第32話 異世界からの帰還
城は、静まり返っていた。
瓦礫の隙間から差し込む陽光が、長い廊下を斜めに切り取っている。先ほどまで玉座の間で響いていた剣戟も、怒号も、もうない。
終わったのだと、頭では理解していた。
けれど胸の奥は、まだ小さくざわついている。
しばらくして、ゴードンさんやレガリアの騎士たちが駆けつけてきた。
宮廷の外での戦いも収束してきたのだろう。
あたしは、みんなから少し離れ、崩れた柱にもたれ、ゆっくりと息を整えた。
剣を持っていた手が、微かに震えている。
――怖かった。
負けることも。誰かを失うことも。
そして何より、「王としてここに立つ」と決めてしまうことが。
無意識に、右手の薬指に触れる。
そこに、いつもあったはずの感触。
戦いの前も、過酷な旅の途中も、夜眠れないときも――触れるたびに確かに感じていた、あの微かな温もり。
「……え?」
もう一度、指先で確かめる。
指輪は、確かにそこにある。
けれど――冷たい。
ただの金属のひんやりとした感触だけが、皮膚に返ってくる。
「……」
声にならない息が、喉の奥で詰まる。
壊れた?
使い切った?
そんな言葉が浮かびかけて、消える。
――違う。
あたしは、ゆっくりと顔を上げた。
瓦礫の向こう、城の中庭が見えた。
怪我を負いながらも、互いに声を掛け合い、涙を流して喜び合う人々。
ゴードンさんが、レガリアの騎士の肩をバンバンと叩いて豪快に笑っている。
そして、剣を収め、静かにこちらを見ている奏。
胸の奥に、静かな重みが落ちてくる。
――ああ。
探していたんじゃない。
ただ、握りしめていただけだった。
指輪が冷たくなったのは、壊れたからじゃない。
もう、「帰り道」を必要としなくなったからだ。
あたしは、指輪からそっと手を離した。
不思議と、震えは止まっていた。
「……そっか」
小さな声が、静かに落ちる。
もう、呼ばれない。
もう、引き戻されない。
それでも、怖くない。
あたしはここに立っている。
ここで、息をしている。
ここにいる人たちと、これからを生きていく。
あたしは、背筋を伸ばした。
「……行こう、アイラ」
不意に、隣から聞き慣れた声がした。
あたしは少しだけ驚いて、それから、隣に立つ親友の顔を見て、嬉しくなってうなずいた。
「ええ、行きましょう。奏」
* * *
玉座の奥、隠された小部屋。
そこには、賢者様が言っていた巨大な魔法石――次元を繋ぐ転移装置が、静かに眠っていた。
レオナルトが、十五年前にあたしたちを逃がしてくれた場所。
「……あと一回だけ、使えるんだよね」
隣に立つ奏が、静かに頷く。
「ええ。でも、人を送るほどの力はもうない。……想いを届けるのが、精一杯でしょうね」
あたしは、転移装置の台座に右手を乗せた。
指輪を押し当て、目を閉じる。
脳裏に鮮やかに蘇るのは、茜色に染まる日本の通学路。
どこかの家から漂ってくる、カレーの匂い。
「おかえり」と迎えてくれた、温かい食卓の記憶。
血は繋がっていなくても、あたしを拾い、愛し、真っ直ぐに育ててくれた、日本のお父さんとお母さんの顔。
『お父さん、お母さん。……突然いなくなって、ごめんなさい』
指輪のストレージ機能を通し、あたしは想いを声に乗せる。
震えそうになる声を、必死に奥歯を噛んで堪えた。
『あたしは今、すごく遠い場所にいます。でも、元気です。……一番の親友も、隣にいます』
涙が、頬を伝う。
『お弁当、いつも美味しかった。怒られたことも、笑い合ったことも、全部あたしの宝物です』
息を吸い込む。胸の奥が痛い。会いたい。でも、もう――。
『二人があたしにくれた沢山の愛情が、今日、あたしを立たせてくれました』
そして――。
『あたしは、帰りません』
隣で、奏が小さく息を呑む気配がした。
『――でも、大丈夫』
迷いは、もうなかった。
『ここで、生きていきます。……ここで、やらなきゃいけないことを見つけたから。あたしを待っていてくれた人たちと、生きていくって決めたから』
台座の魔法石が、最後の光を放つ。
あたしたちの言葉を、次元の彼方へ届けるための優しい光。
『生かしてくれて、育ててくれて、本当にありがとう』
耐えきれず、嗚咽が漏れた。
視界が滲んで、もう台座の光すらよく見えない。
――それでも、顔を上げる。
この声が、あの青い空の向こうまで届くように。
『……大好きだよ』
光が弾け、そして静かに消え去った。
冷たくなった指輪を胸に抱きしめ、あたしは涙を拭った。
その時――。
地鳴りのような歓声が、壁を震わせた。
「……行こう、奏」
「ええ」
振り返らずに、あたしたちは部屋を後にする。
* * *
玉座の間を抜け、光の差し込む宮廷の広いベランダへと歩み出る。
ゴードンさんが、あたしを見て、いつも通りに笑っていた。
眼下に広がる城の中庭には、帝国打倒を聞きつけ、押し寄せた無数のセレスティアの民たちの姿があった。
青い旗が振られ、あたしたちの姿を認めた瞬間、歓声はさらに高く天を突いた。
あたしは――一歩、前に出る。
その熱が、胸の奥に届く。
自分を待っている、セレスティアの民の声。
この温かな熱。
――ああ。
ここが、この場所こそが。
あたしの帰る場所だ。
あたしは帰らなかった。――けれど、ようやく帰ってきたのだ。
* * *
【エピローグ】
――あの時。
私は、少し離れた場所で、その光景を見ていた。
勝った、と思ったのは、ほんの一瞬だった。
すぐに、それが違うと分かる。
アイラは、誇らしげに立っていなかった。
剣を掲げもしなかった。
ただ、剣を――置いた。
私は、喉の奥が詰まるのを感じた。
(ああ……)
これが、王になる人間の背中なのか。
城内の気の流れが、変わっていることに私は気づいていた。
戦闘が終わったから、ではない。もっと、深いところ。
張り詰めていた糸が、一本だけ――切れたのではなく、解かれたような感覚だった。
(……アイラ)
視線の先。
崩れた柱にもたれ、彼女が立っている。
勝者の姿勢ではなかった。
誇示も、昂揚もない。
ただ、地に足をつけて、呼吸をしている。
――重心が、落ち着いている。
守るべきものを背負った人間の立ち方だ。
私は、一歩踏み出しかけて、止まる。
アイラが右手の薬指に触れたのを見た。
一瞬だけ、戸惑いが走り――すぐに、静まる。
その仕草で、十分だった。
私の胸に、嫌でも結論が落ちる。
(……終わったのね)
指輪の役目が。
帰り道としての機能が。
壊れたわけじゃない。
奪われたわけでもない。
必要とされなくなっただけだ。
私は、唇を噛む。
自分なら、もっと遅れていた。
最後まで合理性を盾にして、逃げ道を残したはずだ。
でも、アイラは――決めてしまった。
だから、指輪は黙った。
(……ずるい。先に行くなんて)
また、その背中に置いていかれた気がした。
それでも。
置いていかれたくない、と思った自分に気づいてしまう。
私は歩き出す。
彼女の隣へ。
「……行こう、アイラ」
それだけを言う。
アイラは少し驚いて、それから、嬉しそうにうなずいた。
私はもう、自分の指輪を見なかった。見る必要がなかった。
この先、戻る道があるかどうかじゃない。
この背中を、最後まで守れるかどうか。
それだけが、私の剣の意味になったからだ。
城の高みを渡る風が、蒼い旗を大きくはためかせた。
その風が、王の背を力強く押しているのを、私は一歩後ろから見つめていた。
あの背はもう、迷い子の少女じゃない。私たちの、王の背だ。
私が手を引いてやる必要はない。
誰かに守られ、待たれるだけの少女は、あのアズライトの雨の中に置いてきたのだから。
彼女は、立っている。
自分の足で。蒼い旗よりも高く。
この国の、いちばん高い場所で。
私の胸の奥が、静かに震えた。
あの日本の路地裏――日常の境界線をまたいだ時と同じ感覚。
けれど、もうあの頃のような、何かに急かされるような焦燥はない。
剣を握る私の手にあるのは、彼女と共に歩む者としての誇りと――絶対の確信。
風が変わった。
これは、終わりの風じゃない。
新しい時代の、始まりの風だ。
風は、どこまでも澄んでいる。
空はまだ、果てしなく広い。
この国は、もう一度あの大空へ舞い上がる。
ならば、私たちは――その翼を支える風になる。
私たちは帰らなかった。 ――けれど、ようやく帰ってきたのだ。
(了)
小説「アイラの冒険 異世界からの帰還」
完結です。
人生初の長編小説。最後までやりきりました。
大変でしたが、ひょっとしたら人生で一番楽しんだかもしれません。
アイラと奏の物語を形にすることができて、とても満足しております。
もしよろしければ、感想・コメントなどいただけますと、作者はとても喜びます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。




