嵐の前の静けさ
「んー、でもー、えー、やっぱりー」
《絶唱》の洋館。その大広間で、海は独り言を呟きながら、ソファの上を転がっていた。
ボードゲームに勤しんでいた海愛、カノン、キララは顔を上げる。羽空だけは、ボードゲームの駒から視線を外さなかったが、耳だけは海の声を捉えていた。
この状態の海を放置しておくと、解決するまで独り言を呟き続ける。それを学んでいる仲間たちは、顔を見合わせた。
こほん、とキララが咳払い。
「あー、海? 何かあったのか?」
抑揚のない、所謂棒読みであったが、キララは海に問いかけた。
海は勢いよく顔を上げて「聞いてくれる⁉」と身を乗り出す。セノラお気に入りのアザラシのクッションが海の足元で潰れた。
「昨日、散歩に行ってたんだけどさー。ちょっとおかしなことがあったんだよねー」
指を顎に添えて思案する海。昨日のことを思い出しながら、訝しげに目を細めた。
海は散歩が好きだ。広大な海を巨大な海洋生物たちと共に泳ぐ。その感覚はとても自由で、宇宙と海中が繋がったかのような高揚感を抱く。故に、海は暇さえあれば散歩に出向いているのだが、昨日散歩に行った場所は、どこか不思議な雰囲気だった。
生い茂る海草、海草、海草。まるで境界のように張り巡らされたその海草は、侵入者を防ぐように密接に鎮座していた。
小魚が海草の隙間から顔を出し、海を見てすぐに身を隠す。不思議に思っていると、海草の奥から声が聞こえてきた。それは、海洋生物の助けを求める声。
聖人は海洋生物と意思疎通ができる。海は仲間内でもその特性が強く、助けを求めている海洋生物がくじらであると、すぐに理解した。
理解したと同時に、海草の中に飛び込み、くじらの元へ向かう。声を頼りに海草を掻き分けていると、蔓のような海草に、雁字搦めに縛られているくじらを発見した。巨大だが、まだ子供のようだ。
海はすぐに子くじらを海草の蔓から解放し、心配そうに眺めていた小魚たちを宥めた。
これで一安心だろう、と海草から脱した時、強烈な違和感が身体を駆け巡った。
海は振り返る。
背後は海草。敵意も殺気も感じない。しかし、存在しないはずの心臓を握り潰されているような、強烈な違和感。
海は深く眉間に皺を刻みながら、無言でその場を去る。
《絶唱》の洋館に帰ってきても尚、違和感は消えてはくれなかった。
海の話を聞き終えた一同は顔を見合わせる。すると、やっと顔を上げた羽空が「そのくじら、怪我はしてたの?」と一言だけ問いかけた。
「ううん、怪我はなかったよ」
「そう」
再びボードゲームに視線を移した羽空は、駒を動かしながら目を細める。それ以上の質問はなかったため、海はソファに転がり直した。大広間には駒を動かす音だけが響く。
ゲームに勝利した羽空は、しかし、少しも嬉しそうな表情ではなく、ただ一言だけ神妙そうに呟いた。
「少し、厄介なことになるかもね」
「……緊急事態です」
神妙な顔をした海月の声が《火車》の歪な館に響く。
李を抱き上げて上下に振り回していた炎雨は、海月の声に首を傾げた。
「どうした、海月。ん? 夕焼も一緒なのか」
海月の後ろには、八の字に眉を下げた少年が追随していた。炎雨に名前を呼ばれた少年は小さく頷く。
少年の手の中には、粉々に砕け散った宝石が複数個。炎雨はそれを見て顔を顰めた。
「夕焼の宝石——…まさか、」
「ええ。その、まさか、です。ともかく、全員を集めましょう。話はそれからです」
海月の言葉に炎雨は頷き、李を抱き上げたまま「お前ら! 集合―!」と声を荒げる。炎雨の腕の中の李は嫌そうに両耳を塞ぎ、身を縮こまらせた。
数秒後。エントランスには《火車》のメンバー全員が揃う。
強面の男、彩虹。挙動不審な青年、蜜火。夕焼と全く同じ顔をした少年、朝焼。そして、フリルがふんだんに使われた童話のお姫様のような恰好をした青年、満月。
海月は満月の服装を見て、この世のものとは思えぬ顔をした。
「……満月くん、なんですか、その服装は」
「朝焼が用意してくれたものだ」
「そんなことは聞いていません。朝焼くんも悪ふざけは大概になさい。いくら満月くんが服装に頓着がないとはいっても、なんでもかんでも差し出しては満月くんの教育に良くありません」
「だって、満月、オレたちが服を用意しなきゃ、全裸で過ごそうとすんだもん」
なー、彩虹? と朝焼は不満そうに強面の男を見上げる。彩虹は大きく溜息をついた後、体躯に見合う低い声で「……その話は後でいいだろ。それよりも、こうして全員を集めた以上、何か重要な話があるんじゃないのか?」と鋭い眼差しで海月を見つめた。
海月はひとつ、咳払い。
「そうですね。満月くんの服装の件は、後ほど教育しましょう。服自体は可愛らしいですし、蜜火くんに裁縫してもらって、李サイズに作ってもらうのもありですね」
「……海月、話が逸れてる」
海月の服の裾を、夕焼が引っ張る。海月は再度咳払いをすると「緊急事態です」とその場の全員を見回した。
「……《皇帝》から李を守るため《火車》の家外に張っていた結界が壊されました」
その言葉に、全員の表情が変わる。
炎雨は、普段とは相反した低い声で「……原因は?」と問いかけた。
「原因は不明です。しかし、海洋生物に壊されるような柔な構造はしていません。何しろ、夕焼自らが〝能力〟を用いて張った結界なのですから」
「結界の強度に関しては、オレも海月と同じ意見だ。夕焼が結界を張ってた時、オレも一緒にいたし、片割れの能力に関しては仲間内の誰よりも知ってるぜ」
朝焼がひらひらと手を振る。
炎雨は一度唇を真一文字に引き結ぶと「海月、満月、原因をすぐに調べろ。蜜火と彩虹は李を頼む。夕焼は待機。朝焼はオレと家の周辺の見回りだ。いいな?」と有無を言わせぬ口調でそう言った。
全員が頷く。
炎雨の脳裏にほんの僅かな〝嫌な予感〟が過った。
海洋生物ではないとした、それは——…。
いや、みなまで言わずとも、おそらくこの場の全員の頭の中にその可能性が過っている。
炎雨はふと李を見つめる。
ガラス玉のようなその瞳には、不安の色は一切見えない。しかし、それが良いことかと言われると、そうではなかった。
炎雨は固い表情から一変して、屈託ない笑顔を浮かべる。そして、李の頭を優しく撫でた。
……彼女は相変わらず、それを嫌がるのだけれど。
同時刻。《聖剣》の館。
べには畳に腰を下ろし、愛刀の手入れを行っていた。隣には正座をした蒼滴が待機しており、恍惚とした表情でべにの一挙一動を目で追っている。べにの指が刀を撫で、蒼滴はほうと息を漏らす。
本来ならば、蒼滴にとってこの時間は至福。しかし、今日は少し違っていた。べにの美しさは健在だが、どこか心ここに在らず、といった様子なのだ。蒼滴のその心情を感じ取ってか、べには顔を上げる。
「蒼滴」
「はい、べに様」
「……静かだとは思わないか」
「……静か、でございますか?」
僅かに首を傾げた蒼滴を視界に入れて、べには目を細める。
確証はない。しかし、自分の第六感が確かに告げている。
部屋の外からは、メイクの楽し気な声と、アリアの迷惑そうな声が聞こえる。おそらく、もすはその二人を眺めながら溜息でもついているのだろう。
いつもの《聖剣》の姿。
いつもの騒がしさ。
しかし、それでも。
「……静かだ。とても」
それはまるで、嵐の前の静けさのように。




