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小説家になろう  作者: 巴邑克弥
3/6

ああはなりたくないものだ

━※━


看護師さんが夜中の巡回の時に押しているパソコンの乗ったワゴンが、廊下を移動する音で目が覚めた。病院の外は強い風が吹いているのだろうか、窓ガラスの向こうから、かすかに風の音が聞こえている。


今は何時だろうか? ベッドライトの明かりだけの病室の中は薄暗いが、壁にかかった時計の針は確認でき来た。

時計の針は午前二時を幾分か回ったところであった。


午前二時、まだまだ深夜だ。いつもであれば程よく酒に酔って、爆睡の真最中だ。午前二時だなんて、また随分早くに目が覚めたものだ。そりゃそうだ、入院してから毎晩、夜の九時には寝かされているんだ。こんな時間に目が覚めてもおかしくはない。もし普段の生活でこんな時間に目が覚めたら、とっても得した気分になって、もう一度ゆっくり寝るのであるが、今晩はなんだか目がさえてきてしまった。

それにしても昨晩と言うのか、今晩と言うのか知らないが、変な夢を見たものだ。自分の中に別の人格を持ったもう一人の自分がいるなんて…… そんなことがあるはずないじゃないか。脳梗塞のおかげで気が変になったかと心配してしまった。

「まあ、いいや」

先生は明日には点滴を止めるって言っていたよな。眩暈も無くなってきたし、気分も随分楽になってきた。点滴の針が抜けたら、病院の中でも散歩してみようか。

 そんなことを考えているうちに、私はまた眠りについていた。

 夜中だというのに、外では救急車のサイレンの音が聞こえていた。

 次に目が覚めたのは、午前六時前であった。窓の外は夜が明けずまだ暗い。午前六時を回ると、病室の外の廊下が急ににぎやかになってくる。さあ、今日も病院の一日の始まりである。

 午前二時過ぎに目を覚ましたときには、もっと眠りたいとは思わなかったが、それから四時間ほど睡眠を重ねた今、もう少し眠りたい気分だ。十分に寝たはずなのに不思議なものである。私はまたトロトロと浅い眠りを楽しんでいた。

 私はトロトロとした眠りを楽しんでいたが、病室の外は食事を配るワゴンの音や看護師さんの足音で次第ににぎやかになってきていた。


━※━


朝の回診で出雲郷先生がやってきた。

「おはようございます。気分はどうですか? 」

「おはようございます。はい、おかげさまで随分楽になってきました。」

「そうですか、それでは今日から点滴を止めて、飲み薬にかえましょう」

「もう、歩いてもかまいませんか? 」

「かまいませんよ。でも、まだふらつくと思うので、ゆっくり、気を付けてくださいね。それから歩くのはこの四階の病棟の中だけにしてくだいね」

「四階だけですか、一階の売店は? 」

「まあ、焦らずに、もう少し様子を見てからにしましょう」

「はあ…… 」

私は点滴が無くなるのは大歓迎であったが、売店にいけないのは残念であった。

「じゃあ、後で看護師に点滴を外してもらいますから」

そう言って先生は病室を出て行った。

 先生と入れ替わりに朝食が運ばれてきた。

 湯豆腐に茄子の煮物、それから味噌汁とご飯。そして小さな乳酸飲料小瓶が一本。

 私は大して食欲はなかったが、先生に食事はきちんと食べるように言われていたので、箸を付けてみることにした。

 美味しくない、いや正確にいうと、不味くはないが、美味しくもない。私は今まで入院をした経験が無かったので、病院の食事は初めてであった。よく人からは病院の食事は不味いと聞いていたので、恐る恐る箸を付けたのであるが、私の味覚がおかしいのか、それほど不味いとは思わなかった。ほとんど冷めた味噌汁を一口飲んだ時

「しっかし、不味いなぁ。病院の食事は、こんなの食えたもんじゃない」

「わっ!? びっくりするじゃないか。急に声をかけないでくれ…… あれ…… ? あなたは後遺症さんですか? 後遺症さんは夢じゃなかったの? 」

「誰が、後遺症だ。それに夢なんかじゃねえよ。昨晩も話したとおり、これからは俺とお前は一緒なんだよ」

「わかりました、わかりました。しかし今朝の二時に起きた時には、出てこなかったじゃないですか? 」

「今朝の二時? そんな時間は爆睡中だよ。俺はさっき起きたばかりなんだ。そうだ、忘れていた、おはよう」

「おはようございます」

「しかし、病院の食事は美味くないな」

「仕方がないじゃないですか、でも私は思っていたほど不味いとは思いませんよ」

「確かに不味くはない。不味くはないと思うが、なんていうのかな? 味がボヤ~としていて、はっきりしていないんだよな。そうパンチが無いっていうのかな。そう思わないか」

「そうかな、私はこんなもんかなって思っていたけど…… まあ、いいじゃないですか、寝ていて食べさせてもらっているんです、我慢しようじゃないですか。しかし、私とあなたは、身体は一つだけれど、意識としては別だから、起きる時間も違うみたいだし、味覚も違うみたいですね? 」

「どうもそのようだな。俺も今まで気にしていなかったけど、お前が寝ている時に、俺は起きているってことはあるよな。それに今わかったことがあるんだけど、俺は今まで無意識の中にいた。だからお前の行動を無意識としてコントロールはしていたと思うんだが、俺の思っている通りではなかった。俺たちの行動を決めているのは、お前の意識だ。だから俺が行きたいと思うところも、お前が行きたいと思わないかぎり、俺は行くことが出来ない。それにもっと厄介なのは、腹が減ったという感覚はお前も俺も一緒に感じる。でも俺が食べたいと思うものも、お前が食べたいと思わないかぎり、俺は食べることが出来ない。お前が食べたいものを食って腹がいっぱいになると、俺も満腹だと感じる。全く面白くない」

「そうなんだ、じゃあ私はこれからも、私が行きたいところへ行って、食べたいものを食べたらいいんですね」

「そうはいかねえな。今まで俺はお前に俺の意思を伝えることが出来なかった。だからお前の意思で行動していた。でも、俺はこうしてお前に俺の意思を伝えることが出来るようになった。これからはお前の行動に、俺の意見も反映させてもらうようにするから、よろしく頼むよ」

「なんだか知らないけど、面倒なことになってきたような気がします。まあ、早く朝ご飯を食べてしまいましょうか」

そう後遺症に言って、私はまた味噌汁に手を伸ばした。今朝の味噌汁は大根の味噌汁で、私が一口飲むと

「うわぁ、もう冷たくなって、美味しくないじゃないか。それに味も薄い」

と後遺症が騒ぐ。

「うるさですね、そんなことを言ったら、私まで不味く感じるじゃないですか。しかしなんですね、あなたと私は同じ味噌汁を飲んでいるんだから、味覚として身体が感じている味は同じなんでしょうけど、そこから思う感想は違うんですね? 」

「そうらしいな、例えば人間が二人いたとするじゃないか。その二人が同じ夕日を見て、ひとりは綺麗な夕日だと思うかもしれないし、もう一人は何とも思わない。この場合、人間の身体は二つだけど、俺たちの場合は、お前の身体一つなんだ。お前の身体に俺とお前がいるんだ。わかるかなぁ? 俺がなんとなく理解出来ているんだから、お前もなんとなく理解出来るよな」

「その辺も違うんじゃないですか? あなたには理解できても、私には理解できないこともあるような気がしますよ」

「そうかも知れないな。きっとまだまだわからないことがあると思うな。それより、はやいことこの不味い飯を片付けてしまおうぜ」

 私と後遺症がそんな会話をしながら朝食を食べ終えたときだった。(もちろん会話をしていたといっても、私の頭の中での会話なので、他の人から見たら、何か考え事でもしているようにか見えないと思うのであるが)看護師さんが食事を下げにきた。

「巴邑さん、全部食べれたようですね」

「はい、食欲はあまりありませんが、先生が食事はしっかりと食べるように言っていたので、頑張って食べました」

「そうそう、後で点滴を外しに来ますからね。もうしばらく我慢していてくださいね」

看護師さんはそう言うと部屋を出て行った。

「今日の看護師はブスだな」

また後遺症が話しかけてきた。

「失礼な人ですね。この病院の看護師さんは、みんな綺麗な人ばかりじゃないですか」

「そうか~? お前の目はどうかしているんじゃないのか? 」

「何を言っているんですか? 私の眼は、あなたの目と同じじゃないですか」

「そうか、そうだったな。見えている物は同じだもんな。どうかしているのはお前の美的感覚だな」

「美的感覚も何も、すべての感覚は私の方が正常で、どうかしているのは、後遺症のあなたの方だと思いますよ」

「そうかな~? おっ誰か来たぞ」

綺麗な、もう一度言おう、綺麗な看護師さんが入ってきた。

「じゃあ、巴邑さん、点滴を外しますね」

看護師さんは手慣れた手つきで私の右腕から点滴の針を抜き、胸の心電図モニターのケーブルも外して、点滴スタンドとモニターを片付けて行った。

 点滴と胸のケーブルが無くなると、先日の眩暈と吐き気は何だったのだろうかと思うくらい、ずっと気分が良くなった。私はもう完全に治ったと自分では思っていた。

 私は病棟内を散歩してみようかと思ってはみたが、どうせ今日も一日何もすることがないのだ、慌てることはない、腹ごなしに、お昼ご飯の前にしようと思いなおして、もう少し横になっていることにした。

 十時を少し回ると家内がやってきた。

「やあ、今日は早いね」

「今日はね、買い物をしようと思って、早く出てきたの」

「さっき点滴を外してもらったんだ。点滴が無くなったら、なんだか気分的に楽になったよ。もう少ししたら、その辺を歩いてみようかと思っているんだ」

「よかったわね。でも無理しちゃだめよ。そうそう、あなた近所の山根さん知ってるでしょ。山根さんの奥さんは看護師さんなんだけど、山根さんの奥さんと話をしていたら、脳梗塞って再発が怖いみたいね。再発すると今度は違った場所が梗塞をおこすので、後遺症が必ず残るみたいよ」

「そうなんだ、でも再発させないって言ってもね…… どうしたらいいのかな? 」

「山根さんの奥さんが言うには、血圧の管理が大切みたいよ。塩分の摂りすぎは良くないみたいね。あなたも退院したら、食事に気を付けないといけないわね。あなたの好きなインスタントラーメンは、もう食べない方がいいわ」

「塩辛で、一杯もダメかな」

「当然、ご法度ね」

「…… なんだか人生の楽しみのほとんどが無くなるような気がするな」

「仕方がないわ。今までの不摂生の生活の結果なんだから。今までは若さで何とかなっていたかも知れないけど、もうすぐあなたも六十歳なのよ。これからは健康を一番に考えて行かないといけないと思うわ」

そんな会話をしばらくして、家内は買い物に行くと言って部屋を出て行った。

私はまた一人になると、先ほどの会話を思い出していた。

よく人から『年は取りたくないものだ』という言葉を聞いたりはしていたが、今の私にはこの『年は取りたくないものだ』という言葉が重くのしかかってきていた。同じように『もう若くはない』という言葉も私の胸に突き刺さていた。年を取った、もう若くはない、それは間違いのない事実であり、私は自分が年を取ってしまったことを改めて感じていた。


━※━


お昼前になったので、私は考えていた通りに、病院内の廊下を歩いてみることにした。もちろん後遺症さんも一緒である。

ゆっくりとベッドの手すりに摑まりながら、床に足を下ろして、そして立ち上がってみる。別にどうもない。ゆっくりとベッドの周りを歩いて、病室の窓際まで行ってみる。

窓の外には病院の駐車場が見えた。その向こうに畑が広がっており、その中に数軒の民家が見える。その向こうには風よけの松が並んでおり、そのまた向こうに日本海が望めた。昨晩の雪はもう駐車場には無かったが、その向こうの畑にはまだ白く積もっていた。

今日も空は暗くどんよりと曇っており、また今にも雪が降ってきそうな空であった。

私はそんな景色をしばらく見ていたが、今度はゆっくりとまたベッドの周りを歩いて、病室の扉を開けた。

米郷総合病院の入院病棟は東西に長く、ナースセンターやトイレ等の施設が建物の中央に東西に並んでいる。それらを挟むように南側と北側に二本の廊下があり、その外側に病室が並んでいた。

廊下の照明は明るいのであるが、神経内科の入院病棟のせいか、病棟内は静かで、廊下に流れる空気は重く暗かった。時折、ナースセンターのモニターのアラーム音だけが聞こえていた。

私は廊下に出ると、手すりに摑まってゆっくりと歩きだしてみた。多少ふらつくような感じはしたが、二歩、三歩と進んでみた。

私の部屋から東に向かって歩くと、隣の病室も個室のようであったが、入院患者の名札の赤い札が付けられており、扉はしまっていた。私はこの部屋の患者はきっと重篤なのだろう。

ゆっくりと歩いて、その隣の部屋の前まで行ってみた。その部屋は四人部屋らしく、部屋の入り口には患者の名札が四つある。部屋の扉は開放してあるのだが、それぞれのベッドはピンクのカーテンが閉められており、患者さんの様子を見ることは出来なかった。

私は摑んでいた手すりから手を放して、廊下の反対側に身体を移動させた。そして廊下の反対側の手すりに摑まると、そのまた隣の部屋の入口まで進んでみた。

その部屋も四人部屋であった。この部屋の患者さんは開放的な性格の人が多いのか、カーテンを閉め切っているベッドは無く、ベッドに寝ている患者さん姿が自然と私の目に入ってきた。

四人部屋の入口に近いベッドには、男性の老人が寝ていた。老人の頭髪はいくらかは残っているが、ほとんど無いに等しい。頬はこけて窪んでいる。病院着がはだけて見える胸は肋骨の数を数えることが出来るくらい痩せている。毛布から出ている足は、ほとんど筋肉は無く、まるで骨格標本のような足であった。そして老人は大きな口を開けているのであるが、その口の中には黄土色に変色した前歯が二本見える以外に歯は無かった。大きく窪んだ老人の目はどこを見ているのだろうか…… ?


私はその老人の姿を見るでもなく見ていた。

「おい、見ろよ。哀れなもんだな。あのジイさん、今の自分の状況がわかっているのかねぇ? 」

後遺症が話しかけてきた。

「どうでしょうかねぇ? おそらくわかっていないんじゃないのでしょうか。ここが病院だということも、自分が何かの病気で入院していることもわからないんじゃないのでしょうかねぇ? 」

「だろうな。しかし可哀想なもんだよな。ああはなりたくないものだな」

「なりたくないものだなって言ったって、あのお爺さんだって、なりたくてなったわけじゃないですよ。それに一遍に年を取ったわけじゃないですからね。あのお爺さんの年がいくつかわかりませんが…… 仮にあのお爺さんが八十歳だとすると、私たちより二十年くらい早く生まれているから、昭和十年くらいの生まれだと思いますよ。兵隊さんとして戦争には行ってはいないでしょうけど、子どもの頃はきっと苦労したでしょうね。私たちみたいにお甘い菓子なんて食べれなかったかも知れないですね。どんな子どもだったんでしょうね? やんちゃな少年だったかも知れないし、おとなしい勉強の大好きな少年だったかも知れないですね。それから多感な青年の時期もあったと思いますよ。きっと好きになった女性もいたんじゃないのでしょうか? 失恋の経験もあるだろうし、今のあの姿からは想像できないけど、案外イケメンでモテていたのかも知れないですよね? ふった女性もたくさんいたりして…… そして結婚、どんな仕事をしてこられたのか知りませんが、結婚後は子どもや家族のために我武者羅に働いてきたんじゃないのでしょうか? 四十代、五十代の時には、仕事場でも中心的存在で、仕事場のみんなを引っ張っておられたんじゃないのでしょうか? 自分の欲は全部捨てて、家族や仕事のために頑張ってこられたんだと思いますよ」

「そうかも知れないな。そして定年になって、孫に囲まれて幸せな老後を送っていたのかも知れないよな。でも、そんな時間は長くは続かない。やがて体力も衰えてくるし、頭もボケてくる。そして今はあの状態だ。見ろよ、あのジイさんの目、何を見ているんだろうな? 」

「きっと若かった頃の思い出でも見ているんじゃないのでしょうか? あのお爺さんの頭の中は、まだ家族のために一生懸命に頑張って働いているのかも知れませんね。あのお爺さんは『まだ若いもんには負けん』と思っているのかも知れませんね」

「若いもんには負けないかも知れないけど、年には負けているな」

「いや、負けてはいないと思うけど、勝ってはいないですね」

「俺たちは年には負けたく無いものだな。できれば勝ちてぇな。そして、もう一度言うけど、ああはなりたくないものだな」

「なりたくないものだなって言っても、もうなっているのかも知れませんよ。周りから見たら私も、もちろんあなたを含めた私たちも、あのお爺さんも、同じように見えているのかも知れないじゃないですか。ここの看護師さんから見たら、私たちもあのお爺さんも、みんな同じかも知れないじゃないですか」

「そうかな? 」

「そうですよ、私たちはもう年を取ったんですよ。年寄になったんですよ」

「やだねぇ、もしそうだとしても…… 」

「もしじゃなくて、そうなのです! 」

「わかってる。そうだとしても、俺たちは違うって、そう思いたいよな」

 いつまでも老人の方を見ているのも悪いので、私は自分の部屋に帰ることにして、またゆっくりと歩きだした。

 自分のベッドに横になると軽い疲れを感じた。

なんということだ、たった五十歩にも満たない散歩だというのに、疲れを感じるなんて、これも年を取ったせいなのだろうか? いや、病気のせいに違いない私はそう思いたかった。


━※━


 ああはなりたくない。確かにそうだ、ああはなりたくない。世の中のほとんどの人は、ああはなりたくないと思って生活をしているに違いない。私は、いや私に限らずの中の人はみな、年を取っても活き活きと生活をしたいと望んでいるに違い無い。誰も好き好んでヨボヨボの痴呆老人になりたいと思っている人なんていないと思う。しかしそんな活き活きと生活するためには、それなりの体力と知力、そしてそれなりの経済的な基盤が無いといけない。

 私は体力には自信がある。今回、脳梗塞という病気にはなったが、それ以外に病気をしたことが無い。仕事を体調不良で休んだことなど無い。私は二日酔い以外の体調不良を知らない。今回、脳梗塞をやってしまったが、幸い後遺症も残っていない。いや、後遺症野郎を除けば残っていない。

 知力はどうだろうか? 知力には、残念ながら自身が無い。小さなころから勉強は大嫌いだった。成績はいつも下の下、頭の悪さには自信がある。しかしだ、頭が悪いから痴呆になるわけではあるまい。頭のいい人だって痴呆症になる人もいる。これはある意味、運を天に任せるしかないように思う。それに今からでも遅くはないだろう、何事にも好奇心を持って、勉強するという気持ちを持って生活していれば大丈夫じゃないだろうか?

 あとは経済力だ。今の私にはいくら考えても、定年後の経済的基盤は無い。これは運を天に任せておいてもどうにもならない。まあ、宝くじを買えば話は違うのであろうが。しかし、私にはその宝くじを買う経済的な余裕が無い。

「おい、俺たちの老後って、どうなるんだろうか? 」

後遺症野郎が問いかけてきた。

「私も今そのことを考えていたところですよ。確かにあなたが言うように、ああはなりたくない。私もそう思う。でも、ああはなりたくないためには、どうしたらいいんでしょうか? 」

「そうだよな、さっきからお前が考えていたように、俺たちの身体は結構丈夫にできていると思うんだな。まだまだくたばるようなことは無いと思うな。でも、問題は頭と金だ。ボケてしまったらどうにもならないし、身体が丈夫なボケ老人になったら、それこそ大変だ。お前のカミさんに大変な苦労をかけることになる。その上、金が無かったら、生活できない上に、もっと、もっとカミさんに苦労をかけることになる。この頭と金の問題、両方に対策を立てないと、俺たちの老後はボロボロの真っ暗闇になるだろうな」

「そうですよね。じゃあどうしたらいいのでしょうか? その前に言っときますけど、あなたは“私のカミさん”と言いますけど、“私のカミさん”は“あなたのカミさん”でもあるんですからね。じゃあ…… まずは頭ですね。なるべくボケないようにするにはどうしたらいいのでしょうか? 」

「そうだな、そもそもどうしてボケるんだ? 以前『楽隠居はボケて、百姓はボケない』って聞いたことがあったよな。あの話は何だったっけ? 確か楽隠居は、楽して脳を使わないから、脳が退化するんじゃ無かったかな。ということは、常に脳を使っていたらいいんじゃないの」

「だから、どうしたらいいのでしょうか? 」

「だいたいお前はそうやっていつも自分で考えない。それがいけないと思うんだ。といってもだ、答えにはならないよな。そうだな、何か始めてみないか。お前は今まで趣味といったものが無い。これからのお前は趣味を持った方がいいんじゃないのかな」

「趣味って言ったって、何を始めたらいいんでしょうかね? 」

「まあ、慌てるな、それをこれから考えようじゃないか。どうせ入院している間は、何もすることが無いが、時間だけはある。考える時間はたっぷりあるさ」

「わかりました。でも金はどうしたらいいのでしょうか? 」

「金かぁ…… 金は、とりあえず働くしかないのかな? 」


 そんなことを話していると

「はい、巴邑さん、お待ちどうさま、お食事です」

「ありがとうございます」

お昼御飯が運ばれてきた。

 卵焼きにかぼちゃの煮物が一つ、春雨のサラダとお味噌汁、そしてご飯。私はお味噌汁でご飯を流し込むようにして食事を終わらせた。


━※━


 病院生活も一週間も過ぎるようになると、後遺症野郎も病院の食事に慣れてきたのか、はたまた諦めたのか、あまり食事に文句を言うことが無くなってきた。体調の方も日に日に良くなり、昨日から食事が終わると、自分で配膳のワゴンまで食器を下げに行けるようになった。病棟内の散歩ももう行ったことの無い場所は無いほど、あちらこちらを歩き回れるようになっていた。


 今朝の朝食は、焼き魚にほうれん草のお浸し、卵豆腐にご飯、それから乳酸菌飲料であった。私が朝ご飯を食べようとしていると、出雲郷先生が朝の回診にやってきて

「おはようございます。巴邑さん、どうですか、かなり良くなってきたみたいですね」

「はい、おかげさまで…… 」

「病院内だったらどこでも歩いて行かれてもいいですよ。もちろん売店もいいですよ」

「本当ですか、ありがとうございます」

やっと病院内の歩行許可が出た。

 多少のお金は家内が持ってきてくれていた。

朝ご飯を早々に済ませると、私は早速売店に行ってみることにした。病室を出て、病棟の中央にあるナースセンターの前のエレベーターに乗って一階に降りる。一階も東西に長い廊下が伸びている。売店は廊下の西の外れにあった。私は子どもが駄菓子屋に行くようにウキウキしながら売店に入った。

 売店には、タオルや洗面器などの入院生活で必要な物や、ちょっとしたお菓子の類、お弁当に書籍を販売していた。

 私はまず、アーモンドチョコを手に取った。久しく甘いものを食べていない私の目には、アーモンドチョコの箱が、普段は食べることが出来ないような高級なお菓子の箱に見えた。

 次に私は書籍や雑誌の置いてある本棚の前に立った。本棚には、最近の週刊誌や、文庫本、それに様々な病気に関しての本が並んでいた。

「おい、何を買うつもりだ」

また、後遺症野郎が声をかけてきた。

「さあ、まだ決めていないです。何か面白そうな本が無いかな……」

私が本棚を見ていると

「おい、どうせ本を買うなら、頭を使う本がいいぞ。ボケ対策になるような本はないか? 」

「難しい本は嫌ですよ。どうせ読めないし、眠くなるだけです」

「寝てしまってはボケ対策にはならないな」

「頭を使わずに、簡単に読めるものがいいですね…… 」

「それもまた、ボケ対策にはならないな」

私が本棚の上の方のあまり売れそうにない本の列を見ていると

「おい、その本を取ってみろよ」

「どれですか? 」

「ほら、一番上の段の、右から、えぇっと何冊目だ? おい、ちゃんと本棚を見ろよ。俺の目は、お前の目と同じなんだから。お前が違うところを見ていたら、俺が見たいところが見えないじゃないか」

「どれですか? 一番上の段の、右から…… これですか? 」

私が手にした本は…… 『六十代からの夜の性活』という本だった。

「ばぁ~か、何を血迷っているんだ。お前にはもうそんな元気は無いだろう。俺が読んでみたいのは、その隣の本だ」

私は『六十代からの夜の性活』を本棚に戻すと、その隣の本を手に取った。


 次に私が手に取った本は、


『小説の書き方』という本であった。


「あなたが読みたいのはこの本ですか? 」

「そうだよ、この本を読んでみようぜ」

「しかしまた、なんで『小説の書き方』なんて本を読むんですか? 」

「小説を書くからだよ」

「誰が? 」

「お前がだよ。お前が小説を書くんだよ。」

「私が小説を書く…… ? 冗談を言ってはいけませんよ。私は小説なんて書いたことなんてないんですから」

「だから、この本を読んで、小説の書き方を勉強しようじゃないか。小説の書き方を勉強して、小説を書くということを老後の俺たちの趣味にしようじゃないか。きっと小説を書くためには結構頭を使うと思うんだ。ボケ対策にいいと思うぜ」

「そんなに簡単にはいかないでしょ。この本いくらすると思っているんですか? 千五百円ですよ。それも税別で。私には千五百円の無駄使いに思えるんですがね」

「ああ、面倒くさい奴だな、つべこべ言わずに早くその本をアーモンドチョコと一緒に買ってしまえ! 」


 私は後遺症野郎が言うがままに、『小説の書き方』をアーモンドチョコと一緒にレジに出した。


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