マティアスとギゼラのひと時……開戦前
プロメテウスは成層圏を静かに運行していた。
地球の大気が薄れ、蒼と黒の境界が広がる高みで、母艦の外殻が微かな振動を響かせている。
艦内の休息室では、柔らかな照明が壁を照らし、穏やかな空気が漂っていた。
マティアス・クロイツァーは窓際に立ち、銀髪を揺らしながら地球を見下ろしていた。
手には陶器のマグカップが握られ、コーヒーの湯気(何故かやたら甘い匂いだ)が立ち上る。
目の前には空中投影パネルが浮かび、古い小説のページがデジタルインクで映し出されている。静かな男の瞳が、文字と地球の青さを交互に追っていた。
「ウム……良い眺めだ」
小さく呟き、マティアスが砂糖5杯入りのコーヒーを啜った。
苦味と熱と糖分が喉を通り抜け、僅かに肩の力を抜く。
疲れた脳には、糖分が染み渡る。
だが、その穏やかな瞬間を切り裂くように、部屋の反対側から乱暴な声が響いた。
「アーハハ! もう一本いくか!」
ギゼラ・シュトルムがソファにふんぞり返り、金属製のボトルを煽っていた。
金髪が乱れ、凶暴な顔に笑みが浮かぶ。
彼女が飲んでいるのはアルコール抜きの合成飲料───酔った気分になれるだけで、本物の酒ではない。
戦闘の緊張を解くための、彼女なりの儀式だった。
「ったく、マティアス! あんたってほんと地味だよなぁ。コーヒーなんぞすすって、じいさん臭ぇぜ!」
マティアスは振り返りもせず、淡々と返す。
「酒を飲まなくとも、頭は冴えている。それで十分ではないかね?」
「ハッ! つまんねぇ男だよ、まったく!」
ギゼラがボトルをテーブルに叩きつけ、笑い声を上げる。
酔ったギゼラは、口は悪いが、単に素直なだけだ。その証拠に、随分とご機嫌な顔をしている。
休息室に二人の声が軽く響き合い、一時の平穏が続いた。
だが、その瞬間───マティアスの手がマグカップを持つ動きを止めた。
鋭い視線が窓の外へと向けられる。
地球の弧が美しい曲線を描く中、彼の感覚が何かを捉えた。
「……何か、来ている」
ギゼラが眉を上げ、ボトルを手に持ったまま振り返った。
「はぁ? 何だって?」
「空気が変わった。こちらを狙う視線がある」
マティアスが静かに呟き、空中投影パネルを指先で消す。
コーヒーをテーブルに置き、窓に近づいて成層圏の闇を見据えた。
ギゼラが立ち上がり、肩を鳴らす。
「視線? あんた、詩人になったつもりかよ? 何かいるならセンサーで分かるだろ。あらゆる種類のセンサー積んでんだからさ」
「センサーでは捉えきれんものもある。気配だよ、ギゼラ。長い戦場暮らしで得た勘だ」
その言葉に、ギゼラの笑みが消える。
彼女もまた戦士だ。マティアスの勘が外れた例を、ほとんど知らなかった。
「……マジかよ。なら、さっさと確認した方がいいねぇ」
「うむ」
マティアスが頷き、通信機に手を伸ばす。
「艦橋、マティアスだ。周囲の状況を確認しろ。何か異常があれば即座に報告を」
通信機から返答が返る前に、彼の視線が再び窓の外へと戻る。
成層圏の静寂の中、何かが蠢いている───その確信が、彼の背筋を微かに緊張させた。
マティアスの言葉が響いた後、ギゼラの表情が一瞬固まっていた。
豪快な笑みが消え、額に冷や汗が滲む。
汚れの染み付いた手がテーブルのスイッチに伸び、合成飲料の「酔い信号」を遮断する。
カチッ。
電子音と共に、脳に送られていた酔いの感覚が途切れ、ギゼラの瞳が一瞬で鋭さを取り戻す。
「……マジかよ。アンタの言う通りだ、背中がザワついてきた」
ギゼラは立ち上がり、ボトルを乱暴に置く。
マティアスはすでに通信機を置き、動き始めていた。
「格納庫だ。機体を確認する」
「了解だよ、じいさん! 何か来るならぶっ潰してやる!」
ギゼラが肩を鳴らし、二人は休息室を飛び出した。
廊下を走る足音がプロメテウスの静寂を切り裂く。
成層圏の母艦が、微かに緊張の空気に包まれ始めた。
~~~
プロメテウスの格納庫には、出撃を告げるアラートがけたたましく鳴り響いていた。
急な警報にも関わらず、メカニックたちは見事な練度でストラウスとウェイバーの最終チェックを進めている。
マティアスは愛機『ストラウス』の脚部装甲に手を触れ、静かに息を吐いた。
成層圏という死の空域。そこに潜む得体の知れない気配。
彼の長年の戦場経験……「勘」とも呼べる第六感が、今回の敵はこれまでの連邦兵とは次元が違うと告げていた。
「じいさん! アタシのは準備できたよ!」
「うむ。こちらも───」
マティアスがギゼラに頷きかけたその時。
紳士は背後の通路から、微かな、しかし確かな「熱」を感じ取った。
足音はまだ聞こえない。
だが、空間を焦がすような研ぎ澄まされた殺気が、格納庫へと真っ直ぐに向かってくる。
((……この気配。来たか))
マティアスは口元に微かな笑みを浮かべた。
戦場に身を置き、生死の境界線を幾度も彷徨いながら、彼が十五年という歳月をかけてようやく身につけた『殺気の察知』。
それを、背後からやってくる若者は、生まれ持った天性の才と野生の勘……『ネクスター』としての異常な素質だけで、すでにこの領域に達しているのだ。
「来てたか! ギゼラ、マティアス!」
通路から飛び出してきたのは、息を弾ませた烈火・シュナイダーだった。
その後ろから、兎歌も小走りでついてくる。
二人とも、すでにパイロットスーツのジッパーを首元まで引き上げていた。
「アラートより先に気づくとはな。さすがの勘だ、烈火」
「マティアスもな。……嫌な匂いがしたんだ。ただの東武連邦の鉄クズじゃねえ、もっとヤバいもんがこっちを見てやがる」
烈火の瞳には、すでに野獣のような闘争本能が宿っていた。
マティアスは静かに頷き、自身の愛機を見上げる。
「同感だ。敵は姿を見せていないが、距離は近い。おそらく成層圏───宇宙と空の境界線だ。油断するなよ」
「ハッ、上等だ。どんな化け物が来ようが、ブレイズで真っ二つにしてやる」
烈火が獰猛に笑い、ブレイズのコックピットに向かおうとしたその時───。
背中から、ドンッ、と柔らかな衝撃がぶつかった。
「……ッ、兎歌?」
振り返ると、兎歌が烈火の背中に強く抱きついていた。
豊かな胸の感触がパイロットスーツ越しに伝わってくる。彼女は顔を烈火の背中に押し当てたまま、小さく震える声で言った。
「烈火……気をつけてね。わたしもすぐ、リリエルで出るから」
「バカ、そんなに震えてちゃ操縦桿も握れねえぞ。
お前は俺の背中だけ見てろ。俺が全部、ぶっ壊してやるからよ」
烈火はぶっきらぼうに言いながら、腰に回された兎歌の小さな手を、自身の大きな手でポンポンと叩く。
その不器用な優しさに、兎歌は顔を上げ、桜色の瞳を潤ませながら強く頷いた。
「うん……! 絶対だよ!」
兎歌が腕を離すと、烈火はニヤリと笑い、リフトを蹴って跳躍した。
軽々とコックピットボールへ飛び乗る烈火の姿を、兎歌は祈るように見上げる。
暗い格納庫の中で、ブレイズのメインカメラが獰猛な赤い光を放ち、プラズマリアクターの重低音が鼓膜を震わせた。
成層圏の静寂を破る戦いが始まるまで、残りわずか。
未知の力を持つ少女リエンと、漆黒の宇宙から迫る巨大な影が、プロメテウス隊の前に立ち塞がろうとしていた。
次回予告
激突する、実験台の少女と烈火
きみは、おんなのこをころせるかい?




