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教本を終えたなら旅立ちの時です


「兄様」

 鈴を転がすような声音。

「……雪花(つもり)

 館の廊下。

 すらりとした印象の端正な男が先を歩いていたのを、後ろから儚げながら芯を感じさせる麗しい乙女が呼び止めている。

 乙女は真黒な髪を長く長く伸ばし、歩くに不自由しない程度の長さに調節する様に……しかし、美しく結い上げていた。

 月白に卯の花色を重ねた衣は、色白な面に良く似合っている。

 対峙する男は乙女より幾分か年上で、若さゆえの潔白さを感じさせる端正な面持ちに意志の強そうな瞳が配され何とも凛々しく瑞々しい。

 纏う衣は、青磁。

「上様がお望みの存在(もの)は見つかりまして?」

 妹であろう乙女の言葉に、男は生真面目に眉根を寄せた。

「手段の模索中だ」

 ふ、と小さく息を()く姿に、乙女は気遣わしげに微笑む。

「御無理なさらず。私も我が背の君も、兄様の手足となりますれば」

「……すまん」

 何処迄も生真面目な其の様子に、乙女は柔らかく微笑む事しか出来なかった。






 さて。

 春香は炊きあがった米を満足げに口に運びながら思った。

 最近、なんだか周辺が不穏な気がする。

 もぐもぐと咀嚼しながら小皿からおかずをつまみ上げ、口内へ放り込む。

 爽やかな酸味が口一杯に広がり、本来生じるであろう凄まじい迄の鮮烈な感覚は予め口に含んでいた米の甘味に因り絶妙な塩梅へと変化していた。

 ごくん、と飲み下し、茶を啜る。

 はあ、と満足の吐息が春香の口から無意識に漏れ出た。

「やっぱり、白米(ごはん)と梅干しって、最強にして最高の組み合わせだよねえ」

 しみじみと年寄り臭く呟く癖に、箸の運びには年相応の勢いが見える。

 がつがつと云っても良い勢いだが決して下品に見えずいっそ微笑ましい風情に思えるのは、春香の雰囲気と云おうか気配と云おうか徳と云おうか。

 此の際、梅干しが葡萄みたいに房になって蔓からぶら下がっていた事など些細な事だと春香は誰にともなくさっくりと断じた。

 発生状況が異なっても、春香にとって食料であることは揺らがない。

 それにしても、と、春香は食器を片付けながら思う。

 先日から心に引っかかる何か。

 頭の片隅でに朧に(かたち)をとる其れ。

 現状通りとはいかないが、確かに何か類似する事柄を記憶していたと、春香の知識(きおく)が囁いているのに、其れが全く明確に姿を現さない。

「なんだろう……」

 ある意味異常極まり無い、童話のような世界。

 当初抱いた春香の此の世界に対する印象は、今もさして変わってはいない。

 そう云う児童文学(おはなし)を昔読んだと云うだけの事なのかしらん?

 ありそうだ、とひとりごちる。

 不思議の国のアリスにヘンゼルとグレーテル。其れに養老乃瀧。

 東西問わず、食べ物が関係する不可思議な世界の話はとても多いのだから。

「とりあえず」

 洗い拭いてしまって。

 一通りの仕事を終えて、春香は呟いた。

「散歩に行こう」

 外は相変わらず()い天気で、陽は暖かく風は爽やかだ。

 其処で、春香はそうだと手を叩く。

 最近手に入れた肌触りの()い布(……と云う名の莫迦でかい草)で作ったブランケットを持っていこう。そうしよう。

 うんうんと頷きながら、いつもの袋と呼んだ方がお似合いのバッグに厚手の布で作った携帯用敷布と飲み物、作り置いてあったお菓子を少し包んで放り込んだ。

 いつもは午前中だけのんびり歩くだけなのだが、今日は午後までまたいでのんびり森で過ごそうと、春香はいつもよりやや膨らんだバッグを斜に掛け、東屋を後にした。

 其れが此の後に最良の結果に繋がる等思いもよらぬまま、春香はお気楽に森を歩き、うーんと一つ伸びをした。

 木漏れ日は心地よく、風は爽やか。森の通常運行に、春香は満足気に目を細める。そぞろに歩く事は、嫌いな性質(たち)ではないのだ。気の向くままに歩いていると云うのに、春香は(ここ)で迷った事が無い。彼女は、ふらりふらりと気の儘に歩いてもある程度の方向が解り、己の足跡を戻る事が出来た。……其れは、此の珍妙な世界に迷い込む以前から春香が有していた、他人に誇れる特技だった。

 森は、春香が知るどんな森より明るかく、じめじめとした地面等臭いすら感じられず何処であろうとある程度の日が射し込んでいる。石を捲れば初めて此の地に来た時同様何とも珍妙な生き物を目にする事が出来るが、普通に歩いたり森の恵みを採取している限り、生き物の姿を目にする事はなかった。あまりにも清潔な空間は異様ではあるが、町に住む現代っ子である春香はさしたる疑問も抱かず、逆に其の環境を満足しきりで謳歌している。

 四阿へ足しげく来訪する貴種の面々は、端正な美貌にそれぞれの笑みを浮かべ、まるで昔語りの悪魔達が純朴な村人を唆す風情で、外を見たくないか、存在(もの)を識りたくはないのか飽きもせずに囁くが、春香は外なぞ見たくもないし、知りたいのは結局の処自身に関わる諸々の存在であって此方の事等ではない。

 見聞し知識を得る事は、同時に恐怖をもたらす存在(もの)――――――春香は、本能のレベルで其れを察している。

 恩恵(たまう)の無条件の許しや、眺望(みはる)の隠さない好奇心は、春香が此処に落ち着くには必要な安定剤だ。安定剤(それら)が定期的に投与されるから、春香は健やかに此の世界で生きていけるし、恐れも無く森を散策できている。……尤も、春香自身の自覚は無いが。どんな揺す振りにも動じぬ春香の意思は此の世界に迷い込んでから終始一貫しており、揺るぎが無い。ある意味頑迷な其の己の心に忠実で裏が無い性格故に、貴種達は気兼ねなく春香の元を訪れる事が出来る。其れは、春香(とうにん)にとっては傍迷惑以外の何物でもないが、ざっくりと断じれば共生共存の域に達した関係で在ろうと云える。

 一般的に云う、腐れ縁、と云う奴だ。

 そんな何とも云えぬ人間関係ばかり構築していた春香は、今、現状を全て放棄した様子で森の空気を楽しんでいた。

 鞄に一杯に詰めた諸々を楽しみにしつつ、春香は何時もならば行かない方向へと爪先を向ける。相変わらず姿を見せない鳥の声に心を和ませつつ、其の足をふと目にした灌木の分け目へと向け、ふむと呟くと徐に通り抜け向こう側に出た。

 其処に在ったのは、綺麗に刈られた芝生が敷き詰められた小さな広場。

 おや、と春香は目を見張る。

 ぽかんと開いた其の空間は、敷物を広げるには非常に適した場所に見えた。丁度良いかと春香はいそいそと提げ袋から敷物やら食べ物やらを取り出し、良い塩梅に並べ始める。

 作られた食事はサンドイッチ。薄く切った食パンにバタを塗り、チーズやハムを挟んだ簡単な物だが、春香としてみればかなり頑張って作ったのだ。特に、マヨネーズで和えた卵を挟んだ卵サンドは、かなりの自信作だった。中に塩で揉んで良く水を切った胡瓜を細かく切った物を混ぜ込んだ此れは、料理と云う行為(もの)に対して決して高い評価を得ない春香がかなりの高評価を得る事が出来る稀有な食べ物だ。

 其れ等を目に入れつつ、持って来た冷茶をコップに注ぎ、春香はほうと息を吐く。程良い暖かさの日向に寝転がり、春香は持って来た本を開いた。

 潔斎(いつき)から貰った、料理本。

 簡単かつ興味深い献立(もの)をセレクトしてある此の本の御蔭で食生活は随分潤ったのだと自覚のある春香は、ある程度料理が出来る様になった今でも、定期的に本に目を通す様にしていた。

 だから。

 其れは、本当に偶然と云うか、思い付きだったのだ。

「……此の本って、誰が書いたの?」

 呟いてみれば、疑問は明確な姿を取って春香の内に厳然と生じる。

 解り易い作り方ばかりの此の本の作者ならば、多分に料理に通じる名人の筈だ。

 恩恵(たまふ)恩恵(たまふ)の背の君が料理上手とは聞いているが、おそらく此の本の作者は名人を上回る腕前の人だろうと、春香は何となくではあるものの断じていた。

 ぱらり、ぱらりと頁を捲る。

 一番最初か一番最後。

 其処が、作者の名前が書いてある定石だ。

 果たして、春香の目に、其の一文が飛び込んだ。


 至高(きわみ)


 文末に唯一文だけ記されていた其の文字に、春香は此れが此の本の作者であるのだろうと納得したのだった。






 木漏れ日満ちる森の中、徒歩で歩み行く希薄な一団が見える。

 一人は身分が高く。

 他は(とも)であるらしい。

 此の一団の主であろう男と(とも)との明確な違いは、頭から柔らかな(うすぎぬ)を被っているかいないか、だ。

 貴種であろう男の端正な容姿が、紗の向こうに朧に透かし見える。 生真面目な表情(いろ)を映す男は、森の木漏れ日を弾いて柔らかな光沢を放つ雪白の装束を纏っていた。潔斎(いつき)の様に洒脱ではないが、醇乎(ますみ)の様に派手ではない。敢て分類するのならば、眺望(みはる)の装いに近しいが、其の装いは何処か竜女の気配を感じさせる様な、僅かな奇矯さを有していた。尤も、其の奇矯さは彼自身から生じたものではない。断ずるならば、一族の長たる彼の親の趣味(いろ)だ。尤も其処に剥離は生じておらず、凛々しい目元に見える些かならぬ疲れも相俟って彼の生真面目な気質と容姿にとても良く似合っていた。……決して、喜ばしい評価では無かろうが。

 彼は、来た事も無い森の奥深くに些か緊張しつつも、其れを面に出す事無く歩を進めていた。本来であれば、生身で来るのが筋ではある。だが、状況が其れを許さず、彼は己を小さく分け、些か希薄な存在を作り出して名代として森へと向かわせたのだ。

 希薄な存在とは云え、彼は、彼だ。

 同じくする存在であるが故に、彼は強大な力を有し。希薄な存在であるが故に、彼は森での振舞いに枷を与えられない。強大な力を持つとは云え、此処迄希薄であれば、森での採集は無理だからだ。

 森は、己の内で思う儘に振る舞われる事を良しとしない。

 故に、力ある者は、常に森に注視されている。

 此の地で思う儘に振る舞えるのは、古の流れを身に有する一部の者だけであろうし、其の上思う儘に料理(じゅつ)を行使できるとなれば、其の存在は海辺の砂原の中に存在する砂金の様なものだ。彼は、残念ながら砂金では無く、砂粒であった。

 勿論ただの砂粒では無い。

 並み居る有力者の中でも、彼の親は力の強さでは最高位に在ると云っても過言ではないのだ。尤も、かつては天子の血筋であった者達の流れを其の身に有するとは云え、彼の一族は決して古い流れとは云えず、斯うして森では苦労する事になる。其の身分に相応しく……だが些か仰々しい数の(とも)は、示威目的では無く今回用いる手段の為に仕方無く用意した手勢だった。

 彼が目指すのは、此の先――――――森のほぼ中程に在ると云われる一軒家。

 (とも)を引き連れ、見た事も無い其の場所へと向かっていた彼が、ふと水気を感じ、形の良い(おとがい)を上げる。紗の向こうで黒い瞳が僅かに下ろされた瞼に隠れ、彼は僅かに首肯し、やっと其の眉の間の皺を僅かに伸ばした。






 ……凄い名前。

 目にしておいて呆れた様に笑った春香は、ごろんと其の場に寝転がり伸びた。

 煩わしい視線も無く、汚れの心配も無く、暖かな日差しと心地よい草の香りの中で寝ころぶのは、現代人の春香としては至福と云えるだろう。

 ああ、平和だわ。

 しみじみと心中で呟いて、春香は澄み渡った青空を眺め見た。視界に広がる空は、生地(せいち)である場所と全く変わらず、雲を内包し悠然と広がっている。

 サンドイッチをはむと食み、春香はぼんやりと遠くを見遣った。余りにも綺麗な空は、いっそ現実感がない。

 正直。

 春香は思う。

 事故で死んだ自分が、命冥加に夢見てると云っても納得できる景色だわねえ。

 呟きつつも、春香は其の可能性を心中で否定した。

 余りにも。

 そう、余りにも。

 此の景色は、美し過ぎて、妄想(ゆめ)と断じるには惜しい。

 ぱくりと、一口。口に広がる味は、記憶と何処までも一致していて、春香は満足の溜息を吐いて手をぱたりと広げて落とした。

 最近バタバタしていたなあと春香はしみじみ思う。頻繁な貴種の来訪もあって、春香は知らず緊張の中で生活していたようだった。だが、今は、誰も、いない。ふうと息を吐いて、春香は小さく微笑んだ。

 平和だ。

 平和すぎる。

 春香は、のびのびと手足を伸ばして光を享受した。

 其の刹那。


 ごん、と空間が鳴って、瑠璃の光が炸裂した。

 

 驚いた春香が其の場に固まったまま視線を投げれば、視界の中で瑠璃の一対が、何時の間にやら灌木の影から沸き出でた黒い靄の様な存在(もの)へ瑠璃の燐光を放っている。

 其の表情が余りにも皆無で。

 いつもの様子ではない……能面の様な幼い美貌は、瑠璃の光を受けていっそ凄惨ですらあった。

 靄は存外しつこい様子で、燐光を受けてすぐさま滅する癖に、じわりじわりと灌木の影から出てこようとする。小さな一対は其の様子に感情(いろ)の無い視線を投げ、お互いの小さな掌を合わせた。

 ぱん、と音が鳴り、靄が揺らぐ。

 合わさった掌の内から、瑠璃の奔流が生じる。

 ごう、と唸りを上げて生じたのは、瑠璃色に発光する、水の流れ。唸りを上げて靄が生じる根元を喰らい込む其れを見て、春香は小さく水龍と呟いた。

 ごうごうと靄を取り込み喰らい滅する水の流れは、清流から濁流へと変化していく。其の変化に嫌な物を感じ、思わず手を伸ばした春香の眼前で、水の流れが一条だけ本流から僅かに分かれ―――――――春香へ其の先端を向けて、ぺこりと小さく会釈した。

「す」

 水龍、と呼び掛け様とした春香の声音を妨げる様に、瑠璃の一対はお互いの手を合わせて柏手を打つ。

 一度。

 二度。

 そして、三度。

 音は紅葉の手から生じたとは思えない程圧倒的な響きを以て、空間を揺らし、水の流れを結晶化していく。

 大きく見開いた春香の目の前で、濁流と化さんとしていた本流へすうと戻る一条の清流が映り、そして、濁りを有したまま結晶化した水の流れが幼子から発せられた瑠璃の蛍火に食らわれ、消える。

 其れは、明らかな消失だった。

 唇を戦慄かせた春香の傍に、感情(いろ)の無い瑠璃の一対が近寄る。

 どうして、と声なき声で問う春香へ、瑠璃の一対は何の感情も見せぬまま、小さな手で其の目を塞いだ。

「―――――――主様の命に因り、百科が参りました」

「疾く」

 何処迄も無機な声音に春香が言葉を返すより早く、春香と瑠璃の一対は其の場から消え失せる。

 闇に閉ざされた春香の視覚が再び光を取り戻したのは、刹那の後。目を瞬かせる春香の視界に現れたのは、何処迄も品が良く全てにおいて上流の気配を放つ誂の良い部屋と、恩恵(たまふ)の美しくも凛々しい姿だった。

 屋敷の奥に設えられた部屋(ここ)は、恩恵(たまふ)の居室だと云う。

 沈黙を以てそう告げられ、春香は居住まいを正しながらも呆然とただ在った。些か状況が掴めない春香へ端的とは云え現状を告げたのは瑠璃の一対。

「きんきゅう、じたい」

 是と頷く瑠璃の一対を見つめ、言葉を噛み砕いているうちに、春香の思考が正常に回り始める。確固とした個を取り戻した今、再度周囲を見回せば、春香は此れ以上ないだろう危機に直面している己に気が付き頬をひきつらせた。

 落ち着いた風情の高雅な此の部屋(くうかん)は、如何考えても潔斎(いつき)恩恵(たまふ)の為に心血注いで築き上げた空間だろう。其の場に瑠璃の一対が居るとは云え、実質恩恵(たまふ)と二人きり。

 明らかに、死亡フラグが立っている。

「……大丈夫よ」

 春香の思考を読んだものか、唐突に響いた玲瓏たる声音。根拠等無いのだろうが、きっぱりと云い切り、恩恵(たまふ)は春香の目を見つめた。

 其の言葉だけ拾えば、生じた緊急事態に因る春香の不安を和らげようとする気遣いにも聞こえるが、此の世界で其れなりの月日を過ごしてきた春香の耳は、明らかにそうではないニュアンスを拾っていた。

 失礼を承知で視線を外し、瑠璃の一対を見遣れば、いつも通りのにこやかな笑顔。

 ―――――――此れって……

 嫌な予感に泣きそうになった刹那。

 春香の眼前に、後ろから突き付けられたのだろう白刃が生じた。ぎらりと光る其れは、実に実質的な角度で春香の首を狙っている。

 突如生じた冴え冴えしい輝きを認識するより早く、春香の耳元でくつくつと笑い声が響いた。心地よい美声が紡ぐ笑い声は、とても品が良いが如何聞いても正気には思えない。

「ボクの桔梗と見つめ合うだなんて、随分と剛毅だね」

 死にたいの、と詠う様に囁く声音には一欠片の容赦もなく、気配が無いのにも関わらず現れ出でた長身の美丈夫は、正真正銘の殺気を春香に叩きつける。

 はっきり言えば。

 戦争を知らない現代日本人が耐えられる状況ではない。

 其れでも恐怖に薄れ行く意識の中でぜんぜんだいじょうぶじゃない……!と心の内だけとは云え絶叫できたのは、今迄の生活で多少なりとも精神的に鍛えられた結果だったのかもしれない。

「……気絶してしまいましたね」

 ぽそり、と、恩恵(たまふ)が力の抜け切った春香の姿を見て呟いた。

 倒れ込む体を瑠璃の一対が支え、甲斐甲斐しく世話をするのを視界にも入れず、潔斎(いつき)はふわりと微笑みを浮かべた。

「桔梗。何をしたの?」

 何処迄も柔らかな微笑みにそぐわぬ声音で紡がれた問いに、恩恵(たまふ)はいつもと同じ視線を向けて呟く。

「常識を弁えぬ訪問は嫌いです」

「勿論」

 ふんわりと目元を和らげ、だが、蛇と称される事も多い独特の視線で、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)の言葉に頷いて見せた。

「勿論だよ。礼を弁えない存在(もの)に礼を返す謂れは無い。でもねえ、桔梗」

 にいと口元が引き上がる。

「彼の方の行いに、横槍を入れては駄目だろう?」

 潔斎(いつき)の言葉に、恩恵(たまふ)は何処迄も感情(ねつ)の無い視線をまっすぐに返し―――――――僅かに、口元を引き上げた。

「存じません」

 潔斎(いつき)が僅かに眉を引き上げ続きを乞えば、恩恵(たまふ)は僅かな笑みらしきものを浮かべたまま、そおっと言葉を吐く。

「森に頼まれ、異物を排しただけの事。隠棲の際、随分と我儘を通しましたので」

 庵を結んだり、貴方様やら父上様を通したり。と溜息交じりに呟き、恩恵(たまふ)はちろりと視線を春香へ投げた。

「森の竜女が此の度生み出した存在(もの)は、命の属性持つ稀有なる料理。今迄の料理(もの)とは格が違いましょう?」

「……そうだね」

 潔斎(いつき)が一瞬表情を無くし、次いで美しい微笑みを端正な顔に刷いて頷けば、恩恵(たまふ)はですからと視線を潔斎(いつき)に向ける。

義父(ちち)様と是非、会わせたく」

 くすり、と僅かに声をたて、恩恵(たまふ)が笑う。平素感情(いろ)の無い美貌に浮かんだ笑みは、紛れもなく獰猛な『楽』の感情だった。

 ぞくり、と潔斎(いつき)の背に何かが走る。

 其れは愉悦と云って良い感情(ねつ)。己が古の流れを汲む名家である事や、様々な趣味事に通じている教養深い達人である事の一切を潔斎(いつき)から押し流してしまう奔流の様な感情だ。

「……ああ……」

 熱の籠った吐息が、潔斎(いつき)の形の良い唇から洩れる。

 刹那。

 潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を腕の中に抱き込み、感極まった様子で可愛いと歓喜の叫びを上げたのだった。

 可愛い可愛いああ可愛い! 可愛い可愛いあな可愛いや!!!

 其れなりの時が流れる間、絶え間無く叫び続けられた可愛いの連呼に、倒れていた春香の目蓋がぴくりと動き、ゆるりと引き上げられた。

「目が覚めた」

 呟きは、専科。

 春香を介抱していた瑠璃の一対は其々に似合いの笑みを浮かべ、春香の視界に収まって映る。

「春香様のお目覚めです! 宜しかったこと!」

 百科がパチンと手を打ち鳴らして良かった良かったと嬉しそうな声を上げるのを聞いて、春香は小さくありがとうと呟いた。……正直な話。春香にとって目覚めの切欠が壊れたオルゴールの様に狂った様に同じ言葉を紡ぐ美声、と云う辺りは何処か物悲しいものがあったのだが、其処は年の功で表情に出さずに起き上がる事に成功する。

「……えと」

 キョロ、と視線を巡らせば、部屋の上座ではいつもの光景~潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を愛で倒し、恩恵(たまふ)が無表情に其れを寛恕している~が繰り広げられ、春香の傍には瑠璃の一対が座していた。

 式の様子に、恩恵(たまふ)の視線が流れ、其の視線の先を察した潔斎(いつき)がふと口を閉ざして春香を見遣る。

 にい、と笑みを浮かべる潔斎(いつき)に春香は慌てて跳ね上がる様に立つと、恐怖で小刻みに揺れる体をなんとか制御して礼をとった。

「ぶ、不調法を致しました」

 申し訳ありませんと謝罪する春香へ、恩恵(たまふ)は目線で大丈夫と伝え、己を抱き締める腕に繊手を添わせる。

 其の仕草に、本当に嬉しそうに笑い、潔斎(いつき)はぎゅうと恩恵(たまふ)を一度だけ強く抱き締めると、春香へ向かって鷹揚に良いよと笑った。

「云わなくてはいけない事があるからね。無駄な事はしないで、此方に来て座ってくれるかな」

 此方、と示されたのは、上座に相対する場所。

 瑠璃の一対が春香の体を支える様に先導し、何時の間にやら置かれた座布団の上へ座る様に促す。

 僅かに遠慮しつつ、春香が其処に正座すると、瑠璃の一対も春香を挟む様に真横に座った。いつもなら離れて控える一対の行動に春香は驚いた様に僅かに目を見開くが、其の反面、非常事態としか伝えられていない現状で尋常ではない殺気を叩きつけられたばかりの春香の不安をかなり軽減してくれた。

 安心した様に僅かに目元を緩ませる春香へ、潔斎(いつき)の何気ないが張りのある声音がかけられる。


「端的に云えば、君の事を(あるじ)様が御所望なんだよ」


 品の良い笑顔で告げる潔斎(いつき)の顔を一瞬茫然と見つめ、春香は僅かに首を傾けて呟いた。

「あるじ、さま」

 主、様。

 一気に感じが当てはまり、春香の頬が盛大に引きつる。まさかねと思いつつ否定して貰おうと春香が其の場全員へ視線を向けるが、視線(それ)に其の場の誰もが何とも云えぬ温度の感情を乗せた表情(かお)を向けており……。

 ぐはあ、と、春香は内心で盛大に吐血した。

「死ねと仰ってますか!?」

 思わず涙ぐんだ春香に罪は無いだろう。此の高雅にして力に不自由していない存在の主なぞ、春香が対面したい類の存在な訳がないのだから。

「中途半端に賢いと話が簡単になるね」

 朗らかな笑顔で言葉を紡ぎ、潔斎(いつき)は春香の言葉を婉曲に肯定した。

(あるじ)様は、今現在一番強い勢力を持つ有力者でね」

 一番

 有力者

 短い言葉に溢れる不穏当な言葉は、確実に春香の恐怖心を煽り。嫌ですと涙目で首を振る春香へ、瑠璃の一対が無言で其の背を撫で落ち着かせ様とするのをみて、潔斎(いつき)は困ったねえと呆れた様に息を吐く。

「大体、君があんな物作るから」

 あんなもの、と云われても、春香にはとんと想像もつかなかった。あんな物、と云う代名詞が指し示す物を脳内から検索しよう考え込み、春香は僅かに眉根を寄せる。

「命は、彼の君の好物だからね」

 ああ困ったねえと笑い、潔斎(いつき)は端整な顔に優美な苦笑を浮かべた。

 命、と云われて春香が強い怯えを見せた刹那。

「其の前に」

 恩恵(たまふ)が呟き、百科と専科が春香の顔を覗き込んだ。

「主様の命を受け、百科が申し上げます。春香様、属性、と云う存在(もの)を御存じでらっしゃいますでしょうか?」

「地、空、火、水。他にも沢山在るけれど、一等珍しいのは、(いのち)

  つらつら上げられた専科の言葉に、命?と内心首を傾げつつ、生命力とかそう云う事かと春香は僅かに眉を寄せつつも是と頷く。

 なれば、と百科は続けて言葉を紡いだ。

「此の地におきましては、属性は色に現れる事が多う御座います。地の力なれば赤、火の力なれば青。そして―――――――稀有なる力、(いのち)を有するのならば、黄」

 自分が知っている象徴の色とは随分違うなあと思いつつ聞いていた春香の耳に、ひそりと美声が注がれる。

「命はね、とてもとてもとても、強い力なんだよ」

 其れは潔斎(いつき)の言葉。僅かに毒を振りかけたような声音は、何故か透徹だ。

「はあ」

 如何やら自分が其の珍しい力らしい(それ)を扱ったらしいと判じ、春香はますます眉を寄せた。

 最近黄色い物なんて使ったか?

 綿飴は赤系統やら青系統のどんぐり飴を使ったし、干し柿は……黄色系統とは云えないだろう。

 うーんうーんと考え込み……春香ははっと顔を上げる。

ボンゴレ擬き(パスタ)、でしょうか」

「其の通り」

 良く思いつきました、とでも云う様に音の無い拍手をして見せ、潔斎(いつき)は春香の言葉に是と頷いた。

 でも、と春香は眉を寄せる。

 パスタ……スパゲティって、そんなに強い色じゃないよね?

 乾麺(スパゲティ)は確かに黄系統の色合いだが、決して強い色味ではない。

 春香の心中を察してか、潔斎(いつき)ははんなりと美しく品の良い笑みを浮かべる。……まるで、獲物を丸呑みにしようとする蛇の様な笑み。

「命の力を宿す存在(もの)は、君が思う程多くは無いんだよ。此の広い森の中で、其れ等を見つけるのは結構な苦労だ。なのに―――――――君、此方に来てすぐ、ほいほいと何個か見つけていたよね」

 潔斎(いつき)の指摘に、春香は更に記憶を掘り返そうとするが、其の間を待たず、珍しく恩恵(たまふ)が口を開いた。

「茶巾絞り、キッシュ」

 端的な其の言葉に、春香は一瞬遅れてぽんと手を打つ。

 確かに、森に迷い込んで早々、キッシュやら茶巾絞りやらを見つけて採取した気がする。そして、残念な事に其の後其れ等を見つける事は出来ていない。

「……貴重だったんですね……」

 しみじみと云う春香へ、潔斎(いつき)はまあねえと笑った。

「其の辺りの事は一切漏れてはいないけれどね。あれは下手(げて)だったよ」

 春香の些か状況を掴めていない様子に、潔斎(いつき)は僅かに目を細める。

「ボク達も軽率だったのだけれどね。まさか、あんな僅かな力を感じ取るとは思わなかったからねえ」

 はふと溜息を吐き、潔斎(いつき)は癒しを求める様に恩恵(たまふ)の頭を抱き寄せ、其の髪に頬を寄せた。

 其の儘愛でモードに入る潔斎(いつき)の姿に、春香は茫然と立ち尽くす。


 もしかして。


 私の存在がばれたのって、此の人達が原因じゃあないの!?


 多分正鵠を射ている結論だが、だからと云って糾弾できる状況ではない。

 春香は心中で滂沱の血涙を流しながら、ただただ立ち尽くす。

 つまるところ。

 春香の存在が偉い人の眼に止まった原因は、彼等が先日持ち出したスパゲティが原因だと云う事らしい。

「流石、目聡いよねえ」

 呆れた様な感心した様な声音に、春香は自失していた己を取戻し、心情的に立ち尽くしていた態を背筋を正して座り直す。

「私、此のまま引き渡されちゃうのでしょうか?」

「なんで」

 心地よい声音が心底不思議そうに言葉を返し……返された一言に、春香は「へ?」と些か間抜けな声を漏らした。

「だ、って。権力者ですよね? 私を連れてこいって云ってるのは」

「連れて来いなんて、聞いてないねえ」

 恩恵(たまふ)を愛でながら、潔斎(いつき)はちろりと視線を春香へ向けて、人を喰った様な笑みを浮かべる。

「………………は?」

 云われた事が、理解できない。

 春香が訝しげに首を傾げると、潔斎(いつき)の腕の中で恩恵(たまふ)が同じ様な視線を返してくる。

 何とも云えぬ空間で、潔斎(いつき)は心底楽しそうに喉を震わせると、笑みに滲んだ瞳を今度はまっすぐ春香に向けてきた。

「連れて来い、なんて、ボクは、聞いていないけれど?」

 ゆっくりと。

 一音一音区切る様に紡がれた言葉に、春香は無言で大きく目を見開いた。

 じゃあ、今迄の流れって何!!!!

 心中で盛大に喚きつつも、現実にはただ茫然と目を見開くだけの春香に、潔斎(いつき)はくつりくつりと笑い声を零して言葉を紡ぐ。

「御所望なのは確かだけれど、其れはあくまで内々の言葉だよ。近侍の者の中でもお気に入りだけが呼ばれた茶会で、最近森から離れた力の塊の中に、命の属性を感じたと仰られてね。気配は三つ。稀有な命を3つも見つけられる存在(もの)はそういない筈だ。ならば、見つけたのは、最近生じたと云う森の竜女であろうよと」

 やーれやれ。

 苦笑しながら潔斎(いつき)は春香へと言葉を継いだ。

「望まれただけで、連れて来いとは云っていない。だけれどね、彼の君の望みならば何でも叶えようと考える者は少なくは無いんだ。そして、此処が一番の要なんだけれど」

 潔斎(いつき)は眉尻を下げて、呆れた様な表情を作って見せる。

「ああ云う曖昧な要望はね、次代殿に対する(あるじ)様のおねだり、なんだよねえ」

「じだいさま」

 思わず復唱した春香へ、潔斎(いつき)はそうと笑って頷いた。

 時代様……違う、次代、様かな?

 次代様、と漢字を当てはめた春香は、おそるおそると云った様に口を開く。

「えと、次の棟梁に相応しいかどうか、確かめてるんですか?」

 途端に、潔斎(いつき)は僅かに目を見開いた後にいと口の端を引き上げた。

「本当に、中途半端に賢いね、お前は」

 柔らかなのに、何処かぞくりとしたモノを孕む声音に、春香は僅かに体を震わせる。そんな春香の背を撫でながら、瑠璃の一対は物言わず笑みで大丈夫大丈夫と繰り返した。

 其の様子に潔斎(いつき)が小さく吐息して、其処までの事じゃあないと春香の言葉を否定する。

「単に、生真面目な次代殿で遊んでるだけだよ。でもね……次代殿の気質からして、確実にお前を拉致するだろう事は確定だったからねえ」

 そして、と潔斎(いつき)は腕の中の恩恵(たまふ)の頭を肩に載せ、うっとりと其の滑らかな髪に頬擦りした。

「それは、森にとっても桔梗にとっても、業腹な事だからねえ」

 だろう?と笑み滲む視線で潔斎(いつき)が問えば、恩恵(たまふ)感情(ねつ)の無い視線で是と返す。

 綺麗な夫婦の無言のやり取りと瑠璃の一対の心遣いでなんとか恐怖から立ち直った春香は、では、と訝しげに首を傾げた。

「私はなんで此処にいるんでしょう?」

「料理」

 問う声に、恩恵(たまふ)が唐突に呟く。

「スパゲティは、本になかったでしょう」

「はい」

 言葉に素直に頷き、春香は僅かに眉を寄せた。

「でも、基本はあの料理の本に書いてあった事ですけれど……」

 謂わば、レトルトに近い料理だ。春香の中ではそう云う括りだった。だが、眼前の貴種にとっては決してそうではないらしい。

 綺麗な顔が春香を見つめ、ひそりと言葉を紡ぐ。

「著者に、会ってごらんなさい」

 誘いの様な断言。

 驚く春香に、恩恵(たまふ)の無表情な美貌が是を促す。そして、其の隣では―――――――端正な美貌が僅かに黒いモノを孕んだ笑みでサッサと応えろと脅しつけていた。

 否やもなく。

 春香は引きつった笑みで有り難くと頷くしかなかったのだった。

 ただ、相手も暇ではないらしく、暫く此の場に留まる様にと春香は重ねて言いつけられた。

 生意気な事にね、と哂う潔斎(いつき)の目には、一欠片の好意も無かった。

 随分と嫌っているらしいと、春香は言外に漂う鬼気で察し、暫く邸内で待つ事になると云う言葉に是と頷いた。……頷くしか、なかった。

 恩恵(たまふ)が無感情に暇を潰してらっしゃいと云えば、瑠璃の一対がにこにこと春香の手を取って立たせ、部屋を辞し廊下へと誘う。見覚えのある風景が其処彼処に現れ、さてはいつもの場所に行くのだなと春香が思っていると、果たして其の通り、見覚えのある重厚な扉の前に立つ事となった。

 結局の処、あの靄は次代が放った兵なのだと、瑠璃の一対が事も無げに教えてくれたのは、恩恵(たまふ)の部屋を辞し、いつもの蔵に行った後の事。古いながらも軋み無く開く扉をくぐり、春香は此処に来て漸く肩の強張りを解して一息つく。

 本の山に囲まれて仄かな幸せに浸り、春香は今聞いた事柄に疑問をぶつけた。

「兵って……人って事?」

「否」

 断ち切ったのは、専科。

「あれは、影」

 端的に過ぎる専科の言葉に、百科がころころと笑いながら口を開いた。

「主様の命を受けて此の場に居ります百科が申し上げます。あれらは半ば此方での生を放棄した者達に御座います。我等式とも似て、我等式とは非なる存在(もの)。あまりにあやふやな存在でありますれば、春香様には唯『兵』とお覚え戴くが宜しいかと存じます」

 深く知ろうとするな、と云う事らしい。

 そう判断し、そうねと一つ頷いた。正直、春香にとっては此処で詳しく訊きたい程、興味のある事柄ではないのだ。

「それで」

 興味があるのはむしろ、別の事柄。

「水龍は、如何なったの?」

「お役目果たし、散じただけ」

 此れもまた、専科がさらりと返す。

「主様の命を受けて此の場に居ります百科が続けて申し上げます。春香様が水龍と呼ばれる水の流れは、此度の攻防で主様より課されし役目を果たし、元の(すがた)へと還りましてございます」

 百科も又、いつもと変わりない口調でさらさらと言葉を紡ぐ。

 其の様子に、春香は心に引っかかりを感じ、僅かではあるが眉を顰め立ち尽くした。

 其の様子に気づいた瑠璃の一対は不思議そうに春香を見上げているが、春香が何故不快を表したのかが解らないらしい。解らない事に、動く事は出来ない。瑠璃の影は、愛らしい容貌に疑問を浮かべ、じいっと春香の顔を見た。

 春香の引っ掛かりは、やはり、あの水を、小川を、水龍と便宜上であったとしても名づけた事に由来する。人は、どんな存在(もの)にも名前を付ける事により、情を持つ。情を持てば、其れが無下に存在を無くす事を仕方なしとは受け入れる事は出来ない。石ころであれ、木であれ、草であれ。……極端な事を云えば、塵芥(ごみ)ですら、其の対象と成り得るだろう。

 人の愛情は存外深く、存外狂っているものだ。

 あの、たま様の伴侶様を見てるのに、此の子達には其れが解らないのかしら。

 疑問に思うが、多分に貴種の行動に対して己の枠に嵌めて理解しようとする行動自体決してあってはならない事なのかもしれないと、春香は小さな姉とも云うべき一対の少女達を見て判じる。

 ならば。

 春香は、思う。

 此の瑠璃の一対にとって、水龍と己が呼び称した彼の存在は、決して生き物ではないのだ。

 純粋なる、力の塊。主が成した、術の一つ……極端に云えば、己と近しい存在とも、認識しているかもしれない。専科が潔斎(いつき)に斬り捨てられた事柄も、瑠璃の一対にとっては取るに足らない事の様に、全く其の後の行動に影響を残さず、まるで川を流れる木の葉の様に綺麗に流れてしまっていた。

 ならば。

 水龍が滅した事にも、何ら感慨を抱く事はないだろう。

 春香はそう断じ、小さく溜息を吐いた。

 つまりは、水龍は兵器だったのだ。

 春香が存在する側にとっての、兵器。戦闘機や戦艦に、人は感情移入するが、使い潰す事に躊躇いは無い。……結局、そう云う事なのだ。納得し、春香はゆるりと眼前の棚に収まっている本を手に取った。

 大好きな文字の羅列。

 だが、今は其の内容が頭に入ってこない。

 何処かぼんやりとする春香の姿を、瑠璃の一対はじいと見続けている。

 此の存在は、己が主とは根本からして異なる思考を持ち、異なる行動様式を有していた。故に、いつも死と隣り合わせに在ったのだが、当人がまるで気が付いてない素振りで普通に生活する為、周りには奇矯を好む者達が次々と集まってきた。

 此の場合、奇矯を好むは―――――――稀有なる有力者達だが。

 主の懸念は、有力者達に誑かされ此の変わり種が妙な花を咲かせる事だったが、此の種は花を咲かせるどころか芽も出さず、只管苗床で微睡み続けている。

 百科は、専科は。

 つくづくと思う。

 何て柔軟で

 何て頑強で

 何て面白くて

 何て生真面目で

 何て強くて

 何て脆い

 楽しくて楽しくて仕様が無い。

 主の式と生れて幾年月。此処迄、己の力を使わねばならない状況は無かったのだ。

 故に主も殊の外楽しまれ、百科と専科に己の力を惜しまず注ぐ。

 だから、式に過ぎない身で、強大な力持つ有力者達相手に森限定とは云え好き勝手振る舞える。

 そして。

 そんな尋常では無い現状を、此の存在はまるで普通だと思っている!

 主の興が一向に醒めないのは、此の存在……春香と云う個が作り出す料理(じゅつ)の珍しさだと思っている事すら、面白い。

 そんな訳が無いのだ。

 主も料理をする。

 主の伴侶は、稀代の料理の達人だ。

 そして、何より。

 主の伴侶の上様(おや)である存在は―――――――


 ぎいと、音がして。

 蔵の扉が開いた。


 瑠璃の一対が振り向くや否や、其の姿がふうと掻き消える。表情は驚愕。決して、本意で消えた訳ではないのだと、声はなくとも如実に語っていた。

 ぼんやりしていた春香が入口を見遣る頃にはそんなやり取りは目にする事も出来ず……いつの間にか消えていた小さな瑠璃の一対を慌てて探す姿に、来訪者ははんなりとした笑みを浮かべた。

 何処迄も柔らかで、何処までも上品な。

 真黒な髪は艶やかで、長く伸ばして背で一つに纏めている。

 衣の色は、美しい藤。

 内に重ねる色合いは、白から灰への連なる重なりだ。

 表に在る藤の色合いに相俟って、其の配色は何処迄も美しく―――――――上品。

 真黒な瞳が、優しく春香を見遣った。

 全体的に柔らかな印象を持たせる其の容貌は、年若い少年の様にも見えるが、印象としては美しさが際立つ。

 ど……どちら、様……?

 思わぬ美形の登場に、春香は嫌な予感しか感じない己の心に正直に、只管心中で瑠璃の一対の名を絶叫する。

 だがしかし。

 此の場で幾ら名を呼んだとしても、小さな影が現れる事は無かっただろう……春香の眼前に立つ、其の存在に因って。

「やあ、ご機嫌宜しゅう」

 はんなりとした声音と仕草が、衣裳と相俟って何処迄も雅。

「ワタクシの書いた書物は、随分と役に立った様ですねえ」

 書いた甲斐が在ったモノだ。

 そう云って微笑む雅やかな存在は、ひっそりとした口調と同じひっそりとした興味を以て春香に相対する。

 春香と云えば、唐突に現れた高位の貴種であろう其の存在を目の前に、ただただ茫然と立ち尽くすしかない。

 神様。

 私、悪い事しましたか?

 勿論、此の場合の悪い事と云えば、人生においてとんでもない悪事だと世間から後ろ指指される系の事柄を指示している。

 短くは無いが長いとは云えない人生の中で其処迄の事はしていまいと、走馬灯の勢いで過去を浚った春香は内心冷や汗だらけな心情で、なんとか笑顔らしきものを浮かべて見せた。

「は、じめまして。おじゃましております」

 たどたどしい口調で何とか言葉らしきものを紡ぐと、春香は強張る体をなんとか動かし、深く頭を下げる。

「瀬尾春香と申します。此方のお館様と御方様には並々ならぬ御心遣いを賜りまして、卑賤の身ではありますが此方の書を拝見させて戴いております」

 下げられた頭と必死に紡がれた声音に、相手は小さく笑った様だった。さんざめく様な笑みの波動に感じられる高貴さを感じ、春香の背筋を冷や汗が滑る。

 ……間違いない……此の人、すっごい偉い人だ……!

 心底関わり合いたくない類の存在だと伏せて閉じた視線で認識し、春香は此の場に居ない瑠璃の一対の名を必死に呼ばう。だがしかし。心の声は届かず、現実の時間は流れ、相対しているのが春香だけだと身を以て知る事になるのだが。

「顔を、御上げなさい」

 ねえ? と笑み滲んだ声音で柔らかに促す男声は、テノール。促しではあるが、此れは命だろう。春香は観念して、そっと顔を上げた。……勿論、視線は伏したままだが。雅と云う概念を完璧に現実世界に現せばこうなるのだろうと云う姿が、やんわりとした笑みを浮かべて春香を見つめる。

 黒い髪は長く、肌は白い。

 藤の衣が典雅な貴種は、潔斎(いつき)よりやや幼く、眺望(みはる)よりやや年上の様に見えた。背丈も春香より僅かに低い位だ。

 でも。

 春香は思う。

 此の世界、見た目で判断しちゃダメよね……。

 有機無機・生物無生物全てひっくるめ、これまでの生活で春香はそう断じている。

 すうと筆を走らせたような切れ長の目を煙る様に細め、眼前の貴種は春香の様子ににこにこと笑いかけた。

「警戒するでないよ? 大丈夫ですからねぇ」

 先生!主語が無いでーす!

 春香は何とか浮かべた笑みを必死で維持しながら、内心で突っ込みを入れる。貴種が使う、大丈夫、等と云う言葉に安易に安心できる程、春香は貴種との付き合いが無い訳では無かった。……甚だ遺憾ではあるが。もう、明らかに怪しいと、内心冷や汗をだらだらとかき、春香は眼前の貴種の動向に全神経を向ける。

 一触即発。

 何があっても、おかしくない。

 春の陽だまりの様な風情の雅趣に満ちた存在を目にしながらも、春香の本能がそう囁いている。

 春香の様子に、雅趣を具現した存在は、おや、と云う様に軽く眉を引き上げ、くすりと小さく声をたてて笑った。綺麗に持ち上がった口の端が、唇に優しい優しい弧を描かせる。其れはほんの僅かな動きであったものの劇的な変化を春香に見せつける。匂う様な、笑みだった。万物の心を捕らえるだろう其の笑みに、春香は魅了される自分を認識しつつはてと心の内で首を傾げる。

 既視感。

 この素晴らしい笑みを、春香は何度か目にした事がある気がしたのだ。何処でだ、何処でだ、と記憶と云う情報(データ)ファイルの山を漁れば、存外新しい記憶野に、其れは存在した。

 そう、それは――――――――――――――……

「たま様の、旦那様……?」

 ぼんやりと、似ている、と感じた春香の呟きに、雅趣の体現者は此れ以上無いと云う程に上品な笑みを惜しげもなく春香に向けて口を開いた。

「ワタクシはね、料理が好きで」

 蔵の中に、柔らかな声音がつらつらと流れ行く。

「料理好きが高じて、書に(したた)めたのですよ」

 周りに小花が咲いてるように見える。春香の目には確かに春の陽射しと乱れ飛ぶ小花が見えていた。

「でも、なかなか作り上げる子が居なくてね。一寸、がっかりしていたのですよ」

 ほほ、と漏れ出でる小さな笑い声。

 何処迄も雅な男の視線は、眼前の春香をやんわりと見つめ、捕らえて離さない。何かを感じたのだろうに物理的な逃げを打たない辺りで、男は春香に酷く興味を抱いていた。

 あの本に認めた内容は、流石は戴きに立つ方よと男の名声を更なる高みに押し上げる事にはなったモノの、再現不可能と此の世界では断じられてしまい、男は内心酷く落胆していたのだ。己の直系であり今や一族を率いる子は、才能を見せながらも何故か己に反発して本を手にしたもののそのまま蔵の奥に放り込んでしまった。ああ、かなしきことよ。そう呟いたら、男の周りに侍る者達が暴走して、相当な争いになったようだが、正直、男にとっては如何でも良い事だった。周りの者達は手練れではあるし力持つ存在(もの)ではあるが、今や有数の有力者と成った子が弑される訳は無く。また、一族の棟梁となった存在(もの)が手練れとは云え格下の存在を潰す等と云う無駄をする訳がなかったからだ。

 精々、あの子に一撃加え、あの子が其れ等の者の五体を極限まで削るくらいであろうよ。

 そう思っていた。

 月日が過ぎ、棟梁の奥となった姫の実家が大変な事になったり、其れが原因で奥が家出したり、家出した奥に(つま)父御(うえ)が煩くたかったり……そんな、一族としては騒々しいが世間的に見れば諍いの無い穏やかな日々の中。やはり、(したた)めた事柄を成す存在(もの)はおらず、男は落胆を深めていたのだった。

 それが。

 それが。

 それが。

 男は、本当に嬉しそうに笑う。

 眼前の、困惑しきりな(はるか)を見て。

「だからね、アナタが書の内容を正しく読んで理解したと聞いてね。ワタクシはとても嬉しいのです」

 率直な喜びの声に、春香は最早はあとしか返事が出来なかった。

 春香にしてみれば、あれらは本当に解り易く書いてあった上に、極限まで無駄を削られた一番簡単な料理法(レシピ)ばかり書いてあった本だ。其の本が、実は難解極まりなくて、此の世界では誰も料理法(レシピ)を使いこなせていなかったなんて、冗談以外の何物でもない。

 此れ、影で百科や専科が隠れてみてるオチとか?

 若しくは、遠く離れた処から恩恵(たまふ)潔斎(いつき)が覗いてるオチじゃないのか。そう思う春香の心に非は無かろう。

 だが、しかし。

 しかし、である。

 眼前の者はそんな事全くお構いなしに、春香の事を褒めそやした。

「アナタは、森で的確に材料を集め、上手に其れを料理した。素晴らしい事ですよ」

 輝かんばかりの笑みに、春香ははあと只管曖昧な笑顔で返し続ける。春香が心の中で笑顔が引きつらない様に必死に維持している自分を誰か褒めろと理不尽に呪っても、其の声は何処にも届かない様子で、現状に変化が一向に現れない。そんな風にじりじりしている春香の様子に、男は楽しさを隠さずに笑顔を振る舞う。……本来、此の貴種の笑顔は安売りされるものではないのだ。多分、此の場に男の周りに侍る者達が居れば、嫉妬の業火で春香は焼き尽くされているに違いない。

 まあ、男にとっては何処迄も如何でも良い事柄だったが。

 ただ、出会ったばかりだと云うのに、此の(むすめ)を害されるのは業腹だなと考える自分に、男は新鮮な驚きと楽しさを味わっていた。

「其の上、新しい料理も編み出したとか?」

「あ、あああああああのですね!」

 新しい料理、の一文に反応して、春香は思わず声を上げた。此処で潔斎(いつき)ならば零下の視線で春香を射るだろうし、醇乎(ますみ)であれば更なる大声で対峙してくるだろう。そして、其の反応によって、春香は無意識と云って良い状態から脱する事が出来る訳だが、今回目の前に居た者は、何処迄も柔らかくその場で微笑むだけだった。

 故に。

「新しいとかそんなに凄い事は一切していないんですよ! 単に味を濃くしてスパゲティにかけたら丁度良いかなと思っただけで!!! 創作したとか、烏滸がましいんです! あれですよ! レトルトの様なモノで!!!!」

 我を忘れた状態で、春香は一気にそれだけの事を捲し立てると、いつの間にか近づいた上にガッツリ視界の中央に位置していた雅やかな顔立ちを認識し―――――――――――――― 一気に、醒めた。

「ももももっももももも申し訳ありません!!!!!!!!」

 大股で一歩思い切り後退り、力一杯頭を下げる春香を、男は僅かに見開いた目で捉え…………愉しげに、笑った。

 ほほ、ほほほ、と小さな……だが確かな笑い声を聞き、春香は羞恥で真っ赤になっているだろう顔を両の手で覆う。

 失敗した! まーじで失敗した!!!

 春香の頭の中では、失敗の二文字がマイムマイムを踊りながら只管ぐるぐる回っている。

 助けてー! ほんっきでぇぇええ!!!

 恥じ入る様に男は更に笑みを深め、声に出ない声でああと嘆息した。

「顔を上げて。ワタクシは、不快に思って等、おりませんよ」

 柔らかな声音に、春香は押し当てていた手から少しだけ力を抜く。

 其の声音は余りにも優しくて、すんなりと春香の心に届いたのだ。

 じわり、じわり、と手を下していく間、男は一言も云わずに唯優しく微笑んで佇み、春香の事を待っている。

「あの、ですね」

 何とか手を外したものの、未だ顔を上げる事が出来ない春香は、伏せた儘そろりと言葉を紡いだ。

「たま様や、たま様の旦那様は、お優しいので、きっと、とても褒めて下さったのだと思うんですが」

 ですが、とやや震える声音で春香は一度言葉を区切り、乾いた口内でなかなか動かない舌を叱咤し、吐き出す様に言葉を紡ぐ。

「ホントに、大した事等、していないんです」

 凄くないんです、と全身で訴える其の姿に、男は何とも面白いと目を和ませた。

 己が如何に無能かと訴えられる経験は、ついぞなかった事なので。

 必死に言い募る其の姿に、男は大丈夫ともう一度呟いた。

「大丈夫だから、すこぅし、教えて下さいね」

 驚いた様に跳ね上がった春香の顔を、男の黒瞳が捉える。

「貴方が作った、料理について」

 声音は春の陽だまりの様。

 響きに在るのは純粋な好奇。

 向ける笑みは何処迄も雅やかで。

 だが、しかし。

 其れは……明らかな命令で。

 春香はなんとも云えぬ気の抜けた声で小さく頷き、問われる儘に怖ず怖ずと答えた。そうして挙げられた料理の名前を聴くだけで、藤が似合う貴種は楽しげに頷き声を上げる。とは云っても、明白(あからさま)では無く、小さくほおやらふむやら呟く様に囁くだけだが。

 次に今迄の生活で食べてきた食事を訊きたいと請われ、春香が思いつく儘に和洋中関係無く取り留めなく名前と大まかな内容の説明をしていくと、雅な貌が満足そうに微笑むのだ。

 作り方を聞いてこない処が、流石としか……!

 心底感心した声を心の内で上げ、春香は眼前の貴種へ問う様に視線を送る。

「こ、んな事で、御役に立てるのでしょうか」

 如何考えてもたってないだろう。

 自分の言葉に内心思い切り突っ込みを入れつつ、春香は如何にも不思議に思う心を止められなかった。そんな問いに、貴種はにっこりと笑みを向けてはんなりと頷いて見せる。

「勿論。此れ以上無い位に、とても」

 ほほ、と小さく声を漏らし、貴種は雅やかな顔立ちに満足げな表情(いろ)を刷いた。満足げな様子に、嘘は見られない。

「此れ程に様変わりしているとは、思いもよらぬもの。やはり、もう一度訪れた方が良かろうと確信していますよ」

 うんうんと小さく頷きながら紡がれた言葉に、春香は思わず瞠目する。

 もう一度、そう云った。

 其の言葉の指し示す位置に、春香は驚愕し、絶句する。

 唐突に、春香は深い疑念を腹の底に抱いた。


 此の世界であの本を見て作った物は、何だったのか。

 あの本を見て作る物は、一体、何なのか。


 著者を名乗る眼前の貴種であればきっと其れを答えて貰える筈と、春香は勝手な思い込みではあるものの確信する。

 そんな様子に貴種は、楽しげにすうと目を細めた。

 気が付いたか、そう心中で呟いて、貴種は楽しげに愉しげに眼前の女を見遣る。

「お伺いしても、宜しいでしょうか?」

 暫しの静寂の後、そう云って無礼にならない程度の視線を向ける春香へ、貴種は勿論と云う様に微笑んで是と促す。其の誘いに深く一礼し、春香は決意に満ちた視線を貴種へと向けた。

「あの本の、料理は、貴方様の作り上げた料理なのでしょうか?」

 聞き取り方に因っては、此れ以上の侮辱は無いと云って良い言葉に、貴種はただやんわりと微笑み、ほんの僅かに首を傾げて見せる。

 促しに、首筋の寒気を受け入れて堪え、春香は乾く口内で貼り付く舌を、己の意地だけで動かして問うた。

「あの料理は、私の住んでいた場所では普通に食べられていた物です。……あの、料理法(レシピ)は、貴方様の頭の中から生み出された物なのですか?」

 問う。

 只管に。

 直向に。


「料理って、なんなのでしょうか?」


 緊張のあまり土気色を帯びてきた顔色の春香を見止め、貴種は、ただやんわりと目を細めた。

 糸の様に、すいとひかれた一条の線の様に。

 雅やかな雰囲気に似合いの静かな笑みは、何の圧迫も無いのに、明らかに上位に立つ存在(もの)表情(それ)だった。

「料理とは、言葉の儘。理を料る事」

 やんわりとした口調に籠るのは、硬質な意思。

「理を料り、生じた力を自在に操る。己と云う分を越えたる術式」

 ふわりと黒髪が風を孕む。

 閉じられた空間である蔵の中で、一瞬、貴種の周囲に光りが集い散る。

 集うた光は、艶やかなる藤。

「何かを用いるか、己の身で行うか。手段は無限に。其の、実力(うで)さえあれば」

 ほほ、と笑う。

 貴種が、微笑む。

「他を圧そう。命を摘もう。喰らい尽し呑み乾そう。使役するも従属させるも、()び願うも。全ては己の、能力にのみ因る事」

 嬉しそうに、笑う。

「此の地では、ワタクシの料理は他を圧し追随を許しません。でもね、上り詰めた後の其の上を、ワタクシは如何しても見てみたかったのです」

 頂の先を、登ってみたい。

 其れは、極めた存在(もの)にとって、永遠の願いだ。

 極みの先を望み、至高の味を舐めた存在(もの)は狂う。……そう続けられた言葉に、春香は唯立ち尽くすしかなかった。

 是とは云えない。

 否とは感じない。

 至高なぞ、春香が味わえるものではない。其れに対して何を云えるかと、春香は知らず心得ていた。凡人の分と云うものを、心得ていた。

「思考は硬化します。眼前に在る事柄を、突破しようと考えても、其れは易き事ではない。では、如何すれば良いのでしょう?」

 ねえ、と笑み滲む声音で問われても、春香は賢く口を噤んだ。笑みを刷きながらも真剣な感情(いろ)を隠そうともしない貴種の姿は、美しいが恐ろしい。

 怯えて立ち尽くしながらも、問の答えを一言一句逃すまいと聴き入る春香の姿は、貴種の心を酷く和ませ、躍らせる。

 過剰な褒め言葉も異常な執心も感じさせない、純粋なる知識欲。其れは、貴種にとって酷く心地好いものだった。

 貴種が、笑う。

 美しく、笑う。

「全く違う価値観持つ世界を、覗けば良いのですよ」

 ほほ、と転がる声音の美しさ。

 春香はだが、其の言葉の指し示す方向(もの)を察して、驚愕した。

「世界が違えば、常識も固定観念も違う。そうですね」

 問う様な断定。春香は初めて、貴種の言葉に頷いた。

 己の行動は、此の世界で生きる者達にとって、とても非常識だったらしいと、体感していたので。

 満足げに目を細め、貴種は優しく春香を見遣る。

「概念の破壊は、容易くは無い。破壊したと豪語する存在(もの)が成し得た事柄を良く知れば、其れは破壊では無く都合よく己の思う方向に捻じ曲げた改変に過ぎない事のなんと多い事。其れはワタクシの望む事ではありません」

 雅な容貌に笑みを刷き、貴種は云う。

「ならば、学べば良いのです」

「……学ぶ」

 春香の呟きに、貴種は嬉しそうに笑った。

「そうして、ワタクシは、新しい料理を手にしたのですよ」

 だけれど、と貴種は眉根を寄せて視線を伏せる。

「其れを己がものとしようとする者は、終ぞ現れなかった。生み出した(すべ)は波及する事無くワタクシの名を飾るだけの存在と化そうとしていたのです」

 其れは、酷く腹立たしい事。

 貴種は優しげな顔立ちに苛立ちを僅かに滲ませ、そう呟く。

「学ぶ事を止めた存在(もの)は、其の先を歩む事は無いのです。生み出す存在(もの)にとって、停滞は抱きずべき事柄だと云うのに、其の先を望まぬのは罪なのです」

 ワタクシの料理には森の希少な諸々が不可欠だった。

 だが、其れが何だと云うのです。

 ワタクシの術は強力無比であった。

 ならば何故其れを己が所有(もの)にしようと思わないのです。

 貴種の言葉は、春香の想いに重なる部分が多く。春香はそっと元の世界の、仕事環境を思う。

 オシエテ

 オシエテ

 教えたらそれで終わり。

 タスケテ

 タスケテ

 助けたらただ安心して。

 そんな人間は山程居た。だから、深い付き合いなぞ、春香は一切望まない。

 だってそれは酷く―――――――面倒くさい。

 一人で歩く事は、不安を伴う。

 一人は何時だって危険だ。

 もしかしたら、街中だって、突然の事故で道端に打ち捨てられ、他人が気付かぬままに死ぬかもしれない。

 けれど、其れすら呑み込んで、春香にとって一人の方が楽だった。

 学ぶ事に否やは無い。寧ろ好きだ。

 だが、其れを捨てた人間にとって、春香は単なる便利な存在なのだろうと思えば、同じ空間に居て親しい素振りを見せる事は苦痛だ。

 親しいとは、そう云う事ではない。

 こういう性分だからこそ、春香は此の世界で不自由なく過ごせてきたのだ。

 僅かに瞳を暗くする春香を見遣り、貴種は口の端を優しげに引き上げた。

「でも、貴女が現れました」

 ほほ、と、笑う。

 優しげな声が耳を擽り、春香は貴種が存外近くに迫っていた事に漸く気が付いた。

 視界を埋める、雅やかな美貌。

 黒檀の様な瞳が、春香を見ている。

「貴女は息をする様に力を使い、ワタクシの料理を行うて見せたばかりか、新しい料理を見せてくれました」

 それは、とても素敵な事。

 貴種がうっとりと春香の頬に己の頬を寄せる。

 現状を漸く把握した春香が顔を赤く熱らせる事すら面白いと、貴種はほほと笑い声を漏らす。

 耳を擽る美声に、春香は最早硬直するしかなかった。

「ワタクシに、新しい扉を示した事、ほんに嬉しゅう思いますよ」

 其の声音は、蕩ける様で。

 動けぬ春香の耳に、貴種は楽しげに言葉を注ぐ。

「だから是非、此の手を貴女が引いて下さい」

 驚く春香の目を捕らえ、雅な美貌がはんなりと笑う。

「此の手を、離さないで下さいね」

 示されたのは、貴種の繊手。

 真白で綺麗な白魚の指が、何時の間にやら捕らえられた春香の手に絡む。

 やんわりと握りしめられ驚く春香へ、貴種は何処迄も柔らかに微笑んで見せるのだった。

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