第3話「折り紙の動物園」
三日目の朝、私は紙の束を抱えて子供部屋へ向かった。昨日ハンナに頼んで用意してもらったもので、上質な紙ではないけれど、折り紙には十分使える厚さと大きさがある。
「奥様、何にお使いになるのですか?」
不思議そうに尋ねるハンナに、私は「ちょっとした遊びに」とだけ答えた。子供部屋のことを、この屋敷の誰がどこまで知っているのか、まだわからない。ただ、ハンナは何も聞かずに紙を用意してくれた。その事実が、少しだけ心強かった。
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子供部屋の扉をノックすると、すぐに返事があった。
「……入っていい」
昨日より早い。小さな進歩に口元が緩む。
扉を開けると、暖炉に火が入っていた。昨日、私が頼んで使用人に伝えてもらったのだ。部屋の空気が、少しだけ温かい。
「おはよう、ルシアン。リリア」
「……おはよう」
ルシアンはベッドの上で膝を抱えていた。相変わらず警戒した目だが、昨日ほど尖ってはいない。リリアはルシアンの隣に座って、私を見上げている。大きな紫色の瞳が、期待を含んで揺れていた。
「今日はね、遊びに来たの」
「遊び?」
「これで動物を作れるんだよ」
紙の束を見せると、リリアの目が輝いた。
「どうぶつ?」
「そう。見ててね」
私は一枚の紙を手に取り、折り始めた。角を合わせて、折り目をつけて、開いて、また折る。前世で何百回と繰り返した動作だ。手が覚えている。
しばらくして、紙の鶴が私の掌の上に立った。
「……っ」
リリアが息を呑んだ。
「とり……?」
「鶴っていうの。羽を広げた鳥だよ」
「すごい……」
キラキラした目で鶴を見つめるリリア。その隣で、ルシアンもそっぽを向きながらチラチラと視線を送っていた。
「くだらない」
「そう? じゃあ、犬はどうかな」
新しい紙を取り、今度は犬を折る。立ち耳の、シンプルな犬。続けて猫、うさぎと作っていく。ルシアンは黙っていたが、目が紙から離れない。
「ルシアンも、やってみる?」
「……別に」
「リリアは?」
「やりたい!」
リリアが手を伸ばした。紙を渡すと、嬉しそうに抱きしめる。
「まずは簡単なのから始めようか。これは『かぶと』っていうの」
兜の折り方を、ゆっくり教える。一手順ずつ、一緒に折った。
「ここをこうして……そう、上手」
「できた!」
リリアの手の中に、小さな兜が生まれた。不格好だけど、ちゃんと形になっている。
「すごいね、リリア。上手にできたよ」
「えへへ」
照れたように笑うリリア。その笑顔が眩しくて、胸が温かくなる。
「……僕にも」
声がした。振り向くと、ルシアンがこちらを見ていた。
「僕にも、教えて」
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ルシアンに鶴の折り方を教え始めた。最初は順調だった。彼は器用で、理解も早い。説明を一度聞けば、すぐに手が動く。
でも、鶴の折り方は兜より複雑だ。
「ここを開いて、四角に潰すの」
「こう?」
「もう少し丁寧に……」
ルシアンの指が、紙の上で止まった。折り目がずれている。このまま続けると、鶴の形にならない。
「一度開いて、やり直してみて」
ルシアンは黙って紙を開いた。もう一度折る。また、ずれる。
「違う……こうじゃない……」
声が震え始めた。三度目の挑戦で、今度は紙が破れた。
「っ——!」
ルシアンの顔が、真っ赤になった。
「こんなの無理だ! 僕は何もできない! 何をやっても、できない!」
紙を床に叩きつけ、立ち上がり、拳を振り回す。目に涙が浮かんでいた。リリアが怯えて、私の後ろに隠れる。
「ルシアン——」
「うるさい! こんなのくだらない、くだらない、くだらないんだ!」
叫び声が部屋に響いた。
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私は動かなかった。叱らなかった。止めなかった。ただ静かに座って、彼を見ていた。
前世で、何度も見た光景だ。抑圧された感情が爆発する瞬間。いい子でいなければならない、しっかりしなければならない、そう思い込んできた子供が限界を超えた時。止めてはいけない。否定してはいけない。まずは、吐き出させる。
やがて、ルシアンの声が小さくなった。肩で息をしながら、床に座り込む。涙が頬を伝っていた。
「僕は……僕は……」
「ルシアン」
私は静かに声をかけた。
「失敗していいんだよ」
「……え?」
「何度でも、やり直せる。失敗しても、怒られない。ここでは、そうなの」
ルシアンが顔を上げた。涙で濡れた紫色の瞳が、私を見つめている。
「失敗……していい?」
「うん。していい。何度だって」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの表情が崩れた。こらえていた何かが決壊したように、声を上げて泣き始めた。
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しばらく、泣き声が続いた。私は何も言わず、隣に座っていた。背中をさすることもしなかった。今はまだ、触れる段階ではない。
やがて、泣き声がしゃくり上げに変わり、それも静まっていった。
「……ごめん」
かすれた声で、ルシアンが言った。
「謝らなくていいよ」
「でも……リリアを怖がらせた」
振り返ると、リリアが不安そうな顔で兄を見ていた。
「おにいちゃん……だいじょうぶ?」
「……うん」
ルシアンは目元を拭って、立ち上がった。床に落ちた紙を拾う。破れた紙と、まだ無事な紙。
「……もう一回、やる」
「うん」
私は新しい紙を渡した。今度は、もっとゆっくり教えた。一手順ごとに確認しながら、焦らず、丁寧に。折り目がずれても、「大丈夫、直せるよ」と声をかける。
時間をかけて——鶴が、完成した。
不格好だった。首が曲がっていて、羽のバランスも悪い。でも、ちゃんと鶴の形をしていた。
「……できた」
ルシアンが呟いた。
「できたね」
「……これ」
彼は鶴を手に取り、リリアに差し出した。
「リリアに、あげる」
「え? いいの?」
「……いい。さっき、怖がらせたから」
リリアが鶴を受け取った。両手で大事そうに抱えて、顔をほころばせる。
「ありがとう、おにいちゃん」
「……別に」
そっぽを向くルシアン。でも、その耳が赤くなっているのが見えた。私は微笑んだ。よかった。この子たちは、まだ温かさを知っている。
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その時、ふと廊下に人の気配がした気がした。振り返る。扉は閉まったまま、誰もいない。気のせいだったのだろうか。
「エレナ」
名前を呼ばれて、私は視線を戻した。ルシアンが、私を見ていた。
「え——」
「……明日も、来る?」
初めて、名前を呼ばれた。「エレナ」と。胸が熱くなった。
「うん。来るよ」
「……約束」
「約束」
私は頷いた。ルシアンは照れたようにそっぽを向いたけれど、その口元がわずかに緩んでいるのが見えた。
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部屋を出て、廊下を歩きながら、私は深呼吸した。今日は、大きな一歩だった。
ルシアンが泣いた。感情を爆発させた。それは「安全だ」と感じ始めた証拠だ。まだ完全に心を開いたわけではない。でも、扉が少しだけ開いた。
「……よし」
小さく呟いて、拳を握る。明日も来る。明後日も。この子たちが笑えるようになるまで、何度でも。
窓の外を見ると、今日は雪が止んでいた。灰色の空の向こうに、かすかに青空が覗いている。




