第25話 緑の油。
「すみません。知りません……」
本当に知らないのだ。
そう答えるしかなかった。
ドラゴンは黙った。
その数秒が一生続かのように長い。
じっと俺を見つめる瞳孔が、さらに細くなった。
「ふむ。レイピアは嘘を好まぬからな……承知した」
ドラゴンは背を向けた。
「あの、もう良いのですか?」
俺の問にドラゴンは振り向かずに答えた。
「構わぬ。嘘をついたり、サイファの神官だったら、この場で殺していたがな。レイピアに感謝することだ」
「あの、その少女。どこかで会ったらお教えしますんで」
「ふっ。変わった男だ。よかろう。少女の名はルナ。もし、見つけたら我を呼ぶが良い」
ポトッ。
俺の目の前に青い石のネックレスが落ちた。
これで呼べという意味なのだろうか。
ブワッ。
雪が舞い上がる。
ドラゴンは大きく翼を広げると、バサバサという音をさせて飛び去った。
「はぁーっ」
ドラゴンが見えなくなると、俺とカリンは大きく息を吐いた。膝の震えが収まらない。
「生き残れた……ドラゴンって山で偶然に出くわすものなのか?」
カリンは手をバタバタと動かした。
「そんなわけないです。しかも話すドラゴンなんて、物語の中でしか聞いたこともないです」
どうやら、普通のドラゴンは話さないらしい。
「鹿も持って帰らないとな」
「ですね。イオさま、あれっ」
カリンは俺たちの斜め後ろを指差した。茂みの陰に角のある兎が転がっていた。どうやら、ブレスの巻き添えで凍ったらしい。
一角兎だ。
牙を剥き出して、長く鋭い角を俺たちに向けたまま氷の彫刻になっている。まるで、俺に飛び掛かる寸前の姿だ。
接近に気づかなかった。
「もしかして、俺、ドラゴンのお陰で命拾いしたのかな?」
「どうでしょう、でも……この鹿、解体できませんよ」
コンコン。
カリンは人差し指の角で鹿を叩いた。
俺たちは、氷漬けの鹿を見て、また、ため息をついた。
ピピッ。ピッ。
鳥だ。
ドラゴンが居なくなったから戻ってきたらしい。
俺は空を見上げた。
気づけば、空には雲一つなくなっていて、寒さも和らいている。
俺たちが困り果てていると、商人が通りがかった。馬車の荷台には、野菜が満載されている。
「あれぇ。シャルロット伯爵様のメイドさんか?」
「はいっ。それが、鹿を持って帰れなくて困っているんですぅ」
カリンが答えた。
疲れを感じさせない満面の笑みだ。
「アンタら、運がいいねぇ」
「どうしてですか?」
商人は山の峰から続く道を見つめた。
「大通りに魔物が出てね。今は仕方なく峠道を来たんだよ。ほんじゃ、乗っていくかい? 前にうちの娘がリリス様に助けられたことがあってなぁ……」
シャルロット家は、よほど領民に好かれているらしい。拍子抜けするほどあっけなく馬車に乗せてもらえることになった。
やはり、持つべきものは人格者の上司だ。
あっちの世界(日本)とは大違いだ。
それにしても、ルナか。
なぜ、ドラゴンが人族の娘を探していたのだろう。UTSSOにそんな設定あったかな。
********
シャルロット邸。
俺たちの前にはアイシャがいる。
カリンは身振り手振りだ。
「そ、それでですねっ。青くて大きなドラゴンがっ」
アイシャは俺たちを一瞥した。
「ふむ……、人の言語を理解するドラゴン……かなりの上位種ですよ? それこそ、皇帝まであげるべき案件」
「ほ、ほ、ホントなんですっ! ゴゴーって!」
カリンは熱弁している。
アイシャがこっちを向いた。
これ、絶対に俺に否定してほしがってるやつだ。
期待に応えねば。
「あの、あれは多分、少し大きめの青いトカゲでした……」
「あれ、どう見ても違うでしょ! むぐっ」
俺はカリンの口を塞いだ。
その様子を見て、アイシャはため息をついた。
「トカゲですか。そのトカゲは何と?」
アイシャの質問に、俺は答えた。
「探してる女の子を知らないと言ったら飛んでいきました」
俺の答えにアイシャは微笑んだ。
「なるほど。では、リリス様に報告する必要はなさそうですね」
アイシャは、どうやら皇帝にリリスとの接点を持たせたくないらしい。
「鹿も捕まえました」
俺は緑油を受け取った。
瓶を傾けると、黄色い液体がチャプンと音を立てた。俺が知っているオリーブ油とよく似ている。
これなら石鹸の材料になりそうだ。
俺とカリンは厨房へ移動した。
無駄遣いしたら、本気でクビになりかねない。
(なんとしても、一回で成功せねば)
俺が1人で気合いを入れていると、カリンが瓶の蓋を開けた。
「……ちょっとだけね?」
なにやらクネクネしながら渡されたのが気になるが、俺は灰汁と受け取った緑油をそれぞれ温めた。
(たしか、適温は人肌くらいだったかな?)
そして、2つを混ぜてコネコネっと。固くなってきたら、容器に入れてしばらく放置っと。
数日後、めでたく初代固形石鹸が完成した。
カリンは石鹸を手に取って、スンスンした。
興味津々らしい。
「イオさま。これ凄いです。手で持てるし臭くないっ!! さっそく使ってみてもいいですか?」
キラキラ笑顔の純朴系美少女メイド。
なんだか分からないが、こう……フェチ心に来るものがある。10代の頃は、こういうのには特に趣味ではなかったのだが。アラサーになってから、年下を可愛いと思うようになった。
年頃男子には刺さるのかも知れない。
カリンは石鹸を水につけて泡立てると、顔をゴシゴシあらった。そして水に流して……。
「イオさま。これ凄いですっ。顔の汚れがサッパリ……って、ピリピリして痛いよぉぉ。えーん」
カリンは泣き出してしまった。
その顔はみるみる真っ赤になって、火傷のようになった。
こんなことになるとは。
エルフの血で、カリンのお肌はデリケートなのかもしれない。
やばい……。
女の子の顔に火傷させてしまった。
心底あせった。
もはや、責任をとって結婚するしかないかも知れない。
「ご、ごめんよ。い、いまヒールするから」
ヒールをかけると、カリンの顔はみるみる綺麗になった。
(ほっ……)
や、ヤバかった。
婚約したなんて言ったら、イーファが発狂しそうだし。
この世界にきて、いま、俺は最高にレイピアに感謝している。
駄女神様……マジありがとう!!
それにしても、何故うまくいかなかっただろう。なにせ当時の俺は保育園児だったからな。
正直、アホの子だった。
忘れたのではなく、そもそも理屈を理解していない。
考えろ……。
はじけろ。俺の若い転生脳細胞。
ん?
何やらカリンの口が動いている。
唇が紫になっている。
「カリン、何食べてるの?」
「ブルーベリーですけれど。ピリピリで失われた潤いを補給するのです」
「あ。そう」
なんかこいつ、マイペースで、行動が本当にイーファに似てる。
っていうか、今の問題は固形石鹸だ。
なにせ、緑油が数量限定だからな。次がラストチャンスだ。
どうしたらうまくいく?
考えろ。
んー。
ピリピリ?
——そういえば、渡貫に温泉土産のフェイスソープをあげた時に……。
『先輩っ。これ弱酸性でお肌に良いんですよ!』
そう言ってたっけ。
なら、きっと。
この石鹸はアルカリ性が強いのか。
あっ、思い出した。
「お母さん、灰汁を入れすぎちゃったみたい」
母さんはそれで一回、失敗したんだ。
リトマス試験紙があれば……。
直接にpHを確認できるのに。
脳裏に紫キャベツの姿がよぎった。
リトマス試験紙の作り方なら分かる!
理科で作ったことがあるぞ。
実験では皆、紫キャベツで作ったが『紫色なら何でもいい』とか言ってナスで作った変人がいたっけ。
「イオさま?」
視線を戻すと、カリンの唇が目に入った。
ブルーベリーの果汁で紫になっている。
もしかしたら。
俺はカリンに手を伸ばした。
「おい、その手に持ってるブルーベリーよこせ」
カリンはブルーベリーを守るように後ずさった。
「ふぁい? い、いやですよぉ。これ、わたしの半月分のお給料なんですから」
コイツ……。
給料半月分をスナック感覚で食べるなよ。
「成功したら、最初の石鹸をお前にやるからさ」




