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先ずは学びましょう

 一歩踏み出したら、其処は森の中でした。


「……は」


 思わず息を漏らしたのは、女性。

 黒髪。

 黒瞳。

 黄色人種特有の象牙の肌。

 手は荒れていない。

 服装は―――――――洋服。更紗布のゆるーい雰囲気の上着に、中は黒のTシャツ。下もまたインド更紗のロングスカートに、黒のスパッツを穿いている。彼女は、冷房が苦手なのだ。

 足元は、スニーカー丈の薄手の靴下に足の裏で直に大地を掴めると云う触れ込みのスニーカーを穿いている。此のスニーカーはなかなかの高値だったが、彼女が一念発起して買ったモノだった。其れだけに使い込んであり、今や第二の足の裏と云っても良い程だ……と彼女はよく周囲の友人に自慢していた。勿論、其の自慢の後には「年相応の洒落っ気を持て」とそれぞれの口調でお説教が返るのだが。

 そう。

 彼女は、大人の女性だった。

 其の割には化粧っ気は無く、髪も更紗布の髪飾(シュシュ)で一つに纏めただけだ。

 腕には、これまたざっくりした生成りの大きな袋……としか云えないような肩掛けのバッグ。

 頭には、ゴムが入ったバンダナ。此れは南米の物らしく、ざっくりした布の端に太いゴムを入れてあり、布部分を広げると、三角巾の様に頭をすっぽりと覆ってくれるのに、畳むとカチューシャのように見えると云うスグレモノだった。

 色合いは、苔色。

 …………当然ながら、飾り気は無い。

 バッグの中には、ほうじ茶の1リットルパックやらハムやソーセージ、様々なチーズに漬物のパック、其れにもうすぐ昼時だったので、丁度良いと買い求めたおにぎりや食事の後のデザート用に大福だって買い込んでいた。……ついでに云えば、舶来もののビールやらワイン、東北産の日本酒も少々入っている。今日は休日だったのだ。彼女のささやかなランチにビールは彩りを添えてくれるし、其の後の夕食にはワインが活躍し、休日が終わった後の日常では日本酒が癒しを与えてくれるだろう。

 そう。

 彼女は、休日を満喫すべく、近所のちょっとお高いスーパーに足を延ばし……首尾良く買い物を終えて、店を出た処だったのだ。

 些か陽射しが強くなり始めた初夏。

 生鮮食品を扱う訳ではないが、矢張り生ものがある分、店の中は涼しく……人工の涼にほとほと弱い彼女は見た目涼しく、だが、きっちり守るべきところは守る服装で出かけたのだった。

 懐に余裕がある時に贔屓にしている店でいつも通り買い物をし、家に帰ってのんびり食事を楽しもう……と思ったところで、彼女は突然、眼前に広がる森に出くわした、と云う訳だ。

「……はあ?」

 ゆっくり彼女が振り向けば、背後にも森が広がっている。

 左右、上下。

 完膚無き迄に、森だ。

「―――――――……ファンタジーは、読むだけで良いんだけど」

 ぼそり、と出た呟きは、彼女の心を実に明確に表していたと云えよう。

 彼女は、本が好きだった。

 ご都合主義が蔓延ろうが、設定がお粗末だろうが、兎に角、活字が、手書き文字が、何よりも其の連なりが大好きだった。

 唯一苦手と云えば、恋愛小説。登場人物の理性の無さに雄叫びを上げた事もしばしばで、彼女に恋愛小説を貸した友達は諦めた様に首を振って去って行った。

 失礼な、と彼女は思う。

 自分の価値観を押し付けといて、望まぬ態度だからと切り捨てるなら、最初から来なければいいのに、と。

 其の言葉に、生ぬるい表情で「そーだねー」と頷いた友人は、大概今でも付き合いがある……細々と、だが。

 彼女は、基本的に人づきあいが好きではなかった。

 他者の心の機微に気づかず気づけない自分を知っているので気遣おうとして疲れてしまうからだ。

 そんな彼女は、本当に本が大好きだった。

 小説なら、SFからファンタジー、ノンフィクションから推理迄、幅広く読んでいた。

 辞書も図鑑も好きで、日がな一日ぼーっと図鑑やら資料集の写真やらを眺めているだけでも心が癒される種類の人間だ。

 こう云うと引きこもりに聞こえるが、決してそうではない。

 食べる事も大好きだが、料理は本職に任せるのが一番だと彼女は思っていたし、外出の時は筆記用具や工具類を持ち歩く位には造る事も好きだ。だが、何より其れ以上に、本を好む。それだけだった。

 そして。

 今の状況は、明らかに常軌を逸していると、彼女は力の無い瞳でぼーっと虚空を見つめて考える。

 最早パニックが一周して落ち着いてしまったらしい。

 加えて云うなら、彼女が読んでいた一ジャンル……児童文学やらライトノベルで、異世界へのトリップ物はかなり主流にある作品群だった。そうなれば、その作品達に自分を当てはめ、疑似的に状況把握に努めてしまう………………彼女は、変に生真面目だけどちょっと超常現象に対して肯定的で起こった事が現実から遠い程何となく楽しく感じ始めてしまう典型的な、日本人だった。

 此れで周りに人が居れば……同じ環境の同郷人が居れば騒ぐのだろうが、一人で放り出された事でなんとなく腹を据えてしまったらしい。此れもまた典型的な反応と云えるだろう。

 くるり、と彼女は周囲を仰ぎ見る。

 立派な……東京都23区内の海に近い辺りで暮らしている彼女にとってみれば、なかなかお目にかかれない程立派な樹木がにょきにょき生えており、力強く伸びた枝には広い葉が存分についていた。

 ふむ、と彼女は足元を見る。

 土。

 石。

 下草に、苔。

 足を踏み鳴らして、地面から何かでないかと試した後に、彼女は屈んで下草の下を覗き込んだ。

 少し湿ったように、色の濃い土が見えた。

 小さな虫が数匹蠢いている。

 其の中に2本足で動く甲虫を見つけ、彼女は小さく眉を寄せてそっと立ち上がった。

 ふむ、と彼女は顎に右手を添える。

 周囲の木々の木肌は、記憶の中の樹木とそう大差ない。葉も同様だ。

 彼女は本から受けた知識を総動員して、今の現状にあてはめ、存外環境に違いはなさそうだと見切りをつける。

 なら。

 彼女は思う。

 次にする事は、寝床の確保だ。生活拠点の……巣の、構築だ。

 暫く立ちつくし、耳を澄ませれば、様々な鳥の声や虫の声が聞こえる。

 鳥の声が高い事を確認し、小鳥だったら、と彼女は思考する。

 小さな動物が幾種も生息しているのだから、危険な大型動物が闊歩しているとは思えない。

 勿論、彼女の主観であって、本当にそうかは補償できるものではないが、彼女は本当に恐ろしい捕食生命体がいるなら小さい生き物はのんびり鳴いていないだろうと判断したのだ。

 ゆっくりと足を動かし、森を歩く。

 地面より、木の上の方が安全だと、彼女の読んだある本の主役は云っていた。

 其の本の主役は男性で、木の上に家を作って生活し、危機を脱したのだ。……ただ、問題は、彼女の場合は海難事故の遭難ではない為、有用な物を拾う事が出来ないと云う点だった。

 木の上、と彼女は上を見る。

 木々の葉は青々と広がり、非常に目に優しい。

 ……目に優しいけど、高いな。

 彼女ははあと吐息して頭を戻した。

 耳を澄まして、音を拾うが、楽しげな鳥の囀りの他は聞こえてこない。

「せせらぎとか、ないのかな」

 はう、と、再度溜息。

「ま、いいか」

 歩こう、と彼女は足を動かす。

 草むらには寄らず、歩きやすい場所を選んで歩くうちに、木肌を這う蔓草の間に、まあるい何かがある事に気が付いた。

 日の光に、てらりと輝く其れは、一度目に入れば、気になる存在だ。

 そうっと、近寄り、彼女は其のまあるいものに目を凝らす。

 そして、彼女は大きく目を見開いた。


 其れは、明らかに、飴玉だったのだ。


 どんぐり飴、と云う物をご存じだろうか。

 良く縁日の屋台でスコップで掬ってグラム単位で売られている、親指と人差し指で作った輪位の大きさの、おおぶりの飴玉だ。

 蔓草の間……正確には、蔓草の葉の根元についているまあるいものは、(まさ)しく、其の、どんぐり飴だった。

 彼女はええ~と不満げに呟く。

「何此の出来の悪い童話」

 其れとも此れは罠かと、自生するどんぐり飴を指先で突きながら周囲を見回すが、此れに寄ってきた動物を捕食する様な仕掛けも、怪しげなざわめきも、危険な影も見えてこない。

 彼女は、暫くその場で変化を待ってみた。

 待ってみた。

 待って、見た。

 吹き過ぎる風が、涼しいものからちょっと暖かくなる位の時間、待ち続けてみた。

「……さっきまで、午前中だったって事だ」

 おお、発見。と呟きながら、彼女は降り注ぐ光を見てみる。其れは、彼女が年に数回休みの時、電車に乗って遠出して迄散策していた山の陽射しに似ていた。

「お日様も一緒って事なのかな」

 呟いて、飴玉を見据える。

 此れだけぼーっと此処に立っていても何もないと云う事は、此れは罠ではないのだと彼女は断じた。

 そうとなれば、やる事は一つと、彼女は躊躇なく飴玉に指を伸ばし、一番良い色の……彼女の好みの味であるだろう色の飴玉を一粒摘み取った。

 まるで野イチゴを摘む様な感触を指先に与え、其れは難なく彼女の指に収まる。

 そして、再び静止。

 暫く……今度は風が3回吹き過ぎるくらいの時間だけ待って、周囲を探る。

 今回も何も起こらない。

 何処となくほっとした様子をみせ、彼女は摘まんだモノを口に入れた。

 かろん。

 歯に当たって小さな音を立てた其れは、口一杯に懐かしい甘みを広げる。

 紛う事無く、飴、だった。

 ころりと口内で其れを転がし、彼女は周囲へ目を凝らす。

「さて」

 かろりと転がる飴玉の所為で些か不明瞭ながら、彼女は小さく呟いた。

「二匹目のどじょうはいるのかな」

 上手くいったら、食料で苦労ないじゃない。

 飄々と呟き、彼女は再び森の中を散策し始めた。

 結果。

 彼女のバックには、購入した物以上の食品が放り込まれる事となってしまった。

 何の苦労もなく手に入れた食べ物は、

 ビスケット

 飴

 薩摩芋の茶巾絞り

 チェリーパイ

 羊羹

 チョコレート

 キッシュ

 飲茶で見る万頭(まんとう)

 などなどなど……実に常識はずれな物ばかりだった。

 其れ等が普通に木や草に生っているのだから、彼女の力の抜けようと云ったらなかった。

 ある花など、蜜を吸ってみたら上等の酒で、最早喜んでいいのか悲しんでいいのかと云った状況だ。

 彼女は思う。

 此のお話は、冒険譚じゃなくて、童話の系統らしい。

 其れでも水を求めて森を歩いていると、木々の向こうが明るくなって行く事に彼女は気が付いた。

 場所が、開けているらしい。

 森から出たのかと、彼女は今までで一番の警戒を見せた。

 耳を澄ますが、相変わらず、鳥の声以外聞こえない。

 小さく吐息して、彼女はそっと足を踏み出した。

 出来うる限り気配を消して、木々の間からそっと向こうを覗く。

 ―――――――と。

 其処は、一面の花畑だった。

 中央に水晶の様な煌めきの美しい鉱物が天を突く様に聳え、其の周囲に色とりどりの小さな花が咲き乱れているのだ。

 彼女はあまりの美しさに、一歩、森から身を出した。

 良く辺りを見れば、此処は未だ森の中の様で、花畑の向こうには、欝蒼とした森が広がっている。

 ほっと安心したように表情を緩めた刹那。


「何故、笑うの?」


 彼女の耳元に、女声が響いた。

 鈴を転がした様な美しい声に驚いて彼女が振り返れば、其の視線の向こう。一メートルほど離れたところに、夢幻の如く美麗な女性が立っていた。

 耳元で声が聞こえた割には常識的な其の距離に彼女は訝しげに眉を寄せるが、綺麗な女は一向に気にした様子もなく、楚々とした佇まいで彼女を見遣った。

 長い黒髪はまっすぐで、足元に揺れる花に届く程。

 抜けるような白い肌は、家屋の外に出た事がないのではと思わせる病的な白さだった。

 黒目がちで切れ長の目も、形の良い紅唇も、小作りな鼻も柳眉も、兎に角、綺麗な造作を生み出している。

 たっぷりと生地を使った、何重にも重ねて着込む袖も裾も長い装いは、彼女が今迄見た事もない作りだ。

 ……平安時代の、お姫様みたい。

 彼女は其の綺麗な女性を見て、心中で呟いた。

 と、目の前の麗人は、小さく首を傾げて其の口唇を開く。

「何故、此処に?」

 問われて、彼女ははあと口を開いた。

「わからないんです」

 思わず、彼女はそう返す。

 わからない。

 ほろりと転げ出た其の言葉は、彼女の現状を此れ以上無い位端的に表していた。

 だが、其の言葉を口にした途端、彼女の中で今迄なかった不安がむくむくと沸き起こり始めた。

 麗人を視界に収めながら、其の綺麗な顔を見据えながら、彼女は自分の足が震えて視界が歪むのを遅まきながら自覚する。

 今迄は一人だった。

 だから、冷静だった。

 慌てても、誰も助けてくれないから、とりあえず、生きる方法を模索した。

 だが、此処で。

 彼女は、出会ってしまった。

 言葉が通じる、第三者に。

「如何したの」

 問いかける其の声に、彼女は縋りたくなる気持ちで、震える唇を何とか動かして漸く問いかける。

「此処、何処ですか……」

 云ってしまった瞬間。

 彼女は地面に座り込むと、声を上げて泣き出していた。

 突然泣き出され、一方の彼女もまた困惑する。

 さて。

 如何すれば良いのかしら。

 此処……此の花畑は広大な森の最深部であり、此の広大な森自体が、聖域と云って良い場所の筈だった。

 云って良い、であり、そのもの、ではないのは、正確には聖なる場所などではないからだ。

 此処に生息するのは極普通の生き物ばかりで綺羅綺羅しい精霊やら神とやらは存在しない。だが、世の中で使われる水や建材は此の森の恩恵であり、人が生きて行く為の糧たる肉や果物や野菜、病や傷を癒す薬草も、此の森の恵みに因るモノだ。だからこそ、此の森は不可侵の場所として、周辺の有力者の手により堅固に護られている。

 便宜的な聖域と化している此の森は、其の性質から乱獲を厳しく禁止しており、密猟者に対して非常に厳しい。密猟の対象は動植物だけではなく、木々や岩、水に迄及ぶ。それ故に、此の森に入って採取するには、此の森を守護する有力者達の発行する許可を得なくてはならない。

 許可は有力者が直に判断して与えるので、そう簡単に得られはしないが、逆に云えば必要な場所……例えば森の近くの村等であれば村単位で与えられている。故に、森の奥とは云え人がいる事に不思議はない、が……彼女の目から見て、今も猶泣いている者はそう云う森の恩恵で生きる民独特の装いをしていない。

 不思議な格好だった。

 森の民であるならば、決してしないだろうと思われる格好だった。

 海の向こうから来る竜女の姿にも似ていると思いつつも、彼女は美しい瞳に映す女の姿に己の考えを否定した。幼子の様に泣いている女の顔立ちは如何みても竜女の同朋には見えず、寧ろ此方の人間の様に見える。

 女の肩から袋の肩掛け紐が滑り落ち、袋の中身が見える。

 其れを見て、彼女は小さく眉を上げた。

 袋の中身は、見事に『食べられる』物ばかり……しかも、其れ等は須く貴重なモノだ。

 知識はあるのかと、彼女は思う。ならばやはり、狩人の血筋なのか、それとも、採取者か。そう考え、だが彼女は即座に否定した。

 女は、あまりにも異質だ。

 手に、森で生きる者……下衆(ろうどうしゃ)特有の荒れが見当たらない。其れ処か、肌の滑らかさから見れば高位の存在(もの)とすら思える。では、何処ぞの姫かと考えるが、彼女の記憶の中に、目の前の女に相当する者は見当たらなかった。

 それにしても。

 彼女は思う。

 招かざる客と思ったのに…………泣かれてしまったわ。

 如何しましょう、と、彼女は綺麗な顔のままに考えた。

 思う通りの者ならば、、とりあえず声をかけ、言質を取り、森の中へ放逐したのだが、と、彼女は些か困惑しつつ思考する。尤も、結婚前も結婚後も其の美しさは有名で、一部の人間からは人形姫と渾名された彼女は元来感情を浮かべる事が少なく、今も表情は全く動いていない。だが、感情が無い訳ではない。彼女は存外苛烈な性格で、いっそ冷酷と云っても良い所業を行う事すらあったのだ。

 だが、しかし。

 彼女は、女を見遣る。

 敵であるのならばと思って出てみれば、相手は何も知らない迷子だ。しかも、泣いている。泣いている人間……しかも、女を放置して姿を晦ませられる程、彼女は非情ではない。

 冷酷ではあるが、非情ではない。……此れこそが、彼女だった。

 如何しましょう。

 もう一度、心の中で呟いて、彼女はそっと女の近くへ歩みを進め、其の傍に立つ。

 泣いている者を如何すれば良いのか、彼女は悩んでいた。

 何しろそう云う些事は、傍仕えの者が処理する事であって、彼女が動く事ではなかったのだ。

 幼子の様に泣く女は、なんとも頼りなく、なんとも悲しげだ。

 昔、会見していた者が泣き出した時……傍仕え達は如何していたかしら。

 じっと女を見つめて、彼女は膨大な記憶の中から対応する記憶を探り出す。

 ゆっくり、彼女の腕が動き、繊手が、そおっと、女の頭に触れた。

 びくっと肩を動かした女は、困惑したように顔を上げる。

 普通だが、荒れの見えない綺麗な肌の女の顔を目に映し、彼女はそっと口を開いた。


「泣き止みなさい」


 ……慰めには程遠い言葉ではあったが、今の彼女には其れが精一杯の選択だったのだ。

 驚いた様に茫然と己の顔を見上げる女を、美女は困惑が欠片も浮かんでいない綺麗な顔でじっと見下ろす。

「は、い」

 暫くして。

 茫然としながらも、春香は頷くと立ち上がった。涙を手で拭い、なんとか笑みらしきものを浮かべると、明瞭な声を意識して絞り出す。

「私、瀬野尾 春香と云います」

 ぺこりとお辞儀すると、絶世の美女は綺麗な顔でじーっと彼女の……春香の様子を見ていた。

 頭を撫でられて漸く現状に気がついた春香は、知らない人間の前で大泣きしてしまった事実に軽いパニック状態に陥っていたのだが、なんとも云えず斜め上な美女の言葉に、毒気も恥も濯がれてしまった様に其の綺麗な顔を見上げる。

 ―――――――……泣き止みなさいって……。

 だが、傲然とした命令に聞こえる其れが美女の其の精一杯の言葉なのだと、春香は美女の瞳が困った様に揺れているのを見て、悟った。

 見ず知らずの人を困らせる趣味は無い。

 春香は急いで涙を拭って立ちあがり、無表情だが困惑しているだろう美女へ名を告げたのだった。

 だがしかし。

 そんな春香の自己紹介に返事は無く、春香は些か困った様子でかくんと首を傾げた。

 其の様子に、美女も同じように首を傾げる。

 無表情ながらも綺麗な顔が、なんの迷いもなく自分の行動を真似する姿は存外愛らしく、春香は心の中で意味のない叫び声を上げた。

 こ、此の人、可愛い……?!

 此の最悪の状況の埋め合わせかと何処の誰ともわからない何かに叫んでおいて、春香はこほんと咳払いして姿勢を正す。

「えっと、スイマセン。泣き出してしまって。あの、此処が何処だか、私にはわからないんです。……嘘じゃないんですけど」

 信じてくれますか、と目で問いかける春香へ、美女は小さく頤を引いた。

 春香の瞳に探る様子も嘘も見えない。美女は断じて口を開く。

「此処は、森。特に名前は無いの」

 云われて、春香は思わずと云った様に口を開いた。

「森、ですか」

 そう、と美女は頷き、綺麗な瞳で春香を見遣る。

「貴女は、如何して此処に来たの」

 云って、視線で春香のバッグを示し、言葉を継いだ。

「採取者でもないでしょう。如何して果実や(くさびら)を採っているの」

「……くさびら?」

 くさびら、と云えば、古語で茸を指す。

 春香はそう云えばと現状を認識した。

 言葉が、通じている。

 相手の言葉は、日本語だ。

 良かった……! 最近流行の妙に現実味のある、言葉から苦労する系統の異世界物じゃなくて、昔ながらの言葉が通じる系の世界だ……!

 ビバ、古典。と再度心で万歳し、春香はそれにしてもとバッグの中身を見る。

 バッグの中に在るのは、相変わらずの面々だ。

 買ってきた諸々に、森で自生していた食べ物……チェリーパイは掌サイズで、春香が昔読んだイギリスの有名な児童文学で出てきたお茶会の時のお皿に盛られていたパイはきっとこれだと密かに感動した物だ。

 だが、しかし。

 茸も果物も、見当たらない。

 袋を覗き込んで困惑している春香の様子に、美女も些か困惑していた。

(くさびら)を、しらないの」

「知ってます……けど」

 視線を上げて、春香は虚空に指で絵を描いた。

 うにょんと曲線で構成された其れは、典型的な茸の形だ。

「私の知っている茸って、こう云う形で……」

「きのこ……木の、子」

 面白い呼び方だと妙に感心しつつ、美女は春香の描いた図に小さく頤を引いて同意を示した。

「様々な形があるそうだけれど、そういう形のものもあるでしょう」

 春香は再度バッグの中身を見る。

 ……どう見ても、茸は見当たらなかった。

「……あの」

 云いながら、春香はバッグの口を大きく広げた。

「どれが茸ですか?」

 問われて、美女は無言で袋の中身を指し示す。

 綺麗な白い指先が示した先に在ったのは―――――――薩摩芋の、茶巾絞りだった。

 驚愕に春香が固まるのを、美女もまたじっと見ていた。

 商人かと思ったけれど、違うらしい。

 美女の知る商人達は、もっと物腰が柔らかく、曖昧な物言いと鋭い目の持ち主達ばかりだった。一流と呼ばれる商人達としか会った事が無いからなのだが、女の……春香の様子ならばそう云う一流の商家の娘でなければありえない。だが、肝心の商人らしさが、微塵も、見られない。

 かと云って、武家や貴族と考えるのは難しい奔放さであり、一般の……下衆(しょみん)にしては仕草が洗練されている。

 端的に言えば、不作法ではないが上位の人間としての礼節がなっていない。

 ……(わたくし)を見ても、誰なのかわからない様子である事だし。

 其の点だけは、改まらない方が良いのだが、と、美女は心中でこっそり思った。

 採取者として生きて行こうとしているのならば、此の国における上位者に対しての礼儀は覚えなくてはならないが、やはり些か勿体ないと美女は思う。

 春香の幼いとも取れる独特な奔放さは、美女にとってとても心地良く、好感が持てるのだ。此の国とは関係のない世界で育った移民である異邦人は、其の国で生きる為に身分を弁え、礼節を重んじる節があり~そうでなければ、此の国では生きていけないからなのだが~、そうなると、今迄親しくしていた者も、時間が経てば経つ程妙に遠ざかってしまった印象を受ける態度で接してくるようになってしまい、些かならず、美女は寂しい思いをしてきたのだった。

 此の躾がされていて綺麗な所作の女は、会って間もないと云うのに、既に美女にとって癒しと云っても良い存在になっていた。

 今迄、(わたくし)に会う為に此の地を訪れた者達が、酷過ぎたのでしょう。

 自身の気持ちに対して、そう冷静に断じて、美女は動く様子の無い春香へ再び意識を移した。

 春香は、変わらず悩んでいた。

 此の薩摩芋の茶巾絞りは、味も触感も手触りも全て記憶の中に在る茶巾絞り其の物だったからだ。

 柔らかいので、潰れては大変と、適当に摘んだ大きな葉に包み、荷物の一番上に載せてきたので、美女の目に入ったらしい。

 だけど。

 春香は困惑した。

 茶巾絞りは、実に簡素にして素朴な味わいだが、素材の味を最大限に引き出した美味さだったのだ。温かな緑茶と一緒に戴きたいと、心底から思った春香は根っからの日本人だった。

 二つに割った時も、繊維など全く感じさせなかった。しっとりとした手触りと、口に頬張った時の滑らかさは絶品で、家庭科実習で作った茶巾絞りではなく、きちんとした和菓子屋で提供される茶巾絞りを思わせた。

 其れが、茸であると。

 目の前の美女は、告げている。

 嘘だと笑い飛ばしたいが、眼前の美女はそう云う冗談を好む性質には見えなかった。

 其れ処か、生真面目にさえ思える。

 佇まいと服装から察するに、かなり身分の高い人物ではなかろうかと、春香は思っていた。

 そう云う身分のある人間が、訳の解らない嘘をついて他人を揶揄するとは、春香には思えなかった。

 ならば。

 春香は思う。

 此れは、茸なのだ。

 断じれば、森の異様な様に疑問が浮かぶ。

 飴の生る蔓草。

 幾重にも重なった花弁の中から現れたキッシュ。

 大きなえんどう豆の様な鞘を割ると出てきたチェリーパイ。

 木に生るチョコレート。……羊羹に饅頭も、そうだった。

 ビスケットは、枯れた草の先に在った袋から出てきたのだ。

 そして―――――――薩摩芋の茶巾絞りは、木の根元に、生えていた。

 果たして、此れ等は皆、見た目通りのものなのだろうか?

 春香の疑問は、何とも云えぬ悪寒を伴った。

 もしかしたら。

 春香は、考える。

 もしかしたら……視覚が、あてにならない……?

 見たものが、見た通りでは無い可能性があるのかと、春香はバッグの中身を寒々と見遣った。

 食べ物と思っていたモノが、実は食べられないモノなのだろうか。そう考えて、とてつもない不安が春香を襲う。先程の悪寒など、比にならない不安だ。

 慌てて視線を上げれば、其処には変わらぬ様子で美女が立っていた。

 絹糸のような黒髪が、そよ風に僅かに流され綺羅綺羅と輝いている。

 白い肌に黒い髪。色味の薄い衣を何重にも重ねて纏っている姿は、花の精もかくやと云う風情だった。

 不安と焦りで頭の中が一杯になっていたのが、急激に静まり、春香は小さく溜息を吐いた。

 とにかく、此の人に聞かなくちゃ。

 バッグの端を握りしめ、春香は「あの」と美女へ声をかけた。

 無表情に佇む美女へ、春香は思い切って全てを話した。

 突然、此の森に現れてしまった事。

 見も知らない森で得た此れ等は、自分がいた世界の食べ物に酷似している事。

 多分、己は、異なる世界に迷い込んでいるだろうと云う事。

「まるで、御伽噺の様ね」

 話を聞き終えた美女が述べた端的な言葉に、春香は何とも云えない不安げな表情を浮かべた。

 其れを見て美女は、無表情のままにこくんと首を傾げる。

「御伽噺には、異界に赴き生活するものが多いわ。知らないかしら」

「知ってますけど……」

 春香の力の無い声に、美女はそうと頷いて云った。

「なら、其の表情(かお)お止めなさい。似合わないわ」

 綺麗な声が命じる理不尽な内容に、春香はそれでも小さく首肯して両手で顔をぐにぐにと捏ねて見せる。

 面白い事をするのねと、ほろりと呟く美女の声音は、何処か楽しそうだ。

 疑う、とか、嗤う、とか。そう云う方向に行かなかったのは春香にとって重畳だが、御伽噺と同列と云うのも、当人としては些か切ない。

 そんな機微はさらりと無視して、美女は春香の目を見つめた。

「では、(わたくし)にとって、貴女は竜女(りゅうじょ)や迦陵頻伽の様な存在(もの)なのね」

 竜女。

 迦陵頻伽。

 此れもまた、春香にとって聞き覚えのある単語だった。

 両方とも、仏教関連で出てくる人外の存在だ。

 竜女は字の通りで浦島太郎の原型である浦島子の物語に出てくる……乙姫、迦陵頻伽は歌声が素晴らしいと云われる極楽にいる半人半鳥の美女。

 如何やら共通する単語も多いらしいと、春香は安堵の息を漏らしつつ、美女の言葉にこくこくと頷く。

「そうね、先ず、目先の事から片付けてしまいましょう」

 云って、美女は音高く手を鳴らした。

 一度目。

 幼い姿の少女が現れた。

 二度目。

 少女が増えた。

 三度目。

 少女が向い合せに立ち、手を翳した。

 四度目。

 少女の間に光りが走った。

 五度目。

 光が膨れ上がり、其の場を呑み込んだ。

 そして。

 そして。

 春香が光に眩んだ目をなんとか開けた時。

 其処は、玻璃の輝きに満ちた静寂満ちる場所だった。



 透明で、青い光に満ちた其処は、果てが無く、境が無い。

 其の中央に美女は立ち、美女を囲むように少女達は立っていた。

 少女達の髪は、透明な瑠璃。

 夜闇を連想させる色合いは、髪、瞳、衣、全てに通じていた。

 肌の色だけが月の色を思わせる白。

 其れが、違和感と安堵を生み出している。

 感情の無い、特徴のない、整った顔立ちの少女達に囲まれ、美女は視線で春香を招く。

 操られるような足取りで傍に歩み寄った春香は、美女の前に透明な卓が置かれている事に気づいた。

「其処に」

 端的に言われ、だが、春香は慌ててバッグを漁り始める。

 そして、此の森に来て採取した諸々を全て机の上に並べだした。

 全てを並びきった春香の様子に小さく頷いて、美女は徐に口を開く。

「貴女の目に、此れ等は如何みえているの」

 問われて、春香は卓の上の諸々へ視線を落とし、手で取り上げて其れが何であるのか声に出し美女に説明を始める。

 春香が食物の名前を告げる度に、美女は無表情ながらも瞳に困惑の色を浮かべ、全ての説明が終わった後に、近くに立つ少女へ視線を向けた。

 少女は心得たと云う様に頷いて、一歩踏み出し徐に言葉を紡ぐ。

「主様のお召しに因り、百科(ひゃっか)が申し上げます。先ず、ハルカ様が茶巾絞りと申されました此の(くさびら)は、黄金絞りと申します。上等の甘さを饗しますが、鮮度が落ちれば生では食べられませぬ故、市井に出回りました際は、通常、乾かして粉にして、湯に溶かして汁粉として飲みまする」

 春香が驚きに目を見開いていると、少女は淡々と言葉を紡いでいった。

「春香さまがチョコレート・羊羹・饅頭(まんとう)と申されましたものは、希少な果実でございます。チョコレートと称されましたのは覚醒果(かくせいか)。羊羹と称されましたのは甘味黒(あまみこく)饅頭(まんとう)と申されましたのは白挟果(はくきょうか)。全て、人の手に渡りますれば黄金に相当する果実でございます」

 春香が更に目を見開けば、少女は其の様子にさしたる感慨も得ない様子で言葉を継ぐ。

「ちぇりーぱい、びすけと、と仰られましたのは、其々種子でございます。ちぇりーぱいと仰られましたものは、高糖果(こうとうか)。中心にある赤い核が、芽となります。びすけとと仰られましたモノは、ポルトと申します草の種にございます。ポルトは袋の中に種を内包し、其の種を成熟させる為に己を枯らすのでございます」

 そして、と少女は続ける。

「きっしゅ、と申されましたの物は希少の上に希少。大花(たいか)の花芯でございます。状態を拝見致しましたところ、不純物が適度に混ざり、最上の状態でありますかと」

 此れもまた黄金が対価と告げられ、春香は心底絶句した。

「最後に、此の木の芽でございますが、美しく真球を描き、多様な色を纏うております故、最早市場では扱われぬものにございます。春香様が対価をお望みであるならば、主上への献上物となさるしかないかと」

 最後の一言に、春香は言葉もなかった。

 当人にとっては単なる駄菓子であるにも関わらず、其れが偉い人への献上物としての使い道しかないと云うのだ。

 主上、と云う言葉は、春香の知識では自国の象徴が権力を有している時代の敬称である。

 そして。

 此の世界でも、其れは変わりなかろうと、春香は当たりをつけていた。……勿論、其れは正鵠を射ている。

「……高級品ばかり?」

「そうね」

 美女が頷く。春香の驚愕の元である知識を供した少女は、会話の方向が変わった途端に要件は終わったとばかりに同朋と同じ位置へと言葉もなく下がった。

 玻璃の卓を挟み、美女と春香は対峙する。……春香が茫然自失の態で立ち尽くす故に、美女が其の正面で見守るが故に、そう云う状況になるだけなのだが。

 膠着した場に、小さな溜息が響いた。

 元は、美女。

 春香が驚愕のままに視線を向ければ、美女は相変わらずの無表情で如何したいのだと問いかけた。

「其の鑑定眼()があれば、採集者として身を立てる事は可能でしょう」

「さいしゅうしゃ」

 春香の呟きに、美女は是と頷いた。

 曰く、森に生きる民の生業の一つであると。

 森に入り、有用な草実を採取して街で売るのだと。

 其の言葉に、春香は思わず首を横に振っていた。

 思い切り否定を体現する春香へ、美女は多少楽しげに、でも訝しげにでもと口を開く。

「人里で生きるのであれば、貨幣の取得は命題でしょう。如何やって身を立てるつもりなの」

「人里で生きなくちゃだめですか!?」

 思わずといった様子で叫んだ春香へ、美女は無表情な美貌に僅かに驚きの色を刷いた。

「……人里以外で、どうやって生きて行くの」

 美女の問いに、春香は一瞬口を噤んだ。

 だが、次の瞬間、春香は美女をまっすぐに見つめ、真摯な……思いつめた、と云っても良い口調で問うたのだ。

此の森で、暮らしてはだめですか――――――と。


 だって。


 春香は、云った。


 だって、人は怖いじゃないですか。


 春香は、云った。


 礼儀は守りたいです。けど、常識って齟齬が出ませんか。


 春香は、云った。


 物語(はなし)に良くある物分りのいい人間ではないんです、私。

 むしろ頑迷な性質(たち)なんです。もう、此の年になるとそうそう柔軟に生きられるとは思いません。


 春香は、云った。


 テレビで、大衆が楽しむ映像情報なんですけれど、其れで外国も良く見ました。

 無理。

 無理無理無理無理。

 私は地道に自分が生まれた国で生きて行こうと心に決めるのに十分な内容ばかりの情報でした。

 其れが異世界とか云ってしまったら、もう、全力で走って逃げたいくらいなんです。

 よく物語では簡単に王侯貴族と異邦人って知り合うんですけど、正直、あんなの死亡フラグですよね。陰謀渦巻く権力の中枢に、如何して関わらなくちゃあいけないんですか。自分の常識を覆して相手に合わせるとかもう無謀極まりないじゃないですか。正直、身分の上下が殆どない世界で生きてきたんです。社会人としての行動は出来ますけど、絶対的な身分差なんて実感できません。自分が何やらかすか解りません。怖いです。


 春香の言い分は至極尤もで、美女はうんうんと同意の頷きを返していた。……美女もかなり高位の生まれであったのだが、其処から此の森へ出奔する迄の過程でかなりの苦労をしてきているのだ。

 そんな美女の同情を知らず、春香は続けた。


 人里なんて、無理です。

 何か不審に思われて村八分になったら即座に死ねます私。精神(こころ)が強い訳ではないんです。

 森だって、生きて行けます。畑を追われて森でゲリラ化した異人さん達の話も読んだ事がありますし。

 森でなら、生きて行けます。食べ物は豊富だし着る物の素材も事欠かないし。


 だから。


 春香は云った。


 此の森で、生きて行きたいんです。

 此の世界の人とはなるべく関わりたくないんです。

 此の森でひっそり生きて行きたいんです。

 ……………………だめ、ですか?


 美女は、此の森の主ではない。

 此の森に住んではいるが、美女ですら此の森では訪問者なのだ。

 だが美女は、他者との関わりに飢えていた。

 偶に訪れる者はうんざりする類ばかり。美女の身の回りの世話をする二人の少女は、人の姿をしてはいるが、己の術で生み出した式だ。……式とは、術によって自然(じねん)に存在する意識を具体化固定化した疑似生命体。其れ等を使役して、美女は森の一角で暮らしていた。

 生まれて此の方、貴賤交えて大勢に囲まれ傅かれ生きてきた美女にとって、静寂は憧れ。だが、其れはひたり尽せば些か退屈も感じ始めると云うのに、本来ならば退屈を紛らわせる要因である訪問者は、夫や父の息のかかった者ばかりで美女にとって喜ぶべき存在(もの)ではなかった。

 そんな現状に美女が辟易し始めていた処に現れた春香は、人付き合いが好きではないが、一人で生きる程には強くない性質(たち)らしい。会話からそう断じて、美女は此の森に隠遁してから乾き始めていた心が潤うのを感じた。

 会話は、したい。

 干渉は、されたくない。

 此の条件に、春香程当てはまる存在はいなかった。

「そうね」

 美女は頷いた。

「なら、住まうが良いでしょう」

 其れは許可の様な響きを有する、純粋な提案だった。

 美女は、春香に家を与えた。春香が居候を固辞したからだ。

 此の辺りも、美女は春香に対する好感を増す要因となった。此の疑似空間には春香一人増えたところで問題ない広さが十分にあり、生活に必要な物は術で生み出してしまえる美女にとって生活面も問題はなかったが、同じ場所に住むと知らず甘えが出るのだと力説し、そう云う人間の鬱陶しさを熱弁した春香の様子に、本当に必要以上の他人との説得を求めていないのだと、美女は春香の性格を決定づける。……好印象を得ようとか、遠慮して見せているだけとか、そう云うある意味小賢しい考えは、春香の言動からは全く感じ取る事が出来なかったからだ。

 面白い。

 と、美女は心中深く笑う。

 そして、美女は、名を名乗る。

「私の名は、恩恵(たまふ)

 玲瓏とした響きが連ねた言葉は、春香の耳には、たもう、と聞こえた。

 呼ぶ時は如何すれば良いのかと悩む春香へ、美女は無表情にたまでいいわと告げた。

 恩人に対して~何しろ家一軒貰ったのだから~呼び捨てはあまりにも、と、更に春香が悩めば、恩恵(たまふ)はそうねと呟いた。

 命の危険もあるから、用心して、様を付けておきましょうか。―――――――と。




 花畑から、林を挟んで存在する小川の(ほとり)

 節目の無い木材で、其の小屋は建てられていた。

 傍を流れる小さな川は、小さいと雖も流れも量も豊富で水底が見える程に水は清かった。

 小屋は、本当に小さいながらも母屋と四阿の二棟あり、母屋と屋根で繋がっている四阿の中は川の水がひきいれられ、人が一人足を延ばして座れる程の溜め池になっていた。池の底も周りも石が敷き詰められているので、水に砂など混ざらず清い状態で注ぎ込まれている。過剰になった水は、排水路により再び川へと戻っていた。

 母屋の間取りは、土間と居間に分かれている。

 土間には、小川の清水を引き入れ石で周りを囲って作られた簡易的な人造の池や、調理台がある。

 池には常に水が注ぎ過剰分が排水路を通って小川へと戻っていく為常に一定量の水があるのだが、過剰な湿気は存在していない。

 食材を置く台や調理台も池と同じ質の石造りで、春香が掃除しているとは云ってもそれだけでは済まない清さを見せていた。

 四阿、土間に存在する石材の色は、全て瑠璃。玻璃を思わせる其の色は、恩恵(たまふ)の従者である少女達や、其の住いに通じる不可思議な色合(もの)だ。

 居住空間へと目を向ければ、板張りの高床に良く干した草の繊維をより合せて作った座布団が置いてある。

 土間との境には、几帳。

 美しい(おおとり)が描かれた其れは、春香が此の森に住む祝いとして恩恵(たまふ)が贈った存在(もの)。「備えは必要でしょう」と言葉が添えられたが、人と付き合う気が無いと云っても入り口から室内が丸見えと云うのも難だと云う事と春香は解釈した。

 池の隣には小さな竈。

 なんと、形状が殆ど七輪と云う其れはガスコンロを思わせる大きさで、七輪の中には赤い光を放つ石が幾分か積み重なりながらもころころと転がっていた。側面に存在する木の棒を左右に動かす事によって光の大きさが変わり、其れに付随して火力も変じていく。

 水の傍の火元とは云え、湿気が火力に影響しないので問題なく使える上に、四六時中石は光を有している為すぐお湯が沸かせるので春香にとってありがたい配置だった。

 生活に即した知識が少ないと友人知人に定評のある春香だが、お茶・酒に関しては上手ではないにしろそれなりの(・・・・・)腕を有しており、竈は主に春香が森で見つけてきた茶葉らしきものを煎じて飲む方向で活用されていた。


 森での生活は、思った以上に楽で、春香は些か拍子抜けしていた。


 風呂に入れなかろう。


 服が手に入らなかろう。


 掃除が大変だろう。


 衛生面に問題が出よう。


 そして。

 食に、貧しよう。


 今迄読んできた本の内容と常識的に考えた上での今後に、人里を拒みつつも不利益を様々考えていた春香だったが、其れ等がほぼ全て杞憂に終わってしまった。

 家のそばを流れる清水が、衛生面の杞憂を吹き飛ばし、四阿の溜池が入浴の補償を全面で行い、服は本当に布として通用する様な植物の花やら葉やらが存在し、掃除が決して嫌いではない春香にとって板の間は磨き上げるに値する素晴らしい居住空間だった。

 最大の問題は、食だ。

 食べ物に対して、決して淡白ではない生活をしていた春香だが、調理の腕前は底辺に近い。

 美味いものは玄人の手によって成るモノだと胸を張って生きてきた結果な訳だが、典型的な都市育ちである春香は店の良し悪し調理の上手い下手を舌で判じられはしても、野草を見て判別する事は殆どできない。其の上、基本的に料理の成り立ちをしっかりと覚えてもおらず縦しんば調理法を覚えていたとしても、並み以上の出来になる保証は絶無だ。

 だがしかし。

 森には其の儘食べても遜色ない食材……と云うより料理そのものがぽこぽこ落ちており、春香は一日に一回森を散策するだけで十分な食料を手に入れる事が出来ていた。

 菜食一辺倒かと密かに肩を落としていた春香だが、散策中、草影にチキンソテーが落ちていたのを見つけた時には本当に驚愕した物だ。

 思わず拾い上げ臭いを嗅いだ春香の鼻に届いたのは、スーパーで良く売っている冷えた状態のチキンソテーそのままの香りだった。……要するに、焼いた鶏肉の匂いだ。

 家に持ち帰り、其の後遊びに来た恩恵(たまふ)へ其れを見せれば、何処からか現れた百科が「(くさびら)です」と断言した。其の言葉に驚きながらも頷きかけた春香だったが、“くさびら”と云う言葉に斎宮が使う忌言葉で獣肉のと云う意味があったと思いだし慌てて「本当は肉なのか」と問い質す。そんな春香へ百科は眉を寄せて否と断言し、恩恵(たまふ)の許しを得てから言を継いだものだ。


「主様は高位でらっしゃいますが宮家ではありません。如何して宮家の忌み言葉なぞ使われるとお思いですか」


 ……とりあえず。

 宮家と云う物が存在する事と、斎宮も居ると云う事を認識できた事で良しとしよう、と春香は気をまわし過ぎた己を慰めた。

 素材そのままで食べても十分美味しいのだが、続けば多少の手を入れ始める。

 焼き目を付けたり、味付けを変えてみたり、薬味を添えたり。……その程度、なのだが。

 散策中、清水の傍に山葵やらクレソンやらを見つけた時には、春香は嬉々として其れ等を添えて森で採取したチキンソテーに添えて、食した。

 野菜、とみられる物も見つかり、春香は主食に添える付け合せも作った。

 春香が森の最深部から多少外周付近へ近づいて散策している時、ある方向に歩いていると森の民と顔を合わせる事が度々起こったのが切っ掛けで、森での採取が難しい調味料は散策中に時折出会う森の民から譲って貰う様になっていた。

 塩。

 胡椒。

 鰹節。

 昆布。

 醤油。

 其の辺りの物をなんで森の民が持ち歩いているのか春香にとっては不思議極まりなかったが、其れ等の正体が塩や鰹節・昆布と思っていた物が実は森の中に在る鉱脈から掘り出された鉱物であり、醤油と思っていた物は、樹液であると知り、心底驚いたのも良い思い出だった。……そう、述懐できる程には、春香は此の森での生活に馴染み始めていた。

 森の民にしても、突然現れた胡散臭い奴~女、と云って良い程成熟しても見えないが、子供と云って良い程の年齢にも見えない~へ邪険な態度で接した事はあったものの、此の森に住みついたやんごとない血筋の姫の連なりであると当人の死角に現れた瑠璃色の少女達が態度と視線で無言にして雄弁に知らしめていた事もあり、偶に会う取引相手として、深くは接しないながらも存在を受け入れているのだった。




 なんだかんだの六十日。

 春香が此の世界に来て、二月(ふたつき)が経とうとしていた。




 如何やら、目に映るモノと現実は、些か差異があるらしい。

 森の民との接触から、春香はそう確信していた。

 モノによっては、形すら違うらしい。

 だが、自分の知識で其れ等を調理すれば、其れ等は見事に食料となりうるので、春香は考える事を早々に放棄した。

 それにしても。

 春香は、思う。

 生きて行く為の貨幣を得る為に街へ行く事はないが、森を訪れる人間とは結局交流する事になってしまった。

 はう、と溜息を吐く。

 人付き合いが面倒くさくて、人と付き合いたくなくて迷い込んだ森から一歩も出ないと選択しても、生きて行く上ではやはり、人との付き合いが発生する現実は、些か皮肉で滑稽だった。

 それでも!

 春香は鍋をかき混ぜながら思う。


 訳解らない土地で、其処に馴染もうと四苦八苦しながら、新しい価値観を叩きこんでいく生活よりはマシ!!!!!


 なんとも、後ろ向きなイイトコ探しである。

 そんな春香なので、単なる調味料として入手している其れ等が、本来、違う用途で用いられる物であると云う事など、知る筈も、無い。

 森から採取してきた卵~どうやら、此れは果実らしいのだが~を鍋に割りいれ、塩と胡椒で味を調える。

 ふわりと卵が広がり、棚引く雲の様に鍋の中を泳ぎ始めた其の時。

「春香嬢」

 簡素な木の戸を押し開け、小さな影が家に入ってきた。

 瑠璃の髪・瞳・衣。

 まっすぐな髪を腰まで伸ばす少女は、幼く愛らしい顔立ちなのに、無表情だ。

 彼女の名は、専科(せんか)

 恩恵(たまふ)の式の片割れだ。

 春香は少女の来訪にいらっしゃいと言葉を返し、鍋を火から少し離して向き直る。

「如何したの?」

「主様から、伝言」

「……伝言?」

 少女達は、主である恩恵(たまふ)が此の小屋を訪れる際は先触れと称して事前に小屋を訪れ、主の過ごしやすいように小屋の中を整えていたのだが、伝言……言葉を伝える為だけに、此の小屋を訪れた事は無かった。

 また、恩恵(たまふ)の性格上、伝えなくてはいけない言葉は自分で伝える筈である。

 嫌な予感に、春香の頬が引きつるが、専科は無表情のまま、言葉を継いだ。

「此の森の守護である有力者が来訪する危険あり。籠り、出るな」

 端的な言葉だが、内容は違えようもない程に解り易い。

「……わかった。絶対でない」

 食材は十分だし、布認識の材料も山程あると頷き、春香は専科へ力強く言い切った。

「戸には閂して、何があっても外に出ないから」

「是」

 専科もきっぱりと頷く。

「彼の方は、麗しく賢く猛き方。でも、とても恐ろしい方。会わぬが、得策」

「勿論」

 有力者、と告げられた時点で春香の中ではなかった事だ。

 正直、恩恵(たまふ)と相対してる時も非礼は無いかと内心気に病んでいる春香にとって、此れ以上の人脈は必要がない。

「其れが過ぎたら、遊びにいらっしゃるのかな。たま様は」

「是。先触れに、また来る」

 淡々と告げ、少女が入口へ向いた瞬間。―――――――其の背に、煌めく白刃が、生えた。


 何が起こっているか解らなかった。


 春香は、背を向けた専科の、突然の変容に驚愕する事すら忘れて立ち尽くす。


 専科の、小さな背中の、丁度中央。其処に、銀色の長い棒が生えた様に、春香の目には見えた。


 銀色の棒に、刃がついている事に気づいた春香は、其れが日本刀に酷く似ているものだと云う事にも気づく。


 それは。


 専科が腹から刀で貫かれていると云う事だ。


 引き戸は開け放たれているのに、外の光が入ってこない。

 春香が余裕で出入りできるだけの大きさを持つ戸口は、なにか大きなもので半ば塞がれていた。

 ―――――――影、だ。

 影は、男だった。

 専科を、酷く怖い目で見降ろす男は、とても端正な顔立ちをしている。

 細身で背が高く、髪が長い。

 纏う衣は黒一色。

 何枚か重ねているらしい衣は、品の良い黒銀の帯で纏められている。

 黒衣の下に配された赤い衣は男の動きに合わせて僅かに見え隠れし、男の容姿と相俟って品の良さの中に華やかさを感じさせた。

 だが。

 ―――――――だが。

 其れと同時に、如何しようもない程の狂気を、感じさせる。

 春香が感じるのは、恐怖のみだった。

 専科の体が、ぐらりと揺らぐ。

 其れは力なく倒れたのではなく、白刃から逃れる為の挙動だった。

 一拍も間を置かず、専科は後ろへ―――――――春香の傍へと飛ぼうとするが、其れを察知した男は、何の感慨もなく躊躇いもなく、無造作に其の手に握られた刃を横に薙ぎ払った。

 春香の目の前で、宙に浮かんだ専科の胴が半ばから斬り裂かれる。

 引きつった悲鳴を喉の奥で殺した春香の足が、無意識に後ろへ下がった。

 宙に跳んだ専科の体は、溶ける様に其の場から消えた。小さいとはいえ間に人が居なくなった事に因り、煌めく白刃を無造作に構えた男と怯えきった春香は直接相対する事になる。

 男は、端正な顔に何の表情も浮かべず、ただ炯々と光らせる目に狂気を映して春香を睥睨していた。

「へぇ……」

 男の、形の良い薄い唇がそっと動き、囁く。


「お前が、ボクの桔梗に纏わりついている虫か」


 端正極まりない容貌故に、狂気は何倍にも濃度を増し、恐ろしさを醸し出す。

 真白な凶刃も、恐怖を煽る対象になった。

 黒髪に、白い肌。切れ長の目は涼やか―――――――な、筈だ。

 狂気さえ、存在しないのであれば。

 にいいと口の端が引き上げられ、春香は声も出せずにひいいと恐怖に慄いた。

 足が、体が、なるべく此の危険人物から距離をとろうと無意識に後ずさる。

 男は、何とも言えぬ品の良さで美しくふいと姿勢を正し、刀を手の内でかちゃりと鳴らすとついと小首を傾げた。

「……お前、如何やって此処迄入り込んだ。

      ボクの桔梗に如何やって取り入った」

 いっそ優し気と云っても良い声音は、幽鬼の響き。何処迄も何処迄も、恐ろしい。

 逃げなくちゃ。

 春香はそう思い、男から遠ざかろうと後ずさる。

 逃げなくちゃ。

 部屋に入れば、縁台を抜け、外に出られる。

 逃げなくちゃ。

 背後に、几帳の気配がした。

 逃げなくちゃ。


「逃がさないよ」


 白刃が閃き、風の様に男が間を詰めた。

 頭上に振り上げられた白刃を見つめながらも、春香は良い匂いがするとぼうとする頭で思った。

 此の人は、香でも焚きしめているのかな。

 やけにゆっくりに見える迫りくる白刃を避ける事も出来ず、春香が几帳に体を預けた其の刹那。

 ぐにゃんと柔らかいものに呑み込まれる感触が、春香の全身を包んだ。

 次いで、勢い良く吸い込まれる感覚。柔らかいものの上に乗った感触。

 ふかふかの羽毛だと視界一杯に広がる金の其れを理解した途端。其れは、力強く動き始めた、

 ばさりと尋常ではない大きさの羽音。ごうごうと行き過ぎる風の音。

 気が付けば。

 春香は、大きな鳥の背に乗って、高い空を飛んでいたのだった。

 備えあれば、憂いなし。

 そう、恩恵(たまふ)が云った意味がしみじみと実感できた春香だった。




 がこんと音を立てて几帳であった物が土間に転げ落ちる。かなりの厚みのあった其れを何の苦も無く両断した男は、今迄表情の無かった端正な顔に初めて苛立ちを浮かべた。

「……逃した」

 忌々しげに呟き、外に出る。空を仰げば、金の煌めきが遠くに見えた。

 鴻だ。

 美しい其の姿は、几帳に描かれていた姿そのもの。……式を日常品に潜ませる術は、男の妻の得手だった。

 金の煌めきは、空の青に飲まれる様にふいと消え失せる。

 瞬間、男は憎悪と云っても良い感情を目に載せた。

 ―――――あの女は、ボクより先に、桔梗に会うのか。

 視線は自然と下がり、林越しの花畑を映す。

 其処に、彼の、最愛の(ひと)がいる。

 男にとって心浮き立つ筈の其の事実が、今はとても腹立たしかった。

 花畑は、人払いの術。其の事を知っていた男は、今迄恩恵(たまふ)の居住地へ土足で踏み入るような事はしなかった。

 だが……彼は、思う。

 見も知らぬ下衆(おんな)が彼女に会っているのに、如何してボクが会ってはならないんだ。

 見も知らぬ下衆(おんな)が彼女の空間に入っているのに、如何してボクが我慢しなくてはいけないんだ。

 男は優美な所作で足を運ぶ。

 手には白刃が無表情に煌めいていた。




 鴻の上で、茫然としていた春香は、何時の間にやら瑠璃色の地に足を付けていた鴻の背から、何の疑問も無く其の身を滑り落とした。

 到着した、瑠璃の世界。

 天地を囲む玻璃の煌めきは、此の世界に来てすぐに、ただ一度だけ見た事のある景色だった。


「春香」


 澄んだ声音に呼び掛けられ春香が弾かれた様に振り返ると、其処には小さな影を二つ従えた恩恵(たまふ)の美しい姿があった。

 ゆっくりと近づいてくる、何の感情も浮かんでいない綺麗な顔を凝視して、春香はぼうと立ち尽くす。

 だが、次の瞬間。

 突然両目が潤み、春香は滂沱の涙を流し始めた。

 恩恵(たまふ)が頷くと、小さな影達は慌てた様に春香の傍に駆け寄っていく。

 今はもうしゃがみこんで小さく丸まり、嗚咽交じりに泣きじゃくる春香の頭を、百科と専科はたどたどしくも優しい仕草で慰める様に撫でた。

「専科、大丈夫だったんだ」

 小さく視線を上げ、しゃくりあげながら呟く春香へ、専科は常と変らない姿で是と頷いた。

「私は式。自然(じねん)存在(もの)

「恐れながら、主様の御前を失礼いたしまして百科が申し上げます。主様に形作られた(わたくし)達の体を打毀せる人の武器は皆無に等しいのですが、あまりの衝撃に専科は形をとる事が難しくなってしまったのです」

 そして、主の元に戻ったらしい。

 百科の解説を受けながら、大泣きと云う訳ではないが止まらぬ涙を奔流の如く流し続け、春香は只管泣き続けた。

「無事で良かったこと」

 漸う傍に立った恩恵(たまふ)が呟くと、春香は泣き続けながらもありがとうございましたと頭を下げた。

 助けて貰った礼だと云う春香の姿に、美女は無表情ながらも小さく首を傾ける。

「……春香。貴女、(わたくし)の余波を受けて此の現状となったのですよ」

「……だって生きてますから」

 えぐえぐぐしぐし。

 まともに発音できない状態だが、春香は必死になって云い返し、本当に怖かった、ありがとうございます、と、繰り返し繰り返し恩恵(たまふ)に礼を云う。

 ……善良な事。

 心中で呟いて、恩恵(たまふ)は取り出した(きぬ)で春香の顔を徐に拭い始めた。

「泣き止みなさい。似合わないわ」

 淡々と告げられる言葉は、慰めには程遠い。

 だが、其れが恩恵(たまふ)の精一杯と知っている春香は、はいと此れも繰り返し頷きながら、必死に目を擦った。

「何か欲しいものはあって?」

「平穏な生活が欲しいです」

 必死の言葉に、恩恵(たまふ)は其れは難しいわとさらりと言葉を返した。

 よもやそう返されるとは思っていなかった春香が絶句すれば、恩恵(たまふ)の許可を得て百科が春香の正面に立ち幼いながらも見事な礼をとり口を開く。

「主様の御許しを戴きまして、百科が申し上げます。主様の背の君様は春香様の事を御覧になる為に此の森にいらっしゃいましたので、暫くはご滞在なさる可能性がございます。背の君様は主様を耽溺・溺愛・盲愛・狂愛なさっておられますので、満足のいく結果を背の君様が得る迄は、平穏は無理かと」

 何とも不穏極まりない言葉の羅列に春香の頬が僅かに引きつるのを見て、専科が其の肩をぽんぽんと叩いた。

 視線が、此れ以上無い位同情している。

「……あの、怖い人が、たま様の旦那様なんですか」

 なんとか涙を止め、百科専科の慰めを受けながら春香が問うと、恩恵(たまふ)は変わらぬ無表情で端的に頷いた。

 恩恵(たまふ)の視線を受け、百科が再び口を開く。

「主様の御指示を戴きまして、百科が申し上げます。春香様を強襲致しましたあの方は間違いなく主様の背に君様であらせられます。森の守護たる有力者の中でも、力強く、学深く、古の教えにも精通していると名高くいらっしゃいます、御名を――――」


「教えなくても良いよ。

       ボクが、教えるから」


 不意に響いた美しい男声に、春香はびくうと体を震わせ、式達は音も無く春香を離れ恩恵(たまふ)の左右に控える様に並んで立った。

 ゆるり、と恩恵(たまふ)が振り向く。

 視線の先。其処には長身痩躯の端正な美男が、柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。

「ボクの名は、潔斎(いつき)。お前を護っている、優しくて賢くて綺麗な桔梗の、伴侶だよ」

 先程の狂気が嘘の様に穏やかに佇み、男……潔斎(いつき)は優しげに春香へ語りかける。―――――声色に反して、目は炯々と光り、其の手には変わらず抜身の刀を握っているが。

 怯える春香を隠すように、恩恵(たまふ)と式達は潔斎(いつき)と対峙する。

 玻璃の世界で相対する美男美女は、まるで瑠璃と黒曜石の様だ。

 なんとも云えぬ穏やかさと抜身の刃が、潔斎(いつき)には酷く似合っていた。

 潔斎(いつき)が手を伸ばせば触れあえるだろう距離になった時、恩恵(たまふ)は静かに口を開いた。

「勝手に入られましたね」

 響いた声に、潔斎(いつき)の足が止まる。

 語句は責めているものの声音は平淡極まりない恩恵(たまふ)の言葉に、潔斎(いつき)は困った様に小首を傾げた。

「疑似異界に閉じこもってしまう桔梗がいけないんだよ。入室の許可を得ようにも、門番も居なければ境もない」

「門番など、居れば殺すのでしょう」

 恩恵(たまふ)が何の感慨もなく告げれば、男だったらねと、端正な影が笑う。

「だって、ボクの桔梗の傍に男がいるなんてありえないよ」

 ねえ、と笑いかける姿は、優美で端正で非の打ちどころがない完璧な貴公子だ。……其の手に、刃さえなければ。

「桔梗が此処に籠るのは別に構わないよ。寧ろ嬉しいくらいだ。桔梗見ようとする愚か者共を殺す手間が省けるからね」

 でもね、桔梗。

 呼びかけて、潔斎(いつき)はそっと形の良い手を持ち上げると、綺麗な其の指で恩恵(たまふ)の頬を優しく撫でた。

「勝手に、囲い込んでは、だめだろう?」

 密やかに込められた狂気と殺気に、春香の体ががくがくと震えだす。

 恩恵(たまふ)が眉を顰めると、潔斎(いつき)は本当に愛おしそうに恩恵(たまふ)の目元を鼻を口を眉を、ゆっくりと指で触れて行った。

「桔梗は、綺麗だからね。変な輩が憑りついては、大変だよ」

「此の者は、竜女(りゅうじょ)です」

 恩恵(たまふ)の言葉に、潔斎(いつき)は形の良い眉を僅かに持ち上げる。

 先を促す様な其の仕草に、恩恵(たまふ)は淡々と言葉を紡いだ。

「異界から来たそうです。此の森で暮らしたいと望みました。私も話し相手が欲しかったので、居住に際して手助けをしました。其れだけの事です」

「……それだけ?」

 潔斎(いつき)が問う。

「桔梗を探る発言は」

「ありませんね」

「桔梗への無心は」

「ありませんね」

 むしろ、私に手料理を饗してくれるのだと云えば、潔斎(いつき)の顔が思い切りしかめられた。

「桔梗。無防備に何処の輩とも解らない人間が作った料理(もの)を口にしてはだめだろう」

「森から採取された物ばかりです。式達もいますし」

 異変があれば即座に式が動くと告げる恩恵(たまふ)の言葉に、潔斎(いつき)は一瞬憎々しげな視線を二人の少女へぶつけ、溜息をついてから再び恩恵(たまふ)の花の顔を見つめる。

「桔梗」

「それに」

 相手の言葉を封じる様に口を開き、恩恵(たまふ)はひっそりと僅かな微笑みを浮かべて云った。

「春香の料理は、とても、面白いのです。……とても」

 其の声音に不穏な響きを感じ春香は思わず式達を見るが、二人の少女は平素の様子を微塵も感じさせない人形然とした様子で春香の視線には一切答えない。

 なんとも云えない不安を感じた春香が今度は二人越しに恩恵(たまふ)を見遣れば―――――――其処では、感極まった潔斎(いつき)が、恩恵(たまふ)を思い切り抱きしめていた。



「ああ!

    なんて可愛いのだろう!

    ボクの桔梗は!!!

             本当に可愛い!

                   可愛い可愛い可愛い可愛い!!!」



 如何やら、微笑みに撃ち抜かれたらしい。

 其れまで殺気に満ち満ちて握りしめていた白刃は、何の未練もなく床に打ち捨てられている。

 端正な顔立ちに笑みを漲らせ、白い頬をほんのりと赤く染め、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を抱きしめる。恩恵(たまふ)の表情が全くいつも通りの無表情な事もあり、潔斎(いつき)の姿が異様極まりない。


 ……ああ、此れが良く聞く『残念な美形(イケメン)』なんだ……。


 元の世界で良く聞いてはいたが、実際はなかなかお目にかかれない貴重な変種を目にした春香は、見なくても良かったよなあとちょっと遠い目をしつつ、殺気から解放された体を弛緩させ、ゆっくりと地面に膝をついてひっそりと一息ついた。

 一方。

 思う存分恩恵(たまふ)を抱きしめてはしゃぎ倒した潔斎(いつき)は、些か怖い視線は其の儘だったが殺気を霧消させ、春香へと向き直った。

 刀を何処からか出した鞘に納めると、無造作に其れを専科に預ける。

 空手(からて)となった事を示す様に、イイ笑顔で恩恵(たまふ)の前でひらひらと手を振る潔斎(いつき)へ、恩恵(たまふ)は無表情のままこくりと頷いた。

 ついと、潔斎(いつき)が春香へと歩を進める。……其の片手は、確りと恩恵(たまふ)の肩を抱いている辺りが、流石だ。自分の物だと周囲に喧伝したいと云う気持ちを欠片も隠さない其の姿に、春香はよろよろと立ち上がりながらやっぱりザンネンな……なんだなあ、としみじみ心中で呟いた。

 だって。

 春香は思う。

 独占欲強いくせに、自慢したがるって如何なのよ。

 しみじみと面倒くさい男だな、と断じる春香の目の前で、潔斎(いつき)は整った顔立ちに品の良い微笑みを浮かべて、春香をじっと睥睨した。

 目つきが、怖い。

 蛇の目だ。

 今迄散々な評価を下していた癖に、一瞬にしてがくがくと体を震わせ始めた春香の隣で、専科と百科が同情の視線を向けている。

「君は、良く此処に来るの」

 優しげながら其の其処に何とも言えぬ恐ろしさを宿した声音に、春香は無言で思い切り首を振る。

「違います! 今回はたま様が助けて下さったので特別です!」

 慌てながらも、突っかかる事無く、春香はそう声を上げると、見苦しくない程度の勢いで深々と頭を下げた。

「たま様には大変お世話になっております。瀬野尾春香と申します。先にお名前を戴いてしまいまして申し訳ありません!」

 そう云って頭を下げたまま小さく震える春香の姿に、潔斎(いつき)は小さく眉を上げ恩恵(たまふ)を見遣る。

 其の視線に、恩恵(たまふ)は無表情な中に満足の色を刷いて視線を返した。

 ふーん、と、潔斎(いつき)は心中で思う。

 無礼じゃない。けど、此れは不完全だ。

 礼儀作法は如何やら知らないらしい、と潔斎(いつき)は春香を見て断じた。だが、下衆よりも教育はされているらしい、と。

 此れはなかなか面白いな、と潔斎(いつき)恩恵(たまふ)の髪を優しく撫でながら思った。

 許しを与えていないので、ぷるぷる震えながらも春香は頭を下げている。其の様子が、潔斎(いつき)にとっては礼儀作法を教えられ始める辺りの幼子の様に見えて何とも云えず面白いのだ。

「うん、一寸礼儀に欠けているよね」

 頷いて徐に潔斎(いつき)が云う。

 びくうと震える春香の様子と、不服を瞳に滲ませて見上げてくる恩恵(たまふ)の視線を大いに楽しみながら、潔斎(いつき)はだからと口を開いた。

「君の家で、いつも桔梗にしてるみたいに持て成して見せて。いつまでも君が桔梗の部屋にいるなんて、気分が悪いからね」

 さり気無く未だ許していない事を滲ませながらも、潔斎(いつき)にしては穏やかにお願いすれば、春香はばっと顔を上げてうんうんと頷き、「はい!」と慌てた様に返事をする。

 瞳の必死さ加減が、実に、潔斎(いつき)のツボに入った。

 目元に、冷笑ではない笑みが、ほんの僅かに滲む。

「うん、じゃあ、行こう」

 ねえ、桔梗。

 甘い甘い声音で愛しい(ひと)に声をかければ、恩恵(たまふ)は呆れた様に小さく吐息した。

 移動、と云っても、一瞬の事。

 潔斎(いつき)の声に恩恵(たまふ)が応え、其の姿に周りの者が従い、一歩踏み出せば其処は既に春香の住居の中だった。 

 四阿とは云え、基本的に、住居の形式は日本の家屋だ。

 畳敷きでは無く板敷で、その代わりに草で編んだ座布団と、主賓の席の下にのみ織物が敷かれている。……織物は、式達が持って来ているので、此の家の備品ではない。

 外と縁の境にある簾は引き上げられており、雨戸も一切ついていないので、森の心地よい日差しが川を越える涼やかな風と共に室内に入ってくる。

 一間しかないとはいえ、それなりの広さがある部屋の、上座、と思われる場所に、式の二人が席を誂え、主賓たる美男美女は其処に座った。

 其の前に小ぶりの卓を手早く整え、春香は土間に取って返す。……食べ物を床とは云え地べたに置くのは些かならぬ抵抗があった春香は、森を散策中に手に入れた材で卓を拵ていた。正座で座ると丁度いい高さの其れは、平べったい何かと、足に丁度いい其れ等で構成されている。其れに足を付け~接着は、森で得た何やら粘着質の物だ~小さな(テーブル)は完成した。不可思議な板は、大樹の切り株を薄く削いだような形をしており、表面は磨かずともすべすべしていた。鉱石の断面みたいだと、春香は常々思っている。

 台所で、春香は棚から二つの茶碗と、一つの皿を出した。

 茶は、森の中で摘んできた推定ハーブ類を煎じてフレッシュハーブティにしている。春香的には、ミントのハーブティだ。茶菓子は、クッキー。覚醒果(チョコ)を削って混ぜ込んだ、自慢のチョコチップクッキーだ。……因みに、小麦粉は春香の顔程もある大きな花から採取し、バターは木の洞から取り出したものだが。出自に関して、春香は心に蓋をする事をこの二か月間で学んでいた。

 盆に其れ等を載せて再び室内へ。

 其の御前に茶菓子と茶を出した途端、恩恵(たまふ)の髪を愉しげに梳いていた潔斎(いつき)の目がすうと細められた。

「動きは小綺麗なのに、礼儀が全くなっていない」

 ざっくりと断じられて春香は引きつった笑顔ではあと頭を下げる。

「申し訳ありません」

 とりあえず頭を下げて、其の儘下がろうとすれば、潔斎(いつき)は鷹揚に手を振り、はんなりと微笑んだ。

「別に怒ってはいないよ。其れが桔梗の望むものなのだから、君はそのままの方が良い」

 ボクも気にしないしね。と笑う姿からは、先程の狂気を感じさせない。

 ゆったりと座って、うっすらと優しげな微笑みを浮かべる姿は、正真正銘の美男だった。

 茶菓子と、茶には手を付けず、潔斎(いつき)は二人の前に座り込んだ春香へ、にこにこと機嫌良く滔々と話し続けていた。

「ボクの名前にはね、清き存在(もの)、と云う意味があってね」

 くすくすと笑いながら、恩恵(たまふ)の頭を抱きしめて言葉を継ぐ。

「ボク達が結ばれた式は其れは盛大だったんだよ。『潔斎(いつき)恩恵(たまふ)とは、何たる慶事か! 此れを機に領国(くに)はますます反映しよう』と、評判でね」

 其の時の、婚礼衣装を着た恩恵(たまふ)の素晴らしさと云ったら! 止まらない語りに春香はだんだんと笑顔が引きつるのを感じた。

 延々続くと思われた惚気は、結婚式後の披露宴で恩恵(たまふ)がどれだけ男の視線を独占したかそいつらを余す事無く自分の心の手帳に書き記したかを語った後、潔斎(いつき)は何気ない仕草でチョコチップクッキーを指先に摘まんで持ち上げた。

「さて、春香。聞きたい事があるんだけど」

 指先のクッキーをゆらゆらと動かしながら、潔斎(いつき)はそうっと目を細める。

「此れ、どうやって生成したの」

「……せいせい、ですか?」

 思いがけない言葉に困惑しつつ、春香はとりあえずクッキーについてだろうかとあたりを付けて言葉を紡いだ。

「えっと、お口に合いませんか?」

 まだ一口も食べて無い筈だけど、と心の内で呟いて、春香は潔斎(いつき)の端正な顔をみつめた。隣では、恩恵(たまふ)がいつも通りの様子で茶を含み、茶菓子を啄む。

「美味しいわ」

 不安そうな春香へ恩恵(たまふ)が云えば、春香の顔が僅かに安堵で緩んだ。

「……たま、相変わらず剛毅だね」

 潔斎(いつき)は呆れた様な声音を溢し、形の良い長い指で添えられたクッキーもつまみ上げ目の高さに持ち上げて見分する。

「あの、毒とかは入れてません」

「そんな事じゃないさ」

 春香の言葉を投げやりに否定して、潔斎(いつき)は呆れた様に摘み上げていた其れ等を皿に戻した。

「春香、君、何を作ったのか、本当に解ってないの?」

「そう、云われましても……」

 困惑しきった春香の、力の無い声に、潔斎(いつき)ははあああと盛大な溜息を吐いて、饗された茶とクッキーを指で指し示す。

「此れ、どんな城下でも、売れば山城なら簡単に買い取れる値がつくよ」

 まあ、買おうとする以前に作った人間を召し抱えに入るかもね。

 金額より何よりも、召し抱える、と云う不吉極まりない言葉に春香は絶句し、固まってしまう。其の様子に本当に何も知らないのかと潔斎(いつき)は胸中で笑い、傍らの恩恵(たまふ)の細い体を抱きしめた。夫の唐突ながらいつも通りの行動に、恩恵(たまふ)は我関せずと茶を楽しむ。

 綺麗で綺麗な夫婦を前に、未だ驚愕から抜け出せない春香へ、潔斎(いつき)はほろりと言葉をかけた。

「なら」

 端正な顔に、魅了の笑みが浮かぶ。

「見せてあげよう」

 楽しげに云い放ち、潔斎(いつき)は無造作にクッキーを摘み上げると軒先の……川を臨む庭に出た。勿論、恩恵(たまふ)を伴って。だが、庭に降りたのは潔斎(いつき)だけ。恩恵(たまふ)が縁側に座る姿に可愛いと小さく身悶えた後、潔斎(いつき)は優美極まりない仕草で片手の指で剣を模った。

 刀印だ、と春香は思う。

 人差し指と中指を揃えて立て、他を曲げた状態の手の形は、春香が識っている密教や陰陽道で術を使う時に作る片手の印に、其れは酷似していた。

 クッキーの上にその指先を添え、潔斎(いつき)は何やら唱えると、間髪入れずに其れを思い切り空に放り投げた。

 其の時の、潔斎(いつき)の楽しげな様子に、嫌な予感を感じるべきだった、と春香は思った。

 刹那。ごうん、と音ならぬ音が周囲に響き渡り…………空が砕け、昏い裂け目が唐突に生じた。

 青い空に突然生じた其処から真っ黒な光が溢れ出し、大瀑布の態で地面へ流れ落ちる。

 だが、次の瞬間。

 黒光の滝が霧消した代わりに大地に現れたのは、黒い闇と赤い光を纏う―――――――天を突く程に巨大な、蛇。

 もやもやとした黒い何かを吐き出し続ける裂け目から、垣間見える黒と赤と青が渦巻き混ざり合う不気味な空間。其れを戴き、鎌首を上げて在する巨体は、不思議と一切を砕かずに、だが傲然と其の場に現れた。

 頭は、八つ。其の一つ一つにある一対の大きな赤い目が、眼下の人間達を睥睨している。

 家の、軒先。

 恩恵(たまふ)は縁台に座し、潔斎(いつき)は其の少し離れた場所で、平然としている。

 渦巻く不可思議な風に黒髪を揺らす様は、二人とも人外の美しさだ。

 其の後ろで。

 春香は、愕然として腰を抜かしたように縁台にへたり込んでいた。左右を、小さな影が支える様にして体に手を添えて立っている。

「……え……?」

 思わず呟いた春香の言葉に、左右から慰める様にぽんぽんと紅葉の手が春香の背中を叩いた。

 何とも言えぬ違和感を放出する巨大な蛇は、周囲を睥睨して、おそらく己を呼び出したであろう男の端正な顔立ちを睨めつける。


「「「「「「「「何用か」」」」」」」」


 轟雷とも思える声音が、辺りを揺らした。

 声音になんの情も感じられないが、八つの頭かが唱和する言葉は、其れだけでも恐ろしい響きを孕んだ。春香は思わず縁台に沈み込んだが、相対する美男は事も無げににこやかに言葉を返す。

「特に用は無いのです。ただ、アレを作った者へ、どのような物であるのか、知らしめたかったので」

 其の微笑みを何の感慨もなく見つめた八つの頭は、最初ぐうっと恩恵(たまふ)を見て……次いで、ぐうっと春香に近寄った。ひいっと悲鳴を上げた姿を、燃える鉄鉱石の様な蛇の目はじいっと見つめた後、再びぐうっと頭を引いて、不穏な気配高まる空へ高く鎌首を擡げる。


「「なれば、其の者に申せ」」

「「意図無くして、其の力奮うでないぞ」」

「「我等を苦も無く顕現成さしめるとはなあ」」

「「いや、見事な、呼び水であった」」


「お言葉勿体なく」

 優美に礼をとる美男へ、巨大な蛇の全ての頭が威厳に満ちた様子で一つ頷いた。


「「「「「「「「なれば、我等は去るぞ」」」」」」」」


 蛇の冷徹さに満ちた声音で傲然と言い放ち巨大な蛇は悠々と其の身を伸ばして空に開く裂け目へと戻る。いっそ優美ですらあるその異形に、美男は美しく深い礼をとった。

 蛇の姿が全て治まった後も、空の裂け目は健在だったが、美男は慌てずに……いつの間にか、春香が淹れた茶を持って控えている専科から茶碗を受け取り、其の中身を逆の掌に注ぐ様に中身を空ける。刹那、茶である筈の其れは宙で丸く凝固し、光を放ち始める。

 何やら潔斎(いつき)が呟いた瞬間、元・茶は音も立てずに急速に膨張し、全てを光の内へ取り込んだ。

 それは、一瞬の事。

 光が去り、回復した視界に見えたのは―――――――いつもと寸分変わりない、美しい空と麗しい森の景色。庭には、瑞々しい草花と地面が静かに存在している。

 優美な足取りで、美男は縁台へ近寄り、其処に座す美女の隣に腰かけると其の細い体を愉しげに抱きしめた。

 茫然と。

 ただ、茫然と在るのは、春香のみ。

「……で、理解できたかな」

 美男が、潔斎(いつき)が、春香へ云う。

 其の言葉に、春香は茫然としたまま小首を傾げた。

 ええと、と虚ろに呟く其の姿へ、潔斎(いつき)は呆れた様に吐息して見せ、恩恵(たまふ)を伴って室内へ戻った。

 恩恵(たまふ)を伴って元の上座に座り、再度理解を問うた潔斎(いつき)へ、春香は僅かに首を傾げた状態で愛想笑いを浮かべた。と、云うより。其れしかできないのだ。

 反応のあまりの曖昧さにと乏しさに、潔斎(いつき)は問いかけの方向を変えてみる。

「端的に言えば、此の物質は食べ物ではないよ」

 特に、混ぜ込まれた物などはね、と断言され、春香は大きく目を見開いた。

「あの、ですが、果実……」

「うん」

 笑顔のままに頷いて、潔斎(いつき)はチョコチプクッキー擬きを摘み上げる。

「チョコレートは問題ないよ。だけれど、小麦粉に卵にバターに砂糖まで混ぜ込めば、食べ物なんて云えなくなるよ」

 さらりと放たれたのは、春香の中に在る食材の名前だ。

 驚きに目を見張る様子に、潔斎(いつき)は僅かに眉を寄せ、ちらりと恩恵(たまふ)を見た。

 無表情に見返す恩恵(たまふ)に心行くまで見惚れた後、潔斎(いつき)は控える式へと視線を移す。

 そして、溜息。

「……恩恵(たまふ)。最初の説明を、式に任せたね」

 無表情に頷く姿に感極まり抱きしめた後、潔斎(いつき)は困惑しきりの春香へ視線を移した。

「先ず、説明しなくてはいけないのだけれど」

 潔斎(いつき)の言葉に、春香が居住まいを正して必死な視線を向ける。……其の様子が、また、面白いと、潔斎(いつき)は口の端に小さな笑みを刻んだ。


「君の言葉は、問題なくボク達に通じている。だけれど、同じ意味を伴っているかどうかは、別問題の様だね」


 さらりと述べられた根幹の崩壊予告に、春香が驚きの表情で固まった。

「ああ、意思の疎通に問題は無いよ。けれど、個体に関しての認識に、齟齬が生じる可能性があると云う事だよ」

 笑顔で云われた其の内容に、春香は動揺しつつも何とか口を開く。

「でも、あの、もう、随分此処で生活してますけれど、物々交換も問題なく……」

「問題なく通じてるだろう? 砂糖とか、塩とか、醤油とか」

 指摘され、春香ははたと正気付いた。

 そうだ。

 春香は思う。

 最初に、森の民と物々交換した時に、自分は普通に云ったのだ。

 調味料は無いか、と。

 そうしたら、塩とか砂糖とか醤油が出てきた。昆布すら、出てきた。

 其の後は、足りない調味料を名指しして交換していたのに、全く問題なく其れ等が出てきた。

 では、其の個体の名前は此方そのままの言葉であり、其れ等の総称は此方と同じ調味料なのだ。

 でも。

 春香は思う。

 あれらは、鉱物であったり、樹液であったりしただけで、普通に調味料として使われていたのではないのか。

「言葉に問題は無いけれどね。君の使う個体を示す言語の意味と、ボク達が示す意味が異なる様だ」

 潔斎(いつき)は云って、例えばと指を立てる。

「塩、胡椒、砂糖。此れ等はとても価値の高い鉱物で、色々な物を作る時の物質同士を繋ぎ合せる為に用いられる」

 ふわりと、笑み。

「間違っても、食べたりしない」

「じゃあ、今迄私たま様にたくさんお食事をお出ししたのって……!」

「うん、本当にボクの桔梗は剛毅だよね」

 うふふふふ、と楽しそうに笑いながら恩恵(たまふ)の頭を優しく抱きしめ、潔斎(いつき)は春香へと視線を戻す。

 其の瞳は、蛇の様だ。

「まあ、君がね、土を食べるようなものだよ。土とか、砂とか。食べようと思わないけれど、食べても害が無い……と云う物だろうね」

 此の式が反対しなかったのだから、と告げられ、春香は二人の少女を見遣る。

 少女達は、常と変らぬ様子で、いつもの場所に控えていた。

「でも、最初、百科は全部の名前を教えてくれましたけれど……」

「式は、自然(じねん)存在(もの)

 恩恵(たまふ)が呟く。

 其れを受けて、式達は頷き、潔斎(いつき)は口を開く。

自然(じねん)存在(もの)、と云う事は、其の世界の言葉の本質を以て語る事が出来ると云う事だよ。式が語るのは、其の言葉に宿った指し示す意味だからね」

 つまり、だ。

 潔斎(いつき)が笑う。

「言葉の内に内包する(いみ)を、式は語ると云う事だよ」

 チョコレートが覚醒果になったのは、そう云う事なのか、と、春香はおぼろげながら理解した様に思い頷いた。……非常に、曖昧な理解だったが、今の春香には其れが精一杯だった。

「まあ、君が此の世界の言葉の本質を学びたいと云うなら、式を介して一々解説してもらえば良いと云う事だね。……勉強、するかい?」

 ぶんぶんぶん、と、思い切り首を横に振った春香に、潔斎(いつき)はとても楽しそうに短く笑い声をあげる。

「そう云う事だよ。君が生きて行く上で、この言葉の相違はまあ障害にはならないだろ。……勿論」

 潔斎(いつき)が笑う。

「此の森から出ると云うなら、話は別だけれど」

「出ません」

 きっぱり。

 打てば響く勢いで否定する春香の姿に、潔斎(いつき)は笑顔のままに頷いて見せた。

「其れが、最良だろうねえ。……折角、ボクの桔梗が拾った命なんだから、大事にして貰いたいしね」

 なんとも物騒な其の言葉に、春香ははいと勢いよく返事をして、此の小屋で暮らしていく決意を固める。

 そんな春香の心を読んでか、潔斎(いつき)がところでと楽しげに問いかけた。

「帰る方法とか、来た原因とか、調べる気はないのかい?」

「はあ」

 至極尤もな言葉に曖昧に頷きながら、春香は困った様に小さく笑った。

「もし、事例があるなら調べたいとは思いますけど……」

 云いながら、ちらりと恩恵(たまふ)へ視線を流し、言葉を継ぐ。

「たま様の御様子だと、私みたいな存在って、珍しいと云うか、ありえない感じでしたので」

「だから、諦めた?」

「はい」

 間髪入れずに頷く春香に、潔斎(いつき)は僅かに眉を引き上げて呆れた様に表情(かお)を作る。

「潔いね」

 其れに、春香は全力で否定した。

「だって、たま様が御存知ないような事、一般人以下の常識しかない人間が如何やって探せるって云うんです。それに……私の世界でも、オカルト系雑誌……って、あの、私の世界で不可思議不条理な現象について尤もらしく書いてる雑誌なんですけれど、其れに全く唐突に異次元に迷い込んだ人の話とか載ってましたし。此れはもう、自然災害とか事故だと思うしかないです」

「桔梗が知らないだけで、世の中には手段も事例もあるかもしれないだろう」

「たま様が……家柄があって、力がある。そんな存在(かた)が知らない知識は、普通は奥義とか秘伝とか云われると思います」

 ですから、もう、腹を据えて落ち着くしかないんです。

「本当に、出た先が森で助かりました。此れで街のど真ん中とかに出たら、きっと気が違った危ない奴と思われてすぐに牢屋とか入れられてますよ。そうならなくても行き倒れフラグしか思い浮かびませんから」

 本当に、森で良かった。たま様にお会い出来て僥倖でした。

 冷静に断言しつつ、深々と礼を取る春香に、潔斎(いつき)は満足そうに口の端を引き上げた。

 此れは、敏い。

 此れは、賢い。

 夫が心中で断じている事を察したのか、恩恵(たまふ)感情(ねつ)の無い瞳を其の端正な顔に向けて、満足の気配を見せる。

 其れに感極まって暫く抱擁を楽しんだ後、綺麗な顔が再び春香へ向けられた。

「うん、此の件に関しての君の見識は解ったよ」

 潔斎(いつき)の言葉に何とも言えぬ弾む様な気配を感じ、春香はそっと頭を上げた。

 其の先には、ニコリと笑った、端正な顔。

 

「ところで、君」


 潔斎(いつき)がクッキーを指示(さししめ)し、愉しげに問いかける。


「君が作った此れの正体、知りたくないの」


 其の言葉に、恩恵(たまふ)も式も春香を見つめた。

 巨大にして強大な存在を呼び出した其れ。

 正体を知りたいと思う事は必定ではないのだろうか。

 だがしかし。

 春香はきっぱりと言い切った。


「知らない方が良い事が、世の中にはたくさんありますから」


 此れ以上無いと云う程に意志(ちから)に満ち満ちた……だが、なんとも消極的な断言に、潔斎(いつき)はそれじゃあと晴れやかに言葉を継いだ。


「召喚した存在(もの)について教えようね」


「いいですううううう!!!!!!!」


 春香が涙目になりながら懇願する様に絶叫すると、潔斎(いつき)ははんなりと微笑んだ。

「良いんだろう?」

「結構です!」

「結構、ね。素晴らしい話と判断してくれて嬉しいよ」

 更に言葉を続けようとした春香へ、潔斎(いつき)がはんなりと『笑いかける』。

 穏やかな裏に殺気を感じさせる其の笑みに、春香は泣き出す一歩手前の表情で、ありがとうございますと項垂れた。

 満足げに頷くと、潔斎(いつき)は実に愉しそうにさらりと爆弾を破裂させた。


「あれはね、古代神だよ」


「かッ神様?!ですかあ?!」


 いやだああああああ!!!!と、心で大絶叫する春香は、正真正銘、普通の人間だった。……何処の一般人が、自分の菓子が神様を実体化させたなんて受け入れられるだろうか。

 目に見えて蒼褪める春香へ、恩恵(たまふ)が涼やかに呟いた。

「火の神。鉄の神。鍛冶の神。強い力持つ、創造の神」

「たま様!!!」

 追い打ちかけないで!と思わず呼びかけた瞬間、ボクの桔梗に声を荒げるって死にたいのかな、とばかりに吹き付けた極寒の殺気に、春香は思わずごめんなさいと潔斎(いつき)へ向かって頭を下げる。

 其の謝罪を笑顔で当然の様に受けながら、潔斎(いつき)は晴れやかに言葉を紡いだ。

「あの神はね、其の力の強大さから、普通はどんな祝詞や供物を奉じても、殆ど顕現出来ないんだよ」

 あそこ迄完璧に顕現するとは思わないかったねぇ。と、非常に……非常に楽しげに宣う潔斎(いつき)の様子に、なんでそんなに楽しそうなのかと春香がおずおず問えば、端正な顔が晴れやかな笑みを浮かべて応える。

「だって、考えても御覧よ。

     口先ばかりで偉ぶっている坊主や神官が成し遂げられない事を、

     君みたいな何の修行もしてない人間の手で成し遂げてしまったんだよ?

 楽しいじゃないか」

 本当に痛快だね。

 うきうき、と云っても良い声音に、春香はそうなんですかと僅かに引きながら頷いた。


「ボクはね。実力が無いクセに、権威を振り翳す奴等が大嫌いなんだよ」

 

 はい。

 そうだと思いました!

 春香は心中でそう叫び、其の楽しげな笑みに引きつった笑みを返す。

 潔斎(いつき)の隣で平然と座り、黙々とクッキーを口にしていた恩恵(たまふ)は、そんな春香にちらりと視線を投げた。

 茶の、催促だ。

 いつもならされる前にお茶を出していたのだが、今迄の話を聞いてしまえばお代わりを出す事さえ躊躇われる。

 春香が悩んでいると、潔斎(いつき)が気にしなくていいと頷いた。

「と、云うよりもね。ボクの桔梗を待たせるって、お前はそんなに偉いのかい?」

 明確な殺気に思い切り首を横に振って、春香はお茶の支度をしに台所へ飛んでいく。

 其の後ろ姿を見遣り、恩恵(たまふ)は伴侶へ視線もむけずにぼそりと云い切った。

「帰りませんよ」

 断じる様に呟かれた其れに、潔斎(いつき)は一瞬表情を無くすと、ついでにいと笑顔を作る。

「桔梗。もう、我儘は聞けないよ」

 腕の中の恩恵(たまふ)を堪能しながら、潔斎(いつき)は、だって、とうっとりするような声音で囁く。

「ボクが寂しいんだ。事態も、落ち着いたしね」

 ふふふ、と溢される笑声の儚さ―――――――恐ろしさ。

 だが、恩恵(たまふ)は無感動に其の声音に視線を投げ、無言の拒否を繰り返す。

「ああ」

 だけれど。

「可愛いねえ、桔梗」

 狂気を孕んだ微笑みは何処までも穏やかで―――――――覆りようがなくて。

 恩恵(たまふ)はひっそりと吐息した。

 台所から戻った春香は、二人の様子の変化に僅かに首を傾げる。

 潔斎(いつき)は嬉しそうで。

 恩恵(たまふ)は嫌そうで。

 不思議に思いながら恩恵(たまふ)の茶碗へお代わりを注げば、潔斎(いつき)が愉しげに恩恵(たまふ)が屋敷へ戻るのだと告げた。

 其れを聞いた春香は茶を注いでいた手を止めそうなんですかと小さく頷くと、自分の席に戻り、ポツリと呟く。

「たま様、お戻りになられるんですか」

 掌で茶碗を揺らしながら寂しげに微笑むと、春香は深々と頭を下げた。

「今迄ありがとうございました。本当に……たま様がいらっしゃらなかったら、私、如何なっていたかわかりません」

 家だってこんなに立派な物を……と続ける春香へ、恩恵(たまふ)が訝しげに、だが無表情に呟いた。

「今生の別れの様ね」

 云われて、春香はえ?と呟く。

「だって、たま様、奥方様ですよね?」

 潔斎(いつき)を見れば、端正な顔が楽しげに笑っている。

「偉い方の御方様は、滅多にお外に出られませんよね?」

 春香の言葉に、恩恵(たまふ)は無表情のまま、潔斎(いつき)は笑顔のままに其の姿を凝視する。

「……本当に、良く物を識っているね」

 普通の下衆(もの)ならば、位の高い家の人間は好き勝手が出来ると思っている事だろう。

 美しい衣を着て。

 美味しい食事を食べて。

 行きたい処へ行って。

 欲しいものを買って。

 ―――――――だが、実際は違う。

 美しい衣も美味しい食事も欲しいものも、下衆(しょみん)と比ぶれば、其れは手に入れられるだろう。

 だが、行きたい処へ行って、は別だ。

 其の自由は、位の高い家であればある程、失われていく。

 そして、恩恵(たまふ)は生家も婚家も、家格の高い、名門だった。

 自由に出られる、訳が無い。

 だが、其れを理解できる下衆(しょみん)は、そう多くはいない。

 春香は、其の希少な一角だった。

 異界から来た女は、己を下衆(しょみん)と云い置きながら、何処までも分不相応な博識を何気ない言葉に散りばめる。

 潔斎(いつき)は楽しげに愉しげに、春香へ視線を投げて笑った。

「此の家と、ボクの屋敷との、直通回廊を作るから、桔梗は今迄通り来るよ」

 ええ!?と驚いて、春香は潔斎(いつき)へ言葉を返す。

「旦那様以外の人間と会っても良いんですか!?」

 其の、潔斎(いつき)の本質をつかんだ言葉に、端正な顔が笑みを浮かべたまま、業腹だけどねと殺気を籠めて爽やかに告げる。

「でも、何処の輩か解らない者を傍に近づけるより、君の方がマシだからね。桔梗も一人じゃあ退屈だろうしね」

 其れって話し相手として採用されたと云う事?!

 心中で思わず叫んだ春香を安心させるように、勿論、と潔斎(いつき)が言葉を継ぐ。

「君を傍付きとして雇うとかそう云う事ではないよ。君は此の家から出る事は無いよ。まあ、桔梗が招いたりすれば、此れから開く回廊を通ってボクの屋敷に来る事はあるだろうけどね」

 住む場所や関わる存在(もの)が変わる訳ではないと云われて、ほう、とあからさまにほっとする春香へ、くつくつと笑い、潔斎(いつき)はそう云う事だから、と告げた。

 茶も無くなり、菓子も尽き。

 貴種達がそろそろ帰ろうとする時刻。

 式達が道を開き、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を伴って式が生み出した光へ歩みを進めた其の時。

「そうだ」

 潔斎(いつき)は、如何にも今思いついたと云う様に云って、春香を見た。


「君、本は好きかい?」

「大好きです!」


 即云い切った応えに、潔斎(いつき)はそうと楽しげな笑みを浮かべた。

「じゃあ、ボクの蔵書を見れるようにしてあげるよ。持って来ても良いけど、暇が無くてね」

「いえ! そんなお気遣い戴かなくても!!!」

 慌てて首を横に振る春香へ、気にしなくていいよと恩恵(たまふ)を抱きしめて潔斎(いつき)が笑う。

「読めるなら、読んでみたらいいよ。違う世界の人間が、此の世界に何処まで共通項を持つのか、興味深いからね」

 正直。

 正直、春香にとって、潔斎(いつき)は何時炸裂するとも解らない爆弾だ。

 抜身の白刃で追われた恐怖は、そう簡単に無くなりはしない。

 だが、しかし。

 此の申し出は、本の虫には魅惑的過ぎた。

 此の申し出を断れるなら、本の虫ではない。

 無言で煩悶する春香を、4対の目が其々の感情(いろ)で楽しげに見つめている。

 逡巡、煩悶、躊躇。

「あ……」

 ゆるりと顔を上げ、次いで頭を下げた春香の言葉に、迷いはなかった。

「ありがたく、お邪魔致します……」

 春香の言葉に、とてもとても満足げに頷いて、美男美女は瑠璃の一対を伴って光の向こうへ姿を消したのだった。




「では、春香嬢」

 後日。

 春香の家を訪れた百科と専科は、生み出した光の渦から、大きな几帳をずるりと引き出した。

 其れは以前、恩恵(たまふ)が春香に贈った物と同じ大きさで、今度は両面に風景が描かれていた。

 片面には、林を背に聳える、蔵の絵が。

 片面には、あつらえの良い床の間が。

 素晴らしい筆で描かれた其れは、几帳に描くには相応しくない題材だが、さして気にせず見入る春香に、式達は並ぶと口を開いた。

「蔵。書が入っている」

「春香様に百科が申し上げます。此の几帳は主様の御力により術を組み込まれた回廊でございます。床の間の絵は主様の居る場所へつながる回廊でございます。反対側の蔵は、主様の伴侶であらせられます潔斎(いつき)様の蔵書が保管されました蔵でございます。回廊の扉を開く事は、春香様には些か難しいかと思われますので、几帳を4度叩き、私共の名を御呼び頂ければ、此方に参上致しまして回廊を開かせて戴きます」

 つまりは。

 相手側の都合が悪ければ道は繋がらない訳で。

 つまりは。

 式や恩恵(たまふ)の力が無ければ開かない扉な訳だ。

「……ありがとう」

 多分、己の安全を考えてくれたのだと推察し、春香は式達に頭を下げた。

「不要」

「此れは主様の御意志です。百科も精一杯務めさせて戴きます」

 春香に倣う様に式達も頭を下げ―――――――次いで、お互い、くすりと笑う。


 


 こうして、春香の生活は、新しい幕を開けたのだった……。

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