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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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プロローグ 左目の真実眼〜元ブラック経理令嬢は、二度目の搾取を許さない

 雨の夜だった。

 アスファルトを叩く硬い雨音が、帰宅を急ぐ群衆の足音にかき消されていく。駅のホームに立ち並ぶ色とりどりの傘は、まるですべてが作り物の花のように見えた。その光景を、私はひどく遠い、剥製にされた世界の出来事のようにぼんやりと眺めていた。

 

 視界の端では、絶えず黒い点が明滅している。

 鼓膜の奥では、自分の心臓の音が早鐘のように打ち鳴らされていた。慢性的な睡眠不足と重度の栄養失調。二十六年の生涯、『松瀬結衣』という女の人生を振り返れば、それは()()という二文字に集約される、あまりに無残で救いのない軌跡だった。


  

 かつて恋人だと思い込んでいた男がいた。

 彼は『夢を追う』という耳障りの良い言葉で私を縛り付けた。私は自分の生活費を削り、肋骨が浮き出し、頬がこけた鏡の中の自分を見てもなお、『私が彼を支えなきゃ』と盲信していた。彼が高価な時計を買い、友人と飲み歩く一方で、私は一食数十円の素うどんで飢えを凌いだ。なけなしの貯蓄をすべて差し出し、最後に彼が別の女と消えたとき、私は悲しむよりも先に『これで支払いが終わる』と安堵してしまった。

 

 だが、安らぎなどどこにもなかった。

 職場でも、待っていたのは底なしの泥沼だった。

 企業の金銭管理を司る経理。来る日も来る日も、山のように積まれた帳簿と格闘し、一文の狂いも許されない数字の海に身を投じる日々。他人の使い込みや、巧妙に隠された不正な支出の証拠を暴き出すことだけが、唯一の私の居場所だった。けれど、その執念にも似た正確さが仇となる。

 

「結衣さんならできるよ。君だけが頼りなんだ。私は君の味方だからね」

 

 親切な顔をした上司が、私に他人のミスまで押し付ける。

 その、味方を装った甘言こそが、私を死の淵へと引きずり込んだ呪いの鎖だった。

 深夜、誰もいないオフィスで冷え切ったコーヒーを啜りながら、数字を追い続ける。帰宅の足すら逃して自分の机で迎える朝。体中の細胞が悲鳴を上げ、視界の端には常に黒い点滅が走り、考える力すら奪われていた。


  

 そして、運命の夜。

 駅のホーム、朦朧とする意識の中で、背後から確かな”圧”を感じた。

 

 不自然な衝撃。

 身体が宙に浮き、視界が大きく回転する。叩きつけられたのは、冷たい鉄の感触だった。

 

「あぶない!」

 

 誰かの絶叫が聞こえた気がしたが、指一本動かす力も残っていない。

 遠くから迫る列車の轟音が、地響きとなって全身を揺さぶる。

 

 私を押したあの感触。あれは、私を疎ましく思った誰かか、あるいは私を味方だと呼んで使い倒した誰かだったのかもしれない。結局、私の人生には最初から最後まで、私自身の意思など存在しなかったのだ。

 

(ああ……また、騙されたんだな)

 

 最後に漏れたのは、乾いた諦念だった。

 愛していると言った男も、信頼していると言った上司も、私を便利な道具としてしか見ていなかった。その嘘に気づかないふりをして、自分を騙し続けてきたツケがこれだ。

 

(でも、これでやっと……やっと、休めるんだ……)

 

 もう、誰かのために身を削る必要もない。

 数字に追われることも、嘘を信じようと足掻く必要もない。

 深い、底知れぬ安堵にも似た絶望と共に、私の意識は暗転した。

 

 

 …………。

 ……。

 

 

 次に目を覚ましたとき、私は底の見えない暗闇ではなく、暖かな光の奔流の中にいた。

 目の前にいたのは、後光を背負った慈悲深き神様だった。その瞳には、私という哀れな魂への同情と、拭いきれぬ悲痛な色が満ち溢れている。

 

「可哀想に。松瀬結衣、貴女の魂はあまりに酷使され、他人に蹂躙されすぎました。あまりに善人すぎた貴女に、せめて次なる人生では身を守るための力を授けましょう」

 

 神様は涙ながらにそう言って、私の痩せこけた頬を慈しむように撫でてくれた。その掌からは、生前一度も感じたことのない無償の慈愛が伝わってくる。

 

「次は二度と嘘に屈さぬよう、貴女に真実を与えましょう。この左目が、貴女を虚飾から守る盾となるはず。誰にも、貴女の尊厳を二度と奪わせないために」

 

 神様の指先が私の左目に触れた。

 その瞬間、魂の深淵に凍るような冷気が走り、契約の徴として深く、深く刻み込まれた。

 だが、神様は一抹の不安を隠せないように、私を見つめて静かに言葉を継いだ。

 

「……しかし、覚えておきなさい。この力は、貴女が再び『自分を騙そうとする言葉』を耳にしたとき、それを拒絶する意志と共に目覚めるでしょう。それは貴女が搾取される未来を拒むための、防衛のトリガーなのです」

 

 神様は、私の手を握り締め、最後の忠告を口にする。

 

「ただし、この力はあくまで、貴女を『敵』から守るためのもの。もしもいつか、貴女が心から誰かを慈しみ、そして相手もまた貴女に偽りのない真実の愛を注いだとき……その絆の前で、この左目は光を失うでしょう。貴女が本当に『信じる』ことを選んだとき、力は役割を終えるのです」

 

 自分を騙そうとする言葉が引き金となり、真実が暴かれる。

 そして真実の愛に出会えば、その力は消える。

 それは、身を守るための盾に課された、あまりにも皮肉で、そして不確かな制約だった。

 

(……それでも構わない。もしそんな奇跡が起きるなら、その時はもう、この目なんて必要ないはずだから)

 

 今はただ、この力が欲しい。

 二度目の人生、次こそは決して奪わせない。

 神様から授かった『真実を暴く左目』と、前世で培った『数字の裏側を見抜く力』を使ってやる!

 帳簿の不正を暴き、甘い汁を吸おうとする寄生虫どもを容赦なく切り捨ててきた、あの経理としての誇りが私の魂に再び火を灯した。

 

 眩い光に飲み込まれながら、私は強く誓った。

 もう二度と、誰の甘言にも惑わされない。私を搾取しようとする不届き者には、その化けの皮を剥いで、徹底的に代償を支払わせてやるのだと。

 

 意識が新たな肉体へと引き寄せられていく。

 

 ――さあ、始めましょう。

 

 これは、虚飾に満ちた世界を、本音という名の暴力でなぎ倒していく一人の少女の、気高き生存競争の序章なのである。

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