エピローグ 2 死んだつもりなら、たとえ地獄でも
獣の荒い息遣いが迫っている。
「どうしてっ」
途切れる息の隙間に、幾度も同じ言葉が漏れる。
どうして、どうして、どうして。
学校に居場所はなかった。皆が私を蔑み、そうしてもいいおもちゃだと弄んだ。先生も見て見ぬふりをした。先生は知っていた。それが、クラスを団結させているのだと。下手にかばうとクラスが崩壊する。都合の良い生贄として私を選んだ。
家にも居場所はなかった。家族は出来の悪い私を見ず、いつも出来の良い兄と比べた。まるでそこにいないように扱って、食事すら満足に与えられなかった。体裁のために、ぎりぎりで生かされているようなものだった。
家の中にも外にも、居場所はなかった。だから、もう死ぬしかなかった。こんな苦しみが長く続くのなら、早く終わらせた方がまだ苦しみが短くて済む。
だから、首を吊った。
意識が遠のき、命と同時に失われる、その瞬間。結び目が緩かったのか、ロープはほどけ、落下した。
尻もちをついた私の手が、部屋のフローリングではなく、ざらざらした土と草の感触を頭に伝えた。息を吸い込むと、鼻からは草木のむわっとした濃い匂いが香り、目は先ほどまでいた家の無機質な壁ではなく、深い森の木々が密集している光景を映し出していた。
そして耳が、何かの唸り声を聞いた。根源的な恐怖が、私を振り返らせる。森の中の、暗い場所で、妖しく輝く赤い点があった。
反射的に、体は赤い点から離れようと動いた。一度動けば、後は転がる石のように、恐怖で縛られる前に震える足は動いてくれた。
未知の環境の中をひたすら走る。ちらと振り返れば、赤い点は距離を保ったままこちらを追いかけていた。すぐに仕留めることも出来るだろうに、奴らはそうしない。獲物が弱るのをひたすら待っている。確実に捉えるタイミングを測っている。血に飢えていながら、冷静に、戦略的に追いつめる優れたハンターだ。
居場所はないと諦めた。だから死を望んだ。
だが、こんなわけのわからない状況は望んだ覚えがない。誰にも顧みられることはないとは思っていた。
「だけど、こんな、こんなの嫌だ!」
誰にも知られず、獣の餌として惨めに朽ちていくのは嫌だ。
初めて心の中に生まれた強い感情が、恐怖を押さえこんで体を動かし続けていた。
だがそれも、肉体的な限界の前には無意味な足搔きだった。足がもつれ、転倒してしまう。一度倒れ、止まってしまうと、途端に体が重くなり、動かなくなる。本来なら、もっと早くに得る必要のあった休息を後ろ倒しにしてきたツケが、私の体を地面に縫いつけている。
息をすることすら苦しい。心臓は痛み、手足は震える。いっそ意識を失えれば楽なのだろうが、それも許されない。
赤い点が近づき、草むらから姿を表す。
見たことのない生物だった。頭部に緑色のとさかをつけた人よりでかい二足歩行のトカゲ、と言うのが一番近いだろうか。胴体は樹木のように表面はごつごつしながらも、しなやかに動いている。迷彩柄の彼らの姿は、こういった森の中で自らの体をカモフラージュするのに都合がよさそうだ。
トカゲの口が開く。粘性のよだれが上あごから下あごに向けて一滴落ちる。鋭い乱杭歯が、要らぬ想像力を搔き立てる。
がさがさと、新たなトカゲ個体が現れた。一体、二体と増え、私は完全に取り囲まれた。想像ではなく、本当の苦痛がやってくる未来は、もはや避けようがない。
無様に涙と鼻水とよだれを垂れ流し、土を顔にこべりつけながら、目を瞑った。少しでも恐怖を和らげようと、強く、固く、いつものように。
耳障りな音が鼓膜を断続的に震わせる。トカゲの鳴き声だろうか。トカゲまで、私を笑っているのか。惨めで哀れで弱くて愚かで、死ぬことすら自分の意思では叶わない私を。
呼吸音すら聞こえるほどの距離までトカゲが近づいてきた。
「死にたく、ない。死にたくないよお」
ガラガラ声で懇願する。相手に聞く耳も理解する頭もないことを理解しながら。
ギャア、とひと際甲高い声が響いた。身を竦める私に、べちゃっと何かが降り注ぐ。次いでどさりと頭の真横に落ちて来た。こわごわと目を開けると、トカゲの顔が至近距離にあった。悲鳴にならなかった空気が口から漏れていく。先ほど降ってきて、体に付着した何かに触れる。粘性の手についたそれは、真っ赤な血だった。
失神寸前の私を無視してギャアギャアとトカゲたちは叫び、四方八方に散開して逃げる。だが、何本ものロープが張り巡らされていて、トカゲたちの行く手を塞ぐ。強行突破しようとロープに突っ込む個体がいたが、ロープは切れず、どころかクモの糸のようにトカゲに絡みつき、動きを封じていく。
破裂音がトカゲの鳴き声かき消し、立ち止まった連中の体から血が噴き出た。破裂音が鳴るたびにトカゲの体に穴が開き、血しぶきが舞う。銃撃されている、ということを何とか理解した私は、耳を塞ぎ、体を丸めて嵐が過ぎるのを待った。
トカゲの鳴き声が止んで少しした頃、足音が近づいてきた。頬に当たる地面の振動は、先ほどのトカゲのものよりも随分軽い。
目を開く。トカゲたちの死骸の向こうから現れたのは、小柄な人影だった。
「子、ども?」
女の子だった。私よりも年下に見えるその子は、小さな体に似合わない細長い棒状の物を持っていた。テレビドラマなんかで見たことがある、狙撃用の銃のようだった。
「大丈夫?」
子ども特有の高く澄んだ声で気遣われる。
「え、あ、うん。大丈夫」
「そう」
女の子が手を差し伸べて来た。思わずその手を取ろうとしたら、パン、と跳ね除けられた。
「え?」
叩かれた手と女の子を交互に見比べる。
「何を勘違いしているの? あなた、私に助けられたのよ? 人に助けて貰ったら、感謝を述べて謝礼を渡す。常識でしょう?」
子どもに常識を説かれてしまった。呆然とする私を、女の子は眉間にしわを寄せてじろじろと眺める。
「あなた、もしかしてルシャ?」
「・・・ルシャ?」
「どこから来たか、言える? 生まれた国は?」
「えと、日本の・・・」
「あ、もう大丈夫。ルシャに間違いないわ。じゃあ、どうせろくに金なんて持ってないでしょう」
「何をしているの?」
別の声が割って入った。いつの間にか、周りでは大人たちが現れて、倒れたトカゲたちに近づいて、ロープを括りつけていた。どうやら持っていくようだ。声の主は、その大人たちに指示を出してから、私たちの方へと近づいてきた。
綺麗な女性だと思った。アイドルとか、女優とか、そういうベクトルの美しさとはまた違う。研ぎ澄まされた刃のような、動物が持つ機能美のような、感動的な風景を見たときのような、そういう美しさがニュアンスとして近いと思う。年齢相応の老いはある。しかしそれすらも彼女の魅力に思えた。どんな人生を積み重ねれば、こんな女性になれるのだろうか。
「お母さ」
言葉の途中で女の子が蹲る。女性が装着するにしてはあまりに武骨でごつい籠手が脳天に落ちてきて、女の子はしばし悶絶していた。
「作戦行動中は、何て呼ぶんだっけ?」
「団、長・・・」
「よろしい。報告しなさい」
「はい・・・」
よろよろと女の子は立ち上がる。
「ラケルタに襲われているところを発見したので、救助しました。服装や話から、ルシャであると推測できます」
「なるほど。で、私たちが到着する前に、どさくさにまぎれて勝手に金品を要求した件については、報告しないの?」
女の子の顔からだらだらと汗が流れ落ちる。
「お金は大事よ。けれど、信頼も大事だと思わない?」
「オモイマス」
「私たちの目を盗んで、この子からお金を巻き上げる。どうなるかな?」
「ヨウヘイダンノミンナノシンライヲウシナイマス」
「後、この子が私たちに対する信頼も失うわよね? なぜなら、団とあなた個人、二重に報酬をせびられるわけだもんね?」
「ハイ」
「この子が他の街で私たちが不誠実な対応をしたと吹聴したら、私たちは仕事を失う。わかるわよね?」
「ハイ・・・・」
「反省してる?」
「モチロンデス」
「ちなみに、あなたの大好きな魔術師のお姉さんが、活きのいい若い娘の血を探してるんだけど。実験に付き合ってくれる可愛い助手になりたい?」
「それだけは! それだけは本当に勘弁してください! お願いします!」
「二度としないわね?」
「天地神明に誓って!」
「どこでそんな面白い言葉覚えてくるの? 本の虫のせい?」
まあいいか、と女性は女の子をトカゲの運搬の手伝いに行かせる。
「さて」
女性が私の方を向いた。
「驚かせてごめんなさい。でも、あの子のいう事ももっともなのよ。この世は大体ギブアンドテイク。感謝には恩で報いるもの。あなたは命の危機にあった。私たちはそれを助けた。なら、あなたは私たちに恩を返すのが礼儀というものよ」
わかるわね? と念を押される。もしここで拒否をしたら、女の子が泣いて勘弁してくれと言っていたところに送られる可能性がある。何度もうなずくと、女性は満足げに微笑んだ。それから、少し私の体を、特に首のあたりを見たところで少し目を鋭くして、すぐに穏やかな表情に戻した。
「その前にまず一つ教えておくわ。ここはリムスという世界。あなたがいた世界とは多分、別の場所」
「別の場所、ってそんな馬鹿な」
「馬鹿みたいな話だけど、本当。あなたの住んでたところにあんなデカいトカゲいないでしょう」
指さす方向には、納得せざるを得ない証拠が転がっていた。
「ここで生きるためには、というか、どこの世界でも生きていくには働くしかないの。働いて金を稼ぐしかない。幸い、私は仕事を紹介出来る伝手がある。そこで働いて、今回の恩を返してもらう」
自分が働くなど、想像したこともなかった。いや、もちろん小さいころには、漠然とケーキ屋さんになりたいとか思っていたこともあったが、それらを現実が塗りつぶしていた。
「あなたに、選択肢をあげる」
「選択肢、ですか?」
「そう。あなた、自殺しようとしていたでしょう」
思わず、自分の首を隠す。おそらく、首にはロープの痕があるのだろう。彼女はそれを見たのだ。
「選択肢一つ目。ここで、私が殺してあげる」
何てことないように、女性は言った。
「人の人生や気持ちなんて他人に一生わかるわけないから、わかる、なんて絶対に言えないけど、おそらくひどい仕打ちを受けて、死を望んだのでしょう。でも、死にきれず、ここにきてしまった。その願いを私が引き継いで、あなたが望んだように、あなたを殺してあげる。トカゲに食われるよりも楽に死ねると思う」
二つ目、と女性は言った。
「さっき言ったように、職場を紹介してあげる。もちろん、元の世界よりも厳しい条件の仕事が多いと思うけど、ここにはあなたにひどい仕打ちをした連中はいない。それだけでメンタル的な負荷は少ないはず。死んだつもりで生きてみるってのも、ありかもね。死んだつもりになったら、意外となんでもできるものよ。よく知らないけど」
どうする? と女性は言った。死んだつもりで、生きてみる。死んだつもりになったら、何でもできる。
何でも。
周りの死んだトカゲたちを見る。自分の手についた血を眺める。
あれだけ死にたかったのに、私はトカゲから逃げた。怖かったのも当然ある。でもやはり、あの瀬戸際に吐いた言葉が全てだ。
死にたくない。惨めなまま朽ちていきたくない。それを再度自覚した瞬間、私の中に暗く熱い何かが落ちて来た。なぜ私がこんな目に遭わなければならない。私をこんな目に遭わせた連中は、今も笑って楽しく生きているというのに。
怒りが湧く。憎しみが満ちる。視界が真っ赤に染まるような感覚に襲われる。
三つ目の提案を、自分からする。
「私を、雇っていただけないでしょうか。雑用でも何でもします。それで恩を返せませんか?」
「何でうちに?」
「先ほど女の子がヨウヘイダンと言っていました。みなさん、傭兵なんですよね」
「まあ、そうね」
「戦う術を、教えてください」
あれだけ恐ろしいトカゲを、あんな女の子が倒した事実が私に衝撃を与えた。どんな人間でも、恐ろしい相手でも、頭を撃ち抜き、心臓を刺せば殺せる。私を虐げた連中は、あのトカゲよりも弱いただの人間なのだ。
「だから、何でよ。傭兵なんて命の危機と隣り合わせの仕事よ? さっきみたいなトカゲと戦わないといけないし。それこそ死ぬ確率の方が高いんだけど。百倍安全で稼げる働き口を教えてあげるって言ってるのに」
「元に」
「ん?」
「元の世界に、戻りたいんです」
「・・・戻ってどうするの? また、嫌いな連中と会うことになるわよ」
「その連中を、私は許したくない。このまま死んだら、あいつらの話のタネ、養分になるだけだと思ったら、泣きたくなるほど悔しい。死んだつもりになれば何でもできるなら、私は、あいつらを同じ目に遭わせてやりたい」
そのために、戦う術を知りたい。心と体を鍛えて、連中の前に舞い戻る。その方法をこの女性なら知っている気がしたのだ。
女性は笑った。
「本気?」
「本気です。生まれて初めて、私は本気で生きます」
「まあ、好きにすればいいわ。ただし、うちのルールは守ってもらうし、死んでも責任は取らない。良いわね?」
「はい!」
「あなた、運がいいわよ」
いつの間にか戻ってきた女の子が私に言った。
「うちのおかあ、違う。団長は、復讐に関しては超一流の専門家よ。なんせ国一つ滅ぼした魔女あ痛ぁっ!」
女の子の額が超強力なデコピンを叩きこまれる。
「余計なことを言わない」
国一つ滅ぼした? 自分から頼んでおいてなんだが、とんでもない人に関わってしまったのか?
「名前は?」
「あ、えと、アマネです。周防天音と言います」
「地獄へようこそ。アマネ。今日から共に、進みましょうか」




