最終話 搾取令嬢は二度と騙されない~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~
朝、財務局へ出勤すると、私は自分の机に置かれた書類へ目を通した。決裁を待つ予算書、各部署から届いた支出報告、地方から上がってきた税収資料。いつもなら、届いた順番に処理していくところだが、今日はゼノス局長から呼び出しがかかっていた。私は書類をまとめてから、財務局長室へ向かう。扉を叩いて中へ入ると、ゼノス局長が大量の書類を前にして眉間へ皺を寄せていた。
「来たか、セレスティーナ。ちょうどいい。この地方税収の報告書を見てもらいたい。私も確認しているのだが、昨年度と比べて数字の動きが妙だ。単純な税収増加として処理していいものか判断がつかない」
「承知しましたわ。お預かりします」
私は局長の机から書類を受け取り、数字を追った。税収そのものに大きな問題はない。ただ、増加した税額に対して関連する支出の伸び方が不自然だった。私は前年の記録と照らし合わせながら、算盤を弾く。
「こちらの税収額そのものには問題ありませんわ。ただ、支出側に一つ確認が必要な項目があります。担当部署へ明細を取り寄せていただけますかしら」
「分かった。君なら、その場で全部調べ始めると思っていたが、今回はそうしないんだな」
「私が調べる必要のないところまで抱え込む必要はありませんもの。必要な資料を揃えていただければ、そこから先は私が確認しますわ」
ゼノス局長は少しだけ目を細め、それから納得したように頷いた。
「そうか。以前より仕事の進め方が変わったな。財務局にとっても、そのほうが助かる。君一人に仕事が集中すれば、君が倒れたときに誰も対応できなくなるからな」
「肝に銘じておきますわ」
私は書類をまとめて局長へ返す。
自分でも、以前とは少し変わったと思う。私は仕事を疎かにするつもりなどない。数字の間違いを見逃すつもりも、不正を見つけても放置するつもりもない。
ただ、自分がすべてを背負わなければならないとは考えなくなった。仕事は大切だ。だからこそ、自分自身を壊してまで続けるものではないのだと分かっている。
局長室を出て執務室へ戻ろうとしたところで、受付のほうから来客を知らせる声が聞こえた。私は足を止める。財務局を訪れる貴族は珍しくない。税務関係の相談や領地の収支報告など、仕事で訪れる者はいくらでもいる。
だが、受付に立っていた人物を見た瞬間、私は思わず目を見開いた。
「アレクサンドル様?」
「お仕事中に失礼します。公爵家から財務局へ提出する書類を預かってきました。父から、直接届けるよう頼まれたものです」
アレクサンドル様が差し出した封書を受け取り、私は封印と宛先を確認した。確かに正式な書類だった。私は中身を確認して、不備がないことを確かめる。
「確かに受け取りましたわ。わざわざお持ちいただいたのですね」
「私も内容を確認しておきたかったものですから。それに……あなたに会えるなら、私にとっても都合がよかったので」
「もしお時間があるのでしたら、少しお話ししませんこと?」
「もちろんです。私も、あなたと話したいと思っていました」
私たちは財務局の中庭へ移動する。昼休みにはまだ少し早かったが、仕事の邪魔にならない場所なら、短い時間くらい話をしても問題ない。庭のベンチへ腰を下ろすと、アレクサンドル様は私から少し距離を空けて座る。その距離が、今の私には心地よかった。近づこうとしながらも、私の意思を無視して踏み込もうとはしない。その態度そのものが、彼らしいと思った。
「正妃様のことは、もう大丈夫なのですか?」
「ええ。陛下が二度にわたって正妃様へ話をしてくださいましたから。今度こそ、私の意思を尊重してくださることになりましたわ」
「それなら、安心しました。あなたが望まない人生を、誰かに決められてしまうのは違うと思っていましたから」
「アレクサンドル様は、ずっとそうお考えだったのですね」
「はい。私は、あなた自身が選んだ人生を歩いてほしいと思っています。王家に入ることが幸せだと考える人もいるでしょう。でも、あなたがそれを望まないのなら、それを押しつける理由にはならないと思います」
「ありがとうございます。私も、ようやく自分の人生を自分で選んでいいのだと思えるようになりましたの」
「それは、よかったです」
「仕事をすることも、財務局に残ることも、私が望んで選んだことですわ。誰かに必要とされるためでも、誰かの期待に応えるためでもありません。私自身が、この仕事を続けたいと思っているから続けるのです」
「あなたらしいと思います」
「私らしい、ですか?」
「はい。あなたは、自分が正しいと思ったことを曲げませんから。それに、あなたが財務の仕事をしているときの顔は、とても楽しそうです」
「楽しそう……ですか?」
「ええ。数字の間違いを見つけたときなど、とても嬉しそうですよ」
「それは褒めていらっしゃいますの?」
「もちろんです」
こんなふうに誰かと仕事の話をすることが、以前より楽しく感じられる。財務の話ならいくらでもできる。数字の流れを考えることも、不正の仕組みを見抜くことも好きだ。それでも、仕事以外の話をしている時間まで心地よいと思える相手がいることを、私は不思議に感じていた。
「アレクサンドル様。私は、これからも財務局で働きたいと思っていますわ。王家に入るつもりもありませんし、誰かに仕事を辞めさせられるつもりもありません」
「分かっています」
「それでも……これからも、私とこうして話してくださいますか?」
「もちろんです。あなたが望んでくれるなら、私はいつでも話したいと思っています」
左目に、あの光はない。それでも私は、この人の言葉を信じたいと思っている。そして、財務局へ戻るために立ち上がった私は、ふと左目へ手を添えた。
もう、この目に守ってもらわなくてもいい。私は自分で選んだ道を、自分の意思で歩いていける。
そう思いながら、私はアレクサンドル様と並んで執務室へ戻った。
昼休みが終わる頃、私たちは中庭を離れた。財務局へ戻る廊下を並んで歩きながら、私は先ほどの会話を何度も胸の中で反芻していた。
アレクサンドル様の言葉は、優しかった。それなのに、私を縛るものが何もない。私に何かを求めるわけでもなく、私の選択を変えようとするわけでもない。ただ、私が望むなら隣にいたいと言ってくれた。その距離感が、今の私には心地よかった。
前世では、愛情と引き換えに何かを差し出すことばかり考えていた。
お金を渡せば愛される。
仕事を引き受ければ必要とされる。
我慢すれば関係が続く。
そんなふうに、自分の価値を誰かの反応で決めていた。今は違う。私は、何かを差し出さなくても私なのだと知っている。
「セレスティーナ」
財務局の入口まで来たところで、アレクサンドル様が足を止めた。私も振り返ると、彼は少し迷うように視線を伏せ、それから私をまっすぐ見た。
「私は、あなたが今の仕事を大切にしていることを知っています。だから、私のために何かを変えてほしいとは思っていません。財務局で働きたいなら働けばいいし、家族と過ごしたいならそうしてください。あなたが選ぶものを、私はこれからも尊重したいと思っています。そのうえで、もし許してもらえるなら、仕事が終わったときに話をしたり、休日に一緒に出かけたり、そういう時間を少しずつ増やしていきたいのです。私は、あなたの人生を変えたいのではありません。あなたが選んだ人生の中に、私もいられたら嬉しいと思っています」
私はその言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
彼と会う前までならば、こんな言葉を聞いても疑っていただろう。何か裏があるのではないか。あとから別の条件を出されるのではないか。私が役に立たなくなったら、この人も離れていくのではないか。そんな疑念が次々と浮かび、その一つ一つを確かめなければ安心できなかったはずだ。
でも今は、その言葉を聞いて嬉しいと思えた。
「私も……アレクサンドル様と、そういう時間を増やしたいですわ。財務局で仕事をすることも、家族と過ごすことも、私には大切です。でも、それと同じように、アレクサンドル様と話す時間も大切にしたいと思っています。誰かのために自分を犠牲にするのではなく、自分が大切にしたいと思うものを、自分の意思で大切にする。それが今の私の選びたい人生ですわ」
アレクサンドル様は嬉しそうに微笑んでくれた。その表情を見た瞬間、私は自然と笑みを返していた。前世では、誰かのために笑うことばかり考えていた気がする。相手を怒らせないため、心配させないため、機嫌を損ねないために笑っていた。今の笑顔は違う。ただ、この人と一緒にいられることが嬉しくて、自然にこぼれたものだった。
その日の午後、私はいつも通り仕事に戻る。帳簿を確認し、数字を計算し、必要な書類へ判を押していく。何も特別なことは起こらない。なのに、胸の奥には不思議なほど穏やかな感覚が残っていた。仕事をしている自分も、家族と笑っている自分も、誰かを好きだと思っている自分も、全部が同じ私なのだ。どれか一つを選ぶために、他の何かを捨てる必要はない。
夕方になり、最後の書類を閉じた私は、机の上に置いた銀の算盤へ目を向けた。何度も私を守ってくれた道具だった。数字の間違いを見つけ、隠された不正を暴き、誰かに奪われようとしているものを取り戻すために、私はこの算盤を使ってきた。珠を弾けば、いつも同じように乾いた音が返ってくる。
パチリ。
その音を聞きながら、私はふと前世の自分を思い出した。
あの頃の私は、数字だけは裏切らないと思っていた。人の言葉は信じられなくても、帳簿に記された数字なら嘘をつかない。だから私は、数字の正しさにしがみつくように働いていた。誰かの嘘を見抜くことだけが、自分を守る方法だと思っていたのだ。
その私に、神様は左目をくれた。
嘘を見抜くための力。
二度と騙されないための盾。
あのとき私は、もう誰も信じなくてもいいのだと思っていた。誰かが優しい言葉を口にしても、その裏側を見ればいい。私を利用しようとする人間を見つけたら、すぐに切り捨てればいい。そうすれば、もう二度と傷つかずに済む。
でも、この人生で私は少しずつ知った。人を疑うだけでは、人生は守れない。自分の意思で選び、自分の意思で誰かを大切にすることもまた、自分を守ることなのだ。
そのとき、財務局の扉が開いた。
「まだ残っていたのですか」
顔を上げると、そこにはアレクサンドル様がいた。私は思わず目を瞬かせる。
「もうお帰りになったと思っていましたわ」
「私もそのつもりだったのですが、あなたがまだ仕事をしていると聞いたので、少しだけ待っていました。迷惑でしたか?」
「いいえ。むしろ、嬉しいですわ」
アレクサンドル様は笑った。そして、私へ手を差し出す。
「では、一緒に帰りませんか」
左目には、いつもの光がある。
私は手を伸ばし、その手に自分の指を重ねた。
温かい。
その瞬間、不思議なほどはっきりと分かってしまった。
私はこの人を、心から大切に思っている。
アレクサンドル様が私を必要としているからではない。公爵家の跡継ぎだからでも、私の財務官としての能力を評価しているからでもない。私が何者でなくなったとしても、この人が幸せであってほしいと思える。その気持ちは、私が何かを得るためのものではなかった。
そして、この人もまた、私に何かを求めているわけではない。私が財務官であろうと、伯爵令嬢であろうと、ただの一人の女性であろうと、私が私の人生を選ぶことを望んでくれている。その言葉に、隠された条件はない。
左目の奥で、光が一度だけ強く瞬き、私は驚いて足を止めてしまった。
「どうしました?」
「……いいえ、何でもありませんわ」
もう一度、彼の手を握る。すると、左目の奥にあった光が、ゆっくりと薄れていった。
(消えるの?)
それなのに、怖くなかった。視界がおかしくなったわけでもない。痛みもない。ただ、今までそこにあった光が、役目を終えたように静かに消えていく。
私は、神様の言葉を思い出した。
――貴女が本当に『信じる』ことを選んだとき、力は役割を終えるのです。
(あぁ、そういうことだったのか)
私はようやく、その意味を理解できたのだ。この力が消えたのは、私が弱くなったからではない。騙されることを恐れて、人を疑い続ける必要がなくなったからだ。私は自分を守るために、もうこの盾へすべてを委ねなくてもいい。
信じることを選ぶのは、相手へ自分の人生を預けることではない。
自分の意思で、その人を大切にすると決めることなのだ。
「セレスティーナ?」
心配そうに名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「大丈夫ですわ。今、とても嬉しいのです」
アレクサンドル様は何も聞き返さず、ただ私の手を握り直してくれる。その温もりを感じながら、私はゆっくりと歩き始めた。
前世の私は、誰かのために自分を削り続けた。
恋人のためにお金を差し出し、職場のために身体を壊し、最後には、自分の人生さえ失った。
でも、もう違う。
私は家族を取り戻した。
仕事を取り戻した。
自分の誇りを取り戻した。
そして今、自分の意思で愛したいと思える人に出会った。
誰かに決められた人生ではない。
誰かの役に立つためだけの人生でもない。
私が選び、私が歩いていく人生だ。
私はアレクサンドル様の手を握ったまま、前を向く。
もう左目に真実を暴く光はない。それでも、何も怖くなかった。私はもう、誰かの言葉に人生を預けることも、自分を守るためにすべてを疑い続けることもしない。誰を信じるのか、誰を愛するのか、どんな未来を選ぶのか、そのすべてを決めるのは、この私自身なのだから。
前世で失ったものを、私はこの人生で取り戻した。家族も、仕事も、誇りも、そして誰かを愛することを恐れない心も。だからもう、過去を振り返る必要はない。あの雨の夜に終わった人生ではなく、ここから先に続いていく私自身の人生を、私は自分の足で歩いていく。
もう、誰にも奪わせない。
もう、誰にも決めさせない。
私は、自分で選んだこの人生を、愛する人とともに生きていくのだ。
——完——
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




