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アイラの冒険 異世界からの帰還  作者: まさふじ
第5章 選択する故郷

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第32話 異世界からの帰還

城は、静まり返っていた。


瓦礫の隙間から差し込む陽光が、長い廊下を斜めに切り取っている。先ほどまで玉座の間で響いていた剣戟も、怒号も、もうない。


終わったのだと、頭では理解していた。

けれど胸の奥は、まだ小さくざわついている。


しばらくして、ゴードンさんやレガリアの騎士たちが駆けつけてきた。

宮廷の外での戦いも収束してきたのだろう。


あたしは、みんなから少し離れ、崩れた柱にもたれ、ゆっくりと息を整えた。

剣を持っていた手が、微かに震えている。


――怖かった。


負けることも。誰かを失うことも。

そして何より、「王としてここに立つ」と決めてしまうことが。


無意識に、右手の薬指に触れる。


そこに、いつもあったはずの感触。

戦いの前も、過酷な旅の途中も、夜眠れないときも――触れるたびに確かに感じていた、あの微かな温もり。


「……え?」


もう一度、指先で確かめる。

指輪は、確かにそこにある。


けれど――冷たい。


ただの金属のひんやりとした感触だけが、皮膚に返ってくる。


「……」


声にならない息が、喉の奥で詰まる。


壊れた?

使い切った?


そんな言葉が浮かびかけて、消える。


――違う。


あたしは、ゆっくりと顔を上げた。


瓦礫の向こう、城の中庭が見えた。

怪我を負いながらも、互いに声を掛け合い、涙を流して喜び合う人々。


ゴードンさんが、レガリアの騎士の肩をバンバンと叩いて豪快に笑っている。

そして、剣を収め、静かにこちらを見ている奏。


胸の奥に、静かな重みが落ちてくる。


――ああ。


探していたんじゃない。

ただ、握りしめていただけだった。


指輪が冷たくなったのは、壊れたからじゃない。

もう、「帰り道」を必要としなくなったからだ。


あたしは、指輪からそっと手を離した。

不思議と、震えは止まっていた。


「……そっか」


小さな声が、静かに落ちる。


もう、呼ばれない。

もう、引き戻されない。


それでも、怖くない。


あたしはここに立っている。

ここで、息をしている。


ここにいる人たちと、これからを生きていく。


あたしは、背筋を伸ばした。


「……行こう、アイラ」


不意に、隣から聞き慣れた声がした。

あたしは少しだけ驚いて、それから、隣に立つ親友の顔を見て、嬉しくなってうなずいた。


「ええ、行きましょう。奏」


 * * *


玉座の奥、隠された小部屋。


そこには、賢者様が言っていた巨大な魔法石――次元を繋ぐ転移装置が、静かに眠っていた。


レオナルトが、十五年前にあたしたちを逃がしてくれた場所。


「……あと一回だけ、使えるんだよね」


隣に立つ奏が、静かに頷く。


「ええ。でも、人を送るほどの力はもうない。……想いを届けるのが、精一杯でしょうね」


あたしは、転移装置の台座に右手を乗せた。

指輪を押し当て、目を閉じる。


脳裏に鮮やかに蘇るのは、茜色に染まる日本の通学路。

どこかの家から漂ってくる、カレーの匂い。

「おかえり」と迎えてくれた、温かい食卓の記憶。

血は繋がっていなくても、あたしを拾い、愛し、真っ直ぐに育ててくれた、日本のお父さんとお母さんの顔。


『お父さん、お母さん。……突然いなくなって、ごめんなさい』


指輪のストレージ機能を通し、あたしは想いを声に乗せる。

震えそうになる声を、必死に奥歯を噛んで堪えた。


『あたしは今、すごく遠い場所にいます。でも、元気です。……一番の親友も、隣にいます』


涙が、頬を伝う。


『お弁当、いつも美味しかった。怒られたことも、笑い合ったことも、全部あたしの宝物です』


息を吸い込む。胸の奥が痛い。会いたい。でも、もう――。


『二人があたしにくれた沢山の愛情が、今日、あたしを立たせてくれました』


そして――。


『あたしは、帰りません』


隣で、奏が小さく息を呑む気配がした。


『――でも、大丈夫』


迷いは、もうなかった。


『ここで、生きていきます。……ここで、やらなきゃいけないことを見つけたから。あたしを待っていてくれた人たちと、生きていくって決めたから』


台座の魔法石が、最後の光を放つ。

あたしたちの言葉を、次元の彼方へ届けるための優しい光。


『生かしてくれて、育ててくれて、本当にありがとう』


耐えきれず、嗚咽が漏れた。

視界が滲んで、もう台座の光すらよく見えない。


――それでも、顔を上げる。


この声が、あの青い空の向こうまで届くように。


『……大好きだよ』


光が弾け、そして静かに消え去った。

冷たくなった指輪を胸に抱きしめ、あたしは涙を拭った。


その時――。


地鳴りのような歓声が、壁を震わせた。


「……行こう、奏」

「ええ」


振り返らずに、あたしたちは部屋を後にする。


 * * *


玉座の間を抜け、光の差し込む宮廷の広いベランダへと歩み出る。

ゴードンさんが、あたしを見て、いつも通りに笑っていた。


眼下に広がる城の中庭には、帝国打倒を聞きつけ、押し寄せた無数のセレスティアの民たちの姿があった。


青い旗が振られ、あたしたちの姿を認めた瞬間、歓声はさらに高く天を突いた。


あたしは――一歩、前に出る。


その熱が、胸の奥に届く。

自分を待っている、セレスティアの民の声。

この温かな熱。


――ああ。


ここが、この場所こそが。

あたしの帰る場所だ。


あたしは帰らなかった。――けれど、ようやく帰ってきたのだ。


 * * *


【エピローグ】


――あの時。


私は、少し離れた場所で、その光景を見ていた。


勝った、と思ったのは、ほんの一瞬だった。

すぐに、それが違うと分かる。


アイラは、誇らしげに立っていなかった。

剣を掲げもしなかった。

ただ、剣を――置いた。


私は、喉の奥が詰まるのを感じた。


(ああ……)


これが、王になる人間の背中なのか。


城内の気の流れが、変わっていることに私は気づいていた。


戦闘が終わったから、ではない。もっと、深いところ。

張り詰めていた糸が、一本だけ――切れたのではなく、解かれたような感覚だった。


(……アイラ)


視線の先。

崩れた柱にもたれ、彼女が立っている。


勝者の姿勢ではなかった。

誇示も、昂揚もない。

ただ、地に足をつけて、呼吸をしている。


――重心が、落ち着いている。


守るべきものを背負った人間の立ち方だ。


私は、一歩踏み出しかけて、止まる。


アイラが右手の薬指に触れたのを見た。

一瞬だけ、戸惑いが走り――すぐに、静まる。


その仕草で、十分だった。

私の胸に、嫌でも結論が落ちる。


(……終わったのね)


指輪の役目が。

帰り道としての機能が。


壊れたわけじゃない。

奪われたわけでもない。


必要とされなくなっただけだ。


私は、唇を噛む。


自分なら、もっと遅れていた。

最後まで合理性を盾にして、逃げ道を残したはずだ。


でも、アイラは――決めてしまった。

だから、指輪は黙った。


(……ずるい。先に行くなんて)


また、その背中に置いていかれた気がした。


それでも。


置いていかれたくない、と思った自分に気づいてしまう。


私は歩き出す。

彼女の隣へ。


「……行こう、アイラ」


それだけを言う。

アイラは少し驚いて、それから、嬉しそうにうなずいた。


私はもう、自分の指輪を見なかった。見る必要がなかった。


この先、戻る道があるかどうかじゃない。

この背中を、最後まで守れるかどうか。

それだけが、私の剣の意味になったからだ。


城の高みを渡る風が、蒼い旗を大きくはためかせた。

その風が、王の背を力強く押しているのを、私は一歩後ろから見つめていた。

あの背はもう、迷い子の少女じゃない。私たちの、王の背だ。


私が手を引いてやる必要はない。

誰かに守られ、待たれるだけの少女は、あのアズライトの雨の中に置いてきたのだから。


彼女は、立っている。

自分の足で。蒼い旗よりも高く。

この国の、いちばん高い場所で。


私の胸の奥が、静かに震えた。


あの日本の路地裏――日常の境界線をまたいだ時と同じ感覚。

けれど、もうあの頃のような、何かに急かされるような焦燥はない。

剣を握る私の手にあるのは、彼女と共に歩む者としての誇りと――絶対の確信。


風が変わった。

これは、終わりの風じゃない。

新しい時代の、始まりの風だ。


風は、どこまでも澄んでいる。

空はまだ、果てしなく広い。

この国は、もう一度あの大空へ舞い上がる。


ならば、私たちは――その翼を支える風になる。


私たちは帰らなかった。 ――けれど、ようやく帰ってきたのだ。



(了)



小説「アイラの冒険 異世界からの帰還」


完結です。

人生初の長編小説。最後までやりきりました。

大変でしたが、ひょっとしたら人生で一番楽しんだかもしれません。

アイラと奏の物語を形にすることができて、とても満足しております。


もしよろしければ、感想・コメントなどいただけますと、作者はとても喜びます。

お付き合いいただき、ありがとうございました。


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