4.
俺は、すみれさんを見守り続けた。
新田は、俺がなにかするまでもなく報復を受け、そして評判は地に落ちていった。
しかし、新田が無意識とはいえ、実は盾になっていたことを、その後俺は知ることになる。
不思議なことに本人は気づいていないけれど、すみれさんはとても好かれやすいのだ。それも厄介なタイプの人間に。
彼女を煩わせるものがないように心を砕いてきた結果、すみれさんはなんとか無事に卒業した。
卒業式では本気で泣きそうになった。学年が違うのはもどかしいことだ。
一年間も彼女の様子がほとんどわからない日々が続くことは恐怖だった。
彼女の住む隣県へ赴き、バイトに明け暮れるその様子を見守ることにした。
すみれさんは街中のパン屋で週に四回働いているが、まだ高校生だった僕が彼女を見つめられるのは週に2回しかなかった。
養父母には、隣県の塾に通うと告げた。実際、この街とは違う、レベルの高い塾があるので不審には思われなかったと思う。
また、頭には自信があり、受験への不安はなかったが、実際に午前中は塾で勉強をしたり、大きな図書館でさまざまな本を読んで過ごしていた。
知らない時間がほとんどなので、彼女が泣いていないか、危ない目に遭っていないか、いつでも心配だった。
しかもそれは杞憂で終わらなかった。ときには危険な人間を排除したりもした。
すみれさんは無防備過ぎる。だから、変な人間ばかりが寄ってくるのだ。――もっとも、俺が言えたことではないのだが。
やがて協力者も得られた。声をかけてきたのは向こうからだった。そして、知らぬ間に俺のいろいろなことが変えられてしまった。
一年後、俺はすみれさんの後輩になった。
見た目が垢抜けたら、知らない女が寄り付いてくるようになりとても不快だった。
大学ではなるべく帽子に眼鏡をかけて、髪の毛もセットせず、だらしない格好で行くようにし、極力目立たないようにしていた。
それからさらに数年が経ち、俺たちは恋人同士になった。
そんな日がくるなんて思ってもみなかったことだ。
一度、告白を断られたあとから、俺の中でのすみれさんは守るべき対象であり、その隣に自分が並ぶことはなかなか想像できなかった。
そうあれたら幸せだとは思う。でも、その映像がどうしても浮かばなかったのだ。日々、彼女の生活をひっそりと手助けできていることに満足していた。
運命のあの日、俺はいつもように喫茶店で待っていた。
彼女の生活は規則正しい。おそらくあと17分でこの店の前を通るだろう。
それまでに腹ごしらえしておかなければ、と、俺はフルーツサンドを齧った。
彼女がこの店の前を通るとき、決まってフルーツサンドの写真が載った看板を凝視しているのを知っている。いつか一緒に食べられたら幸せだと思う。
この店のフルーツサンドは絶品だ。
生クリームがくどすぎないし、中に入っている果物は、マスターが懇意にしている農家から仕入れたもので、口に入れるとやわらかく、ジュワッと果汁が染み出すのだ。
それから砂糖をたっぷり入れたレモンティーを飲む。
ところが、今日の彼女は違った。あれから10分で家を出てきてしまった。
背筋をぴんと伸ばして、なにか吹っ切れたように颯爽と歩いている。――どうしてだろう、いつもと表情が違うように見える。まるで違う人間になってしまったかのように。
慌ててレモンティーをごくごくと飲み干すと、急かすように会計を済ませて店を飛び出した。
道のずっと先、交差点に彼女の後ろ姿が小さく見えた。
彼女が変わってしまう! それは直感だった。
誰かに盗られる前に俺が捕まえなければ――。そう思ったら思わず彼女に声をかけていた。
彼女の隣に並ぶつもりはない、と考えながらも、これまで、いつか彼女に出会えた時のためのシミュレーションを頭の中で何度も何度も繰り返していた。
ところが、俺の口から飛び出したのは練りに練ったセリフではなくて、陳腐な本心だった。
「美しいあなたによく似合う」
すみれさんの瞳が大きく見開かれ、その中に俺が映り込んでいた。それは言いようのない幸せで、――もう絶対に逃さない。俺は、そう決めた。
-雛芥子の章・完-