4.1
この国は若き皇帝陛下によって統治されています。
先帝である父君がお亡くなりになり、若干十五歳で急遽帝位を継がれた皇帝陛下は、以来五年、その天性の手腕によってこの国をまとめられています。
統治者としての才覚のみならず、天によって万物を与えられた稀有なお人――それが皇帝陛下という方なのでございます。その気質も物腰も――外見も何もかも、人を惹きつける天性の魅力を有する素晴らしい方なのでございます。
そのため、若き女性のみならず、老いも若きも、国民の誰もが皇帝陛下に敬愛の念を抱いておりました。
ですがただ一つ、国民の多くが不思議に……いえ、不満に思っていることがありました。
それは皇帝陛下がいまだ妃を娶ろうとしないことでした。
ですが国民は知らなかったのです。
皇帝陛下には長年想いを寄せていた女性がいることを――。
最近、その女性とようやく両想いになったばかりで、なおかつその女性との一つの未来をようやく決断したばかりだということを。
そして、その女性とどのようにして両想いになられたかということを。
◇◇◇
今日も今日とて、皇帝としての務めをきちんとこなしきったハリーに、アランは心を込めて「お疲れ様でした」と伝えた。
皇帝とその愛しの恋人との間に起こった昨夜の出来事を、アランは勤務前には知り得ていた。さすがに皇帝の閨のことを完全に隠し通せるわけもなく、身の回りを世話するメイドから侍従長へ、そして最終的には皇帝の警護を任とするアランのところにまで知らせが届いた、という訳だ。
もちろん、朝一番で拝したハリーは全身から隠しおおせないほどの幸せオーラを放っていた。
しかし大勢の前に出れば、ハリーは皇帝としての己を取り戻していた。『皇帝陛下がソフィーという名の下働きの女性と一夜を共にした』、そんな本人が聞けば立腹するにきまっている情報が流れていることにも気づいているだろうに、昨夜の事実を知る一部の重臣やメイドその他関係者の意味ありげな視線を受け流しながら、いつものごとく朝から晩まで働いてみせたのである。その間、品格のある笑みが崩れることも、言葉遣いや態度が乱れることも、一度たりとてなかった。
だが夜分遅く、いつものようにアランと共にプライベートルームへと戻ってきたところで、
「やっぱり目を閉じることはできそうにないね」
と、ハリーが脈絡のないことを言い出した。
「なんのこと、でしょうか」
「お前が言ったんだろう」
少し思考を巡らせば思い当たることがあった。
「……ああ、あれですか」
昨夜、「ソフィーが眩しすぎて直視できない」などとノロケにしか聞こえないことを言うものだから、アドバイスしてやったのだ。目を閉じていればいい、と。
「ソフィーがいるのに見ないでいるなんてこと、僕には無理だよ。美への冒涜だ」
「はあ、そうですか」
「でも僕の目はおかしくなってしまったのかもしれない」
「は?」
「どこもかしこも大輪の薔薇が咲き乱れているように見えるんだ」
「……は?」
「確か昨夜、ソフィーを抱きかかえた頃には見えはじめていたような気がする」
「そんなものはありませんよ。幻です」
そうかな、と独り言をつぶやくハリーの目は、常になく細められている。
「今夜はソフィーは来れないんだ」
「あ、そうなんですか」
「でも仕方ないよね。その、昨日の今日だし。ソフィーはその……とても華奢だから。無理させてしまったと思うんだ」
一般的にはそこまで気をつけてやらなくてはならないほど華奢な女性ではないが、ハリーがそう言うのだからそれが真実なのだろう。……この国の若き皇帝は完全に恋に溺れている。
「そういえば、ハリー様はどうやってその恋を成就されたのですか?」
アランはつい今更なことを訊ねていた。
この恋愛面では超初心な……いや、初心「だった」学友が、同じくらい恋に奥手そうなソフィーとどうやって想いを通じ合わせたのか。以前から気になっていたのだ。
見れば、チェストの上には二体のぬいぐるみがいつも以上にくっつけて並べられていた。まだベンジャミンの片耳は曲がったままだが、ピーターの背中のほつれはしっかりと縫い合わされている。
「それは」
「それは?」
「僕とソフィーだけの秘密だよ」
ふふ、と頬を緩めて笑うハリーは、おそらくこの国一番の幸せ者だろう。
*
ちっちっちっ。
違うな。
俺達はその奇跡的一部始終をぜーんぶ観察している。
『ああもう。また耳が曲がっちゃったよ。もういくら伸ばしても駄目なのかなあ」
昨夜の一番盛り上がるシーンは見れなかったけれど、恋が成就した瞬間は今もこの瞳に焼き付いている。
『ねえ、ピーター。変じゃない? 片方だけ曲がってるのって変じゃないかな?』
『うるさい、黙ってろ』
俺の回想の邪魔をするな。
あの日は――あの頃は、ソフィーはひどく参っていた時期だった。変な男にしつこくつきまとわれていたからだ。
『冷たい奴。ふん』
その男は宮廷音楽士の一員となったばかりのバイオリン奏者だったんだが、生意気にも速攻でソフィーに目を付けてきた、らしい。様々な理由をつけては話しかけ、自分の練習にオルガンで伴奏することを要求してきた……らしい。しかも、時折ハプニングのように距離を縮めてきたり、無遠慮に触れてきた……らしい。
らしい、ばかりを繰り返してしまうのは、その現場を俺は見ていないからだ。事後、ここでハリーとアランが会話する内容を整理した結果に基づき推測したまでのこと。あ、俺、もしかして探偵になれる?
で、だ。
ソフィーは幼い頃からハリーという完璧な皇子様に惚れきっていたから、そういうあけすけに迫ってくる男に免疫がなかったってわけ。
当然、ソフィーは戸惑った。嫌がった。だけど相手は仕事仲間で――かといって冗談にしてかわすすべも持たず――。結果、身も心も疲弊してしまったんだ。
そんなソフィーのことをハリーはひどく案じていた。ハリーは皇帝となってからも、公務の一環という理由をつけては楽士達の、つまりソフィーの勤務先をまめに視察していたから、ソフィーの様子がおかしいことには気づいていたのだ。あ、そこ、粘質者とかストーカーとか言わない。それほど一途な男だってことさ。……そういうことにしておいてやってくれ。頼む。
で、ハリーはソフィーに手紙を書いた。仕事を終えたら僕の部屋に来てほしい、と直球で。
ちなみにその手紙を届ける大役を担ったのは、若き騎士であり二人の知己であるアランだった。
『ねえ。僕の耳、変じゃない?』
『うるさい。黙ってろ』
*
その日、ソフィーはいたたまれない思いでソファーに座っていた。
その隣には寄り添うようにハリーが座っている。
部屋を訪れてからずっとこの状態で、ソフィーはくらくらしそうな頭をなんとか保っている有様だった。
昔のようにオルガンを弾くために呼ばれたのかと思っていたのに……。
「ね、ソフィー。今、何か困っていることはない? 君のために僕ができることは何かないかな?」
ああ、距離が近すぎます。陛下の美麗なお顔が間近にあると心臓がばくばくしてしまいます。いくら幼馴染とはいえ、皇帝陛下に、あなたのような美しい男性にこんな風に近づかれたら――もうどうしていいか分からなくなります。だって私、あなたのことが好きだから……。
――なんて言えるわけもなく、ソフィーは身を縮めていたのだ。
確かにしつこい男には参っていた。限界にきていた。けれど今のこの状況の方が、ソフィーにとってはよっぽど非常事態だったのである。
「ね……言ってほしいな」
耳元で吐息を交えて乞われ、ふるふるっとソフィーの細身の体が震えた。
「あ、寒いかな、この部屋」
「い、いいえ」
あわてて首を横に振る。
「ああ、ほんとだ。手は温かいね」
膝の上で固く握りしめられていた手に、ハリーがそっと手を載せてきた。
もうそれだけで、ソフィーは息ができないほどに緊張してしまった。




