投稿【毛多霊伝説殺人事件】
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四月に入ると私はまた仕事に復帰することになった。しかし仕事に復帰したといっても、脳梗塞を起こした私を気遣ってか、以前のような雑用の追廻しの工程係ではなく、事務員の補助の仕事を任された。事務員の補助といっても、伝票の整理や、書類の整理といった簡単な仕事ばかりであり、私は一日中、何もすることがほとんど無く、ただ事務所の机に座って、工場の前を走る車を見ていた。
もちろん以前のように朝早く出勤することも、夜遅くまで残業をすることも無かった。私はほとんど戦力外通告をされたも同然であった。
しかしそれが私と後遺症野郎にとっては好都合で、何かを考えているふりをしては、小説のことを考えて毎日を過ごしていた。私と後遺症野郎は毎日のように、ああでもないこうでもないと議論をかさねていたが、肝心の小説の方は遅々として進まず、何も書けない毎日が過ぎて行った。
そりゃそうだ、私たちは今までまともに文章を書いたことなど無いのだ。文章なんて、急に書けと言われて書けるもんじゃない。
季節は梅雨が過ぎて、子どもたちが夏休みに入る頃になっても、私たちは、毎日ああでもないこうでもないと悩んではいたが、『毛多霊伝説殺人事件』は原稿用紙のマスを文字で埋めることが出来ず、まだ一枚も書けない状態であった。
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退院後の体調の方は多少頭が重いといった感じはあったが、順調に回復しているらしく、不調を感じることは無かった。病院の方は月に一回の通院で受診していた。米郷総合病院の受診には検査等に時間がかかり、半日は必要であったため、受診の日は仕事を休むことにしていた。
今日はその受診の日であり、受付開始は午前八時なのであるが、私は朝の七時半には病院の総合受付の待合に入った。
病院の朝はどこも同じかも知れないが、お爺さん、お婆さんのコミュニケーションの場となっている。早い人はおそらく午前七時くらいから、自動受付機の前に順番を取り始めて並んでいる。
私は当初、この病院の受付のシステムがわからず、時間がかかっていたが、毎月受診する度に要領も良くなり、お爺さんお婆さんに交じって、自動受付機の前に並んでいる。
午前八時になると、係の人が自動受付機の前に出てきて、受付が始まる。私も受付の順番の列に並んでいたが、うっかりして前のお爺さんとの間を少し開けてしまった。すると一人のお婆さんが、私の前に割り込んできた。私は少しムッとして“おいババアそんなに急いで何処に行くんだ。あの世か、そんなにあの世へ急いでいきたいのか? ”とは思ったが、年寄のすることだと思い黙っていた。
私の前に割り込んだお婆さんは自動受付機のやり方がわからないようで、係の人から説明を受けている。しかし何度説明を受けても要領を得ないらしいく、係の人も少々あきれ顔である。おそらく内心では“このくそババア”と思っているに違いない。
どうも、年寄というのは、順番を取るといったことには長けているようであるが、機械の操作になると全然だめのようである。そうかも知れない。いま、私の周りにいるお年寄りの人は、おそらくみんな子ども頃は戦争中だったに違いない。食料の確保などで、人より先に順番を取ることは、生きていくうえで最も大切なことだったのだろう。だから順番を取るための悪知恵が身に付いているのだと思う。それは子どもの時にしっかりと身に沁み込んだ習性なのであろう。
しかし、機械操作といった文明の最新機器に関しては、何度教わっても、何度経験しても、もう年なので身に付かないのだと思いながら、お婆さんを見ていた。
私の番がきた。
「診察券を入れてください」
係の女性が優しく案内してくれる。はいはい、私はさっきのお婆さんと違いますから、一人で出来ますよと思いながら、診察券を自動受付機に入れようとすると
「すみません、それは健康保険証です。診察券を入れてください」
係の女性が、前より少し大きな声で言う。私が診察券だと思って手にしていたのは、なんと健康保険証であった。おっと、これは失礼した。私はバッグから診察券を確認して取り出して、再度自動受付機に入れようとすると
「カードの向きが逆ですよ」
とまた係の女性に注意された。私は何も無かったかのようにカードの向きを直して受付を済ませると、神経内科の外来受付に向かった。
神経内科の外来受付を済ませると、採決を行い、血圧を測るともうすることが無い。これから診察に呼ばれるまで、延々と待たなくてはいけない。
しかしさっきはとんだ失敗をしてしまった。きっとあのお婆さんに割り込みをされて気分が悪かったから、カードを間違えてしまったんだな。しかし待てよ、あの係の女性の人から見たら、割り込んできたお婆さんも、私も同じに見えていたんじゃないだろうか? 私は自分では若いつもりでいるけど、係の人から見たら、あの受付を待つ老人の集団の中の一人でしかないのではないだろうか?
そして、あの割り込んできたお婆さんはとにかく人も前に出る習性が身に付いている。機械の操作は出来なくても、順番を取るという特技がある。今日の私はどうだろうか? 順番を取るという特技も無く、機械の操作も出来なかった。係の人から見たら、あの受付を待っている老人の中でも一番の無能な老人に見えたかも知れない。
私は先ほどの総合受付の中にいる自分を俯瞰して思い出してみると、自分の姿が哀れでならなかった。
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今年の夏は暑かった。暑かったが九月に入ると急に涼しさを感じるようになった。このころになると、なかなか書けなかった文章も一行一行何とか書けるようになってきていた。
原稿用紙で十枚程度書き溜めた十一月の頃
「ねえ、後遺症さん。私は小説なんて書けないと思っていましたが、それでも何とかなるもんですね」
「だろ、だから俺が言ったろ、書けるって。『毛多霊伝説殺人事件』もそろそろ投稿出来るくらい書けたんじゃないのかな? 」
「そうですね。まだ完成してはいないし、小説の良し悪しは別の問題として、連載ということで投稿してもいいかも知れないですね」
「そうだな、一度投稿してみようじゃないか」
「いつ投稿します? なんだかんだと言っても、私たちのデビューの日です。それなりに意味のある日にしたいですよね」
「そうだな、その日から俺たちの新しい生活が始まるかも知れないからな」
「新しい生活が始まる…… だったら、来年の一月三十日はどうでしょうか? 私が脳梗塞を発症してちょうど一年。あの朝、私は一度死んだんです。そして生まれ変わった。そのうえあなたも出てきた」
「“そのうえ”は余分じゃねぇ。でもいいかも知れないな。俺たちが再生してから、一年目の一月三十日。再出発の日だからな。よし、その日に投稿作戦を決行しよう」
「投稿作戦? それなら作戦名を決めましょか」
「じゃあ、天一号作戦でどうだ? 」
「天一号作戦…… ? 天一号作戦は、確か戦艦大和の最後の出撃、沖縄特攻の作戦名ですよね。何だか、私たちのスタートの作戦名にしては相応しくないような…… 」
「じゃあ、脳梗塞に始まった作戦だから、脳天梗塞一号作戦でどうだ」
「脳天梗塞一号作戦。決行日は一月三十日の朝。それでいきましょう」
こうして、まだ完成していない小説の投稿の日だけは決まった。
季節は年を越して一月になった。私たちはインターネットの小説投稿サイトを探して、ユーザー登録を行い、投稿方法を確認して準備を進めていた。小説の進捗とは反対に、投稿の準備だけは順調に進んでいった。
そして一月三十日、一年前に私が脳梗塞を起こした朝の七時、私たちは今まで書き溜めた『毛多霊伝説殺人事件』の第一章を投稿することにした。投稿に必要な事項を入力して
「さあ、後遺症さん。脳天梗塞一号作戦の準備は完了しました」
「ああ、いよいよだな。なんとなく緊張するな」
ちょうど一年前の朝、ずっと毎日同じ生活を送ってきていた私の人生が一度止まった。そしてまた違った人生が動き始めた。あれから一年…… 私と脳梗塞野郎は自分たちの老後を少しでも明るく楽しいものにするために……
「じゃあ、いきますよ」
私は、サイトの『投稿【確認】』と書かれたボタンをクリックし、
そして次に『投稿【実行】』のボタンをクリックした。