残火と安堵
静寂が、焦土と化した大講堂を支配していた。
天井の巨大な亀裂から差し込む青白い月光が、砕け散ったステンドグラスの破片や溶け崩れた大理石の床を冷ややかに照らし出している。
私は足元に転がっていた白衣の燃えかすを一瞥し、肺腑に溜まった熱気を吐き出すように小さく息を漏らした。
「エルカ様……本当に、もう大丈夫なのでしょうか……?」
クラリスが私のインナーの裾を恐る恐る掴みながら、怯えたように周囲の闇を見回す。
その細い肩は小刻みに震えていたが、王女としての気丈さで必死に涙を堪え、崩壊した講堂の中央で立ち尽くしていた。
「ええ。ヴァルガの魔力反応は完全に学園の外郭防衛ラインを越えました。あの手合いは、一度『割に合わない』と判断すれば深追いはしませんよ。……もっとも、後始末の山が残されましたが」
床に倒れ伏している教師陣や警備兵たちへ視線を巡らせる。
全員、ヴァルガの圧倒的な体術と熱波で急所を外され、昏倒させられていた。命に別状はないが、意識を取り戻すには少々時間がかかりそうだ。
――バタバタバタッ!!
その時、本館の正面大扉の瓦礫を押し退け、複数の慌ただしい足音が講堂へと雪崩れ込んできた。
「クラリス殿下――ッ!!」
先頭を切って駆け込んできたのは、魔力の残光を刃に纏わせた生徒会長と、それに続く生徒会の執行部、そして重装備を整えた警備隊の主力部隊だった。
彼らは一様に煤と血煙に塗れており、正門での防衛戦がいかに過酷であったかを物語っている。
「無事か、殿下……ッ!? ……なっ、これは……!?」
生徒会長は講堂の惨状――溶け崩れた演壇、へし折られた大理石の円柱、そして消し炭になった床を見て絶句した。
そして視線は、無傷のクラリスと、黒のインナー姿のまま平然と佇む私へと注がれる。
「……何が起きたのだ? 『喰罪』の頭領、ヴァルガが本館へ侵入したと報告を受けて急行したが……」
「見ての通り、お引き取り願いましたよ。少々、講堂の内装を派手に模様替えしてしまいましたが」
私が淡々と告げると、生徒会長は怪訝そうに眉をひそめ、私の剥き出しの腕に刻まれた魔導刻印を凝視した。
だが、その追求が始まるよりも先に、背後から別の足音が響いてくる。
「エルカ先輩ーーッ!!」
「……エルカ特待生、無事だったのですね……!」
旧研究棟へと続く連絡路の扉が勢いよく開き、駆け込んできたのはセリア、シズク、フィリア、そしてクロエの四人だった。
それぞれ制服の袖が破れ、煤に汚れ、傷を負ってはいるものの、その足取りはしっかりとしている。
「セリアさん……! 皆さん……!」
クラリスが顔を輝かせ、堰を切ったように駆け寄った。
「殿下、ご無事で本当によかったです……!」
フィリアが胸に手を当てて深く安堵の息を漏らし、シズクは抜いていた星銀鋼の刀を静かに鞘へと納める。
セリアは講堂の惨状を見渡し、目を丸くして呆気にとられていた。
「これは……工房周辺も派手に荒れてしまいましたが、こちらはもっと凄いですわね……」
「このあと工房回りの修繕に取り掛からねばなりませんね。……それより、なんとかみなさん対処できたみたいですね」
私がメガネのブリッジを押し上げながら視線を向けると、四人は誇らしげに、しかし少し照れくさそうに微笑んだ。
「エルカ様に教えていただいた戦い方のおかげです……!」
控えめに、だが確かな達成感を滲ませて微笑むフィリア。
そのひたむきな姿にかつての相棒の面影が重なり、私の胸の奥が微かに揺れる。
だが、それを表情に出すことはない。
「クラリス殿下、お怪我はありませんか!」
「すぐに救護班を! 周囲の結界再構築を急げ!」
「先生方の意識を確認しろ!」
生徒会長の指示の下、警備隊と救護班が講堂内を慌ただしく動き回り始める。
クラリスはセリアたちに囲まれ、互いの無事を確かめ合ってようやく張り詰めていた緊張を緩めていた。
生徒会長もまた、王女の無事を確認したことで安堵の表情を浮かべ、警備隊長との状況報告に追われている。
誰もが、目の前の危機が去ったことに安堵し、事後処理と混乱の収束に意識を奪われていた。
私は人々の視線がクラリスや生徒会中枢へと集まっている隙を見逃さなかった。
大講堂の壁際に溜まる濃密な粉塵の影へと、気配を完全に遮断しながら滑り込む。
足音も、魔力の揺らぎも一切立てない、百年の潜伏生活で培った完全な隠密歩行術。
「……本当に、みんな無事でよかっですわ。エルカ特待生の訓練がなかったらどうなっていたか……」
クラリスの手を取りながら安堵の息を漏らしていたセリアが、ふと視線を彷徨わせ、首を傾げた。
「……あれ? そういえば……エルカ特待生? どこに行かれましたの……?」
「えっ……? 先ほどまで、クラリス殿下のすぐ隣にいらっしゃったはずですが……」
フィリアもハッとして周囲を見回す。
「……気配が、完全に消えている」
シズクが鋭く眉を寄せ、暗がりを見据えた。
背後から届く少女たちの微かなざわめきと混乱を、私はすでに遠くの音として聞き流していた。
――コツ、コツ、コツ。
大講堂の喧騒を完全に抜け出した私は、照明の落ちた本館の薄暗い裏通路を、音もなく歩いていた。
窓の外から吹き込む冷たい夜風が、薄着のインナーの肌を撫でていく。
だが、私の頭脳はすでに次の計算式を組み立て終えていた。
(学園の外郭結界を内側から解除し、旧研究棟の死角へ別動隊を誘導し、本館への最短ルートを敵に提示した存在……)
それは、警備隊の一般兵や平の教師にできる芸当ではない。
学園の術式構造とセキュリティ権限の最深部にアクセスできる、ごく一握りの人間。
ヴァルガが残した『百年前の事件』という挑発的な言葉。
そして、この完璧すぎる襲撃の手引き。
(……やはり、あの事件に関わる何者かが、この学園の中枢に巣食っている)
「待たせるのも無作法というものです。……さて、答え合わせと洒落込みましょうか」
丸メガネの位置を指先で静かに押し上げ、私は月明かりの届かない管理棟の最奥、暗がりが口を開ける螺旋階段へと、一人静かに足を踏み入れた。




