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シアラおやすみ  作者: 雨猫
3/3

その3

 冬も真冬といっていい時期になり、つららの牙が戸口まで迫っていました。その日、わたしは昼過ぎにサリア様に呼ばれて御殿へ出向きました。サリア様は、教会を代表していらした騎士の方と激しく議論してらっしゃいます。お客さまのお泊まりになる部屋の準備をすませ、帰ろうとした時、わたしは呼び止められました。

「シアラ、飲み物をおねがい」

 急いでお茶を用意し、議論がおこなわれている小部屋に運びました。お二人ともお疲れのご様子でした。お茶をつぐと、それがきっかけでまた議論がはじまりました。「さがってよい」ともいわれないので、わたしは部屋の隅に立っていました。

 議論がゆきづまり、お二人がむっつりと黙りこむたびに、熱いお湯で出した新鮮なお茶を空いた杯につぎます。するとまた話しあいがはじまります。その繰り返しでした。

 灯をともす時刻になっても、お二人が譲る気配はありません。

「今夜はもう帰らせていただく」騎士の方が席をお立ちになったとき、時刻はもう真夜中に近づいていたでしょう。話しあいは不調に終わったようでした。

 サリア様は別段、お引き止めもせずにお客さまを見送られました。客室の準備も、ご夕食の用意もすべて無駄になりました。それを残念だとは思いませんでした。立ちっぱなしでクタクタだったのです。

 サリア様もぐったりしておいでです。

「かれはまっすぐ家へ帰ったりはしません」精気の失せた目でおっしゃいました。「かれは、おのれの主君筋に弁明しにゆくのです。本来、かれの主君はわたくし以外の何者でもないというのに。シアラ、夕食は?」

「まだです」

「では一緒に食べましょう」

「いえ」言葉につまりました。「アナーリアに叱られます」

 サリア様の黒々とした瞳に、見る見る茶目っ気らしい輝きがよみがえりました。

「アナーリアにはわたくしから話しておきます。他の者には内緒です。さぁ、お座りなさい、疲れたでしょう」

 この夜のサリア様はどうかしてらしたのです。下女でも下男でも、寛大で公平にあつかってくださるサリア様ですが、決して馴れあったりするお方ではありません。デルロイ女候閣下がすすめてくださった席を断るわけにはいかないので、わたしは腰かけ、すぐにまた立ち上がり、侍女たちが運んできた食事をテーブルに並べました。

 お客さまに振る舞われるはずだったごちそうです。わたしは圧倒されました。食器なんて、誰が使っても同じだろうと思っていましたが、サリア様の使い方とわたしの使い方では凄い違いです。控えめにいっても、わたしの食器たちはにぎやかな音を立てました。

 細かいことを気にしていられたのも、羊らしい動物の煮込みを食べた時までです。

「まぁ」とわたしは声をあげました。「なんだろう、まぁ」

 サリア様がお口に手をあてて笑っておいででした。苦しそうに噛んでらしたものを飲みこまれて、「ごめんなさい」と首をお振りになられました。

「笑ったりしてはいけませんね。でも、わたくしは楽しいのです。あなたと食事できてとても楽しい。なんだか久しぶりに」

 本当に楽しそうでらしたので、わたしはホッとしました。

 サリア様は、歌についてお尋ねになられました。エステルとわたしは、ルーウィーの伝統的な詩を目上の者から教えてもらっている最中でした。

「エステルは上手です。エステルの他ではミレルもうまく歌います。アジレルは水晶師の素質があります。この三人は放浪しても十分に食べていけるそうです。わたしは水晶はわかりませんし、歌は断然、うまくありません」

「でもあなたは、とても上手に字を書きますよ」

 わたしは食事を続けました。幸せな気分でした。サリア様は静謐でらっしゃいます。平明な態度の下に優しさがたゆたっています。食事が残り少なくなりました。この時間がいつまでも続けばいいのに。そう考えている自分に気づきましたが、終わりはやってきました。サリア様はお疲れのようです。言葉少なになってらっしゃいました。わたしは食器を片付けにかかりました。

「明日になさい」サリア様はおっしゃいました。「それより、今夜はもう遅いのですから」何かいいよどんでおられます。「今晩は、わたしの寝室で休むとよいでしょう」

 なんのことかわからず、お顔をうかがいました。

 主人と使用人には越えてはいけない一線があります。わたしは固辞すべきでしたし、固辞できたでしょう。サリア様は寂しそうでした。そんなサリア様を初めて見ました。ご自分を見失うくらい、どうしようもなく孤独でらっしゃる。痛ましいくらいか細く、お痩せになって見えました。

「今夜はわたくしの寝室に泊まっていきなさい」

「そうして良いのなら、そうさせていただきます」わたしは一線を踏み越えました。

 このお方をひとりぼっちにはできない、と思ったのです。

 わたしたちは一緒に口をすすぎ、一緒に寝間着に着替えました。普段ならおそれおおくておののいていたでしょうけど、この夜、サリア様とわたしはうちとけた雰囲気にいました。お互いの髪にクシをかけてから、おなじ布団に入りました。

 バチバチと音を立てて暖炉の火が燃え盛り、寝室の壁と天井に赤い影が踊りくるっています。こんなに暖かい部屋で眠るのは初めてでした。特別扱いされている、といういい気分も手伝って、わたしはうっとりしていました。さいぜんからサリア様の指がわたしの横髪をなでてらっしゃいます。わたしは猫のように大人しくしていました。

「エステルは春になったら城を後にするかもしれません」わたしはささやきました。

「あなたはどうするのです?」

「わたしは城に残ります」

「わたくしの領国には、もうルーウィーの自由を奪う法はないのですよ?」

「ですから、ここに居させていただきたいのです」

「さぁ、もう目を閉じて」

 目をつむると、眠気に襲われました。

「あなたの家族も、エステルの家族も本来なら虚しく滅ぼされずにすんだでしょう。わたくしがもっと早くに決断していれば」

 夢の声のように聞いていたわたしですが、サリア様のおっしゃったことの重大さに気づいて思わず目を開けました。サリア様は平然としておられます。先の発言に意味がないか、もしくはサリア様がその意味に気づいてらっしゃらないか、どちらかでした。

「わたくしにも子があったのです」落ち着いたささやき声です。

 わたしは緊張で身体を硬くしていました。サリア様が心をゆるしてくださっているのに、わたしはそれを裏切っていました。

「いいえ、産まれたわけではありません。けれど確かに身ごもったのです。結局……いろいろ難しい事情があって。産まれていれば、あなたの弟か妹くらいにはなっていたでしょう。わたくしもまた、兄によって家族を奪われた一人なのです。あなたを見ているとお腹の子を思い出す。けれど、産まれてこなかった子の代替物のようにいわれたら、あなたはいい気持ちはしないでしょうね」

「いいえ、サリア様」

「ごめんなさい、シアラ。目を閉じてください。眠りましょう」

「おやすみなさいませ、サリア様」

 わたしの心臓は高鳴ってやみそうにありません。いつか見たサリア様の背中が、赤く腫れた醜い傷痕が、怪奇な陰影をおびて思い出されました。『サリア様には何かある』──赤ん坊。父親は誰なのでしょう。……サリア様はそのルーウィーの子供を身ごもりさえした……あなたを見ているとお腹の子を思い出す……なぜわたしにお子さまの面影を重ねるのでしょう。ルーウィーだから? 『もっと早くに決断していれば』……決断? いったいどんな?……気をつけて、シアラ……エステル。彼女は今ごろ……。

 不意に大きな影が立ち上がりました。サリア様が、寝台からお降りになったのです。

「シアラ、起きてますか?」

 わたしは必死の思いで寝たフリを続けました。なぜそうしたのかわかりません。

 薄目をあけてうかがうと、サリア様は外出用のマントを羽織り、銀の燭台に暖炉の火を点じて、もう一度わたしのほうをご覧になりました。わたしは息を殺して耳をすましました。用箪笥の二枚扉がきしみ、なにか蓋のような物が開く音に続き、すぐさま金属音が響きました。わたしは再びうっすら目を開き、サリア様が鉄環に連なった鍵束を手になさっているのを目にしたのでした。


「きみは、後をつけたの?」

「まさか……」わたしはルカに答えました。「でも──」

「でも?」

「行き先は、サリア様が寝室を出られてからいった先は、わかる。地下牢よ」

 地下牢はデルロイ城の西門にあります。西門はただの城門ではありません。デルロイ城の守りの要です。胸壁に囲まれており、中をうかがうことは出来ません。しかしその夜、わたしはサリア様の居室にいました。窓をのぞくだけで、西門の全容を見下ろすことができたのです。

「そこにサリア様が現れたんだね?」

「ええ」

「衛兵は?」

「かれらはたいまつでサリア様のお足元を照らしてた」わたしはルカを見つめました。「なぜ、サリア様は地下牢へいったの?」

「生きてるんだ」

「誰が?」

「セルジェクが」

「──なに?」

「セルジェク。記録を調べればわかる。かれは死んだ。現場にいたウォズリック卿のひと太刀を浴びて殺された──。けどザビール様はそんな記録、信じちゃいない。シアラ、きみにだけは話さなきゃらならない」

 ルカが悲痛な表情をわたしに向けます。

「ザビール様は嘘をついている。ザビール様は暗殺の現場にはいなかったんだ。ザビール様はセルジェクの死も、死体も見ていない。でもザビール様は確信してる。セルジェクが生きているって。ザビール様の犯罪の証人はまだ死んでないって」

「ちょっと待って──」

「ぼくは子供のころ、かれを見たよ。ザビール様から暗殺をけしかけられているセルジェクを。ザビール様は悪賢いんだ、ぼくらが考えているよりずっと。サリア様がセルジェクに書き送った書簡だってザビール様は押さえてる。いざという時に備えて」

「ザビール様が陰謀に加担したって、本当のことなの? なぜ黙ってたの?」

「いえるはずないじゃないか。ぼくはザビール様の従士だもの。それに、それに、正しいことがなされたんだ。きみはいったはずだよ、あの魔王を殺したのがルーウィーなら、わたしは自分の血を誇りに思うって。ぼくらは誇るべきなんだ」

「ちょっと、ちょっと待って」

「シアラ、噂は真実だ」

 むかし、セルジェクというルーウィーの若者がお城にいた──それは本当のことだとルカはいいます。

 どういうきっかけか、セルジェクはトーラ家の姫、サリア様と恋に落ちた。サリア様はふたりの子を授かりさえした。

 その事態に兄君のファジオ様は激怒した。その怒りは、サリア様のお腹の子を堕胎させるだけにとどまらず、ルーウィーの迫害を決断させるにいたった。

「サリア様は、ファジオ・トーラを止めなくちゃならなかった。無実のルーウィーがたくさん殺されているのは、元はといえばサリア様の恋がきっかけだ。サリア様は責任を感じてらしたんだと思う。ザビール様は、そこにつけこんで、サリア様に力を貸した。セルジェクをカスケスの城にかくまっていた。あのひとはファジオ・トーラを憎んでいたからね」

 そうして、暗殺が起きたのです。ファジオ様はセルジェクの短剣によって斃れました。セルジェクは船で国外に逃がす──そういう手はずでした。

「しかしザビール様は、サリア様の手前、そういったにすぎない。本当はセルジェクを殺してしまうつもりでいたよ。口封じのために」

 その思惑はサリア様に見抜かれていた、とルカはいいます。

 サリア様はセルジェクをザビール様に引き渡さず、地下牢に隠している──。

「愛していたから?」

「それもある。けどサリア様はね、ザビール様を信用してらっしゃらないんだ。ザビール様に好き勝手させないために、生き証人としておさえてらっしゃる」

 ルカが顔をあげたとき、わたしは嫌な予感がしました。

「ぼくらは、確かめる必要がある」

「いいえ、ルカ──」

「かれは、セルジェクはすべてを知っている。かれの存在はまずいよ。露見すればザビール様は失脚する。サリア様だって危い。実の兄を殺した男を隠して、逢引きしてた。そんなことが知れたら──」

「いや、わたしは──」

「きみだってよくわかってるはずだ。サリア様の急激な改革を喜ばない連中がいる。おもにロマ教会を支持母体にした一派が力を盛りかえしてる。いまセルジェクの存在が表沙汰になったら、サリア様はやつらの餌食だ」

「わたし、わからない」

「確かめるだけだ。シアラ、きみは地下牢の鍵のありかを見たんだろ?」

「いいえ、見てはいない」

「きみなら、サリア様の寝室に出入りできる、そうだろ?」

「もういくわ」

 立ち上がったわたしの腕を、ルカが乱暴につかみました。

「はなして」

「サリア様を守りたくないのか? サリア様がいなくなれば、ぼくらは終わりだ。ルーウィーの暗黒時代をまた見たいのか? ぼくは頑張ってきたつもりだ、きみだって必死に生きのびたはずだ。それを全部無駄にしたいのか?」

「できないのよ、ルカ。できないの」

「やるんだ、やらなくちゃ」

 荒々しく手を振りほどこうとするわたしを、ルカは優しい抱擁で押さえ込みました。かつてないほど優しく、暖かく、わたしの心にあいた穴にすべりこみ、たちまち満たすようなルカの声が耳元から流れこんできました。

「ぼくらだけの問題じゃない。みんなのためにやらなくちゃ。すべてのルーウィーのために。ぼくらの子孫のためにも。きみは気づいてる。聡明だから。やらなくちゃいけないことを知っていてやらないのは、知らないでいることより罪深い」

 血管が広がり、血流がしぶきをあげて、ルカの言葉を肯定しています。噴き出した鍋みたいに鳴る心臓がわたしをせきたてます。太古から脈々と流れる血が頭痛となり、さざ波となり、ルカの声を借りて「やらなくちゃ、やるんだ、やるんだ」。エステルの声を借り、わたしの父と母と兄の声を借りて「やれ、できるさ、やるんだ」。わたしの先祖、コライコ神まで連なる先祖の叫びが指の先まで響いています。やれ! やれ! やれ!

「できないよ、ルカ、無理なの」


 それなのにわたしはやったのです。血の叫びなんて、嘘です。なんの理由にもなりません。わたしは自分の頭で考えることができたはずです。それなのに、やったのです。これについては思い出したくもありません。

 わたしは大広間の掃除に出向き、侍女たちの目を盗んでサリア様の寝室に忍びこみました。あやしまれもしませんでした。できるだろうか、わたしに。と思って奥歯を噛み締めました。あれほどわたしを苦しめた頭痛が、嘘のように静まっています。寝室に入ってからは別人のようでした。用箪笥を開き、引き出しをひとつひとつあらためました。指が、生まれながらの盗賊のように素早く動きました。一番下の引き出しが二重底になっているのに気づいても気持ちは平静でした。わたしは鍵束を見つけてそれを袖口に隠しました。

「あなたは盗むのですか?」

 サリア様がお尋ねになったこの部屋で、わたしは泥棒になったのです。

 大広間に戻り、掃除を続けました。鍵束をたもとに入れていた時の方が、落ち着いていたくらいです。掃除道具を片付けると、すぐに御殿を出て、ルカと打ち合わせておいたとおり、厩舎へ向かいました。待っていたのはルカだけではありませんでした。

「待ちかねたぞ」

 ザビール様が、ルカの他に四人の従士を連れておいでです。かれらはわたしを取り囲みました。全員、帯剣していることにわたしは気づきました。

「鍵は?」

「持って参りました」

 わたしはザビール様に鍵束をお渡ししました。

「よし、いこう」

 ルカがわたしを置いて立ち去ろうとするので、大声を出していました。

「ルカ!」

 なぜ呼び止めたのでしょう。かれらのやることはわかっています。西門の責任者とは話がついるのです。かれらはサリア様の了承を得ていると鍵をちらつかせ、目的の牢獄まで直行し、セルジェクを──ルカはかれを見つけてデルロイから脱出させるとわたしに説明しましたが、ザビール様がそれを許すとは思えません。おそらく殺すのです。これ以上、なにを話すというのでしょう。

 わたしは自分が、あまりにみじめだと感じていました。せめてルカに、「そうじゃない、きみはよくやった」と褒めてもらいたいような気がしました。

「平気だよシアラ。セルジェクは殺さない。かれはシディムを出るんだ」

「ザビール様は?」

「もちろん了承してくれた。今は話せない、いかなくちゃ」

 ルカが手を振りました。勇み立ってザビール様の後についていきます。いく筋にもなった馬の鼻息で、霧のようにかすむそのむこうに、ザビール様と五人の従士たちが消えていきました。薄暗い厩舎に取り残され、わたしは外の雪の白さが恐ろしいような気がして、しばらく立ちすくんでいました。

 わたしは厨房へいそぎました。わたしの分の仕事が残っているはずです。それを夕方までには綺麗に終わらせなくてはなりません。洗い物を前に袖をまくったところで、アナーリアが近づいてきました。

「シアラ、お前のことを聞いたよ」

 わたしはバネ仕掛けのように振り向きました。「なんですか?」

「おやまぁ、秘密にしておこうってのかい?」アナーリアの太い腕がわたしを抱きしめます。「いつでも戻っておいで。あたしがいる限り、ここはあなたの故郷なんだから」

 アナーリアの優しい素顔を見るのは始めてではありません。けれどこれほど情愛に満ちた彼女をわたしは知りませんでした。

 わたしの戸惑いはますばかりです。

「あの……」

「ここはいいよ。それより、貯蔵庫へいって野菜の在庫を数えてきておくれ。エステル!」

「はい」

 エステルが疾風のようにやってきて、わたしの腕をつかみます。貯蔵庫に入り扉を閉めると、エステルはわたしの手をぎゅっと握りました。

「お願い、断らないと約束して」

「なにを? どうしたの?」

「シアラ、事情が変わったわ。わたしたち城を出るの。夕方にここを発つのよ」

 驚いたのとあきれたのとで、わたしは口がきけませんでした。

「イーライの一族がわたしたちに、旅に加わってもいいって。かれらはデルロイ市内に留まってるの。アナーリアがサリア様に話を通してくれた。もちろん、あなたも一緒」

「馬鹿いわないで、正気なの?」エステルの手をふりほどき、わたしは目をむきました。彼女の肩を揺さぶってやりたい気分でした。

 エステルはうなずきます。「わたしたち、船に乗るの。ダーヴ川を下ってオドマス市で下船するの。あとは町づたいに南下するんですって。シアラ、わたしたち南方へいくのよ。世界の巨富が集まる大都会、コロイを目指すの」

 エステルのはしゃいだ声が、一瞬、現実を忘れさせました。冬のない南の海と雪の降らない空。象と獅子をあがめる常夏の国。

「わたしはいけない」

「そんなことない」

「無理なの」

 魔法みたいに輝く瞳でエステルはわたしをのぞきこみます。「シアラ、あなたはわたしのことを親友だと思ってる。けどわたしは違う」

「どういうこと?」

「わたしにとってあなたは、友達なんてもんじゃない、仲間よ。いいえ、血族、家族だわ」

「わたしに放浪なんてできない。歌も踊りも、何もできないもの」

「でも読み書きができる。計算ができる。あなたは物事を工夫する知恵がある。イーライの一族はあなたを欲しがってるのよ? それにどのみち、あなたは断れない」

「なぜ?」

「ルカが一緒にいくんだもの」いぶかしむわたしに、エステルは笑顔で答えました。「ルカと、もう一人別のルーウィーが乗船するんですって」

「……もう一人?」

 わずかな空白を経てから、わたしの頭は急回転し出しました。

 ルカは本気でセルジェクの国外逃亡を助けるつもりなのです。

 ──あり得ない。

 ザビール様は、セルジェクを殺すおつもりです。最初からずっとそのおつもりだ、と他ならぬルカがいったのです。ザビール様はルカに嘘をいっている──あのお方はセルジェクを殺すし、悪くするとルカのことも──。

「まずいかもしれない」

「なに?」

「エステル、船には乗らないと約束して」

「どうして? シアラ、わたしたちイーライの一族を待たせてるんだよ?」

「ルカのところへいかなくちゃ」

 わたしは貯蔵庫を飛び出しました。どこかに誤算がありました。走って下女の棟を出ようとしたところで、顔見知りの侍女がしずしず歩いてくるのに出会いました。

「ちょうどよかった。シアラ、あなたを捜してたの」

「なんですか?」

「ずいぶんあわててるわね。それに、震えてる」

「なんでもありません」

「サリア様がお呼びよ」

「ええ、でも──」

「大至急ですって」

 わたしを見下ろす侍女の目に、さげすみが宿っていました。

 全身が凍りつきました。

「どうしたの? サリア様は礼拝堂にいらっしゃるわ。いそいでちょうだい」


 誤算がありました。なにか変でした。

 その正体にわたしは気づいていませんでした。正直にいえば、もうなにもわからなくなっていました。ただ、ルカを救わなくちゃいけない、ザビール様を止めなくては、という気持ちだけがせいていました。

「なぜ呼ばれたか、わかっていますね?」

「もちろんです、サリア様」

 聖人たちがわたしを囲んでいます。祭壇の高いところに、天主様の宿る宮が黄金で造られています。わたしとサリア様しかいない、無人の礼拝堂。丸屋根の内側に同じ模様が連続して彫られ、螺旋を描いていました。わたしの声は天井まで反響しました。

「アナーリアから、わたしが城を出るという話をお聞きになったのだと思います」

「ええ、でもそのことで怒っているわけではありません」

 心臓がろっ骨のなかで暴れて、今に胸を飛び出して聖堂のなかを跳ね回りそうに思われました。わたしは幼いころ、両親とともにたびたび教会で礼拝しましたが、これといった宗教的情感を抱いたことはありませんでした。それなのに、今は違います。何者かがわたしの嘘を見抜いていました。わたしの、ルーウィーの本能はそれを隠せ、隠せ、とせっつきます。

「わたくしは、むしろあなた方の旅路の安全をついさっきまで祈っていたくらいです」サリア様がほほえんでおられます。「わたくしが残念だったのは、あなたが直接話してくれなかったことです。あなたが出ていってしまったら、確かに寂しく思うでしょう。だからといって、あなたの決断にわたくしが異議を差し挟むと思いますか?」

「サリア様、わたしは地下牢の鍵を盗みました」

 小首をかしげておられるサリア様に、わたしはすべてを話しました。頭で考えなくても、言葉それ自身が事実をつむいで口から出てゆきました。それでいて、わたしの耳は自分の声を聞いていません。耳鳴りのような音をとらえていました。それは、悲鳴にそっくりでした。礼拝堂の外から聞こえました。わたしは青ざめていたと思います。けれど、サリア様のお顔ほど色を失っていたかはわかりません。サリア様はくちびるまで真っ白になっておいででした。

「あの男を牢から出したのですか?」

「わかりません、ザビール様が……」

 サリア様はわたしの手首をつかむと、わたしを礼拝堂の奥へと引っ張りました。窓のほうから騒々しい、なにかひどい混乱を思わせる音がしています。無数の人の声でした。礼拝堂には瞑想するための小部屋がいくつかあり、サリア様はそのうちのひとつにわたしを押しこんで、ご自身も入られました。扉を閉めると中は暗黒です。

「あなたは、とんでもないことをしてくれました」そのお声は、かつてあった邪悪と恐怖の存在をわたしに確信させました。サリア様はおびえておいでです。闇が、震え声に混入した恐怖をきわだたせていました。

「あの男を殺すべきでした、わたくしは何度も殺そうとしたのです。けれど、死んでくれなかった。最初にセルジェクがかれを殺そうとしました、実際、セルジェクはあの男を気絶させるほどの深手を負わせたのです。セルジェクは返り討ちにあって死んでしまいました。けれどあの男はまだ生きていたのです」

「サリア様?」

「しっ、静かになさい。声を立ててはいけません。あなたは、どうして地下牢の鍵の隠し場所を……ああ、あの時……」

 むらむらと悪い予感が胸にたちこめます。わたしは自分のしてしまったことをそれとなく知りました。空気がさっと変わったように思います。地獄の竃が開き、平和が滅び、あのなじみ深い恐怖がおとずれました。がたがた震える愚かなわたしを、サリア様が抱いてくださいました。サリア様の華奢な身体もまた、冷えきって震えておいででした。

「わたくしは深手を負って気絶したあの男を、自分の部屋へ運ばせました。今度こそとどめを刺すつもりで、口から毒を流しこんだのです。あいつは昏睡に落ちました、でも死なないのです。強靭な肉体に、執念深い魂を宿したあの悪魔は。埋めてしまおうと思いました。わたくしはまだ心臓の動いているあの男を棺に封じて、いそぎ葬儀を執り行いました。誰にも気づかれる心配はありません。いや、気づかれたとて、それがなんでしょう。あの男が狂っていたことは周知の事実なのですから。その夜、わたくしは衛兵を連れて墓穴を掘り返しました。あの男はまだ生きているのです。どうしても殺せないような気がしました。ああ、あなたはなぜ、かれをそのまま生き埋めにしておかなかったか、ふしぎに思うでしょう。信じてもらえるかどうか」

 うわ言のようなサリア様の声が途切れ、静寂がはりつめました。礼拝堂をかこっていた喧騒はいつのまにかやんでいます。あたりは不気味な無音でした。質感さえ迫ってくるような、息苦しい闇でした。

「血なのです。わたくしの子宮は若いころの堕胎で、もう子供をはぐくむ能力を奪われています。だとしたら、誰がトーラ家の跡取りを残せるでしょう。血が、一族の誇り高い血が、その断絶を許すまいとわたくしをあやつったのです。ああ、そんなことは言い訳にもならない。かれがくる」

 わたしはサリア様にしがみつきました。礼拝堂の扉がきしみ、足音が近づいてきます。

「サリア」思ったより若々しい声が響きました。「まったくお転婆な妹だ。おまえには本当に苦労させられる。出ておいで、サリア」

 その声は笑いをふくんでいて、さわやかで、英明にすら聞こえます。

「可愛がっていたルーウィーに裏切られたか。だからいったろう、やつらを信用するなと。やつらは生まれつき淫蕩で、不潔なのだ。放置しておけば必ず災いになる」

 ですが、まったくの無知でした。わたしは淫蕩であったことはありません。不潔であったことも。声の主は勘違いしています、その勘違いにもとづいて、これからも大虐殺を繰り返すのです。

「実際かれらは、おまえに反逆したではないか」

 わたしの血と、サリア様の血。ふたつの血を送る心臓が闇のなかで律動していました。

 不意に扉がひらき、わたしは初めてファジオ・トーラ様の顔を見たのでした。



 ──デルロイ司教より

 シディム主教へ宛てた手紙からの抜粋。


 わたしが到着した時、城には累々と死体が散乱していました。ファジオ・トーラはその一日だけで六十四人を殺傷したのです。敵も味方も、ルーウィーもなにもありません。手当りしだいに殺戮したのです。カスケス伯とかれの従士の死体もありました。世に轟いた剣の使い手、というファジオ・トーラの評判に嘘はなかったのです。

 そこはまるで死の展示場でした。ふたつのことをわたしは学びました。ひとつは、人はなかなか死なないものである、ということ。もうひとつは、人はあっさり死ぬものであるということ。猊下、わたしは首を切断されてまだヒクついている死体を見ました。反対に、目立った外傷もないのに、安らかな笑顔で横たわる死体もありました。いずれの死体ももはや人間ではありませんでした。人間の形をした、なにか別の物でした。わたしは死の回廊をめぐり、死体をまたぎ、血だまりに足をいれて先へ急ぎました。

 ファジオ・トーラの死体は胴体をまっぷたつにされていました。

 落とし格子、をご存じでしょうか。敵が攻めてきたさい、その侵入を防ぐために鎖と滑車で吊るされた巨大な鉄格子を落とすのです。ちょうど断頭台の刃が死刑囚の首をはねるように、ファジオ・トーラの胴体は落ちてきた鉄格子で切断されていました。驚くべきは、そうなってもまだ、かれが生きていたらしいことです。上半身だけのデルロイ候は、おそらく手で這いずり、落とし格子を操作した人物に最後の一撃を加えていました。

 その人物はまだ幼い少女でした。灰色がかった髪と淡色の瞳で、彼女がルーウィーであることは一目瞭然でした。その少女が、ファジオ・トーラをおびきよせ、かれを殺すために落とし格子の留め金を外したのであろうことも、現場の状況から明らかでした。デルロイ候が、憤怒と恐怖を半々にしたような形相で最後をむかえたのに対し、その少女の死に顔のなんと穏やかだったことでしょう。不適当を恐れず例えれば、まさしく天主のみもとにはべるという天使のようでした。

 彼女の名前を知りたいと思い、わたしは死体を引き取りにきたルーウィーの少女に訊ねました。少女は答えを拒み、ただこういいました。

「わたしたちの歌に耳をすませていてください。わたしたちは彼女の名前を歌い継ぐでしょうから」と。

 デルロイ女候サリア・トーラは腕を折られましたが、生きています。彼女が生きているうちは、デルロイはまだルーウィーたちの安息の地であり続けるでしょう。猊下、女候にたいするおとがめは、今しばらくの猶予をもってのぞまれますよう。でなければ、われわれはルーウィーの歌を聴くこともできず、小さな英雄の名前さえ知ることができないでしょうから。


おわり

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