青路は俺の彼女じゃない
大学の階段教室は机が横に繋がっている。椅子も二人分繋がっているし、その椅子は狭く、座っている二人の距離が近くなるのは当然とも言える。
俺はすぐ隣に座る青路 望の温もりを感じながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
「智樹、何ボケっとしてんの?」
「階段教室って、窮屈だなって思ってた」
青路が俺の耳元で囁く。たぶん俺が頭を右に45度ほど傾ければ、青路の頭にコツンと当たるだろう。
「ふーん」
青路は、背中まで伸びた黒髪を耳にかけ直して前を見る。教授の解説が終わり雑談に入った所で手元のボールペンをノートの上に置いた。
「何見てんの?」
「いや……」
ノートを書き終えた彼女は軽く腕を組んだまま、両肘を机に置いている。その豊満な胸も同じく机の上にあるわけだ。しかしそんな事を正直に言う訳にはいかないだろう。
「だから何よ」
ただでさえ近いのに、青路はグイっと身を寄せてくる。いやもう俺の腕が当たってるんだけど。大丈夫?
覗き込むようにこちらを見てくる青路に、俺は諦めて包み隠さずの返答を決心した。
ただ、内容的に口頭でなく周りに聞こえない形が望ましい。俺は自分のノートに青インクのボールペンを走らせる。
――あなたの立派な胸を見ていました。
青路は無言で俺のノートを静かに取り上げると――筆箱から新たに出した赤い油性マジックで返事を書いた。
――死ね。
ページの裏まで染みた、赤いインクを見て俺は笑う。
入学してすぐの頃。君に一目ぼれした俺はすぐに、君に恋人がいる事を知った。
数か月後には俺にも彼女が出来た。
今の俺たちは互いに恋人を持つ、ただ学部学科が同じだけの友達であり。
肩が触れたまま授業を一緒に受けていることに――意味は無い。
*
「心配して、ホンっとに損した」
青路は長い黒髪と、トートバッグを揺らしてズカズカと歩く。歩幅の大きさと、歩く速さは彼女の怒りに比例しているらしい。
「心配って何だよ。今日の俺、顔色悪いとか?」
心身ともに、いたって健康だと思う。
「なんかこう……切なそうな目っていうか元気なさそうっていうか……それがあんな……」
「悪いとは思ってる。けど、気が付いたら無意識に視線が止まってた。弁解の余地もない」
別に俺はそんなにスケベじゃない。たまたまそこに胸があって、俺は何となく見てしまっただけだ。不快に感じたのなら謝罪以外に方法はない。
青路は横目に俺を睨みつけ――大きくため息をつきながら、黒髪を耳にかけなおす。
「お昼奢って」
「丼ものでいいか?」
「ケチ」
「面目ない」
俺たちは肩を並べて、いつも通り歩く。その姿を見た同じ学科の友人たちには、恋人のように見えるらしい。
* * *
「……サラダだけ、貰っても良い?」
「嫌に決まってるだろ。食べたいなら自分で頼め」
「自分は定食なのに、女の子にはカツ丼だけ食べさせる男ってどうなの? 酷いんじゃない?」
「奢ってやっただけ、ありがたいと思えよ……」
そもそも、最終的に定食は量が多いと断ったのはこいつだ。
学食で向かい合わせに座る青路は、俺をジっと見つめる。俺はその視線にいたたまれなくなって、そっと視線を下に外した。
「……なんでまた胸見てんの? さっき死ねって言ったよね?」
「見てない。ピントはそのもっと奥の方にボンヤリしてる」
たぶん青路の背後にある、奥のテーブルあたりだろうか。
「え、なに透視?? さらにキモいんだけど」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
どう説明したら良いんだろう。『遠い目をしてたから胸を見ていない』そんな簡単な事を、俺は上手く説明出来ないでいるのだ。
「ごちそうさま」
「――ん?」
俺がしょうもない事を真剣に考えている間に、青路は俺のサラダをペロリと平らげてしまった。いやお前――。
「独り暮らしの学生にとって、そのサラダがどれだけ貴重か分かるか!?」
俺の抗議にも、彼女が臆することはない。
「女が綺麗でいるために、サラダから摂れるビタミンとミネラルがどれだけ大切だと思う?」
フフンと鼻を鳴らし、青路は自分の丼のカツを一口齧る。
「男にもビタミンは必要だからな?」
「分かってるって。仕方ないなあ、もう」
そう言って彼女は箸で摘まんだカツを俺の口へと近づける。
「食べ差しじゃねえか」
「豚肉もビタミン豊富だし?」
「関係ねー……」
俺は渋々、そのカツを口に入れた。この一口に、サラダ何g分のビタミンが含まれているのだろう? 無言で咀嚼していると、青路が話を続けた。
「独り暮らしって言ってもさ。彼女にご飯作ってもらうんじゃないの?」
いやまぁ、そうだけど。俺はモグモグと口を動かしながら首を縦に振る。
「毎日美味しい物作って貰えるんだし、お昼のサラダくらい無くても良くない?」
「毎日来る訳ないだろ。大学も違うし、相手の親だって良い顔しないし」
「なるほど」
青路は「ふーん?」みたいな顔をして黙々と丼を食べ進める。俺も負けじとB定食を平らげる。デザートの杏仁豆腐はくれてやらん。
「じゃあさ。芽依ちゃんってどれくらいの頻度で来るの?」
先に食べ終えたのは青路だった。早食いは体に良くないのに。
ちなみに芽依こと、黄瀬 芽依は俺の彼女だ。俺は味噌汁を胃に流し込みながら、指を四本立てた。
「え、週4?? 多くない?」
「多いか? 1日おきに来て、土日で泊まるくらいだぞ?」
「えー、どうなんだろ。うちは私も彼氏も実家住みだしなぁ……」
『彼氏』という言葉にチクリとした物を感じるが……俺はその気持ちに蓋をする。直視したところで、どうにもならない。
「でもさ。そう考えたら智樹は幸せ者だよね」
「……まぁ、幸せではあると思うけど」
それは間違いない。
「可愛い彼女と、ヤりまくりじゃん?」
「生々しい事言うなっ!」
ここは大学構内の食堂なのだ。TPOは弁えていただきたい。
「大体、そこまで乱れた交際はしてない。清き交際を心がけてる」
俺がデザートの杏仁豆腐に手を伸ばすと、青路も同じく杏仁豆腐を掴んでくる。……やっぱり狙ってやがった。
「へぇ。じゃあ何もしないんだ?」
「そりゃまぁ、ほどほどには……するけど」
青路の深く澄んだ目は俺を見る。なんだこれ、尋問か?
「じゃあさ……私が智樹の家に泊まったら、どうなるのかな?」
「……え?」
何を考えているのか悟らせないようにでもしているのか、その瞳は動かない。言葉の真意が分からず、俺は固まる。でもそれは――。
――困惑じゃなくて、期待だった。




