第4話「夜泣きの理由」
深夜、悲鳴が聞こえた。
眠りの浅かった私は、一瞬で目を覚ました。暗い天井、冷たい空気、そして——遠くから響く、子供の叫び声。
「リリア——」
ベッドから飛び起き、上着を羽織る間も惜しんで部屋を飛び出した。廊下は暗く、魔導灯の明かりが等間隔にぼんやりと灯っているだけ。その中を、私は走った。
子供部屋に近づくにつれ、声が大きくなる。泣き声というより、叫び声だ。何かに怯えて、助けを求めるような。
扉を開けた。
「リリア!」
暗い部屋の中、リリアがベッドの上で叫んでいた。目は開いているのに、何も見えていないような虚ろな瞳。両手を振り回し、何かから逃げようとするように体をよじっている。
「いや、いや、いやあああっ!」
「リリア、リリア! 僕だよ、起きて!」
ルシアンが必死に妹の肩を揺すっていた。でも、効果がない。リリアは兄の声も聞こえていないように、叫び続けている。
私は瞬時に理解した。
——夜驚症だ。
前世で何度か見たことがある。悪夢とは違う、睡眠障害の一種。本人は眠っているのに、突然叫び出し、暴れ、目を開けていても周囲が見えない。無理に起こそうとすると逆効果になることもある。
「ルシアン、離れて」
「でも——」
「大丈夫。任せて」
私はベッドに上がり、リリアの背後に回った。そっと抱きしめる。暴れる小さな体を、強すぎず、弱すぎず、包み込むように。
「大丈夫、大丈夫。ここにいるよ」
声をかけながら、背中をゆっくりさする。リリアはまだ叫んでいたが、少しずつ、少しずつ、体の力が抜けていった。
「大丈夫。怖くないよ。ここは安全だよ」
繰り返す。同じ言葉を、同じリズムで。子供の脳は、安定したリズムに反応する。混乱した神経を、ゆっくりと落ち着かせていく。
どれくらい時間が経っただろう。五分か、十分か。やがて、リリアの叫び声がすすり泣きに変わり、それも静かになっていった。小さな体が、私の腕の中でぐったりと力を抜く。
「……リリア?」
そっと顔を覗き込むと、彼女はまた眠っていた。今度は穏やかな表情で、規則正しい寝息を立てている。
発作は収まった。
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「……いつも、こうなんだ」
ルシアンの声が、暗闘に響いた。
彼はベッドの端に座り、膝を抱えていた。その顔は暗くてよく見えないけれど、声が震えているのはわかった。
「お母様がいなくなってから、ずっと。最初は毎晩だった。今は……少し減ったけど」
「三年間……?」
「うん」
三年間。この子たちは、三年間こうやって夜を過ごしてきた。
リリアが叫んで、ルシアンが必死に宥めて、それでも効果がなくて。誰も助けに来なくて、二人きりで朝を待って。
「誰か、来てくれなかったの?」
「……最初の頃は、侍女が来てくれた。でも、そのうち来なくなった」
「なぜ?」
「わからない。僕たちのこと、面倒なんだと思う」
淡々とした声だった。諦めきった、感情のない声。五歳の子供が出していい声ではなかった。
「僕が——僕がちゃんとしてれば、リリアは泣かないのに」
「ルシアン」
「僕がお兄ちゃんなのに、何もできない。リリアを守れない。お母様がいなくなったのも、僕たちがいたからで——」
「ルシアン」
私は立ち上がり、彼の前にしゃがんだ。暗闘でも、彼の目が潤んでいるのが見えた。
「あなたは、悪くない」
「……」
「お母様がいなくなったのは、あなたのせいじゃない。リリアが泣くのも、あなたのせいじゃない」
「でも——」
「でもじゃない。あなたは、悪くないの」
声が震えそうになるのを、必死にこらえた。
この子は、ずっと自分を責めてきたのだ。母がいなくなったのは自分たちのせいだと。妹を守れないのは自分が弱いからだと。
五歳の子供が、そんな重荷を背負って。
「ルシアン。聞いて」
私は彼の両手を取った。小さくて、冷たい手。
「あなたは、十分頑張ってる。リリアを守ろうとして、毎晩毎晩、一人で戦ってきた。それは、すごいことなの」
「……」
「でもね、一人で抱え込まなくていいの。助けを求めていいの。頼っていいの」
ルシアンの唇が、震えた。
「……本当に?」
「本当に」
「僕は……僕は、悪くない?」
「悪くない。絶対に」
その瞬間、ルシアンの目から涙が溢れた。
声を上げて泣くのではなかった。静かに、静かに、涙が頬を伝い落ちていく。三年間、我慢してきたものが、少しずつ溶け出していくように。
私は何も言わず、彼の頭をそっと抱きしめた。今度は、触れても大丈夫だと思った。
「よく頑張ったね」
嗚咽が漏れた。小さな肩が震えている。私はただ、その震えが収まるまで、抱きしめ続けた。
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その夜、私は子供部屋で朝を迎えた。
リリアはベッドで眠り続け、ルシアンは泣き疲れて私の隣で眠りについた。私はソファに座ったまま、二人を見守っていた。
窓から差し込む朝日が、銀色の髪を照らす。穏やかな寝顔。昨夜の嵐が嘘のように、静かな朝だった。
「……眠れなかったな」
小さく呟いて、目をこする。体は疲れているはずなのに、不思議と眠気はなかった。
「奥様——」
扉が開いて、ハンナが入ってきた。朝食を運んできたのだろう、盆を手にしている。
彼女は部屋の中を見て、目を見張った。ソファで眠るルシアン。ベッドで眠るリリア。そして、その傍らに座る私。
「奥様……一晩中、ここに?」
「リリアが夜驚症の発作を起こしたの。放っておけなくて」
「夜驚症……存じておりました。ですが——」
ハンナの声が、詰まった。
「私たちは、何もできなかった……」
その目に、罪悪感の色が浮かんでいた。長年、見て見ぬふりをしてきた者の、苦しみの色。
私は何も言わなかった。責める気にはなれなかった。この屋敷には、何か構造的な問題がある。使用人たちを責めても、根本は解決しない。
「ハンナ。朝食を子供たちの部屋に運んでもらえる? 三人で食べたいの」
「……かしこまりました」
ハンナは深く頭を下げた。
顔を上げた時、その表情が少し変わっていた。何かを——決意したような、覚悟を決めたような。
何を考えているのかは、わからない。でも、悪いものではない気がした。
「奥様」
「なに?」
「……いえ、何でもありません。朝食をお持ちいたします」
ハンナは一礼して、部屋を出ていった。
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窓の外を見ると、今日も雪が降っていた。灰色の空から、白いものが絶え間なく落ちてくる。
辺境の冬は長い。まだまだ続くだろう。
でも——。
「んん……」
隣で、ルシアンが目を覚ました。寝ぼけた目で私を見上げて、一瞬きょとんとする。
「……エレナ?」
「おはよう、ルシアン」
「僕……寝ちゃった?」
「うん。よく眠れた?」
「……うん」
彼は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。昨夜、泣いたことを思い出したのだろう。
「お腹空いた? もうすぐ朝ごはんが来るよ」
「……うん」
ベッドの上で、リリアも身じろぎした。ゆっくりと目を開けて、私たちを見る。
「おはよう、リリア」
「……おはよう」
まだ少し眠そうな声。でも、表情は穏やかだった。
「今日もいっしょにいる?」
リリアが聞いた。不安そうな、でも期待を込めた声。
「いるよ。ずっと」
私は微笑んで、頷いた。
この子たちを守る。何があっても。
それが今、私にできる唯一のことであり——やりたいことだった。




