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4.2



 *



『あの時のことは思い出すだけでにやりとしてしまうな』


 俺の呟きに、ベンジャミンが耳ざとく『だよね』と同意を示してきた。さすが、恋愛シチュが大好物なだけはある。


 あの日のソフィーはおろおろしたり戸惑ったり、一人で忙しそうにしていた。皇帝然としたハリーの雰囲気にもすっかり参ってしまっていた。実は皇帝となったハリーと直接会話したのは、この時が初めてだったらしい。


 でもそれはハリーも同じだったんだ。


 ここにやって来た当初から、ソフィーは下ばかり向いてびくびくと怯えていたんだけど……そういう想い人の様子にハリーはさっきから、いや、以前からずっと傷ついていたんだ。


 皇帝となってから、ハリーはソフィーとあまり会えなくなってしまった。というか、会うというよりも公務の一環で遠目から頭を垂れた姿を眺めることしかできなくなってしまったんだ。


 ハリーがまだ皇子だった頃――お互いが十代前半の頃――までは友人としてこの部屋に気安く招かれていたソフィーだったが、さすがに皇帝ともなればそういうわけにもいかず、しかも男女の関係をうわさされる恐れのある年齢にもなり――であれば、どうしようもなかったんだ。


 ハリーがソフィーのことを案じているのは本当のことだよ。それは昔も今も変わらない。だけど久しぶりに至近距離で想い人の香りを味わい、独占している状況に、ハリーの歯止めがどんどん効かなくなっていったっていうのが、事の真相だったってわけさ。でもさ、顔を見るのも久しぶり、なんて状況じゃあ、舞い上がってしまうのも仕方ないだろう?


 まあでも、この頃からハリーは『普段は奥手なくせにいざとなると、もとい興奮すると度胸が据わってはちゃめちゃに動いてしまう』という、めんどくさい体質になりかけていたのかもしれないな。



 *



 頑なに口をひらこうとしないソフィーに、ハリーは焦りながら言葉を重ねていった。


「ソフィーが辛そうにしていると僕も悲しい。ね、僕のプリンセス。そのかわいらしい唇でちゃんと話してくれないかな」


 それでもさくらんぼみたいな唇は一向に動く気配がない。


 では、と、顎に手をやり、ソフィーの顔を持ち上げてみたところで、なんて華奢な顎なんだ、と妙なところに感動してしまった。そんな自分を無理矢理押さえ込もうとしたハリーだったが、一度気がついてしまえばその事実に目を塞ぐことなど――できない。


 しかも――。


 一度触れれば、こんなにも離れがたくてたまらない――。


 顎だけではなく、ソフィーの骨格のすべてが自分よりも華奢なことに、ハリーは今更ながら気づいた。少し力を入れたら壊れてしまいそうな、かわいらしさ以外の何物も有さない稀有な人だと。


 ああ、やっぱり僕はソフィーのことが好きだ……。


 確信するや、ハリーのサファイア色の瞳が、どこか違ったニュアンスの色を醸し出しはじめた。


「ね? ……言って?」


 君の幸せのためなら、君の声を聴くためなら――。


 僕はどんなことでもしたい。



 *



『あれが最初だったよな』


 何を、と言わなくても通じるベンジャミンは、さすが俺様の相棒だ。


『だよね。あの時のハリーは今思い出してもぞくっとするよ。無駄にきれいな顔にあの雰囲気が加わると、すごいのなんの。あれを無意識でやっちゃうところがまたすごいよね』

『ソフィーの奴、完全に腰砕けてたもんな』

『うん。昔から知っているハリーが豹変しちゃって、すごく驚いてたね』


 しんみりと、ベンジャミンが付け加えた。


『……かわいそうなくらいに』





 これまで一切の男を知らず、幼少の頃からの初恋を胸に抱いて生きてきたソフィーにとって、ハリーが醸し出しはじめた雰囲気に抗えるはずもなく……。


「僕のプリンセス……。お願いだよ……」


 こんな風にされて、乞われて、従わない女がどこにいるのだろうか。その目で見つめられるだけでも腰が引けるのに、以前よりもやや低くなった声がずるいほどに女心を刺激してくるのだ。


 と、ソフィーは突如気づいた。


 気づいてしまった――。


 ハリーの何もかもが変わってしまったことに――。


 それは第一に、ハリーの感動した事実とは正反対のことだった。つまりは、背が高くなり、体が大きくなり、子供ではなくなってしまった――ということだった。


 ソフィーの体も、ほんの少しの肉がついてまろやかな女性らしい体に近づいてきていた。だがまだ少女じみたところが見え隠れしていた。しかしハリーの方はこの五年のうちに疑うべくもなく大人になっていた。


 顔つきも以前に比べて変わってしまった。これまでは皇子とはいえ同い年の少年、という印象しかなかったのに、こうして間近で接すれば年上の男性を相手にしているようだった。気品に満ち、皇家の人間の風格が滲み出て、この国の皇帝としての貫禄をひしひしと感じた。


 そして――こうやって自分に向けてくるハリーの瞳。


 甘い笑み。物腰。雰囲気。言葉づかい。


 そのどれもが女性の心を掴むことを意図したものとしか、ソフィーには思えなかった。


 だからこそ――。


「もうあの頃のハリー様はいないんですね……」


 もう私の初恋の人はいなくなってしまったのだ、と確信したのだった。


 確かにハリーは皇帝になった。手の届かない存在になった。それでも……それでもこの秘めた想いをソフィーは大事に守ってきた。たまに遠目でみかける姿に、誰よりも心を躍らせていたのは、他ならぬソフィーだったのだ。


 そんなソフィーだからこそ、突然確信した事実は息をのむほど暴力的で――他のどんなことよりも鋭く心をえぐられてしまったのである。


 見つめ合ったまま、ソフィーのスカイブルーの瞳に涙がにじんだ。


「ど……」


 どうしたの、と言いかけたハリーだったが、冴え冴えとした面持ちで瞬きもせず涙をこぼしたソフィーに、


「……ソフィー」


 ただ名を呼ぶことしかできなかった。


 そして短くもない沈黙の時間が二人の間に流れ――。


「すみませんっ……」


 口元を手で押さえ、ソフィーが逃げるように立ち去ろうとした。


 だが、廊下へとつづくドアのノブに手をかけたかと思った瞬間。


 ドン……っ!


 一足早くハリーが動いた。


 高らかな音を響かせる。


 その残響が消えるよりも早く、ドアについた手を支点にしてソフィーとの距離を詰めていく。


 お互いの前髪の毛先が、風圧でふわりと揺れ、振り子のように下がり――そして触れた。


 一瞬のことで、それほどまでに二人の顔面が近づいた。


「行かせないよ」

「陛下……っ?!」

「そんな顔をした君をこの部屋から出すわけにはいかない」


 ハリーは見下ろすソフィーのことを穴があくほど見つめている。


 なぜ想い人が突然泣き出したのか、何に傷ついたのかが分からず――その傷を自らの手で癒すまでは外に出したくないと願っている。


 ここから出してしまえば、次いつ逢えるか定かではない。――二度と逢えないかもしれない。


 対するソフィーはといえば、ドアに背を向けた状態から指先一つ動かすことができなくなってしまっている。


 この初恋が傷つけられやしないかと恐れているくせに、こうして想い人に囲まれてしまえば胸が高鳴る、そんなあさましい自分に混乱している。


 やがて――。


 真剣な面持ちを保っていたハリーの顔が、みるみる赤く染まっていった。


「もしかして……ソフィーは僕のことが好きなの?」



 *


 

『あいつ、あの頃から考えなしのところがあったよな』


 やけに遠い昔のことのようだが、あれからまだ四か月とたっていない。


『だよね。今までソフィーの気持ちに気づかなかった鈍感さも見事だけど、気づいたってさ、普通は言葉に出して確認するなんて野暮なことはしないよね』


 思いやりのかけらもないハリーの追求に、かわいそうに、ソフィーはすっかり動転してしまった。否定することもできず、口が小さく開いたり閉じたりを繰り返していたっけ。


 ソフィーだってハリーに十年恋してきたわけだから、そうやすやすと恋心をを否定できなかったっていうのもあったのだろう。


 ――僕のこと、好きなんだね。


 とろけるような笑顔になったハリーに、


 ――知りませんっ!


 ソフィーが泣きそうな顔で訴えていた。


 でもなんとなく……そう、なんとなく嬉しそうだった。


 だってハリーの表情を見れば、二人が両想いなことは一目瞭然だったから。


 鈍感なソフィーも、ようやくハリーの気持ちに気づいたんだ。



 *



「そうか……。ソフィーは僕のことが好きなんだ……」


 幸福をかみしめるかのように何度も同じことばかりを呟くハリーに、


「そろそろどいてください……っ」


 ずっとドアとハリーの間に挟まれていたソフィーがたまらず訴える。


「あ、ああ。ごめんね」


 ここでようやくハリーの奇跡的、もとい衝動からなる魅惑的なオーラが消え、


「あの、その」


 しどろもどろになりながら、ソフィー以上に顔を真っ赤にさせて告白しだした。


「僕もソフィーのことが好きだよ。ずっとずっと、昔から大好きだった! 今も好き。大好き。君のことを世界で一番愛している。あの、その。もっと言っていいかな? 僕、ソフィーにこの気持ちをずっと伝えたかったんだ……!」


 興奮気味のハリーに、最初あっけにとられていたソフィーだったが、しばらくすると泣き笑いの表情になった。そして、


「その……抱きしめても、いいかな?」


 おずおずと手を伸ばしてきたハリーに、こくんとうなずいてみせたのだった。


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