第2話「最初の朝食」
夜明け前に目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。雪は止んでいたが、空は重たい灰色のままだった。
昨日、あの子供部屋を見つけてから、ほとんど眠れなかった。
目を閉じると、銀髪の男の子の顔が浮かぶ。
「僕たちに構わないで」
あの声が、耳の奥にこびりついている。
「……考えていても仕方ない」
ベッドから起き上がり、手早く身支度を整えた。
今日、やることは決まっている。
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厨房に足を踏み入れたのは、夜明け直後だった。
まだ料理人たちが本格的に動き出す前の時間。かまどには火が入っているが、人の気配は少ない。
「——奥様?」
振り返ると、ハンナが立っていた。目を丸くしている。
「おはようございます、ハンナ」
「おはようございます……あの、厨房に何か御用でしょうか」
「少し、作りたいものがあって」
「作りたいもの、ですか」
ハンナの声には、困惑が滲んでいた。無理もない。貴族の夫人が厨房で料理をするなど、普通はありえない。
でも、私は「普通の夫人」になるつもりはなかった。
「邪魔にならないようにするわ。材料を少しだけ借りてもいい?」
「それは……もちろん、奥様のお屋敷ですから」
ハンナは止めなかった。
不思議そうな顔をしていたけれど、止めなかった。
その事実を、私は心に留めた。
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パンケーキを作るのは、前世でも得意だった。
小麦粉、卵、蜂蜜、バター。この世界にもある材料で、シンプルに作る。
生地を混ぜながら、頭の中で段取りを組み立てた。
保育士時代、何度もやったことだ。
警戒心の強い子供に近づくとき、いきなり「仲良くなろう」と言っても逆効果。まずは「この人は安全だ」と思ってもらうこと。
そのために有効なのが、食べ物だ。
美味しいものを差し出す。自分も一緒に食べる。それだけで、壁が少しだけ低くなる。
もちろん、一回で心を開いてもらえるとは思っていない。
何度も、何度も。根気よく続ける必要がある。
でも——最初の一歩を踏み出さなければ、何も始まらない。
焼き上がったパンケーキを皿に盛り、蜂蜜をかけた。
甘い香りが広がる。
「……よし」
私は皿を手に、厨房を出た。
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子供部屋の前で、一度立ち止まった。
昨日、あの男の子——ルシアンに「来なくていい」と言われた。
無視して押しかけるのは、彼の意思を踏みにじることになる。
でも。
「……来てほしくないのと、助けがいらないのは、違う」
小さく呟いて、扉をノックした。
返事はない。
もう一度、ノックする。
「……誰」
低い声が返ってきた。昨日と同じ、警戒に満ちた声。
「昨日、お邪魔した者よ。入ってもいい?」
沈黙。
しばらく待って、返事がないまま、私は扉を開けた。
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部屋は昨日と同じように寒かった。
暖炉に火が入っていない。窓から差し込む弱い光だけが、室内を照らしている。
ベッドの上で、ルシアンが私を睨んでいた。
隣のベッドでは、もう一人の子——リリアがまだ眠っているようだった。銀色の髪が枕に広がっている。
「来るなって言ったのに」
「ごめんなさい。でも、どうしても持ってきたいものがあったの」
私は皿を掲げて見せた。
「朝ごはん。一緒に食べない?」
ルシアンの目が、皿に向いた。
そして——すぐに、鋭い警戒に変わった。
「……毒が入ってるかもしれない」
五歳の子供が言う言葉ではなかった。
胸が締め付けられる。どんな経験をしたら、こんな言葉が出てくるのか。
でも、顔には出さない。
「毒なんて入ってないわ。私が作ったの」
「嘘かもしれない」
「じゃあ——」
私は皿を膝に置き、パンケーキを一口ちぎって、自分の口に入れた。
もぐもぐと咀嚼して、飲み込む。
「ほら。大丈夫でしょう?」
ルシアンは黙って私を見ていた。
疑っている。当然だ。一口食べたくらいで、信用できるわけがない。
私は何も言わず、待った。
沈黙が続く。
やがて、隣のベッドで、小さな声が聞こえた。
「……いい、におい」
リリアが目を覚ましていた。
大きな紫色の瞳が、パンケーキの皿を見つめている。
「リリア、食べちゃダメだ」
ルシアンがすぐに制止した。
「でも——」
「僕が先に食べる。リリアには、まだあげない」
彼は立ち上がり、私の前まで来た。
小さな手が、パンケーキをつかむ。
一口、頬張る。
咀嚼して、飲み込む。
じっと、自分の体の様子を確認するように、動きを止めた。
——この子は、本当に毒を警戒している。
五歳の子供が。自分の身をもって、妹を守ろうとしている。
「……何も、起きない」
しばらくして、ルシアンが呟いた。
「リリア。食べていい」
許可が出た瞬間、リリアの目が輝いた。
小さな手がパンケーキに伸びる。一口、頬張る。
そして——。
「……おいしい」
涙が、一粒、頬を伝った。
「おいしい……」
リリアは泣いていた。
パンケーキを食べながら、声を立てずに泣いていた。
私は何も言えなかった。
ただ、「よかった」とだけ言った。
それ以外の言葉が、見つからなかった。
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パンケーキは、あっという間になくなった。
ルシアンも結局、全部食べた。最後まで警戒は解かなかったけれど、皿は空になっていた。
「……ごちそうさま」
小さな声で、リリアが言った。
「どういたしまして」
私が微笑むと、リリアは少しだけ——ほんの少しだけ、口角を上げた。
笑顔、というには弱すぎる。でも、昨日よりはずっとましだ。
「明日も、来るの?」
ルシアンの声に、私は顔を上げた。
彼は相変わらず警戒した目で私を見ていたが、その問いかけには——わずかな期待が混じっているように聞こえた。
「来てもいい?」
「……勝手にすれば」
そっぽを向いた。
でも、「来るな」とは言わなかった。
「じゃあ、また明日ね」
私は皿を持って立ち上がり、部屋を出た。
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廊下に出て、数歩歩いたところで、足が止まった。
壁に手をついて、深呼吸する。
「……あの子たち」
声が震えた。
「『美味しい』って感情を、忘れかけてた」
リリアの涙が、頭から離れない。
パンケーキを食べただけで泣く子供。それが何を意味するか、私にはわかる。
あの子たちは、ずっと——。
「……絶対に」
拳を握りしめた。
「絶対に、この場所を変える」
静かな廊下に、私の声だけが響いた。
窓の外では、また雪が降り始めていた。




