すり替わった現実
ほんの少しだけ、血生臭い表現があります。
注意するほどのものでも無いですが、一応お気を付け下さい。
木の影から姿を見せたそいつはゆったりと、獲物を舐るようなねっとりした視線を投げていた。
簡単に屈伏できそうな相手で余裕があるのかも知れない。低く獰猛な唸り声を響かせながらも、私たちの様子を油断なく窺っている。
(…ウソでしょ!?兄様はここにいないのにっ!!?)
私は焦燥して胸中で叫ぶ。
眼前には黒々とした大きな野犬が――私たちを獲物と定めた獰猛な獣が――牙を剥いていた。
ジリ、ジリ…。まんじりと視線が交錯する。緊張で浮き出た脂汗が首筋を滴り落ちた。
…肩越しに敵を見つけたクロードが引き攣った息を呑みこんだのが分かった。―――恐怖から叫べなかった事は結果論だが助かった。
脱出先は野獣の向こう側。大声で助けを呼ぶにはまだ距離がある。そもそも都合よく人がいるとも限らないし、クロードを抱えて走ることなど出来ない。まして足を怪我している子どもを置き去るなんて選択肢は無い。どん詰まりだ。
脳内は目まぐるしく思考が動きまわっているが、視線は野犬をまっすぐ捉えたまま。
見つめる相手が唸りを大きくし、頭を低く低く下げ始める。
『不味いっ!!!!』本能が警鐘を鳴らした。
「ナターシャっっ!!!!!!」
兄様の叫びが前方から聴こえたのと黒い獣が駆けだしたのはほぼ同時だった。
私は体を振り子のように大きく揺らして背中のクロードを斜め後ろに吹っ飛ばした。その反動で逆前に転び出ると即座に上体を起こし、両手を大きく広げて振り回しながら渾身の力で叫んだ!!!
「こっちに来なさい馬鹿犬ーーーーーーー!!!!!!!!!」
「バカ、ナターシャ逃げろぉっ!!!!」
兄様が叫び、全力疾走してくれているが、それより私と野犬が衝突する方が早い。
大きく開かれた口から涎が迸る。喰いつかれるすんでで闘牛士のように身体を翻し攻撃をかわした。
着地した野犬はすぐさま取って返し再び私に襲いかかる。おんなじ要領で敵をかわした刹那、獣の鋭い爪が私の腕を引き裂いた。
強烈な痛みに苦鳴がもれる。バランスを崩し地面に膝をついた所で三度目の急襲が私に降りかかった。
とっさに両腕をクロスして眼前に掲げ目を瞑った。そして直ぐに訪れるであろう衝撃と激痛に身を固くしたその時―――
「キャウゥンッ!!…ギャンッ!!!」
痛烈な獣の断末魔が辺りに響き渡り、程無くドサッと質量のある物体が地面に倒れ伏す音が聞こえた。
「・・っはぁ、ナ、ターシャ…大丈夫?」
恐る恐る両腕を解くと腕の間から見えたのは良く見知った兄様の顔。息せき切って上気しているのに真っ青な顔色。怖々視線を動かせば、間近に事切れた野犬と、兄様の腕の先に延びる血の滴った剣。もう一度ナハトの顔に視線を戻すと漸く実感が戻ってきた。すごい速さで血液が全身を駆け巡っていく。
「ぁ……にぃ、さま……」
私の意識が持ったのはここまでが限界だった―――――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―――夢を見ていた。
何故夢だと思うのか。それは画面が古い映画のように荒い画質のセピア色だから。
音は聞こえない。
サイレント映画に吹き替えの字幕が表示されているのを映画館で眺めているようなそんな感じ。
物語は私の目の前を流れていく。
「ナターシャ!逃げるんだ」
フィルムがコマ送りされていく。
それは数秒の出来事だった。
転んだナハトの前に這い出したナターシャは黒い獣と対峙した。
小さな体は恐怖に震えているが、大好きな兄を守る事に躊躇いはない。
両手を広げて少しでも兄を獣から隠そうとするその小さな背中をナハトが視界に捉えたのと、幼い妹に獰猛な野犬が喰らいついたのは同時だった。
声なきナハトの慟哭が辺りを埋め尽くす。
勢いのまま野犬に押し倒されるナターシャ。追いついた護衛が野犬を引きはがしその首を刎ねる。
鮮血が飛び散り視界が赤く染まっていく…。
ナハトはすぐさまナターシャに駆け寄った。
返り血で汚れてしまったが、ナターシャ自身はひっかき傷くらいで大きな怪我はなさそうだ。
「バカ…なんで…こんな、危ない事……」
ナハトの瞳から大粒の涙が次から次から零れ落ちていく。
「な、かないで…にぃさま…。ナターシャ、は…だぃ、じょうぶ…」
途切れ途切れに返事をして、ナターシャは健気にヘニャっと笑った。
「…にぃさま、が…ぶじ、でよかっ……」
最後まで言葉にならず気絶するナターシャ。その傍らで妹の手を握りしめ泣き続けるナハト。
(あぁ、これは本来起こるはずだったナハトのイベントだ…)
―――起こるはずだった未来。
私はそれを夢見ているらしい。
(その後、私は屋敷に運ばれて、高熱に三日三晩うなされるのよね…)
そして呵責の念に押しつぶされたナハトが闇落ちするのだ。
―――映画はナハトが高熱で眠るナターシャの傍らで、妹の手を取り、何かしら語りかけているシーンで徐々に霞がかってぼやけていった。
……セピアの画面が遠ざかって、消えていく――――――――
(泣かないで、兄様。…ねぇ、何て言っているの?)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ぅ…にぃ、さま……」
「気がついたかい、ナターシャっ!!」
涙目のナハトが顔いっぱいに映し出された。鮮やかに、色づいている。
「泣かないで…」
やけに重たい腕を持ち上げてナハトの頬に手を伸ばす。その指先がナハトに届く前に、私の掌は兄様の両手にがっしりと掴まれた。
「泣いてない、バカ…。心臓が止まるかと思った…」
初めてみる兄の表情に思わず相好を崩してしまった。へにょり。何とも言えない笑みが浮かぶ。
その締まりのない顔を見て「笑ってる場合じゃない!」とむくれたナハトに小突かれた。……えへへ。
どうやら私は自室のベッドに寝かされているらしい。ズキンと左腕が疼いてそこを見やると、肘から手首までを包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「その程度で済んで良かった。…縫うほどでは無かったから。」
私の視線に気づいたナハトが説明してくれた。瞬間、直前の記憶がフラッシュバックしてくる。
「兄様っ!!く~ちゃんっっ!!!く~ちゃんは無事なのっ!!?」
半身を起し、痛む腕も構わずナハトに掴みかかる。
兄様は苦虫を噛み潰したような顔をして、その不機嫌を隠しもせずそっぽを向いた。
「無事だよ。…ナターシャよりよっぽどね。」
吐き捨てて、ナハトはスクっと立ち上がる。
「本当は嫌だけど」と怒気も顕わに部屋を出て行った。
…数瞬後、兄様と入れ替わりにクロードがやってきた。泣きはらした腫れぼったい瞼だ。
「…すまなかった」
クロードはベッドから少し離れた所で立ち止まり、ポツリと謝罪した。
私はこいこいと手招きする。
おずおずと気まり悪げにクロードがにじり寄った。おいでおいで……。漸く手が届く所まで近づいた彼にガバっと上半身で抱きつく。
「良かった…無事で、本当に良かった…」
心底安堵して溜息とともに零れた言葉を拾って、クロードがビクッと震えた。
「お前…お、おこってない、のか…?」
「怒る?…何で?」
クロードの肩に手をついて突っ張る形で対面して、疑問を返した。彼は何に怯えているのだろう?
「ぜ、…ぜんぶ、私が、わるいんだ………私のせいだ」
ぽろぽろと涙が落ちていく。
「野犬に襲われたのはく~ちゃんのせいじゃないよ?」
「でも、でも、お前は…私をたすけてくれた、のに…何も、できな…」
嗚咽交じりにクロードが零す。その気持ちが嬉しくて、こみ上げる衝動のまま泣きじゃくる少年を再び抱きしめた。
そのまま何度も頭を撫でる。あやす様に、落ち着かせるように。ついでに背中もポンポンとリズミカルに叩いた。
「ありがとう。ありがとうね、く~ちゃん。怖かったよね。でも大丈夫だから。あとで一緒に兄様にお礼言おう、ね?」
尚も泣き止まない少年の腕を引っ張って、自分の布団に引きこんだ。
そのままぎゅ~っと更に強く抱きしめる。クロードは泣きつかれて眠るまで、しがみつくように私を抱き返し、ずっとずっと泣き続けていた。
私はクロードが眠りに落ちるまで、彼の頭をゆっくり撫でながら、嗚咽交じりに紡ぐ要領を得ない彼の言葉に「うん」「うん」と何度も相槌を打ち続けた。大丈夫だと伝わるように…。
静かになったからだろうか。
クロードの穏やかな寝息が聞こえる頃やってきた兄sに「し~っ」と人差し指を立てて何とも言えない苦笑を浮かべた。
そこには寄る辺ない幼子が漸く母の温もりに出逢えたような、あどけなく信頼しきった寝顔の男児が、ナターシャの服の裾をしっかと掴み、すよすよと涙まみれで眠っていた。




