いていれば、麦を持ってこられるでしょう」
「わざわざ鐘を鳴らすのか」
「丘が見えないところもありますから」
勇者は窓へ近づいた。風車の下へ、麦袋を積んだ荷車が向かっていた。
「なるほど」
「感心していないで、部屋を取って」
魔女が椅子へ座った。
「二つよ」
「わかってる」
「前の宿では、わかっていなかったでしょう」
「あれは一つしか空いてなかったんだ」
「また床で寝てもらうわよ」
そう言って、魔女は頬杖をついた。一つしか空いていないなら、それでも構わなかった。
「お部屋は二つ空いていますよ」
主人が笑い、鍵を二本取り出した。勇者は荷物を下ろした。
「ここでも、寄るところがあるのか?」
「いいえ。次は山を越えた先よ」
「じゃあ、今日は休めるな」
「そうね」
魔女は窓の外へ目を向けた。「お役目」を気にせず町を眺めるのは、久しぶりだった。
*
夕食には、硬いパンが出た。
勇者は両手で割ろうとして、途中で諦めた。皿へ戻す。向かいで、魔女が見ていた。
「剣を使えば?」
「食卓で抜くものじゃないだろ」
「では、負けを認めるのね」
「パンに勝つために剣を学んだわけじゃない」
水差しを運んできた少女が、くすくす笑った。
「スープにつけて食べるんだよ」
「先に教えてほしかったな」
勇者は、少女が小脇に抱えた木のかざぐるまへ目を向けた。四枚の羽根のうち、一枚だけ色が新しい。
「それ、自分で作ったのか?」
「おじいちゃん」
少女はかざぐるまを持ち上げ、二人へ見せた。
「丘の風車も、おじいちゃんが直してるの」
「何でも直せる人なんだな」
「うん」
少女は嬉しそうにうなずいた。
勇者はパンをスープへ浸した。柔らかくなるまで待ちきれずに持ち上げ、汁を服へ落とした。
魔女が布を差し出した。
「今度は、スープに負けたわね」
少女は口元を押さえたが、こらえきれずに笑い出した。
*
翌朝、二人は町を出た。
門を離れて間もなく、背後で鐘が鳴った。
三度では、止まらなかった。
魔女は振り返った。丘の向こうから、大きな影が現れた。
竜だった。
風車の上を翼が覆い、その顎の奥が赤く染まる。
炎が落ちた。丘を走り、風車の羽根へ燃え移った。門の向こうで、悲鳴が上がった。勇者が剣の柄へ手を掛ける。
どこか、別の魔女が管理する遺跡で、封印が解けたのだろうか。
彼女に課された「お役目」は、自分に割り当てられた遺跡の封印を保つことだ。引き返せば、次の遺跡への到着は遅れる。
魔女は町を振り返った。風車の羽根が燃えていた。
荷物を道端へ下ろし、来た道へ足を向けた。
「戻るわよ」
勇者はうなずき、隣へ並んだ。
二人は来た道を駆け戻った。すぐに門をくぐる。広場では、人々が礼拝堂へ走っていた。宿の主人も、娘を抱えてその後を追っている。
竜が町の上を回った。逃げる人々へ、首を向ける。
魔女は足を止め、腕を上げた。雷が、竜の頬を打った。
竜が頭を振り、二人へ向き直る。勇者が隣で剣を抜いた。
「こっちに来るぞ」
魔女は、町を挟んで遺跡とは反対側にある岩場を指した。
「町から引き離すわ。あちらへ」
勇者はうなずいた。
*
二人は麦畑を抜け、町から離れた岩場へ走った。竜の影が後を追ってくる。
勇者は振り返った。竜が顎を開き、喉の奥を赤く染めていた。
「来る!」
竜の口から吐き出される炎が押し寄せる。
魔女が足を止め、両手を上げた。魔女の張った光の壁へぶつかり、左右へ流れる。
勇者は彼女の背へ手を当て、踏ん張った。壁の脇を抜けた炎が、足元の草を焼いた。
やがて、炎が途切れた。竜は翼を畳み、低く滑空してきた。
「翼を落とすわ。胸を狙って」
魔女が壁を解く。放たれた雷が右翼を打った。翼が折れ曲がり、竜は岩場へ墜ちた。
地面が震え、土煙が広がる。
勇者は剣を構えて駆けた。起き上がろうとする竜が、前脚を振り下ろす。勇者は横へ跳んで爪を避け、その内側へ踏み込んだ。
迫る鼻先を斬りつけると、竜が顔を振り上げた。胸が露わになる。
「今!」
魔女の氷槍が、胸の鱗を砕いた。
勇者はその傷へ、両手で剣を突き込んだ。重い手応えが腕へ返る。竜がのけぞり、勇者の足が地面を離れた。
それでも柄を握り、身体の重さを掛けて刃を押し込んだ。
竜の動きが止まった。巨体が、ゆっくりと傾く。
「離して!」
勇者は剣から手を離した。落ちる身体を魔女の風が押し、竜の脇へ逃がした。
地面へ転がった勇者の腕を、魔女がつかむ。二人で岩陰へ飛び込んだ。
背後で、竜が倒れた。
土と小石が降り注ぎ、その音がやむまで、二人は身を伏せていた。
*
「……倒したか」
勇者が尋ねた。魔女は岩陰から顔を出した。竜は横たわったまま、動かなかった。
「ええ」
「よかった」
勇者は仰向けになり、大きく息を吐いた。魔女が隣へしゃがむ。
「腕を見せて」
「大したことはない」
「血が出ているわ」
袖が裂け、その下から血がにじんでいた。爪を避けたときに、かすめたらしい。
魔女が傷へ布を当てると、勇者は顔をしかめた。
「……大したことは、あったかもしれない」
「でしょうね」
魔女は布を巻き、きつく結んだ。
*
町へ戻ると、人々が駆け寄ってきた。竜を倒したと聞いても、初めは信じなかった。
やがて町の者が岩場まで確かめに行き、息を切らして戻ってきた。その声を聞いて、泣き出す者がいた。宿の主人が、何度も勇者の手を握った。
「勇者だ」
誰かが言った。
彼は振り返った。後ろには、誰もいなかった。魔女を見る。
「俺のことか?」
「他に誰がいるの」
「……そうか」
困ったように頭を下げる彼へ、人々が集まった。
その呼び名は、町を出た後もついてきた。
*
風車は、半分焼けていた。丘の下の家々にも火が移り、怪我人が礼拝堂へ運ばれていた。
二人は日が暮れるまで人を運んだ。翌日は、焼け落ちた材木を片づけた。その次の日も、町を出ずに修復を手伝った。
夜になると、魔女は地図を開き、点検の日を確かめた。
次の「お役目」にはまだ間に合う。
そう自分に言い聞かせて、地図を閉じた。
風車の前では、少女の祖父が道具袋を広げていた。
「直るのか?」
勇者が尋ねた。
「軸は無事じゃ」
老人は焼け残った支柱を叩いた。
「羽根を作り直せば、使える」
「それなら、木を運べばいいんだな」
「何でも担いでくるなよ。使える木か、先にわしに見せるんじゃ」
それでも勇者は、太ければよいと思ったらしい。運んできた材木を、何度も元の場所へ戻すことになった。
*
ようやく足場へ上がっても、今度は釘を何本も曲げた。
「よそ見をするな。叩くところを見んか」
老人に叱られ、勇者は黙って釘を抜いた。魔女は思わず笑った。
勇者が足場の上からにらむ。
「見てないで手伝ってくれ」
「風を止めているでしょう。それとも、揺れる足場で作業したいのかしら?」
「そうだった。今のままで頼む」
それを見て、少女も笑っていた。祖父の隣に立ち、小さなかざぐるまを抱えている。魔女が風を抑えている間、その羽根も止まっていた。
封印へ魔力を注ぐ間、誰かと笑い合ったことはなかった。
ここでは、自分の意思で力を使っていた。疲れれば休み、翌朝にはまた丘へ上った。
*
風車が回った日、鐘は鳴らなかった。
竜の炎で鐘楼の梁が焼け、鐘は地上へ下ろされていた。人々は近くの農家へ歩いて知らせに行った。
夕方には麦を積んだ荷車が来た。老人は戸口で、一台ずつ迎えた。
勇者は壁にもたれ、うとうとしていた。魔女が隣へ来た。
「明日の朝、荷車が出るそうよ。私たちも町を発ちましょう」
勇者は目を開けた。
「北へ?」
「ええ。竜の被害が残っている村へ、食料と薬を運ぶんですって」
勇者は町を見下ろした。鐘楼は壊れたままだった。
「鐘を、上げるまでは手伝うつもりだったんだ」
「大工が引き受けたわ。縄も滑車も、町にある」
魔女は地図を広げた。次に向かう遺跡は、その村からさらに北にあった。
「点検にも行かないと。荷車となら、途中まで同じ道よ」
勇者は地図を覗き込んだ。
「村で荷下ろしを手伝って、その先はいつもどおりか」
「ええ」
「わかった。朝食は早めに頼んでおく」
勇者は立ち上がり、数歩進んでから振り返った。
「また来ような」
「ここへ?」
「ああ。今度は鐘を聞きながら、ゆっくり朝飯を食べたい」
魔女は丘の下を見た。屋根の間から、焼けた鐘楼がのぞいていた。
「直るまでには、少しかかるわよ」
「なら、直ったころに」
勇者は笑った。
「用事がなくても、寄ればいいだろ」
魔女は彼を見た。自分から行きたいと思う場所ができるとは、思ってもみなかった。
それから、うなずいた。
「ええ。今度は、ゆっくりしましょう」
*
出発の朝、少女が小さなかざぐるまを持ってきた。
「おじいちゃんが、お姉ちゃんにって」
魔女が眉を上げる。
「私に?」
「いつも風を止めてくれたから」
差し出されたかざぐるまを、魔女は受け取った。指先で軸を持ち、軽く息を吹く。四枚の羽根が回った。
「よくできているわね」
少女が笑った。勇者が横から覗き込む。
「なくすなよ」
「あなたではあるまいし」
「俺だって、もらった物はなくさない」
「去年の手袋は?」
「片方は、ちゃんと残ってる」
二人は救援の荷車とともに町を出た。
丘の上では、風車が回っていた。




